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シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址01」(大垣市内編)の城址を収録しました。


大垣城へ

城郭・城址の散歩道(目次)へ

大垣城周辺の城址02

 

大垣市

市内の22箇所の城址を紹介します。

大垣市内の22か所の城址位置図

 01.曽根城(曽根町1丁目)、02.吉田城(北方町1丁目)、03.楽田城(楽田町1丁目)、
 04.
加賀野城(加賀野町1丁目)、 05.小野城址(小野町)、06.今宿城(大垣市今宿)、
 07.
三塚城(三塚町城田)、 07-1.真徳寺(三塚町城田)、08.永沢城(長沢町1丁目) 、
 09.
直江(すぐえ)城(直江町)、10.釜笛城(釜笛)、11.野口城跡(野口町・六社神社)、
 12.
上笠(かみがさ)城跡
(上笠町)、13青柳城(青柳町)、14.若森城(南若森町)15.笠縫城(笠縫町)  
 16.
長松城(長松町西部789)、17.福田城址(福田町)、18.青野城(青野町)、18-1.教覚寺(青野町)、 
 18-2.延長寺
(青墓町1丁目)、18-3.国分寺跡(青墓町)、19.池尻城(興福地町)、
 20.
谷氏屋敷
(赤坂町子安)、21.市橋城(南市橋町南市橋)・市橋稲荷神社と護国寺(揖斐郡池田町)、
 22.
円興寺城
(青墓町)、22-1.現円興寺(青墓町)

 

01.曽根城址
(華渓禅寺)

大垣市曽根町1丁目

北緯

35

24

01.2

東経

136

37

20.5

史蹟 曽根城本丸跡碑

県道212号「曽根町2」の信号から東へ入ると「曽根城公園」へいけますが1本道ではありません。

曽根城址(華渓寺)
現「曽根城公園」から「華渓寺」・「曽根町公民館」・「曽根大神社」
辺りまでが曽根城址だったのでしょう。
(シルバーの散歩道)

県道212号「北方町5」信号を北上し700m程の東側にあります。

                     曽根城本丸跡(華渓禅寺)
 曽根城は、揖斐川の支流平野井川の湾曲部を利用して築かれた平城である。
 創建は室町時代末期に稲葉通富によってなされ、以降稲葉氏の勢力拡大の拠点であった。
 なかでも稲葉良通(一鉄)は、西美濃三人衆にも数えられるほどのすぐれた武将で、織田信長、豊臣秀吉に仕えて数々の戦功をたてた。
 天正16年(1588)西尾光教が、稲葉氏にかわって曽根城主となるが、関ヶ原合戦後、揖斐城(08-96)に移り廃城となった。
 享保19年(1734)良通(一鉄)が、生母の菩提を弔うために建てた華渓寺が現在の地(本丸跡)に移建された。
                     (華渓寺にある説明板より)

              曽根城の歴史(1)
 曽根城は、大垣市曽根町にあり、現在華渓寺の境内内地(曽根城の本丸跡)は史跡に指定されています。
 かつて揖斐川の西岸に近く、旧東山道と中山道に挟まれた位置にあるために、西美濃地方を旅する重要な場所として存在していたのでしょう。
 城主は、稲葉氏・西尾氏のあと関ヶ原合戦後に廃城となりました。

 はじめ稲葉伊予守良通(入道一鉄)は僧籍にあったが、11歳の時(大永5年)牧田合戦(11-126-1)で父兄たち6名が一時に討死にしたので、還俗して家督を継ぎ曽根城主となりました。

 一鉄は、大垣城(参照主氏家常陸介直元(ト全)および本巣北方城(04-40参照)主安藤伊賀の守守就とともに、西美濃三人衆と呼ばれ、戦国時代の美濃八千騎といわれた多くの武将の中でも傑出して大きな力を持っていたことを物語っており、中でも一鉄は文武両道に秀でた趣味も豊かな実力者として、そのリーダー格であったようです。

 こんな話もあります。土岐・斉藤に仕えていた一鉄の実力を見込まれて、織田信長の命で木下籐吉郎秀吉が、竹中半兵衛の紹介で三顧の礼を以て味方に招いたとき、前後7回にも及んで繰り返して熱心に説得に努めたので「信長は嫌いだが、貴殿の人柄に惚れ込んでお味方しよう」と言ったという。
 そしてついに信長は斉藤氏を滅ぼして、岐阜城を拠点に天下統一への足がかりを固めることができました。

 また天正10年本能寺の変で信長の最後をみたあと、一鉄は北方城を奪取し、揖斐城(08-96参照)を夜討ちして娘婿の堀池半之丞を追放したり、母方の国枝氏を本郷城から追い出し、さらにまた西保城を攻めるなど勢力拡大に乗り出して、秀吉のご機嫌を損じ清水城に蟄居しました。

 その子貞通も揖斐城に退て、のち許されたが、天正16年11月19日清水城(08-91)で逝去した。(行年74歳)
                     binyou氏の「大垣の古城」から

             曽根城の歴史(2)
 一鉄の子貞通は天正7年(1579)父の譲りを受けて曽根城主となり、同15年(1587)従五位下に叙し、曽根侍従(じじゅう=高貴な立場のある人物に付き従い、身の回りの世話などをする者)と呼ばれ、翌16年(1588)には郡上八幡城主に転封され、慶長5年の関ヶ原合戦後は、九州臼杵城5万石に栄転しました。

 貞通の子、典通は天正10年(1582)曽根城主となりましたが、その母は斉藤道三の娘であるといわれています。
 同13年(1585)豊臣の姓を許され、また彦六侍従と呼ばれました。
 西尾豊後守光教は、天正16年(1586)、稲葉氏のあと曽根城主となり2万石を領した。
 その後、関ヶ原合戦の時徳川家康に従って関東に出陣したが、石田三成らの挙兵を聞いて一足早く引き返して曽根城を守り、松平・水野六左エ衛門とともに大垣城を攻略し、戦後は揖斐城主となり3万5千石に栄進しました。

 なお華渓寺は、稲葉一鉄の母の菩提を弔い、はじめ大垣輪中堤の外にありましたが、後に曽根城本丸跡に移され今日に及んでいます。
 また、この辺りの堤防は、西尾豊後守光教が水害予防のために築堤させたので「豊後堤」と呼ばれていました。
                    binyou氏の「大垣の古城」から

             発掘調査結果
 平成元年4月の発掘調査の結果、本丸に伴うと思われる石垣と石敷遺構が発見されました。
  石垣は、赤坂金生山から産する石灰岩の自然石を並べ、石敷遺構とあわせて郭を形成しています。
  さらにその内側にも主郭を囲んだ土塁と石垣が推測されています。石垣の年代は、出土品などから、稲葉一鉄時代(1525〜1579)と推定でき、岐阜・千畳敷織田信長居館跡に次ぐものとして注目される重要な城館跡で、将来にわたり大切に保存するため埋め戻し、
  公園整備として地上復元を行いました。
                               (大垣市教育委員会)

 

01-2.曽根城家老         
  斉藤内蔵助利三
      屋敷跡   (花しょうぶ園)

曽根城址へ入る入口の北側にあります。

曽根城家老斉藤内蔵助利三屋敷跡
曽根城址の西側の「花しょうぶ園」が屋敷跡です。

曽根城家老斉藤内蔵助利三とは

 天文3年(1534)、斎藤利賢の次男として生まれる。

 斎藤義龍に仕え、後に、稲葉一鉄が織田氏へ寝返ると、それに従い、稲葉氏の家臣となり、美濃曽根城主となった。
しかし後明智光秀との縁戚関係から光秀に仕えるようになったといわれている。
 光秀には重用され、明智秀満と並ぶ明智氏の筆頭家老として用いられた。
 光秀の丹波平定後、1万石を与えられて丹波黒井城主となり、氷上郡統治にあたる。

 天正10年(1582)、光秀が謀反(本能寺の変)を計画すると、一部の重臣に計画を打ち明けているが、利三もそのメンバーの中に含められている。
 利三はその無謀さから反対した。しかし主君の命令には逆らえず、結局は本能寺の変に首謀者の一人として参加せざるを得なくなったとされる。

 本能寺にて信長を討った後、中国から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍するが、敗れて逃走した。
 その後、秀吉の執拗な捜索により近江堅田で捕縛された。
 秀吉の命令で六条河原で斬首となった。享年49。

(フリー百科事典 ウィキペディアより)

 

02.吉田城址
(大垣北方城・慈渓寺)

大垣市北方町1丁目 海抜14

北緯

35

23

51.4

東経

136

36

56.5

吉田城碑

県道230号「北方町2」の信号東2本目を道を北へ入ると「慈渓寺」門前へ出ます。
吉田城址

 城地は現在、慈渓寺の寺域となっています。
遺構と呼べるものは何もありませんが、寺の周囲を堀状に流水路がめぐっています。

吉田城址(慈渓寺)
上図の下部左あたり

吉田城址(慈渓寺)へ入る辻角には観音堂わきに「霊泉山慈渓寺」の石塔が建っています。

吉田城があったと言われる慈渓寺
 吉田休三入道によって築かれたとされるが、その築城年代は文献によってばらつきがあり、詳細は不明である。
また、北東kmほどのところに、安藤守就の居城とされる北方城04-40参照があるが、
こちらの吉田城の別称の北方城と関連があるのかも不明である。

吉田城の築城年代など詳細については定かでないが、吉田休三入道の居城と云われている。
吉田休三入道は揖斐北方城08-97参照にもその名がある。 
その後は木村宗左衛門勝正が居城したようだ。
(『タクジローの日本全国お城めぐり』より)

 

03.楽田城址
 (八幡神社)

大垣市楽田町1丁目

北緯

35

22

45.1

東経

136

37

42.8

楽田城址
国道21号岐大バイパス「楽田町」信号を北へ入り50mほどの東側に見える「八幡神社」です。
城跡は楽田町八幡神社付近であったともいわれます。

楽田城址
国道21号(岐大バイパス)の「楽田町」信号を北へ30m程の東側の「八幡神社」境内です。

境内に説明板や遺構らしき物はありません

 正確な築城・廃城時期は不明

 楽田城は、永享(1429〜40)嘉吉(1441〜43)の頃、その昔美濃国石津郡高須郷の地頭職であった氏家重国の末裔である氏家内膳盛国が居城していたが、盛国は嘉吉3年7月11日に没したので、その子志摩守泰国が、父の跡を継ぎ城主となった。

 泰国の後は彼の孫で石津郡牧田の城主氏家行隆の子、常陸介直元(入道ト全)が、しばらく楽田城に居を構えていたが、永禄2年(1559)(または、3年とも4年ともいい不確実である)大垣城主となって移り住んだ。

 その後、一説にト全の子、左京亮直重、天正3年(1575)より楽田城主となり、同8年(1580)大垣城主となる、と伝えられるが、正確な記録はありません。
 また、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の時は、西軍の島津隊(関ケ原合戦陣跡ー西08)が一時楽田城跡に布陣していたといわれます。
 尚、城跡は一説に楽田町八幡神社付近であったともいわれます。

binyou氏の「大垣の古城」から

 

04.加賀野城址
(八幡神社)

大垣市加賀野町1丁目  海抜  9m

北緯

35

22

07.

東経

136

38

25.

加賀野城碑

国道21号「岐大バイパス」「加賀野」信号から西へ入ると八幡神社の森が見えます。
加賀野城は八幡神社境内

 加賀野城は、八幡神社の境内一帯に築かれていた。 城の遺構は何も残っていないが、鳥居の脇に加賀野城の石碑と「後藤祐乗誕生の地」の石碑があった。 後藤祐乗は、室町将軍足利義政に使えた金工師として著名。

加賀野城跡
国道21号(岐大バイパス)の「大島町」信号を南へ350m程の東側にある「八幡神社」境内です。

加賀野城の変遷

  城跡は八幡神社辺りと伝えられている。
  後藤五郎左エ門基直−世安判官俊基−左衛門氏直−加賀守盛直−佐渡守直政−左衛門祐政−四郎兵衛祐乗−佐
 渡判官高政−右京高次−直次−直泰後藤氏の祖は、五郎左エ門基直といい、美濃園守護職土岐氏に仕えて世安庄
 (詳細不明)を領し、以後子孫代々は加賀野城主となったという。

  佐渡守直政の子、後藤左エ門祐政は、応永のころ(1394〜1427)土岐頼政が頼益に攻められて屈服したあと、流
 浪の身となったが、その子祐乗は足利将軍第八代義政に仕えて、京都で刀装金具の彫刻を業として活躍、優れた作品
 を生み出して名を挙げ、また近江国坂本で二百石の知行を与えられ、法橋(デジタル大辞泉より  《「法橋上人位」の略》
 僧位の第三位。法眼に次ぐ。 僧綱の律師に相当し、五位に準ぜられた。中世以後、医師・仏師・絵師・連歌師などに僧
 位に準じて与えられた称号である。
)に叙せられるなど高く評価ざれたが、後ち加賀野に帰って、永正9年(1512)5月7
 日、行年73歳で没した。

  また祐乗の子、佐渡判官高政は、将軍足利義植(十代)に仕え、その子、右京高次は斉藤義龍に仕えて、弘治2年
 (1556)の長良川合戦に功をあげ本巣郡北方の地を給せられて、ここに砦を築いて移り住み、
 加賀野城は家臣の日比大三郎を居城させその留守を守らせたという。

  ところが、その隙に乗じて永禄4年(1561)6月1日、隣接の三塚城(01-07三塚城址参照)主種田信濃守が大
 垣城主氏家ト全に従って加賀野城を攻めたので、高次は家臣の残馬、河村、片山、安田、高田、小倉、野田らと共に極
 力防戦したが、衆寡敵せず落城し、同三日に高次は自刃して果て、その子直次は尾張の聖徳寺に逃れて、後ち織田信
 長に仕え、直次の子直泰は織田氏の滅亡後、加賀野に帰って閑居したという。

   なお、金工として名を成した祐乗の作品は刀装具の最高に評価され、殊に鐔、目貫、小柄などの彫刻は、秋草に虫を
 配した図柄の素晴らしざは、その技術とともに追随を許ざず、「古美濃、または美濃後藤」と呼ばれ、以後もその流れを
 汲んで江戸時代にうけつがれている。

binyou氏の「大垣の古城」から

鳥居前には加賀野八幡神社井戸の名水を汲む人の車がイッパイです。
近くの人には城址より自噴泉の水のほうが人気らしく井戸水の説明板がありました。

加賀野城址の近くにもう一つ城址が?

O橋邸
住宅地図を見ていたら加賀野城址(八幡神社)の南200mの場所に
加賀野城址と同じように屋敷の四方を水路に囲まれた屋敷があります。
現地を訪れて確認してきました。


道路沿いの生垣と大門の間に水路があります。
水路は奥の蔵の横(右側)へと続きます。

母屋の横の屋敷内に高石垣が組まれ塀の中に二層の建物が見えます。
その左奥に洋館風の住宅も見えます。

南西角
水路は正面(南)から西へ延び、北側へ延びます。

北東角
裏へ廻り北側の水路から東側の水路へと続きます。

南東角
表へ廻り東側の水路から南側の水路へと続きます。
表門と前庭の間に橋が架かり、奥には一段と高く石垣を組みその上に二層の建物が見えます。

生垣の隙間から水路が越しに見える大門

脇門

通用門
郵便受けがあるので、ここが生活用の門のようです

 

05. 小野城址
(専勝寺)

大垣市小野  専勝寺  海抜 3m

北緯

35

22

04.

東経

136

38

55.

小野城址
国道21号線(岐大バイパス)工事で「専勝寺」は大きく敷地を削られ
城跡の面影もありません。

 「大垣城主戸田氏信公より砦の一つ(旧小野城址)を黒印地として寄進せられ、ここに(現在地)寺坊を構成せり。」
と寺誌にあることを根拠に城址としました。

朱印(しゅいんち)および黒印地(こくいんち)とは、
江戸時代に幕府・大名より神社・寺院の領地(寺社領)として安堵(領有権の承認・確認)された
土地のことである。朱印領黒印領ともいう。

朱印地は幕府より朱色の印(朱印)が押された朱印状により、
黒印地は大名より黒の印(黒印)が押された黒印状により所領の安堵がなされたことに由来する。
(フリー百科事典 ウィキペディアより)

国道21号「岐大バイパス」「和合」信号から側道へ入り南下です

                          小野城址

 安八郡小野城跡は、大垣市小野町の専勝寺辺りにあって、本丸の位置がこの寺であろうと伝えている、

 城主の横幕帯刀信兼は、大垣城主氏家常陸介直元ト全とその子左京亮直重の旗下であった。 

 その時代から考えても、専勝寺の寺歴を見ると、古く保元2年(1157)本巣郡古橋村に創建され、康永元年(1342)天台から真宗に転じ、大永3年(1523)8月の大洪水で諸堂を流失したので現在の地小野に移り再興された。

 既に砦か館かいずれにしても小野城に関する僅かな記録から、横幕、氏家の存在した時代は、大永年間(1521〜27)より後の永禄(1558)〜元亀(1570)天正(1573〜91)の頃であり、およそ30年から70年ほど後の時代であるから、既に同寺の存在する限り、小野寺域が城郭になったということではない。

 城の位置と、城主の業績その他についての記録もなく詳細はわからない。

binyou氏の「大垣の古城」から

 

06. 今宿城址

大垣市今宿

北緯

35

21

56.2

東経

136

38

16.4

今宿城址と思われるあたり
今宿1丁目へは県道31号線の「鶴見町」信号から北へ約900m付近。

今宿城址と思われるあたりへは
今宿1丁目へは県道31号線の「鶴見町」信号から北へ約900m進んだ付近。

現在の水路が堀址とすると民家が立ち並んでいます。
城域の外側になりますが、福勝寺が城跡とも思われます。
(シルバーの散歩道)

今宿城址
binyou氏の「大垣の古城」によると
昔、加賀野城を攻めるための前線基地として築城されたとも伝えられている。
とあるので現在の住宅地図から水路を中心に今宿城址を推定すると
上図の様な位置を推定します。
(シルバーの散歩道)

                       今宿城
 安八郡今宿城は、現在の大垣市今宿町にあって、今宿と加賀野の境を画する辺りで、JR東海道線に分断された地域が城跡であるといわれています。

 昔、加賀野城(A-02参照)を攻めるための前線基地として築城されたとも伝えられている。

 美濃明細記には、「今宿は始め三塚の内なり信長の命により、塚を忌みて助之丞これを改める。種田助之丞五百貫を領す。元亀2年三塚城(A-01参照)主同氏信濃守と同時に討死。」と記録してある。

 三塚城主種田信濃守兼久は、今宿城主種田助之丞の兄であり、助之丞もまた兄に従って元亀2年(1571)の長島攻略戦に参加したが、一向一揆のために敗退し、兄と共に大垣城主氏家ト全を助けて殿戦し、5月12日討死して果てた。

 新修大垣市史でも、今宿城主の種田助之丞正元は、信濃守の弟であるという。と記している。

binyou氏の「大垣の古城」から

 今宿城は岐阜県大垣市今宿町にあります。
 昔の地域分類である五畿内七道制でいうと東山道の美濃になります。
 城郭の型式について分類された資料を現在持っていませんので分類について明確には表記しません。

今宿城址と思われる「福勝寺」

 

07.三塚城址

大垣市三塚町城田

北緯

35

21

43.7

東経

136

38

05.6

三塚城跡碑

三塚城址周辺城跡など
 三塚城は、三塚町のジャスコシティ大垣の東側にある「まこと幼稚園」のある一帯に築かれていた。
 城の遺構は何も残っていないが、幼稚園の前に城跡碑が建てられているが
水路の形から「真徳寺」から「まこと保育園」辺りまで城址ではないかと思われます。

三塚城址と周辺
 三塚城跡は、「まこと幼稚園」前に城址碑があるが、
住宅地図と現地の水路の形と旧道路の形から勘案すると
「まこと幼稚園」の隣の「まこと保育園」・その南の「真徳寺」、
更に北の「まこと幼稚園おはなし広場」、また更にその北の名前の不明の「公園」、
一般的に昔は城内に祀った「八幡神社」あたりまで城域ではなかったかと推測されます。
(シルバーの散歩道)

 

                  三塚城の歴史
 三塚城は、築城者や築城年代については定かでないが、大垣城主氏家卜全の家臣種田信濃守の居城。 元亀2年、種田信濃守が氏家ト全と供に討死した。
 その後、氏家卜全の子行広が城主となった。
 また、binyouの「大垣の古城」によると
 戦国末期の天文年間(1532〜54)より氏家常陸介直元(入道ト全)の家臣で、種田信濃守兼久が城主として在住していたが、元亀2年(1571)織田信長の伊勢長島の(一向一揆)攻めに大垣城主氏家ト全とともに出陣して活躍、強力な一揆軍のため殿戦しつつ石津郡太田郷安江村で奮戦したが武運拙なくト全とともに5月12日討死にした。

 その後ト全の嫡子左京亮直重が大垣城主となり、その弟内膳正行広は三塚城主となって一万五千石を領したが、天正11年8月伊勢桑名城二万二千石に転任して、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、石田三成方に加わったため敗戦の悲運を見て没落し、元和元年(1615)5月大阪夏の陣後、大阪城内で自殺して果てたという。(行年70歳)

07-1.真徳寺

大垣市三塚町城田

水路の形などから見て「まこと幼稚園」と「真徳寺」も城跡に含まれると思います。

「まこと幼稚園」

「まこと保育園」の北側の「まこと幼稚園おはなし広場」

 

08.永沢城址

大垣市長沢町1丁目 受円寺付近  海抜 0m

北緯

35

21

17.

東経

136

36

34.

永沢城址
「福乗寺住職」に聞くと「この寺が城址と言われている」との事です。

スーパーマーッケトが中心
大きな紡績工場跡に「Kホームセンター」が出来、その駐車場隅の水路向こうににかっての城址があります。

水路の存在から
「永沢城址」は白髪神社・福乗寺あたりだったと思われます

白髪神社と福乗寺
長沢城があったと云われる大垣市長沢町一丁目には白髪神社と福乗寺があります。
いずれも遺構などは見当たりませんが、福乗寺住職に聞くと「この寺が城址と言われている」との事です。

                 長沢城は、大垣市長沢町1丁目辺りにあったといい、

 城主は氏家常陸介直元が、天文年間(1532〜54)の頃、しばらく在城していたと伝えられまたその後種田某が居城したともいうが、確実なことはわからない。

 戦国争乱期に生きた氏家直元入道ト全は、永正10年生まれで、元亀2年(1571)織田信長の長島攻めに参戦して討ち死にするまでの59年間に至る生涯、美濃八千騎といわれた多くの武将たちのうちでも特に、曽根城主稲葉一鉄と本巣北方城主安藤守就とともに西美濃三人衆と呼ばれて傑出した存在で、この地方に大きく勢力を張っていた。

 直元が父祖代々居城した楽田城から、永禄年間大垣城に移るまでの、天文年中しばらく長沢城に居を構えていたと言うことは、領国支配の勢力拡大政策、或いは戦略的意図などからも当然あり得ることであって、否定もできないが、ともあれ下克上の群雄割拠して相争った西美濃の混乱期において波乱に富んだ氏家一族の生き方の一面を想像するにすぎない。
                           binyou氏の「大垣の古城」から

 

09.直江(すぐえ)城址
(八幡神社斜め前の畑地)

大垣市直江町 八幡神社付近  海抜 1m

北緯

35

10

47.

東経

136

39

23.

直江(すぐえ)城址
地元の人に聞いたが「このあたり(高橋・岡田両家)」らしい」とのことでした。
市の教育委員会からも何度も聞きに来るが資料がないので分からないとの事でした。
最初訪れた時は三差路北の「八幡神社」と思っていました。

     直江城は、大垣市直江町の八幡宮南辺りにあったと伝えられているが、
               正直なところ、その城跡は判然としない。
 城主は種田彦七郎といい、今宿城主種田助之丞正元の弟であり、後に丸毛三郎兵衛と改めた。新修大垣市史に、「種田彦七郎・・・今宿城主種田正元の弟で、後に丸毛三郎兵衛と改めた。

 三塚城(01-07参照)の信濃守、今宿城(01-06参照)の正元らと同じく種田一族であり、氏家氏の旗本として仕え、戦功を立てたという」と記しているが、岐阜県史中世編の第4章では、丸毛氏、小笠原長氏の族丸毛六郎兼頼は多芸郡大塚村に住んで、子孫は当郡の強族であった。(舟田乱記・信長公記)

 常山紀談に『丸毛兵庫助長住、その子三郎兵衛長隆は斎藤龍興に従って大塚城にあったのを、安東・氏家二氏が龍興に逆いて丸毛を攻めたとき、長住父子三百人許り大塚城から一里余り(約4キロ)出て陣地を張り、百姓男女を間わず催し出して、各竹竿を持たせ大軍によそおい、氏家らの軍を破って感状を得たことが載ぜられている。』と紹介しており、

 美濃明細記の古城編には、多芸郡大墳(おおつか)城11-127参照の項で、『丸毛三郎兵衛兼頼、後ち道和入道と号す。大垣より福束城03-38参照に移る。太閣記・三河後風土記に日く、天正12年秀吉直江城を丸毛三郎兵衛に守らしむ、とあり、直江城跡なし、直江土人これを伝えず、直江、大墳同地なるゆえ、大墳城を直江と云う談となり。』としている。

 これは、今の養老町直江(なおえ)のことであり、大垣市の直江(すぐえ)と同じ文字で呼ぴ名が異っているが、記録の文面では読み仮名がつけてないので、どちらかが誤りであろうか。

 或はまた岐阜県百科事典の「まるもかねとし(丸毛兼利)の項では、安土・桃山時代から江戸時代初期の武将、丸毛光兼の子、三郎兵衛、名を親吉、安職、兼頼、長隆、親長ともいう。

 織田信長に仕え、天正元年(1573)7月将軍足利義昭の山城国真木島城攻め(岐阜城周辺の城址)に参戦、また豊臣秀吉に仕え天正15年島津義久との戦(岐阜城周辺の城址)に従軍し、翌16年直江城(01-09参照)(大垣市)ついで大塚城に居住し、翌17年安八郡福束城へ移り、一万石を領したが、慶長5年関ケ原の戦で西軍に味方し、徳永寿昌と戦って敗れたため8月17日城を捨てて逃亡、のち加賀国で前田利常に仕え(給二千石)入道して道和といった。としている。

 撞田彦七郎が後ち丸毛三郎兵衛と改めたことは、種回から丸毛へ養子縁組したのではないかとも推察されるが、直江城の所在は、多芸か安八かについて些か疑間が残る。
    binyou氏の「大垣の古城」から

「直江八幡宮」まではカーナビで
県道18号「大垣一宮線」の「大垣大橋西」の信号の1本北(西)の狭い道を北東方向へ入る。
道は狭くて途中車に出会わないことを願って進みます。
地元の人の話によると八幡神社でなく水路の向こうの民家の前あたりが城址らしい?

直江(すぐえ)城跡
県道18号「大垣大橋西」信号を500mほど北上した
西辺りにある「八幡神社が城址と言われているが、
地元の人の話では「八幡神社」南の家と言われています。
城には戦勝の神「八幡神社」を祀るのが習わしであり
城跡は八幡神社を含む前述の2件言え辺りと思われます。
(シルバーの散歩道)

今でも地元では城があったと言われている
八幡神社の向かいで畑仕事をしていた女性に聞いたところ
「地元ではこの辺りが直江(すぐえ)城があったらしい」との事でした。
近くの男性二人にも確認しましたが、同じような返事で
「市役所の教育委員会からも同じような問い合わせがあったが町内に資料的なものがないので
何とも言えない」とのことでした。

 

10.釜笛城址
(八幡神社前あたり)

大垣市釜笛(珀寶寺西)  海抜 3m

北緯

35

19

13.

東経

136

36

45.

釜笛城址
県道226号「釜笛2」信号から西へ350m地点を北へ入り道なりに進むと
「八幡神社・春日神社」の前に出る。(このあたり一帯が「釜笛城だった」と言われている)

釜笛城址
県道226号(飯田島里線)の「釜笛2」の信号から北へ入る道2本目を曲がる。
正面に「八幡神社」が見えてきます。この辺りが城址です。

10.釜笛城址
水路などから勘案すると
珀寶寺・八幡神社・春日神社・今津神社・釜笛公園・地蔵堂前広場
などが城址と考えられます。

この八幡神社の前にある地蔵堂(画面左側の槇木陰にある)の辺りに、大垣藩の硝煙蔵がありました。

釜笛城

 新修大垣市史によると、天正2年(1574)5月、多芸郡の野方を開拓して、兼父絵(釜笛)村という。
 釜笛城跡は、小寺官内の居城であった。としているが、詳細については寄りどころとなる史料が無く不明である。
 古老の伝えるところによれば、江戸時代に大垣藩の煙梢蔵(火薬庫)のあった場所が、昔の城跡であり、村中に高い台地が遺存していた。という。
 小寺宮内とは、美濃国守護斉藤義龍の家臣小寺官内右衛門則頼のことで、中世未期の戦国争乱期に、大垣地方で勢力のあった武将であろう。
 則頼の妻は、青木刑部卿法印重直(加賀右工門)の娘であり、青木氏は、今の大垣市青木町出身で、土岐・斉藤・織田・豊臣に歴仕し摂津国で一万余石を領したが、後ち徳川幕府に仕えている。
 則頼の子、次左工門正重は天正九年美濃国で生れ、母の実家である青木氏(民部少輔、従五位下青木一重)の養子となり、慶長10年11月、従五位下駿河守に叙せられ、寛文4年8月3日摂津国牧の庄で卒(享年84才)した。
 寛政重修諸家譜による
                        binyou氏の「大垣の古城」から

 

 

11.野口城址
   (六社神社・聚楽寺) 

大垣市野口一丁目  海抜  14m

北緯

35

20

06.

東経

136

35

52.

野口城址
県道50号(主要地方道大垣環状線)「水都大橋」西袂道路を南へ300mにある、
「六社神社」が「野口城址」とのこと。

野口城址
県道50号(大垣環状線)の「綾野5南」と「割田1」信号の中間あたりを南へ入り
東方に寺や神社があるあたりに城址があったと思われます。
堤防へ上がって見ても特段に高い地形は見当たりません。

11.野口城址
六社神社・聚楽寺あたりと思われます。

「聚楽寺」は説明板によるとこの寺は平成11年(1999)に杭瀬川河川改修により
現地に移転・再建されたとあるが、その空地はかっての城跡だった可能性も捨てきれない。

六社神社の裏は広かった濠を埋め狭い水路に、
隣の「聚楽寺」は広かった水路を埋め道路にしています(但し行き止まり)

 野口城跡は、大垣市内の現在その位置は判然としない。

 古図によると凡そ集落地の北に当る辺りで、その跡と推測される土囲、薮などのあった高地を偲ぷことができる。

 天文年間(1532〜54)のころ、三河の国西尾から移ってきた西尾伊豆守信光が、三千貫を領していたという。

 信光の子豊後守光教は氏家直元(ト全)の妹と結婚し、直元の旗下に所属していたが、後ち織田信長に仕えて、天正10年信長没後は豊臣秀吉に従って従五位下に叔し、所領も安堵され、さらに同16年稲葉一鉄のあとをうけて曽根城主となり二万石を領した。

 慶長5年の関ケ原合戦には徳川家康に従って大垣城攻略に戦功をあげ、その後曽根(01-04参照)は廃城となり、光教は揖斐に移って城を築き、一万五千石の加増をうけ、合せて三万五千石を領した。

 大垣城主宮川吉左工門尉安定の子、宮川伊勢守安熈は織田信長信忠の父子二代に仕えたあと豊臣秀吉、秀次に仕えていたが、文禄4年(1595)秀次が秀吉の勘気をこうむって高野山で自害したため流浪して野口村に蟄居した。

 おそらく西尾氏の去った野口城跡の空き城に閑居していたのではないかという。

 西尾氏の遠祖は、丹波国の粧井氏である。兵庫頭光秀が三州西尾に移って西尾氏を名乗り、のち美濃に移って曽根城に住んだとある。

 その嗣子直教は美濃の守護斉藤氏の家臣となり、文明・長享のころ大井荘の石包名代官職となったという。

古くから大垣地方に因縁が結ばれていたようである。
                        binyou氏の「大垣の古城」から

石包名(いわかねみょう)
大垣市史 下巻(資料編) 目次
に下記のような文面がある。

 @ 文明13年12月   大井荘榎戸郷内名田代官職真清請文・・・・・・・・・
 A 同年 同月   同荘内名田代官職真清請文・・・・・・・・・・・・・
 B 同18年 7月   西尾兵庫助直教大井荘石包名年貢銭(新袈裟用途)送状
 C 同年 同月   西尾直教大井荘石包名年貢銭(定籠用途)送状・・・・
 D 同年 同月   大井荘石包名年貢結解状(安楽房順憲

とあり、大垣城にある「大垣城由来」によると
 大垣城は古く応仁年間(15世紀)には東大寺城と呼び、当時の城主は大井荘のうち石包名(いわかねみょう)という地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。
(詳しくは本編の「大垣城」を参照して下さい)

杭瀬川スポーツ公園は?

住宅地図で見ると「杭瀬川スポーツ公園」は周囲より格段に高く・広い場所です。
ゼッタイ!城址と思い現地を再訪しましたが、
土は赤土など古土でなく、産業廃棄物の白い砕石の堆積で城跡とは思えませんでした。
(シルバーの散歩道)

以上を総合し「六社神社」周囲の状況(水路など)にから勘案すると
「六社神社」と「聚楽寺」が野口城址と考えられます。
(シルバーの散歩道)

 

12.上笠(かみがさ)城址

大垣市上笠町  海抜  1m

北緯

35

19

21.

東経

136

35

32.

上笠(かみがさ)城址
県道226号(飯田島里線)杭瀬川「柳橋」東袂交差点を南折した堤防脇あたり。
もし、「恩受寺」と「白山神社」を取り巻く水路が遺構としたらこの辺りが「上笠城址」と思えます。
上笠町内を全部見渡してもほとんどが耕地整理がされており、
もし耕地整理された場所に遺構があったら城址はなくなっていると思われます。
(シルバーの散歩道)

  binyou氏決断できず
県道226号の「杭瀬川」東袂の道を南へ入り西へ曲がって堤防手前辺りが城跡らしい。

11.上笠城址
 美濃本郷城主の流れを汲むと伝えられる国枝氏をはじめ、
現在も上笠町に在住する旧家で、野村 、国枝、渡辺、西脇の四姓があることなどから、
上笠城があったと伝承ざれる時代背景や、その史実
    解明の手がかりが引き出せないものか、という期待は捨て切れぬ。
        binyou氏の「大垣の古城」から

上のbinyou氏の文章から下図に現在の住宅地図から
N:野村家  K:国枝家  W:渡辺家  :西脇家
?:不明・その他の家
の所在場所を表しました。
(シルバーの散歩道)

遠くから見て少し高い場所には寺(恩受寺)と神社(大外羽神社)が固まってあります。

上笠城

       上笠城は、大垣市上笠町にあったという。
         百茎根およぴ美濃明細記によると、多芸郡上笠城、宮川権之助安清、後ち安済と号す。
          永禄(1558〜69)のころなり、宮川吉左工門一族なり。とある。
         宮川一族といえば、天文(1532〜54)のころ、美濃国守護職斉藤道三の与力であった宮河孫九 
      郎、およぴ大垣城を創建したという宮川左工門尉安定などがいる。
         安定は大垣城創建以前に若森城(01-13参照)に居城していて、そのあと安定の弟、但馬守が居城し
  たと伝えられており、宮川一族がこの地方に分散して勢力を張っていたことが窺える。
         上笠村は、古代(奈良時代)に美濃守として活躍した笠朝臣麻呂が、積極的に開拓したところに笠の
      字を当てた地名が多く、笠木、笠縫、笠毛、笠の郷(下笠、上笠)などのうち最も重要な位置を占め
      ているので、その拠点として中世に城があったとも言われているが、地勢的にもそれほどに重要で
       あったかどうか疑間であり一城といっても、それは、武将の館か小規模な砦の程度であったと推測
      される。
                             binyou氏の「大垣の古城」から

 

上笠城つづき)
         宮川三斎が中山道赤坂宿の野村氏に贈ったという次の書幅があり(野村森三郎氏蔵) 

         「野村家を寿ぎて  上笠に運をひらかす野村氏    丸に扇の旗頭なり     宮川三斎詠之印」

         美濃本郷城主の流れを汲むと伝えられる国枝氏をはじめ、現在も上笠町に在住する旧家で、野村
    、国枝、渡辺、西脇の四姓があることなどから、上笠城があったと伝承ざれる時代背景や、その史実
    解明の手がかりが引き出せないものか、という期待は捨て切れぬ。
                                                 binyou氏の「大垣の古城」から

 

13.青柳城址

大垣市青柳町1丁目  海抜18m

北緯

35

20

37.

東経

136

36

06.

青柳城址
資料によると「青柳城」は青柳1丁目にあったらしいが、青柳町1丁目内では
「八幡神社」が1つの候補ですが、「濠跡」らしいのに囲まれている
「徳勝寺」から南側の水路あたりの「青柳公民館」「青柳公園」
辺りまでが有力に思われます。
(シルバーの散歩道)

青柳城址
県道225号の東海道新幹線カード南辺りを西へ進むと杭瀬川堤防がある
この辺りは多少土地が高く城址の形跡をうかがわせる。

13.青柳城址
「濠跡」らしいのに囲まれている「徳勝寺」・「徳立寺」辺りから
南側に下がった水路あたりの「青柳公民館」「青柳公園」辺りまでが
有力に思われます。

(シルバーの散歩道)

住宅地図の水路の形から見ても「徳勝寺」と思われ訪れましたが
住職は留守で奥様にお尋ねしましたが「そんな話は知らない」とのことでした。

青柳城

 美濃明細記に「不破郡青柳城」とあるが、新撰美濃志にも、不破郡青柳村の項に、「青柳城址は隣村安八郡割田村の北の方に土囲の形のこりて、西の方を本丸、東の方を二之丸のあとなりと云う。

 もとは青柳の地内なりしが、後世、割田の地となる。

 城主和田奥田丸は、いつの頃の人にや今定かならず。太閣記にのせし和田弥太郎はその一族なるべし。

 また市橋下総守長勝は当城より今尾の城(136参照)に移ると云う。

 小寺掃部も青柳村居住の士なりし由、美濃明細記に見えたり」以上のように見てくると、青柳城は不破郡内にあったが、隣村の割田村とは、ともに杭瀬川の東にあって、利害関係はもとよりのこと、その支配関係の上において、何かの都合で改められて、青柳城が割田城と呼称されたようである。

 青柳、割田が小規模な同じ地域に併立することは不可能なわけであり、しかもすぐ近くにまた若森城(14参照)があって、それぞれの所在年代を詳かにする史料に乏しいため、今後の研究課題といえよう。

 最初の城主和田奥田丸は、和田義隆の弟、義実の子といわれ、また太間記にある和田弥太郎も、その一族であろうとされるので、およそその時代も推測できよう。

 次の市橋長勝は池田郡市橋城(21参照)から発展して次々と転し活躍しており、新修大垣市史には、青柳城に在城したのは、元亀・天正のころ(1570〜91)であろうとしており、また小寺掃部は、それより古く天文年間(1532〜54)であろうとしている。

binyouの「大垣の古城」から

 

14.若森城址
(若森町4丁目付近)

大垣市若森町4丁目

北緯

35

21

12.4

東経

136

36

02.4

文献からの推測
若森城跡は現地を探してもそれらしき場所は見当たらない。
ゼンリンの住宅地図で調べてみると若森町1〜3丁目は町の中の平坦な地ですが、
なぜか4丁目が見当たらず、久瀬川町5丁目の向こうに若森町4丁目があります。
そこは土地が少し高く「徳円寺」を中心に古い商家が並んでいます。
そして目の前は杭瀬川があり、かっては「静里の塩田港」といわれた物流の拠点でした。
この辺りがかっての「若森城」があったのではないかと推測します。

若森城址
県道31号は今は道幅が広いが昔は真ん中に川が流れていて、
両側に狭い道が並行していました。
真ん中の川を埋め立てて道を作ったので現在は広い道になっています。
その県道30号に沿うように狭い家並が「久瀬川町」。その家並に沿って南側にある細長い地形が「若森町」
1丁目から3丁目までは平坦な土地で城址の存在は考えられません。
一番西は杭瀬川で昔から船湊として発展していました。
この辺りに城址があったと考えられます。

14.若森城址
若森4丁目の杭瀬川「塩田常夜灯」近くの小高い場所付近

地図の上部あたり

この「徳円寺」辺りが一番土地のレベルが高い場所です。

寺の裏側から見るとあたりより土地のレベルが高いことが判ります。

「塩田湊跡」
杭瀬川の「塩田湊」は当時は上流の「赤坂湊」と下流の「桑名港」を結ぶ重要な拠点で
船の運航も盛んで秋葉神社の隣に「塩田常夜灯」がありました。
これらの条件を勘案して「若森城」は杭瀬川近くの「若森4丁目」あたりの土地の高い場所と考えます。
「県道31号」の信号「久瀬川町4」の西20mほどの辻を南へ入り2〜300mほどで久瀬川へ出ます。

若森城跡は、大垣市若森町の若宮八幡社の辺りという。

 現在「堀の内」という地名(小字名)に城郭の一部を偲ぷことができるのみであって詳細は全くわからない。

 城主は、宮川氏二代で、はじめは美濃国守護職土岐家の一族である宮川吉左工門尉安定が三千貫を領して、ここに居城していたが、後ち従五位下に叙し左衛門佐となり、入道して為心と号し、斉藤道三に属した。天文4年(1535)安定は舅の大垣彦五郎長家を討って牛屋砦を整備拡張し、割田城の空き城から門や石垣石を運んで、大垣城を創建したと伝えられるが、正確なことは尚不明である。

 斉藤道三が西美濃の一向一揆との戦いの収拾策として和睦を図ったとき、安定は本願寺側の草道島西円寺に対し、道三の名代として接衝し、その任務を遂行している。

 若森城は安定のあと、その弟の宮川但馬守が居城して、信長に仕え、氏家直元入道ト全の妹と結婚し、その旗下に所屑して、伊勢長島攻めや越前の朝倉討伐戦にも従っており、後ち、ここを去って加賀の前田利家に仕えたという。
                        binyouの「大垣の古城」から

binyouの「大垣の古城」を参考にして探しましたが「若宮神社」や「堀の内」という小字名も見当たりません
でしたのでこの「秋葉神社の「塩田の常夜灯」近く考えます。
(シルバーの散歩道)

 

15.笠縫城址
(受円寺付近)

大垣市笠縫町   海抜 0m

北緯

35

21

24.

東経

136

36

33.

笠縫城址(円受寺の山門)
国道21号「河間」交差点を南東へ入り120mほどの西に入ると
「円受寺」がある付近が「笠縫城址であり、道は「鎌倉街道」でもある。

笠縫城跡
国道21号(岐大バイパス)「河間(がま)」信号の南一帯が昔から栄えた地区です。
特に「円受寺」一帯は前後に水路があり「鎌倉街道」も水路に沿って走っています。
「円受寺」あたりが城址と思われます。

15.笠縫城址
国道21号「河間」信号を南へ、300m程の「宿地町」信号を北西へ入ると
「円受寺」がある水路に囲まれていて、鎌倉街道も通っているので「円受寺」と思われる。

笠縫城址
水路に囲まれた「受円寺」一帯が城址と思われます。
(シルバーの散歩道)

鎌倉街道
受円寺は「鎌倉街道」沿いに建ち往時から賑わいを見せていたと思われる。
笠縫城は受円寺あたりにあったと言われていますがそれを示すものは何もない。

                                              笠縫城は、大垣市笠縫町にあったという。

 美濃明細記には、「安八郡笠縫城、城主は知れず百姓屋敷に高地あり」と記されているのみで、解明できる史料もなく、皆目知る由もない。

 一説に、受円寺付近が城跡であるといわれ、また村西辺りともいい、何れも確認できない。

 ここは鎌倉時代、建治3年(1277)京都より鎌倉幕府へ訴訟の旅に出かけた阿仏尼の「十六夜日記」にある笠縫の里で、古代から中世へかけて東山道赤坂より分かれ、墨俣を経て尾張の熱田で東海道に結ばれた鎌倉街道の宿駅として有名である。

 北に平野庄、南に大井荘の間にあって、奈良興福寺領の中川庄の重要なポイントとなっている地理的な条件からも、或いは一時的に武将の館か砦があって、笠縫城と呼ばれていたであろうと推測される。
                    binyou氏の「大垣の古城」から

大垣市指定重要文化財 受円寺表門
受円寺は、弘仁六年(815)伝教大師最澄の創建と伝えられ、堂塔伽藍を配しましたが、
織田信長によってことごとく焼かれ、この表門のみ火災をまぬがれた。
表門は、木造本瓦葺の四足門で礎盤を刻んだ柱は大斗(だいと)肘木(ひじき)で桁を支え、
反りの強い虹梁(こうりょう)に唐草を彫り込んだ簡素なくみたてになっており、
室町時代初期の建築様式をよく伝えている。
(大垣教育委員会)

 

16.長松城址
  (荒崎小学校)

大垣市長松町堀  

北緯

35

21

38.5

東経

136

34

16.7

長松城址
国道21号「綾戸口」交差点を南東に折れ
500mほどで
「荒崎小学校」南西角に到達する。

長松城址
県道31号の「岩崎小学校南」信号を北へ入ると「長松城址」の岩崎小学校があります。
県道31号は揖斐と大垣城下を結ぶ古い街道です。

長松城址(荒崎小学校)は画面右下です。

長松城は、現在の荒崎小学校とその周辺の住宅地一帯が城域であった。 
城の遺構は何もなく、小学校の校門前に石碑があるのみ。

 現在荒崎小学校に「長松城跡」の標石が建てられているが、ここは同城堀のうちの一部であり(現在「荒崎小学校の地名は「大垣市長松町堀」です)、古城図をみると、旧長松村の集落地全体が城郭の形をなしている。

  西濃地方でみる限り大垣城のように近世に整備して存在した城郭以外の、いわゆる中世の城として、これだけの規模をもった城の様子がわかる古図の残されているのは少ないであろう。

  現在大垣の古城跡二十西ケ所のうち、古図があるのは大垣城曽根城(01-01参照およぴ長松城の三城のみで、非常に貴重な史常に貴重な史料といえる。

  長松城は、はじめ天正のころ、岩手(不破郡垂井町)の竹中半兵衛重治の従兄、竹中源助重利が三千石を分知されて城を構えたが、ここは美濃路の要衝に当り、豊臣秀吉も、度々ここに訪れているという。

  美濃明細記によると、長松城は村の西にあり竹中源助は後ち伊豆守となり五千石、信長のころ美濃、飛騨のうち四、五百石の代官、天正中に城を築き之れに居す。

  秀吉も度々この城に入。秀吉のころ豊後竹田に移り三万五千石を領す。

  また府内に移り、伊豆守の子の代に家は没す。」とあるが、他の各書には、文禄3年豊後国東郡高田二万石に移るとある。

  竹中氏のあとは「武光式部五千石、秀吉の時代之れに居す。慶長5年8月桑名に退く。関ケ原戦のとき一柳監物之れを守り後ち廃城」と記ざれており、五千石を領して秀吉に仕えた。

  慶長5年の関ケ原合戦に、武光式部少輔忠棟は、西軍石田方に味方して城を守ったが、8月17日福束城(03-38参照)の応援に参加して敗北、大垣に逃げ帰ったが、石田の態度に不満をもち、同24日に東軍徳川方の軍勢が赤坂に進駐してきたのをみて多勢に無勢では三十六計逃げるにしかずと、その夜のうちに城をあけて桑名の氏家を頼って引揚げてしまったという。

  そのあと徳川方の一柳監物が入城したが、戦後は廃城となった。
                        binyou氏の「大垣の古城」から
           築城者は竹中半兵衛のいとこ竹中重利
 長松城は、築城年代は定かでないが竹中重利によって築城された。 重利は、従兄弟竹中半兵衛重治から長松の地を分知された。 竹中重利は、豊臣秀吉に仕えて、後に豊後高田1万石となった。

 竹中重利のあとには武光忠棟が城主となったが、慶長5年、関ヶ原で西軍に与した武光氏は改易となり、長松城も廃城となった。

 

17.福田城址
  (大勝寺、津島神社、近く)

大垣市福田町(不破郡福田町)

北緯

35

22

28.1

東経

136

35

44.3

福田城址
福田城址は国道21号線工事により大きく地形を変えられ昔の面影を残していない。
多分この辺りと思われる。
右に流れる「杭瀬川」と国道21号バイパス橋梁脇に残る城跡と推定される竹藪

「binyou氏の「大垣の古城」からを参考に現地を探しましたが、
福田町の町の真ん中を国道21号が縦断し町はコンクリートの壁で分断されています。 
また同氏の資料による「村の西 城跡あり」で現地を歩きましたが、
福田町の西は土地改良事業により碁盤目状に区画整備され城跡の面影はありません。

さいわい国道21号南には大勝寺、津島神社が並んで残されています。
この大勝寺、津島神社裏が少し土地が高く竹藪のまま放置されています。
ここが城跡のように推測できます。
大勝寺、津島神社の西には「北屋敷」、南側を走る県道231号沿いに「屋敷」や「南屋敷」小字名が残っています。
また大勝寺、津島神社周りが道も狭く曲がりくねったままの道が残っています

福田城址
国道21号線(岐大バイパス)「福田」信号東一帯に南屋敷「屋敷」や北屋敷の地名が残っています。
国道21号岐大バイパス建設によって福田城址と思われる付近が建設範囲に入ったと思われ、
「津島神社」と「大勝寺」の裏辺りを杭瀬川を濠代わりにあったと思われます。
現在も辺りは藪のままとなっています。

福田城

 不破郡福田村、福田城、村の西城跡にあり、那波和泉守正隆、信長の頃ここに居す。
 同和泉守正信、秀吉の頃ここに居す。後、稲葉貞通に属し加納へ移る。

 美濃明細記には以上のように記されているが、そのほかに拠りどころとなる史料はないので詳細不明である。

 城跡は現在の大垣市福田町西部辺りにあるが、昔の面影は偲ぶ由もない。

 那波氏については、はじめ那波和泉守正隆が(または正澄とあり)織田信長に従がい、次で豊臣秀吉に属して八千石を領したという。

 その子正信は、秀吉に仕えて福田城に住み、天正14年(1586)9月秀吉より濃州西方所々(こえぴ・さくら村上・下・有里・ひる井・大墓・かさけの中・荒尾)で1981貫文の知行を与えられている。

 美濃明細記によると、正信はのちに安八郡加納城へ移っており、また稲葉氏の曽根城古図(享保年間の写本)に「那波和泉守邸」が、本丸西辺りに記録ざれていて、或はその後、稲葉貞通の旗下に入り曽根城内に移り住んだようである

binyou氏の「大垣の古城」から

国道21号(左)のコンクリート壁と津島神社の石垣の向こうが大勝寺裏の少し小高い竹藪

大勝寺、津島神社と同じ小字(北屋敷)にある「真光寺」

 

18.青野城址

大垣市青野町

北緯

35

22

40.3

東経

136

33

16.9

青野城碑
「稲葉石見守屋敷跡」
田圃の中にでんと構えています

青野城址
現在は大垣市青野町となり町も大きな「青野城址碑・稲葉石見守屋敷跡」碑を作りました。
また町内では「正休公」の悲運の死を悼んで「青野ふるさと福祉村」が中心となり
青野城のお殿さま「稲葉石見守正休公ものがたり」を平成20年にVTRとDVDに収め制作しました。
参画は青野町子供会・青墓小中学校・青野教育委員会方々が中心になって制作され、
”シルバーの散歩道”も自治会長さんからDVDを頂いきました。

田圃の中にポツンと「稲葉石見守屋敷跡」碑があります。

           江戸城内で斬り合いし、お家断絶
 青野城は、稲葉正成の子正次が幕府に召しだされて5000石を与えられ、美濃青野村に居を構えたことに始まる。
 正次の子正休は、天和元年(1681)に若年寄となり加増を受け、1万2000石の大名に列した。
 青野城とは、この青野藩の屋敷を指すものであるが、規模等は不明である。
 正休は、貞享元年(1684)江戸城内において、大老で従兄弟の堀田正俊を刺殺し、自身も居合わせた老中大久保忠朝らに惨殺された。これにより、青野藩は廃藩となり所領は天領とされた。

大きな「屋敷跡碑」の裏に
「稲葉石見守塔」(墓とは書かれていない)があります。

 今井系図によると、大永5年(1525)6月5日江州の浅井亮政が美濃を侵略したとき、青野国府城主鷹司忠勝の弟康好らは討死した。とあり青野国府城という呼ぴ名がでてくる。

 その後、青野城と言われたのは、関ケ原合戦のとき小早川秀秋の家老として、裏切りをした主人公に勤めることに嫌気を覚えて浪人した稲葉正成の子、八左工門正次が元和4年(1618)2月、美濃国で五千石を与えられ、不破郡青野村に居館を設けて住んだためであり、その屋敷を青野城と呼ばれてきた。

 以後その弟権之助正吉は、寛永5年5月兄のあとを継ぎ江戸城で旗本寄合に列したが、明暦2年7月、駿府城内で殺害された。

 その子三代目領主石見守正休は、廷宝2年御小姓組番頭となっ、栄進して御書院番頭、御近習、若年寄を歴任、知行も加増されて一万二千右を領するに及んだが、貞享元年8月28日、大老堀田正俊を江戸城中で刺殺し、自らもまたその場で殺書され領地没収お家断絶の悲運をみた。

 しかし、幕府の最高役人として堀田大老の専恣を憎んで社会的正義のための行為であったとされ、副将軍水戸光圀は、彼を邸に弔間してその死を借しんだという

 稲葉氏の居館跡は取毀されたが、今に本丸とか屋敷などの地名およぴ幕碑、記念顕彰碑が建てられ、また青墓町円長寺の山門は青野城稲葉家門を移築したものと伝えられ、また「稲葉」住宅団地の名も稲葉氏を偲ぷよすがとなっている。
                binyou氏の「大垣の古城」から

次は間違いが多くあるインターネット上の
「青野城址」「稲葉石見守世公碑」間違いについて

18-1.法雲山教覺寺

大垣市青野町

北緯

35

22

41.

東経

136

33

16.

青野城跡の近くで分かりやすい場所です。

間違いの説明 
一般的には上記の画像と説明「青野城跡」とインターネットに掲載されていますが、
この画像は同町にある「教覺寺」に供養されている「稲葉石見守正休公碑」であって
城址を示す碑ではありません。
(地元の自治会長と教覺寺御住職に確認しました。)

教覺寺門碑わきにある稲葉石見守碑(頭部がわずかに見えます)がそれです。

青野城址碑から中山道(県道228号)を東北に800mの北側に
青野城表門を移築した「延長寺」があります。

18-2. 延長寺山門
(青野城表門移築の寺)

大垣市青墓町1丁目  海抜  30m

北緯

35

22

56.

東経

136

33

56.

 

青野城の表門は延長寺の山門に移築
延長寺の山門は、青野城の表門を移築したものと伝えられています。
(お詫び:上図の県道は228号の間違いです)

延長寺山門
青墓小学校の向かい側です。

 

 大垣市青墓町1丁目の延長寺に移築され現存する旧青野城城門が
奥に見えます。

 

18-3. 美濃国分寺跡

大垣市青野町

北緯

35

22

東経

136

33

美濃国分寺跡

壮大な寺の維持は?
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、
僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。
(ウイッキペディアより)

国分寺
国分寺は聖武天皇の代に全国八つの国(畿内・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に
六十九の「金光明四天王護国之寺」(僧寺)と「法華減罪之寺」(尼寺)の詔(みことのり)を下し
国分寺を建てました。
なお、壱岐や対馬には「島分寺」(とうぶんじ)が建てられた。
(ウイッキペディアより)

池の跡も残っているのは全国でも珍しいそうです。
すぎ南を県道216号が走っています。
旧地名は「青墓」で近くには旅人を襲うため「熊坂長範物見の松」の古墳が在ったり、
悪徳首領に底のない桶で水を汲まされた「照手姫井戸」
常盤御前が幼い義経を連れて東北へ落ち延びるため雪の中軒下を借りた「よし竹庵」跡なども
この近くにあります。
(詳しくは拙作の「シルバーの散歩道・中山道美濃十六宿」を見て下さい。)

現在の「国分寺」は山裾に新築されています。

現国分寺「金銀山美濃国分寺」

 

19.池尻城址

大垣市池尻町(池尻公園・池尻町公民館)
海抜  15m

北緯

35

23

13.

東経

136

36

08.

池尻城址
2010年頃地元を訪れた時、地元では「菅野神社」が城址だと言う人達と、
喫茶店の向かいの畑辺りが城址だと言う人派がありました。
今では何も分からないと地元の人達はいっていました。
(「シルバーの散歩道」の記憶より)

19.池尻城址
地元の人の話では理容店の東の畑あたりとの話ですが
その畑より南30m程の「池尻町公民館」がある「池尻公園と「光円寺」
辺りではないかと思われます。

地元では菅野神社から来た道の西側にある理容店
理容店前の手前の道を東辺りが昔から「城屋敷」と呼ばれた「池尻城址」と云われています。

理容店の前に道を東へ下った付近が以前は「城屋敷」と呼ばれ石垣などが残っていたそうです(農地整理の時に全て掘り出され畑地になりました)

池尻公園・池尻町公民館・「光円寺」
地元の人の話より「池尻公園」・「池尻町公民館」付近の水路や家並を勘案すると
「池尻城址」は「池尻公園」・「池尻町公民館」・「光円寺」が妥当でないかと考えます。
(シルバーの散歩道)

池尻城の歴史

 美濃明細記には、
 「安八郡中川庄、池尻城、今は村の北高地にあり、飯沼対馬守長就三千貫を領し、土岐頼芸、後ち秀龍麾下なり。同勘平長継、信長に仕え当城に居す。
 天正11年大垣城主氏家のため、長継大垣に於て生害。池田三左エ衛門輝政天正11年より家老片桐半左エ衛門城代として之れに居す。」とあります。

 飯沼系図によると、源氏の系統で下総国飯沼から美濃へ訪れた初代飯沼道関長常は、享禄二年(1528)赤坂に住んで土岐氏に仕え、その子対馬守長就は土岐頼芸に仕え、池尻城主となり三千貫を領した。

 二代長継は勘平と称え、織田信長に仕えて幾多の戦功あり、永禄十二年(1569)、長継は信長から、その長身と眼が大きく輝く勇将にふさわしいというので、蛇の目の紋を幕紋に使用するように命ぜられたので以後、家紋にも用いたそうです。

 元亀元年(1570)江洲堅田の戦で一族五人及び39騎の戦死を乗り越えて信長に尽くしたが、信長亡きあと天正十一年(1583)豊臣秀吉が柴田勝家と合戦の時、岐阜の織田信孝方から大垣の氏家領内に放火されたものを長継が裏切って信孝に内通したという疑いをかけられ、秀吉の勘気にふれて大垣城に誘い出され、氏家のために生害された。

 三代長実は、長継の子で、慶長五年(1600)関ヶ原合戦の時織田秀信に従って岐阜城を守り、徳川方の攻撃に奮戦したが8月23日討ち死にした。
 その子長資(子勘平)もまた同じく岐阜城の織田秀信に仕えて関ヶ原合戦の時8月22日新加納合戦(岐阜城周辺の城址参照)で戦死した。(享年19歳)

 飯沼氏のあと池尻城は池田三左エ衛門輝政が支配し、家老の片桐半左エ衛門を城代として守らせたが、まもなく天正12年、小牧長久手の戦(小牧長久手の戦い参照)で、大垣城にいた父勝入斎恒興信輝(58歳)と岐阜城にいた兄元助(21歳)がともに戦死したので、輝政は大垣城に移って、池尻城はその後廃城となった。

 なお、明治30年頃大垣輪中堤防の増強工事のため、城跡の高地は土取りされて沼田と化したとき、その一部の土中から棺桶と人骨及び刀などが発見され、築城当時の人柱説が伝えられた。

binyou氏の「大垣の古城」から

「池尻公園」・「池尻町公民館」隣の水路や塀がそろった民家と
その向かいの「光円寺」

 

20. 谷氏屋敷跡

赤坂町子安町谷屋敷

北緯

35

23

16.0

東経

136

34

52.3

谷氏屋敷跡あたり
binyouの「大垣の古城」から」を参考にさせていただくと現在1軒だけ「谷姓」の家が現存しています。
また「お茶屋屋敷跡」は中山道が定められたとき徳川家康の休憩所として
岐阜城の信長が造った「千畳敷」御殿を移築させ周りに堀を巡らせ(現在も残っています)
将軍が宿泊しても警備ができるようになっていたと聞いています。
そのことから勘案して、やはり「binyouの言われるように「谷屋敷」また「谷殿山(たんだやま)」と呼ぱれていた
正安寺の前の道を隔てた東側一帯が城跡であったのでしょう。
(シルバーの散歩道)

谷氏屋敷跡
屋敷跡は「binyou氏」の「大垣の古城」を参照して正安寺の東側一帯あたりとしました。

                       赤坂城と谷氏 
 赤坂城は、戦国時代未期、美濃国守護土岐・斎藤両家が亡ぴ、織田、豊臣の天下統一が成されてゆくころ、谷七郎左ヱ門源衛友(みなもとのもりとも)が住んでいたところである。

 現在大垣市赤坂町子安町の街並から南へ入った史跡お茶屋屋敷の北隣り、正安寺の前の道を隔てた東側一帯が城跡であって「谷屋敷」また「谷殿山(たんだやま)」と呼ぱれていた。

 江戸時代未期の赤坂村旧図によると、現在も通用している路地に洛って土囲が築かれ、何筆かに分轄された土地が、畑、薮、屋敷など、すべて谷一族の名儀になっている。

 金生山を背景として、中山道を扼し、東に濃尾平野を一望する小高い台地を占めた、地勢的な好条件に恵まれた城跡であることは誰しもうなずけるであろう。

 大垣藩地方雑記(じかたざっき)によると「古城址、谷屋敷と云い、町南正安寺の前に之れあり、谷出羽守源衛友居住の地なり。秀吉公のころ一万石余を領し、越中において戦死云々、と記されている。

 谷衛友は、天文・永禄年間(1532〜69)織田信長に仕え赤坂に住んでいたが、後ち豊臣秀吉に仕えて出羽守に任ぜられ、丹波(京都府)河鹿郡山鹿城主となり一万六百石を領した。

 衛友が住んでいた赤坂城跡には竹木が繁茂し、山脇のところに鎮守杜が祀られ、屋敷の家宅をはじめ長屋門、櫓、物置などの建物は正徳5年(1715)3月25日夜、出火のため書類なども共に焼失してしまったという。

                            binyou氏の「大垣の古城」から

                赤坂城と谷氏(その2)
 衛友が丹波山鹿藩主として転出後の赤坂城は衛友の叔父出羽守長広およぴ、その子孫がここに住んで谷屋敷と呼ばれていた。

 その未裔に当る谷才兵衛は大垣藩に仕え、赤坂筋代官を勤め、また江戸幕府にも取立てられ、役人として出仕した人物も出ており、或はその一族で谷六郎兵衛の孫に当る、大垣の船問屋で俳聖芭蕉と交友の厚かった俳人木因(谷九太夫)も傑出した人物の一人である。

 谷氏系図によると、衛友の父は、谷大膳亮衛好といい、美濃守護職土岐政房に仕え、度重なる軍功を賞されて厚見郡鶉(うずら)城(今の岐阜市)に居城していたが、永正元(1504)に死亡し、その子衛友は天正7年(1579)9月20日卒となっており、その長男衛政は大学頭に任ぜられて父のあとを継いで山家城主となり、以後代々子孫が続いて江戸時代を安定している。

 赤坂町元町の谷氏所蔵の古文書のうちにも、「丹波山家行出入抽帳」(万延元年)や「丹波行入用隠居改名披露」(安政3年)などの記録には、赤坂宿の土産物を持参し、殿さまをはじめ家老、用人にまで山家藩の幹部役人へも、お勝山の目釘竹、大理石の文鎮、養老扇などの品々を贈り届け、また返礼の品目などが記録されており、当時の武士階級の社交生活の一端を物語っている。

 谷衛友は豊臣秀吉に臣従しながらも太閤殿下と言われる天下人の権力にコビヘツラウことなく、気に食わぬことがあると堂々と渡り合って相抗し、あとで秀吉が酒肴を持って謝りに来て仲直りをしたという話も伝えられ、豪勇の大名であったということが偲ばれるが、しかし記録そのものも、また時代考証的にも衛友・衛政や、そのはか一族の誰彼と混同した面も無いとは断じ難い。
                            binyou氏の「大垣の古城」から

 

21.市橋城址

大垣市南市橋町南市橋

北緯

35

23

30.7

東経

136

36

57.5

「市橋城址」(矢橋工業渇ウ女坂工場濾過場)
  市橋城は、大垣市の南市橋町で、のある辺りに
あったと伝えられています。
(濾過場の山上に見える建物群は美濃赤坂虚空蔵菩薩で有名な「金生山明星輪寺」)

市橋城址付近の他の城跡

市橋城址
市橋城址は大垣市赤坂町南市橋の矢橋工業「乙女坂工場濾過場」と言われていますが、
隣の揖斐郡池田町市橋の「五穀寺縁起」と「市橋稲荷神社縁起」の石盤を読むと
揖斐郡池田町の市橋が城址と思われます。
(シルバーの散歩道)

                市 橋 城 史
 八幡村史によると、「万治2年(1659)の検地帳に「親方屋敷が、その跡であり、市橋五郎三郎光重が、この城に住み始めて市橋氏を名乗ったとあり、その後子孫代々受け継いで、市橋長勝の時天正15年(1587)今尾城(12-136参照)に移り、ここは廃城になったといわれます。

 初代光重は、承久の乱(1221)の戦功で美濃国地頭職になった石川光治の弟で、池田郡市橋の領主となり、その後、成光−光氏−長久−信久−信直−長久−直信−利信−利尚−長利−長勝と12代続いておよそ四百年ここに君臨し、そのほとんどが代々美濃国守護土岐家に仕えてきました。

 土岐氏凋落の後斉藤、織田に仕え、市橋下総守長勝に及んで、さらに豊臣秀吉に仕え、徳川家康に仕えて数々の戦功をあげ、慶長12年(1607)今尾城から伯耆(ほうき=鳥取県)矢橋城に移り、元和2年(1616)には越後(新潟県)三条城に転封され4万余石を領したが、元和6年(1620)63歳で没し、実子がなく領地を没収されました。

 しかしその後養子長政が、近江(滋賀県)蒲生・野洲両郡と河内(大阪府)交野郡の一部で合わせて2万石を賜って市橋家の相続を許され、寛永の頃には美濃国の堤普請奉行などを勤めています。

 なお、赤坂町北之端(元町)の法泉寺は、永禄3年(1560)美濃国最後の守護職斉藤龍興の家臣小林喜兵衛が遁世入道して、天台宗の廃寺を復興し、さらに市橋城主であった下総守長勝の菩提寺として天正年間に五間四面の本堂を再建したといわれます。

  同寺開基寂玄は、喜兵衛が入道しての名であり、二代乗玄は教如上人に帰依して真宗大谷派に転じて以後、同寺住職は市橋氏を名乗り現在に至っています。
                         binyou氏の「大垣の古城」から

「市橋城址」と言われている矢橋工業乙女坂工場濾過場
付近は企業専用道路みたいになっていますから近づきがたい場所です。
ここが城址とは思われません。

同じ市橋です。
大垣市赤坂町南市橋
「市橋城址」(矢橋工業渇ウ女坂工場濾過場)から数百m北が揖斐郡池田町市橋です。

ここからは揖斐郡池田町市橋です

稲荷神社稲荷山神照院五穀寺

揖斐郡池田町市橋

市橋稲荷神社 
市橋五郎三郎光重が揖斐郡池田の市橋村に居城し
その屋敷に祀った市橋稲荷神社

市橋稲荷神社略縁起
源頼親の孫・石川太郎光義の子 光冶成田と号し美濃国市橋庄 地頭となり、
弟 市橋五郎三郎光重 市橋村に居城し市橋氏と称せり。
建久元年(1190)九月 市橋氏 京都伏見稲荷より正一位稲荷大明神を勧進しこれを
市橋山の頂上に奉斎し五穀豊穣を祈念する。
天保七年(1836)四月 更に伏見より神霊を奉紀し後、
山頂より現在地に移転した。(以下略)

とあるように市橋城主市橋氏はこの地に住んでいたようです。
とすると、市橋城は赤坂町南市橋でなく隣の池田町市橋に在ったのではないでしょうか?
場所は池田町市橋の「市橋稲荷神社」か「稲荷山神照院五穀寺」です。

稲荷神社境内にある「稲荷山神照院五穀寺」(奥)
手前は市橋区西集会所

「稲荷山神照院五穀寺」略縁起

 

22.円興寺城址

大垣市青墓町5丁目(旧不破郡青墓町)

北緯

35

23

21.0

東経

136

34

07.2

円興寺城 
 平安末期の源平合戦のころ、元暦元年(1184)2月7日、一ノ谷の合戦に参加して戦功のあった里見金太夫は、頼朝からその賞として不破・多芸両郡のうちで十五町歩を与えられ、円興寺城に住んだが、さらに安八郡平野庄二十一力村の地頭職に補せられたという。
(養老町口島の田中家文書)

 美濃国雑事記には、不破郡、領主里見兵庫助、里見判官代義直より代々これに居す。

 大系図に里見判官代、円興寺城に居す。乎野庄地頭と為る云々、とある。

 平安未期から鎌倉時代初期にかけて、「円興寺城」と呼ばれたようである。

 これは城と呼ぶにふさわしい館、砦などの施設があったかどうか、
またその後についても今後の研究に委ねたい。
   binyou氏の「大垣の古城」から

「円興寺」は信長により焼かれました

延暦九年三月最澄(伝教大師)が大谷の里(青墓)の大炊(おおい)氏の帰依を得て
この山に寺を創建し聖観音像を本尊として「円興寺」と号しました。

その当時の寺の規模は七堂伽藍を配し、特に金堂は七間四面の壮大なもので、
その他坊舎など百余カ寺、寺領五千俵と伝えられています。

天正二年(1574)織田信長により焼かれ田之堂を経て
万治元年(1658)に麓に移して立てられました。

円興寺城址
現円興寺の道の反対側の山の上にあります。
県道241号線(大垣池田線)沿いにあり、中山道(県道216号)「昼飯(ひるい)町」信号を北へ
入り案内板に従って1.3km程で「表道登り口」の案内板があります。

円興寺へは中山道美濃路「青墓5丁目の追分」から「県道241号」(北へ)入ります。

青墓5丁目追分

北緯

35

23

21.0

東経

136

34

07.2

県道214号線の途中に現「円興寺」への道標があります。画面左に進みます。
(大垣市青墓町4丁目(左)3丁目(右)の境)

400mほど進むと「史跡源朝長之墓」石碑が正面に見える三叉路を右へ進みます。

源朝長(ともなが)之墓
道標

大垣市青墓町5丁目

北緯

35

23

24.7

東経

136

33

50.0

源朝長(みなもとのともなが)は源頼朝・義経のです

さらに北へ進むと道標があります
「史跡 源朝長之墓 是より右へ五丁」

その脇に古い道標があります
左円興寺 右朝長公御墓

山裾の道を進みます。

「源朝長之墓」と「旧圓興寺跡」の
表参道

大垣市青墓町5丁目

北緯

35

23

35.5

東経

136

33

43.6

 表参道入り口には駐車場やトイレも整備されています

案内板もあります。
道は多少複雑ですのでメモして登ったほうが
いいと思います

表参道を入ると道幅は広くて車でもいけそうですが、此れは上流で「防災ダム」工事用の道で途中駐車場は無いので
車は駐車場へ置いて登られることを勧めます。

数百メートル進むといよいよ石段の登り路です

また数百メートル進むと広場へ出ます

仁王門跡と推定される場所まで10分くらいです。
この付近には他に句碑などもあります

興寺仁王門跡

大垣市青墓町

北緯

35

23

44.0

東経

136

33

56.1

仁王門跡推定地
この地は、創建当時の円興寺仁王門の
立てられていた場所と推定されます。

金剛力士像とは本来金剛杵を持った夜叉の像が
二体並んで寺門を守るので二王(仁王)と呼ばれます。

右を那羅延金剛、左を蜜述金剛と呼ぶこともあるが、
本来は蜜述金剛で、蜜述とは仏に近侍して
秘密の奇跡を知ると言う意味です。
(現地の説明板より)

朝長之墓にお参りした松尾芭蕉の句碑

大垣市青墓町

正徳二年(1712)刊 京都萬屋喜兵衛版
「花の市」寸木撰に所載
美濃の里朝長の墓にて

苔埋む蔦のうつヽの念仏哉

俳聖松尾芭蕉の身の来遊は、貞享・元禄難関前後
四回に及び、そのつど大垣を訪れ、
谷九太夫を始め多くの門弟友人と信仰を深めた。
その際芭蕉がここ円興寺山の
源朝長之墓に詣で詠んだ句です。

仁王門跡からさらに数百メートル登ると道標があります

道標から数メートルのところに「刀石」があります

刀石

源朝長公の墓へお参りするとき礼儀として帯刀を一時預けておくためのもので「刀石」と呼ばれています

刀石の脇にお墓があります

史跡 
源朝長
(ともなが)

大垣市青墓町

北緯

35

23

48.5

東経

136

33

00.8

源朝長は源頼朝、義経の兄
源朝長(ともなが)は源義朝の次男で頼朝、義経の兄にあたります。
父源義朝は知多半島の家来の家までたどり着き、受け来に裏切られ風呂に入っているときに討たれました。
その後、頼朝は捕らえられ伊豆へ流され、幼少のため義経は鞍馬寺へ預けられました
将軍献上の長良川の鮎鮨と源頼朝
この地から逃れる頼朝は途中長良川の漁師の家へ宿を請い、鮎鮨を食べました。
その後鎌倉幕府の将軍になった頼朝は美濃長良川の鮎鮨を鎌倉まで献上させて食べました。
家康も献上させる
江戸幕府の将軍になった徳川家康も頼朝の故事にならい代々江戸まで鮎鮨を献上させました。

源朝長の墓
「平治の乱」で平清盛に敗れた源義朝の一行(8人)は、
平治元年(1159年)十二月二十七日 京都から逃れ、
美濃国における源氏の拠点、東山道青墓宿にたどり着きました。

義朝の次男「朝長」は落延びる途中、僧兵に襲われて足に傷を負い、
この地で進退窮まり自害して果てました

その後、壇ノ浦の戦いで平氏一門を滅ぼし、父義朝の敵を討った
のちに三男頼朝は、兄朝長の菩提を弔うため、この地を訪れています。

源朝長之墓の近くにあり一段低い場所にあります。

大炊家之墓

大炊家の墓
大炊(おおい)氏は、「壬申(じんしん)の乱」で活躍した多臣品治
(おおのおみはむじ)の孫で、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)
の地である美濃国の多(おおい)地方(後世東大寺領になる頃には大井荘とよばれた)の荘官(しょうかん)でしたが、この青墓の地に移り住み、
姓を「大炊」と改めのが始まりであると伝えたれます。

平安後期には、青墓の長者「大炊兼遠」(1105〜1161年)の
娘「延寿」は源義朝の側室となり息子達も源義朝や義平に仕えるなど
源氏の家臣であり、外戚でもありました。

 

元円興寺跡(現円興寺は麓に再建されています)

 延暦九年(790年)三月伝教大師最澄が東国教化の途中、この地に立ち寄られて
山頂付近一帯に壮麗な七堂伽藍を配した円興寺(本尊・木造聖観音立像)を
創建されたと伝えられます。

 当時は、坊舎末寺など、百余ケ寺、寺領五千俵を領し、山麓一帯は多数の
仏徒の往来もあり、繁栄したものと思われます。

 天正二年(1574年)織田信長の兵火に罹り、七堂伽藍は悉く灰燼に帰したが、
慶長元年(1596年)田之堂(ふもとの現在地)に本堂と五坊とが再建されました。

 しかし、承応元年(1652年)雷火によって再び焼失した際に、
この地はもともと湿地帯であったので、万治元年(1658年)偏在の円興寺が
この山の麓西に建立されました。

さらに脇道を辿ると鐘楼跡、御堂跡(本堂)、講堂跡、僧房跡、金堂跡、多宝塔跡などがありますが
一人で心細く、寄れませんでしたので画像はありません。

22-1.現「圓興寺」

大垣市青墓町5丁目

北緯

35

23

44.4

東経

136

33

32.4

天台宗篠尾山圓興寺

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