シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址01」(大垣市内編)の城址を収録しました。
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大垣市 市内の22箇所の城址を紹介します。 |
大垣市内の22か所の城址位置図 |
01.曽根城跡(曽根町1丁目)、02.吉田城跡(北方町1丁目)、03.楽田城跡(楽田町1丁目)、 04.加賀野城跡(加賀野町1丁目)、 05.小野城址跡(小野町)、06.今宿城跡(大垣市今宿)、 07.三塚城跡(三塚町城田)、 07-1.真徳寺(三塚町城田)、08.永沢城跡(長沢町1丁目) 、 09.直江(すぐえ)城跡(直江町)、10.釜笛城跡(釜笛)、11.野口城跡(野口町・六社神社)、 12.上笠(かみがさ)城跡(上笠町)、13青柳城跡(青柳町)、14.若森城跡(南若森町)、15.笠縫城跡(笠縫町) 16.長松城跡(長松町西部789)、17.福田城址(福田町)、18.青野城跡(青野町)、18-1.教覚寺(青野町)、 18-2.延長寺(青墓町1丁目)、18-3.国分寺跡(青墓町)、19.池尻城跡(興福地町)、 20.谷氏屋敷跡(赤坂町子安)、21.市橋城跡(南市橋町南市橋)・市橋稲荷神社と護国寺(揖斐郡池田町)、 22.円興寺城跡(青墓町)、22-1.現円興寺(青墓町)。 |
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01.曽根城址 大垣市曽根町1丁目 |
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史蹟 曽根城本丸跡碑 |
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県道212号「曽根町2」の信号から東へ入ると「曽根城公園」へいけますが1本道ではありません。 |
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曽根城址(華渓寺) |
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県道212号「北方町5」信号を北上し700m程の東側にあります。 |
曽根城本丸跡(華渓禅寺) |
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曽根城の歴史(1) 曽根城は、大垣市曽根町にあり、現在華渓寺の境内内地(曽根城の本丸跡)は史跡に指定されています。 かつて揖斐川の西岸に近く、旧東山道と中山道に挟まれた位置にあるために、西美濃地方を旅する重要な場所として存在していたのでしょう。 城主は、稲葉氏・西尾氏のあと関ヶ原合戦後に廃城となりました。 はじめ稲葉伊予守良通(入道一鉄)は僧籍にあったが、11歳の時(大永5年)牧田合戦(11-126-1)で父兄たち6名が一時に討死にしたので、還俗して家督を継ぎ曽根城主となりました。 一鉄は、大垣城(参照)主氏家常陸介直元(ト全)および本巣北方城(04-40参照)主安藤伊賀の守守就とともに、西美濃三人衆と呼ばれ、戦国時代の美濃八千騎といわれた多くの武将の中でも傑出して大きな力を持っていたことを物語っており、中でも一鉄は文武両道に秀でた趣味も豊かな実力者として、そのリーダー格であったようです。 こんな話もあります。土岐・斉藤に仕えていた一鉄の実力を見込まれて、織田信長の命で木下籐吉郎秀吉が、竹中半兵衛の紹介で三顧の礼を以て味方に招いたとき、前後7回にも及んで繰り返して熱心に説得に努めたので「信長は嫌いだが、貴殿の人柄に惚れ込んでお味方しよう」と言ったという。 そしてついに信長は斉藤氏を滅ぼして、岐阜城を拠点に天下統一への足がかりを固めることができました。 また天正10年本能寺の変で信長の最後をみたあと、一鉄は北方城を奪取し、揖斐城(08-96参照)を夜討ちして娘婿の堀池半之丞を追放したり、母方の国枝氏を本郷城から追い出し、さらにまた西保城を攻めるなど勢力拡大に乗り出して、秀吉のご機嫌を損じ清水城に蟄居しました。 その子貞通も揖斐城に退て、のち許されたが、天正16年11月19日清水城(08-91)で逝去した。(行年74歳) binyou氏の「大垣の古城」から |
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曽根城の歴史(2) |
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発掘調査結果 平成元年4月の発掘調査の結果、本丸に伴うと思われる石垣と石敷遺構が発見されました。 石垣は、赤坂金生山から産する石灰岩の自然石を並べ、石敷遺構とあわせて郭を形成しています。 さらにその内側にも主郭を囲んだ土塁と石垣が推測されています。石垣の年代は、出土品などから、稲葉一鉄時代(1525〜1579)と推定でき、岐阜・千畳敷織田信長居館跡に次ぐものとして注目される重要な城館跡で、将来にわたり大切に保存するため埋め戻し、 公園整備として地上復元を行いました。 (大垣市教育委員会) |
01-2.曽根城家老 |
曽根城址へ入る入口の北側にあります。 |
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曽根城家老斉藤内蔵助利三屋敷跡 |
曽根城家老斉藤内蔵助利三とは 天文3年(1534)、斎藤利賢の次男として生まれる。 斎藤義龍に仕え、後に、稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従い、稲葉氏の家臣となり、美濃曽根城主となった。 天正10年(1582)、光秀が謀反(本能寺の変)を計画すると、一部の重臣に計画を打ち明けているが、利三もそのメンバーの中に含められている。 本能寺にて信長を討った後、中国から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍するが、敗れて逃走した。 (フリー百科事典 ウィキペディアより) |
02.吉田城址 大垣市北方町1丁目 海抜14m |
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吉田城碑 |
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県道230号「北方町2」の信号東2本目を道を北へ入ると「慈渓寺」門前へ出ます。 |
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吉田城址(慈渓寺) |
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吉田城址(慈渓寺)へ入る辻角には観音堂わきに「霊泉山慈渓寺」の石塔が建っています。 |
吉田城があったと言われる慈渓寺 吉田城の築城年代など詳細については定かでないが、吉田休三入道の居城と云われている。 |
03.楽田城址 大垣市楽田町1丁目 |
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楽田城址 |
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楽田城址 |
境内に説明板や遺構らしき物はありません |
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正確な築城・廃城時期は不明 楽田城は、永享(1429〜40)嘉吉(1441〜43)の頃、その昔美濃国石津郡高須郷の地頭職であった氏家重国の末裔である氏家内膳盛国が居城していたが、盛国は嘉吉3年7月11日に没したので、その子志摩守泰国が、父の跡を継ぎ城主となった。 binyou氏の「大垣の古城」から |
04.加賀野城址 大垣市加賀野町1丁目 海抜 9m |
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加賀野城碑 |
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国道21号「岐大バイパス」「加賀野」信号から西へ入ると八幡神社の森が見えます。 |
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加賀野城跡 |
加賀野城の変遷 城跡は八幡神社辺りと伝えられている。 binyou氏の「大垣の古城」から |
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鳥居前には加賀野八幡神社井戸の名水を汲む人の車がイッパイです。 |
加賀野城址の近くにもう一つ城址が?
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O橋邸 |
濠 |
母屋の横の屋敷内に高石垣が組まれ塀の中に二層の建物が見えます。 |
南西角 |
北東角 |
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南東角 |
生垣の隙間から水路が越しに見える大門 |
脇門 |
通用門 |
05. 小野城址 大垣市小野 専勝寺 海抜 3m |
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小野城址 「大垣城主戸田氏信公より砦の一つ(旧小野城址)を黒印地として寄進せられ、ここに(現在地)寺坊を構成せり。」 |
朱印地(しゅいんち)および黒印地(こくいんち)とは、 朱印地は幕府より朱色の印(朱印)が押された朱印状により、 |
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国道21号「岐大バイパス」「和合」信号から側道へ入り南下です |
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小野城址
安八郡小野城跡は、大垣市小野町の専勝寺辺りにあって、本丸の位置がこの寺であろうと伝えている、 binyou氏の「大垣の古城」から |
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06. 今宿城址 大垣市今宿 |
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今宿城址と思われるあたり |
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今宿城址と思われるあたりへは |
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現在の水路が堀址とすると民家が立ち並んでいます。 |
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今宿城址 |
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今宿城 binyou氏の「大垣の古城」から 今宿城は岐阜県大垣市今宿町にあります。 |
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今宿城址と思われる「福勝寺」 |
07.三塚城址 大垣市三塚町城田 |
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三塚城跡碑 |
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三塚城址周辺城跡など |
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三塚城址と周辺 |
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三塚城の歴史 三塚城は、築城者や築城年代については定かでないが、大垣城主氏家卜全の家臣種田信濃守の居城。 元亀2年、種田信濃守が氏家ト全と供に討死した。 その後、氏家卜全の子行広が城主となった。 また、binyou氏の「大垣の古城」によると 戦国末期の天文年間(1532〜54)より氏家常陸介直元(入道ト全)の家臣で、種田信濃守兼久が城主として在住していたが、元亀2年(1571)織田信長の伊勢長島の(一向一揆)攻めに大垣城主氏家ト全とともに出陣して活躍、強力な一揆軍のため殿戦しつつ石津郡太田郷安江村で奮戦したが武運拙なくト全とともに5月12日討死にした。 その後ト全の嫡子左京亮直重が大垣城主となり、その弟内膳正行広は三塚城主となって一万五千石を領したが、天正11年8月伊勢桑名城二万二千石に転任して、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、石田三成方に加わったため敗戦の悲運を見て没落し、元和元年(1615)5月大阪夏の陣後、大阪城内で自殺して果てたという。(行年70歳) |
07-1.真徳寺 大垣市三塚町城田 |
水路の形などから見て「まこと幼稚園」と「真徳寺」も城跡に含まれると思います。 |
「まこと幼稚園」 |
「まこと保育園」の北側の「まこと幼稚園おはなし広場」 |
08.永沢城址 大垣市長沢町1丁目 受円寺付近 海抜 0m |
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永沢城址 |
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スーパーマーッケトが中心 |
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水路の存在から |
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白髪神社と福乗寺 |
長沢城は、大垣市長沢町1丁目辺りにあったといい、 城主は氏家常陸介直元が、天文年間(1532〜54)の頃、しばらく在城していたと伝えられまたその後種田某が居城したともいうが、確実なことはわからない。 戦国争乱期に生きた氏家直元入道ト全は、永正10年生まれで、元亀2年(1571)織田信長の長島攻めに参戦して討ち死にするまでの59年間に至る生涯、美濃八千騎といわれた多くの武将たちのうちでも特に、曽根城主稲葉一鉄と本巣北方城主安藤守就とともに西美濃三人衆と呼ばれて傑出した存在で、この地方に大きく勢力を張っていた。 直元が父祖代々居城した楽田城から、永禄年間大垣城に移るまでの、天文年中しばらく長沢城に居を構えていたと言うことは、領国支配の勢力拡大政策、或いは戦略的意図などからも当然あり得ることであって、否定もできないが、ともあれ下克上の群雄割拠して相争った西美濃の混乱期において波乱に富んだ氏家一族の生き方の一面を想像するにすぎない。 binyou氏の「大垣の古城」から |
09.直江(すぐえ)城址 大垣市直江町 八幡神社付近 海抜 1m |
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直江(すぐえ)城址 |
直江城は、大垣市直江町の八幡宮南辺りにあったと伝えられているが、 |
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「直江八幡宮」まではカーナビで |
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直江(すぐえ)城跡 |
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今でも地元では城があったと言われている |
10.釜笛城址 大垣市釜笛(珀寶寺西) 海抜 3m |
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釜笛城址 |
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釜笛城址 |
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10.釜笛城址 |
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この八幡神社の前にある地蔵堂(画面左側の槇木陰にある)の辺りに、大垣藩の硝煙蔵がありました。 |
釜笛城 新修大垣市史によると、天正2年(1574)5月、多芸郡の野方を開拓して、兼父絵(釜笛)村という。 |
11.野口城址 大垣市野口一丁目 海抜 14m |
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野口城址 |
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野口城址 |
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11.野口城址 |
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「聚楽寺」は説明板によるとこの寺は平成11年(1999)に杭瀬川河川改修により 六社神社の裏は広かった濠を埋め狭い水路に、 |
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野口城跡は、大垣市内の現在その位置は判然としない。 古図によると凡そ集落地の北に当る辺りで、その跡と推測される土囲、薮などのあった高地を偲ぷことができる。 |
石包名(いわかねみょう) @ 文明13年12月 大井荘榎戸郷内名田代官職真清請文・・・・・・・・・ とあり、大垣城にある「大垣城由来」によると |
杭瀬川スポーツ公園は?
住宅地図で見ると「杭瀬川スポーツ公園」は周囲より格段に高く・広い場所です。 |
以上を総合し「六社神社」周囲の状況(水路など)にから勘案すると |
12.上笠(かみがさ)城址 大垣市上笠町 海抜 1m |
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上笠(かみがさ)城址 |
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binyou氏決断できず |
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11.上笠城址 上のbinyou氏の文章から下図に現在の住宅地図から |
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遠くから見て少し高い場所には寺(恩受寺)と神社(大外羽神社)が固まってあります。 |
上笠城
上笠城は、大垣市上笠町にあったという。 |
上笠城(つづき) 「野村家を寿ぎて 上笠に運をひらかす野村氏 丸に扇の旗頭なり 宮川三斎詠之印」 美濃本郷城主の流れを汲むと伝えられる国枝氏をはじめ、現在も上笠町に在住する旧家で、野村 |
13.青柳城址 大垣市青柳町1丁目 海抜18m |
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青柳城址 |
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青柳城址 |
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13.青柳城址 |
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住宅地図の水路の形から見ても「徳勝寺」と思われ訪れましたが |
青柳城 美濃明細記に「不破郡青柳城」とあるが、新撰美濃志にも、不破郡青柳村の項に、「青柳城址は隣村安八郡割田村の北の方に土囲の形のこりて、西の方を本丸、東の方を二之丸のあとなりと云う。 binyou氏の「大垣の古城」から |
14.若森城址 大垣市若森町4丁目 |
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文献からの推測 |
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若森城址 |
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14.若森城址 |
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この「徳円寺」辺りが一番土地のレベルが高い場所です。 |
寺の裏側から見るとあたりより土地のレベルが高いことが判ります。 |
「塩田湊跡」 |
若森城跡は、大垣市若森町の若宮八幡社の辺りという。 現在「堀の内」という地名(小字名)に城郭の一部を偲ぷことができるのみであって詳細は全くわからない。 |
binyou氏の「大垣の古城」を参考にして探しましたが「若宮神社」や「堀の内」という小字名も見当たりません |
15.笠縫城址 大垣市笠縫町 海抜 0m |
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笠縫城址(円受寺の山門) |
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笠縫城跡 |
15.笠縫城址 |
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笠縫城址 |
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鎌倉街道 |
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笠縫城は、大垣市笠縫町にあったという。 美濃明細記には、「安八郡笠縫城、城主は知れず百姓屋敷に高地あり」と記されているのみで、解明できる史料もなく、皆目知る由もない。 一説に、受円寺付近が城跡であるといわれ、また村西辺りともいい、何れも確認できない。 ここは鎌倉時代、建治3年(1277)京都より鎌倉幕府へ訴訟の旅に出かけた阿仏尼の「十六夜日記」にある笠縫の里で、古代から中世へかけて東山道赤坂より分かれ、墨俣を経て尾張の熱田で東海道に結ばれた鎌倉街道の宿駅として有名である。 北に平野庄、南に大井荘の間にあって、奈良興福寺領の中川庄の重要なポイントとなっている地理的な条件からも、或いは一時的に武将の館か砦があって、笠縫城と呼ばれていたであろうと推測される。 binyou氏の「大垣の古城」から |
大垣市指定重要文化財 受円寺表門 |
16.長松城址 大垣市長松町堀 |
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長松城址 |
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長松城址 |
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長松城址(荒崎小学校)は画面右下です。 |
長松城は、現在の荒崎小学校とその周辺の住宅地一帯が城域であった。 |
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現在荒崎小学校に「長松城跡」の標石が建てられているが、ここは同城堀のうちの一部であり(現在「荒崎小学校の地名は「大垣市長松町堀」です)、古城図をみると、旧長松村の集落地全体が城郭の形をなしている。 西濃地方でみる限り大垣城のように近世に整備して存在した城郭以外の、いわゆる中世の城として、これだけの規模をもった城の様子がわかる古図の残されているのは少ないであろう。 現在大垣の古城跡二十西ケ所のうち、古図があるのは大垣城、曽根城(01-01参照)およぴ長松城の三城のみで、非常に貴重な史常に貴重な史料といえる。 長松城は、はじめ天正のころ、岩手(不破郡垂井町)の竹中半兵衛重治の従兄、竹中源助重利が三千石を分知されて城を構えたが、ここは美濃路の要衝に当り、豊臣秀吉も、度々ここに訪れているという。 美濃明細記によると、長松城は村の西にあり竹中源助は後ち伊豆守となり五千石、信長のころ美濃、飛騨のうち四、五百石の代官、天正中に城を築き之れに居す。 秀吉も度々この城に入。秀吉のころ豊後竹田に移り三万五千石を領す。 また府内に移り、伊豆守の子の代に家は没す。」とあるが、他の各書には、文禄3年豊後国東郡高田二万石に移るとある。 竹中氏のあとは「武光式部五千石、秀吉の時代之れに居す。慶長5年8月桑名に退く。関ケ原戦のとき一柳監物之れを守り後ち廃城」と記ざれており、五千石を領して秀吉に仕えた。 慶長5年の関ケ原合戦に、武光式部少輔忠棟は、西軍石田方に味方して城を守ったが、8月17日福束城(03-38参照)の応援に参加して敗北、大垣に逃げ帰ったが、石田の態度に不満をもち、同24日に東軍徳川方の軍勢が赤坂に進駐してきたのをみて多勢に無勢では三十六計逃げるにしかずと、その夜のうちに城をあけて桑名の氏家を頼って引揚げてしまったという。 そのあと徳川方の一柳監物が入城したが、戦後は廃城となった。 binyou氏の「大垣の古城」から |
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築城者は竹中半兵衛のいとこ竹中重利 長松城は、築城年代は定かでないが竹中重利によって築城された。 重利は、従兄弟竹中半兵衛重治から長松の地を分知された。 竹中重利は、豊臣秀吉に仕えて、後に豊後高田1万石となった。 竹中重利のあとには武光忠棟が城主となったが、慶長5年、関ヶ原で西軍に与した武光氏は改易となり、長松城も廃城となった。 |
17.福田城址 大垣市福田町(不破郡福田町) |
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福田城址 |
「binyou氏の「大垣の古城」から」を参考に現地を探しましたが、 さいわい国道21号南には大勝寺、津島神社が並んで残されています。 |
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福田城址 |
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福田城 不破郡福田村、福田城、村の西城跡にあり、那波和泉守正隆、信長の頃ここに居す。 binyou氏の「大垣の古城」から |
国道21号(左)のコンクリート壁と津島神社の石垣の向こうが大勝寺裏の少し小高い竹藪 |
大勝寺、津島神社と同じ小字(北屋敷)にある「真光寺」 |
18.青野城址 大垣市青野町 |
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青野城碑 |
青野城址 |
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田圃の中にポツンと「稲葉石見守屋敷跡」碑があります。 |
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江戸城内で斬り合いし、お家断絶 青野城は、稲葉正成の子正次が幕府に召しだされて5000石を与えられ、美濃青野村に居を構えたことに始まる。 正次の子正休は、天和元年(1681)に若年寄となり加増を受け、1万2000石の大名に列した。 青野城とは、この青野藩の屋敷を指すものであるが、規模等は不明である。 正休は、貞享元年(1684)江戸城内において、大老で従兄弟の堀田正俊を刺殺し、自身も居合わせた老中大久保忠朝らに惨殺された。これにより、青野藩は廃藩となり所領は天領とされた。 |
大きな「屋敷跡碑」の裏に |
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今井系図によると、大永5年(1525)6月5日江州の浅井亮政が美濃を侵略したとき、青野国府城主鷹司忠勝の弟康好らは討死した。とあり青野国府城という呼ぴ名がでてくる。 その後、青野城と言われたのは、関ケ原合戦のとき小早川秀秋の家老として、裏切りをした主人公に勤めることに嫌気を覚えて浪人した稲葉正成の子、八左工門正次が元和4年(1618)2月、美濃国で五千石を与えられ、不破郡青野村に居館を設けて住んだためであり、その屋敷を青野城と呼ばれてきた。 以後その弟権之助正吉は、寛永5年5月兄のあとを継ぎ江戸城で旗本寄合に列したが、明暦2年7月、駿府城内で殺害された。 その子三代目領主石見守正休は、廷宝2年御小姓組番頭となっ、栄進して御書院番頭、御近習、若年寄を歴任、知行も加増されて一万二千右を領するに及んだが、貞享元年8月28日、大老堀田正俊を江戸城中で刺殺し、自らもまたその場で殺書され領地没収お家断絶の悲運をみた。 しかし、幕府の最高役人として堀田大老の専恣を憎んで社会的正義のための行為であったとされ、副将軍水戸光圀は、彼を邸に弔間してその死を借しんだという。 稲葉氏の居館跡は取毀されたが、今に本丸とか屋敷などの地名およぴ幕碑、記念顕彰碑が建てられ、また青墓町円長寺の山門は青野城稲葉家門を移築したものと伝えられ、また「稲葉」住宅団地の名も稲葉氏を偲ぷよすがとなっている。 binyou氏の「大垣の古城」から |
次は間違いが多くあるインターネット上の
「青野城址」と「稲葉石見守世公碑」の間違いについて
18-1.法雲山教覺寺 大垣市青野町 |
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青野城跡の近くで分かりやすい場所です。 |
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間違いの説明 |
教覺寺門碑わきにある稲葉石見守碑(頭部がわずかに見えます)がそれです。 |
青野城址碑から中山道(県道228号)を東北に800mの北側に
青野城表門を移築した「延長寺」があります。
18-2. 延長寺山門 大垣市青墓町1丁目 海抜 30m |
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青野城の表門は延長寺の山門に移築 |
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延長寺山門 |
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大垣市青墓町1丁目の延長寺に移築され現存する旧青野城城門が |
18-3. 美濃国分寺跡 大垣市青野町 |
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美濃国分寺跡 |
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壮大な寺の維持は? |
国分寺 池の跡も残っているのは全国でも珍しいそうです。 |
現在の「国分寺」は山裾に新築されています。
現国分寺「金銀山美濃国分寺」 |
19.池尻城址 大垣市池尻町(池尻公園・池尻町公民館) |
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池尻城址 |
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19.池尻城址 |
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地元では菅野神社から来た道の西側にある理容店 理容店前の手前の道を東辺りが昔から「城屋敷」と呼ばれた「池尻城址」と云われています。 |
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理容店の前に道を東へ下った付近が以前は「城屋敷」と呼ばれ石垣などが残っていたそうです(農地整理の時に全て掘り出され畑地になりました) |
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池尻公園・池尻町公民館・「光円寺」 |
池尻城の歴史
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「池尻公園」・「池尻町公民館」隣の水路や塀がそろった民家と |
20. 谷氏屋敷跡 赤坂町子安町谷屋敷 |
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谷氏屋敷跡あたり |
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谷氏屋敷跡 |
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赤坂城と谷氏 |
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赤坂城と谷氏(その2) 衛友が丹波山鹿藩主として転出後の赤坂城は衛友の叔父出羽守長広およぴ、その子孫がここに住んで谷屋敷と呼ばれていた。 その未裔に当る谷才兵衛は大垣藩に仕え、赤坂筋代官を勤め、また江戸幕府にも取立てられ、役人として出仕した人物も出ており、或はその一族で谷六郎兵衛の孫に当る、大垣の船問屋で俳聖芭蕉と交友の厚かった俳人木因(谷九太夫)も傑出した人物の一人である。 谷氏系図によると、衛友の父は、谷大膳亮衛好といい、美濃守護職土岐政房に仕え、度重なる軍功を賞されて厚見郡鶉(うずら)城(今の岐阜市)に居城していたが、永正元(1504)に死亡し、その子衛友は天正7年(1579)9月20日卒となっており、その長男衛政は大学頭に任ぜられて父のあとを継いで山家城主となり、以後代々子孫が続いて江戸時代を安定している。 赤坂町元町の谷氏所蔵の古文書のうちにも、「丹波山家行出入抽帳」(万延元年)や「丹波行入用隠居改名披露」(安政3年)などの記録には、赤坂宿の土産物を持参し、殿さまをはじめ家老、用人にまで山家藩の幹部役人へも、お勝山の目釘竹、大理石の文鎮、養老扇などの品々を贈り届け、また返礼の品目などが記録されており、当時の武士階級の社交生活の一端を物語っている。 谷衛友は豊臣秀吉に臣従しながらも太閤殿下と言われる天下人の権力にコビヘツラウことなく、気に食わぬことがあると堂々と渡り合って相抗し、あとで秀吉が酒肴を持って謝りに来て仲直りをしたという話も伝えられ、豪勇の大名であったということが偲ばれるが、しかし記録そのものも、また時代考証的にも衛友・衛政や、そのはか一族の誰彼と混同した面も無いとは断じ難い。 binyou氏の「大垣の古城」から |
21.市橋城址 大垣市南市橋町南市橋 |
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「市橋城址」(矢橋工業渇ウ女坂工場濾過場) |
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市橋城址付近の他の城跡 |
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市橋城址 |
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市 橋 城 史 八幡村史によると、「万治2年(1659)の検地帳に「親方屋敷が、その跡であり、市橋五郎三郎光重が、この城に住み始めて市橋氏を名乗ったとあり、その後子孫代々受け継いで、市橋長勝の時天正15年(1587)今尾城(12-136参照)に移り、ここは廃城になったといわれます。 初代光重は、承久の乱(1221)の戦功で美濃国地頭職になった石川光治の弟で、池田郡市橋の領主となり、その後、成光−光氏−長久−信久−信直−長久−直信−利信−利尚−長利−長勝と12代続いておよそ四百年ここに君臨し、そのほとんどが代々美濃国守護土岐家に仕えてきました。 土岐氏凋落の後斉藤、織田に仕え、市橋下総守長勝に及んで、さらに豊臣秀吉に仕え、徳川家康に仕えて数々の戦功をあげ、慶長12年(1607)今尾城から伯耆(ほうき=鳥取県)矢橋城に移り、元和2年(1616)には越後(新潟県)三条城に転封され4万余石を領したが、元和6年(1620)63歳で没し、実子がなく領地を没収されました。 しかしその後養子長政が、近江(滋賀県)蒲生・野洲両郡と河内(大阪府)交野郡の一部で合わせて2万石を賜って市橋家の相続を許され、寛永の頃には美濃国の堤普請奉行などを勤めています。 なお、赤坂町北之端(元町)の法泉寺は、永禄3年(1560)美濃国最後の守護職斉藤龍興の家臣小林喜兵衛が遁世入道して、天台宗の廃寺を復興し、さらに市橋城主であった下総守長勝の菩提寺として天正年間に五間四面の本堂を再建したといわれます。 同寺開基寂玄は、喜兵衛が入道しての名であり、二代乗玄は教如上人に帰依して真宗大谷派に転じて以後、同寺住職は市橋氏を名乗り現在に至っています。 binyou氏の「大垣の古城」から |
「市橋城址」と言われている矢橋工業乙女坂工場濾過場 |
同じ市橋です。 |
ここからは揖斐郡池田町市橋です |
稲荷神社と稲荷山神照院五穀寺 揖斐郡池田町市橋 |
市橋稲荷神社 |
市橋稲荷神社略縁起 とあるように市橋城主市橋氏はこの地に住んでいたようです。 |
稲荷神社境内にある「稲荷山神照院五穀寺」(奥) |
「稲荷山神照院五穀寺」略縁起 |
22.円興寺城址 大垣市青墓町5丁目(旧不破郡青墓町) |
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円興寺城 美濃国雑事記には、不破郡、領主里見兵庫助、里見判官代義直より代々これに居す。 平安未期から鎌倉時代初期にかけて、「円興寺城」と呼ばれたようである。 これは城と呼ぶにふさわしい館、砦などの施設があったかどうか、 |
「円興寺」は信長により焼かれました
延暦九年三月最澄(伝教大師)が大谷の里(青墓)の大炊(おおい)氏の帰依を得て
この山に寺を創建し聖観音像を本尊として「円興寺」と号しました。
その当時の寺の規模は七堂伽藍を配し、特に金堂は七間四面の壮大なもので、
その他坊舎など百余カ寺、寺領は五千俵と伝えられています。
天正二年(1574)織田信長により焼かれ田之堂を経て
万治元年(1658)に麓に移して立てられました。
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円興寺城址 |
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円興寺へは中山道美濃路「青墓5丁目の追分」から「県道241号」(北へ)入ります。
青墓5丁目追分 |
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県道214号線の途中に現「円興寺」への道標があります。画面左に進みます。 |
400mほど進むと「史跡源朝長之墓」石碑が正面に見える三叉路を右へ進みます。
源朝長(ともなが)之墓 大垣市青墓町5丁目 |
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源朝長(みなもとのともなが)は源頼朝・義経の兄です |
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さらに北へ進むと道標があります |
その脇に古い道標があります |
山裾の道を進みます。
「源朝長之墓」と「旧圓興寺跡」の 大垣市青墓町5丁目 |
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表参道入り口には駐車場やトイレも整備されています 道は多少複雑ですのでメモして登ったほうが いいと思います |
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表参道を入ると道幅は広くて車でもいけそうですが、此れは上流で「防災ダム」工事用の道で途中駐車場は無いので |
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数百メートル進むといよいよ石段の登り路です |
また数百メートル進むと広場へ出ます |
仁王門跡と推定される場所まで10分くらいです。
この付近には他に句碑などもあります
旧圓興寺仁王門跡 大垣市青墓町 |
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仁王門跡推定地 金剛力士像とは本来金剛杵を持った夜叉の像が 右を那羅延金剛、左を蜜述金剛と呼ぶこともあるが、 |
朝長之墓にお参りした松尾芭蕉の句碑 大垣市青墓町 |
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正徳二年(1712)刊 京都萬屋喜兵衛版 苔埋む蔦のうつヽの念仏哉 俳聖松尾芭蕉の身の来遊は、貞享・元禄難関前後 |
仁王門跡からさらに数百メートル登ると道標があります
道標から数メートルのところに「刀石」があります
刀石 |
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源朝長公の墓へお参りするとき礼儀として帯刀を一時預けておくためのもので「刀石」と呼ばれています |
刀石の脇にお墓があります
史跡 大垣市青墓町 |
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源朝長は源頼朝、義経の兄 |
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源朝長の墓 義朝の次男「朝長」は落延びる途中、僧兵に襲われて足に傷を負い、 その後、壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼし、父義朝の敵を討った |
源朝長之墓の近くにあり一段低い場所にあります。
大炊家之墓 |
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大炊家の墓 平安後期には、青墓の長者「大炊兼遠」(1105〜1161年)の |
元円興寺跡(現円興寺は麓に再建されています) 延暦九年(790年)三月伝教大師最澄が東国教化の途中、この地に立ち寄られて 当時は、坊舎末寺など、百余ケ寺、寺領五千俵を領し、山麓一帯は多数の 天正二年(1574年)織田信長の兵火に罹り、七堂伽藍は悉く灰燼に帰したが、 しかし、承応元年(1652年)雷火によって再び焼失した際に、 |
さらに脇道を辿ると鐘楼跡、御堂跡(本堂)、講堂跡、僧房跡、金堂跡、多宝塔跡などがありますが
一人で心細く、寄れませんでしたので画像はありません。
22-1.現「圓興寺」 大垣市青墓町5丁目 |
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天台宗篠尾山圓興寺 |
シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址01」(大垣市内編)