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シルバーの城郭城跡の散歩道「小牧長久手の戦いの城砦址と遺構」

 愛知県長久手市・小牧市ほか

2013.04.16・

       遊歩散策へ

「小牧・長久手の戦い」の城砦址と遺構など
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」の説明文を中心に進めます。)

1/16.戦いの発端

天正十年(1582)六月 織田信長が家臣の明智光秀の手にかかり、本能寺で討たれた。
 そのとき、信長の三男信孝を大将に、光秀討伐軍を指揮したのが、羽柴(後の豊臣)秀吉である。

秀吉は、信長の後継者を決める「清須会議」からしばらくすると、柴田勝家と対立し、天正十一年 賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破った。
こうした中で、信長の二男信雄(のぶかつ)は、当初秀吉と友好関係をもったものの、
信孝が秀吉に岐阜城を追われ自害した後からは警戒心を持つようになった。

現在の岐阜城

現在は山頂の岐阜城天守閣までロープウエイで昇る。

信長の後継者の立場を事実上確立した秀吉に対し、不満を感じた信雄は、織田家の同盟者であった徳川家康に助けを求めた。
家康はいつかは秀吉と対決しなければならないと考えていたので、これに応じた。

天正12年3月6日、信雄が秀吉に内通していた三人の家老を殺害したことで、「小牧・長久手の戦い」は始まった。

/16最初の主戦場は北伊勢と想定

秀吉そして家康・信雄の両者とも、当面は伊勢国、特に信雄の本拠長島城(三重県桑名市)のある北伊勢を戦闘場所と想定していた。

長島城
三重県桑名市長島町西外面
(場所は木曽川と長良・揖斐川の中洲)

蓮生寺に移築された大手門

長島城大手門
長島一向一揆で有名な長島城は
明治に廃城となり大手門が蓮生寺に移築された

(以後も愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」の説明文を中心に進めます。)

/16主戦場は尾張

しかし、家康・信雄の予想に反し、美濃国大垣城主・池田恒興(つねおき)と美濃国金山城主・森長可(ながよし)
犬山城(愛知県犬山市)を攻撃、落城させた。

1 犬山
愛知県犬山市大字犬山字北古券65−2

木曽川を濠として堅固なはずの「犬山城」(現在は国宝)が簡単に落城

(小牧・長久手の戦いで最初に登場する犬山城は森長可(ながよし)に急襲され落城したことで戦いが始まります。)

小牧・長久手の合戦当時の関連
主要武将居城館図

犬山城、羽黒城、小口城、小折城、小牧城、刈安賀城、清洲城、比良城、
前田城、蟹江城、星崎城、岩崎城、小幡城、竜泉寺城、上条城、

小牧・長久手の戦いで登場する城や合戦場所
1.犬山城(丹羽郡)  
2.羽黒城(丹羽郡)  
3.小牧城(春日井郡) 
4.小幡城(春日井郡) 
5.岩崎城(愛知郡)  
6.白山林(愛知郡)  
7.桧ケ根(愛知
郡)   

(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」の説明文を中心に進めます。)

/16小牧・長久手の戦いの始まり

慌てた家康は、池田・森の侵攻を防ぐため、自軍の一部を北伊勢から北尾張へ急遽転戦。

天正十二年三月六日、信雄が秀吉にに内通していた三人の家老を殺害してから、
秀吉そして家康・信雄の両者が軍を進め三月中頃には下図のような布陣が完了した。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

小牧周辺の両軍の布陣図

秀吉軍:犬山城、羽黒砦、楽田城、内久保砦、外久保砦
      田中砦、二重掘砦、岩崎山砦、青塚砦、小口砦
      小松寺山砦=11ヶ所

家康・信雄連合軍:小牧山城、蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦、
               田楽砦=5ヶ所

(最初に両軍が衝突したのが「羽黒の戦い」です。)

/16羽黒戦い

3月17日、羽黒(犬山市)まで陣を進めてきた森 長可(ながよし)軍を、家康の武将酒井忠次らが破って、形勢を立て直した。

一方、北伊勢では秀吉軍への守りが不足し、信雄領伊勢国の南半分は、ほぼ壊滅状態となる。

羽黒で敗戦したものの、敵地犬山に拠点を持つことに成功した秀吉は、楽田がくでん犬山市)へ着陣、周辺に砦を築いた。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

(羽黒城址と楽田城址を説明します)

2. 羽黒城跡(羽柴秀吉)

愛知県犬山市羽黒字城屋敷

始祖は梶原景時の孫
鎌倉幕府に、誅滅(ちゅうめつ)された梶原景時の孫、豊丸が
乳母の里である、この地に落ち延びてきたといわれています。
そして、景親(かげちか)と名を改め、羽黒城を築いたといわれています。
梶原氏の菩提寺、興禅寺に隣接していた平城です。
しかし、本能寺の変で梶原氏当主が討ち死にして絶え、
城は廃城となっていました。
(現在は石碑も案内板もなく竹藪のみ)

場所は愛知県犬山市羽黒町城屋敷、県道27号「羽黒交差点」東へ100mほど入り北側
県道27号線羽黒交叉点
羽黒城跡は県道27号線の交叉点を東へ100m程入った場所にあります。
石碑も説明文もなし
交叉点を東へ進み「興禅寺」の手前を塀に沿って北へ曲がり、巨木ムクの木あたりの東一帯に
竹薮(羽黒城跡)が見えてきます。

(楽田城跡は現在楽田小学校となっています。)

 楽田城跡(羽柴秀吉)

愛知県犬山市楽田(がくでん)

望楼の櫓は元祖「天守閣」
織田氏の一族、久長が1504年(永正1年)ごろに築城したと伝えられています。
砦には、望楼のような櫓が建てられ、それが天守の最初といわれています。
その後織田氏が代々居城としていました。


小牧対陣の時には、羽柴秀吉麾下(きか)の武将 堀秀政が守備していました。
そして秀吉自身も、犬山城からこの城に一時移りました。

現在、楽田小学校の敷地の一角に、城碑が立っています。

「小牧・長久手の戦い」へ戻ります。

羽黒はかっての織田氏の居城跡に砦を築いて防御体制を整えました。

信雄も長島から小牧山に移った。
両者の当初の思惑に反し、主戦場は尾張国内へ移り、お互いが出方をうかがうという状況になる。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

(当時の布陣となった砦を紹介します。)

羽柴秀吉側 11砦跡

先に「羽黒の戦い」場所になった「犬山城」・「羽黒砦」・「田楽砦」以外の
「山口砦」・「青塚砦」・「岩崎山砦」・「二重堀砦」・「内久保砦」・
「外久保砦」・「田中砦」・「小松寺山砦」
砦跡を紹介します。

(以下に砦跡を紹介します。)

4. 内久保砦跡(羽柴秀吉)
現在は名古屋経済大学の構内となっています。

愛知県犬山市楽田内久保

1584年の小牧対陣の時、羽柴秀吉方の砦として築かれ東西九間(16m)、南北13間(23m)の規模と言われています。
そのときは、蜂屋頼隆・金森長近ら、3500の兵が守備したと伝えられています。 現在は内久保山西南麓にある三明神社周辺が砦の
位置と考えられますが、正確な位置は不明です。

名古屋経済大学の通学路脇の三明神社付近を捜しましたが、それらしき場所は見当たりませんでした。

 5. 外久保砦跡羽柴秀吉)

愛知県小牧市久保一色 熊野神社
久保山の西端に設けられた砦で、比高34mの丘の上に築かれた
東西二十三間(41m)、南北十六間の規模でした。
守将・兵力ともに不明です。
長久手の合戦後は、秀吉自らが本陣の楽田城からこの砦に出て
全軍を指揮したと伝えられ、太閤山と呼ばれています。
現在の熊野神社社地一帯が砦の位置と考えられます。
社殿前には砦跡を紹介する案内板、北西へ伸びる道の先には砦跡を
示す石碑が建てられています。

熊野神社裏の山頂には少し平らな場所があり、ここが砦跡と思われます。

田中砦跡は国道155号線沿いにあり、隣は三ツ山公民館になっています。

6. 田中砦跡羽柴秀吉)

愛知県小牧市東田中 三ツ山古墳

秀吉方の砦で、堀長政、蒲生氏郷、加藤光泰などの将が
守備したとされますが、兵力は不明です。
砦の規模は東西十六間(28m)南北三十間(54m)といいます。
秀吉は岩崎山の南麓茶屋前より田中、二重堀の砦に至る、二十余町
(約2km)にわたる土塁をわずか1日で築いたとされ、これに対し、
家康も小牧山北麓より八幡塚に至る土塁を築いたといわれています。
砦を示すものとして、三ツ山会館(三ツ山古墳)前に
石碑が建てられています

両軍ともにわか作りの陣城で対決したため、少しでも高台の場所は古墳でも何でも利用したと思われます。

二重堀砦は民家の横にあり、大変分かりずらい場所にあります。

 7. 二重堀砦跡羽柴 秀吉)

愛知県小牧市二重堀

ここも住宅地となっています
1584年、小牧の対陣にさいして羽柴秀吉によって築かれた砦です。
東西100m、南北70m、土塁の高さ五尺(1.5m)の
平城で秀吉軍の最前線として、重視されていました。
小牧山の北側に設けられた砦のなかでは比較的大きなもので、
二重に堀がめぐらされていました。
徳川方本陣に近い関係で、しばしば夜襲を受けたそうです。
砦は日根野弘就兄弟などに守らせたが、
天正十二年(1584)四月の家康軍の逆襲により、多数の死者を出しました。

分かり難い場所にあります
現在の所、とりあえず民間アパート「クレール(CLAIR)」を尋ねて、その北側の田圃の向うにあります。
車では入れません
車の方はアパートの前に置いて徒歩で入ってください。

「日根野備中守弘就砦跡」
現在はここも住宅地になってしまいましたが、水野氏宅西南隅に接する道路沿いのところに、
「日根野備中守弘就砦跡」と刻まれた碑文が置かれています。
これは同氏宅の裏にある竹薮の中にあったものを 移したものです。
砦の位置は耕地整理のため、当時の跡はとどめないが、二重堀の集落に北あたりにあったとされています。

 

  8.  岩崎山砦跡
羽柴秀吉)

愛知県小牧市岩崎字独山

秀吉の砦
標高約55mの岩崎山山頂に所在しましたが規模は不明。
小牧の対陣で羽柴秀吉は、小牧山に本陣を置く徳川家康に対抗して、
岩崎山に砦を構えました。
この砦で、稲葉一鉄一族ら2500人が守備にあたっています。
また、岩崎山南麓から二重堀砦までの約2.2kmに、幅14m高さ4.5m
の土塁を築いています。
その間には、数か所の門を設け、徳川軍の来襲に備えたと言われております。

9. 小松寺山砦跡羽柴秀吉)

愛知県小牧市小松寺 八所社

小松寺山砦には二つの砦、西砦は小松寺のあたり、
東砦は旧小松寺山一帯にあったとされ、その規模は、
西砦は東西八間(15m)南北十間(18m)、
東砦は十間四方であったとされています。
守将は丹羽長秀で八千余兵で陣をしたとされています。
小松寺山は、かって小牧山と肩を並べる高さがあったが、
昭和40年代の開発で整地され、現在は小松寺山団地となっています。
小松寺山砦を示す案内板と石柱は、小松寺本堂の東にある八所社・
熊野社合殿のところに建てられています。

 

   10. 青塚砦跡羽柴秀吉)
愛知県犬山市楽田大円 青塚古墳

国史跡の前方後円墳
小牧・長久手の戦いのとき秀吉軍の陣地になりました。

 

 11. 小口砦跡羽柴秀吉)
愛知県犬山市

画像なし

(次に家康軍の城砦跡を紹介します)

家康・信雄 側  城砦跡

1. 小牧山城徳川軍)

愛知県小牧市堀の内 小牧山

信長が城を築き、家康が本陣にした小牧山の山頂にあります。
展望室からは、かっての武将の目の高さに犬山・名古屋・遠く鈴鹿山系・伊吹山を望むことが出来ます。

小牧山は昭和五年、尾張徳川家十九代徳川義親氏から小牧市に寄贈されました。
江戸時代は尾張徳川家の直轄下で入山禁止で保護されていたので、遺構などの保存がよくのこされていました。

2. 蟹清水砦跡織田与四郎)

愛知県小牧市小牧4丁目

現在は住宅地
この砦は、織田与四郎が築いて居城とした平城でしたが織田信長の小牧越しの際に、
信長配下の武将丹羽長秀が城主となっています。
その後廃城となっていましたが小牧の対陣時、織田・徳川連合軍が砦として
修復し、北外山砦、哥津(うたつ)砦とを結んで小牧山右翼の連砦を成して
秀吉方の陣地に対抗しのされ交番で守備しました。

砦の規模は東西四十六間(3m)、南北六十一間(110m)と伝えられています。
砦跡は小牧御殿跡の北にあり、1945年(昭和20)ころまでは堀跡、土塁跡などが
残っていましたが、その後の住宅開発により
駐車場などに変化し現在は駐車場の隅に石柱のみとなっています

砦は、江戸時代には小牧御殿の庭園の一角になっていて、清水が湧き蟹がいたことからその名が付けられたのでしょう

 

3.北外山砦跡徳川軍)

愛知県小牧市北外山字城島 小川氏宅(個人宅の庭隅)

小牧・長久手の合戦時に、北外山の古城を修復して造られた連砦。
東西二十七間(50m)南北二十間(40m)、土塁の高さ一間余の
規模を有したとされています。
守将は蟹清水の砦と同将の交番であったそうです。
現在は宅地化が進み、「城島」という小字が砦の名残を留めている
のみです。
小川氏宅の庭の西隅に小さな塚が残されいるのみです。
その頂上に「北外山城址」碑が建てられています。

唯一、目印になるのが「スーパーサント小牧店」

「スーパーサント」前の小道を入ると「小川邸」があります。

 

4. 宇田津砦跡徳川 家康)

愛知県小牧市北外山 東海ゴム構内

哥津(うたつ)の森
1584年に徳川家康が築いた砦のひとつ。
総構200m四方のかなり大きな平山城であったそうです。
秀吉方の二重堀砦に近いため軍道を必要とし、家康は、
北外山・宇田津・田楽を結ぶ新道を敷設しました。
徳川方の武将が守備していました。

東海ゴム
この地は昔、宇田津という鞍作りの名工が居住していました。
古より「哥津(うたつ)」とも書き、近来は不発(ふたつ)とも書かれています。
「東海ゴム梶v手前の県道25号線に架かる橋の名前は「不発橋(ふたつばし)」です。

哥津(うたつ)の森
現在はその遺構はなく、東海ゴム工場敷地内に「哥津(うたつ)の森」と呼ばれる小さな森が茂っています。
守衛さんにお願いすれば、気軽に案内してくれます。

宇田津砦跡徳川 家康)

 

5. 田楽砦跡徳川・信雄連合軍)

愛知県春日井市田楽 

現在は住宅地の中
東軍の連砦の東端に位置する砦で、池田恒興の犬山城攻略により
城を落ち延びた犬山城の残党が田楽の伊多波刀神社に集まっていたものを、家康自らが出向いて長江平左衛門の屋敷に集め、砦を造り
守らせたのが田楽砦の始まりとされています。
昭和30年代までは、土塁の一部がL字型に残っていましたが、
その後の開発により消滅しました。

当時蚊帳の外となった城址を紹介

蚊帳の外となった城  城跡

地域的に圏外だったのと主家織田家ゆかりの城だったためと思われる。
木ノ下城、上末城、大草城、岩倉城、一宮城、黒田城城址です。

 1. 木ノ下城跡織田広近)

愛知県犬山市犬山字愛宕

犬山城の前身
尾張国守護斯波(しば)氏の家臣、織田広近が
1469年(文明1年)に築いて、以降約70年間、
代々織田氏が居城しました。
1537年(天文6年)織田信康(織田信長の叔父)が城主の時代
犬山城を築いて拠点を移したために廃城となった。 
現在、本丸跡は愛宕神社境内となっています。 
境内にある古井戸は「金明水」とよばれた名水で、
近くに残る「銀明水」とともに、木ノ下城内に掘られた
井戸と伝えられています。

城跡は愛宕神社
犬山市役所の県道27号線向かいの道を西へ入ったところに、愛宕神社があり、そこが城址です。
本殿高台が城の主殿跡
金名水・銀名水
境内にある金名水と神社西南約100mの大榎の下にある銀名水は城の井戸として掘られたものと言われています。
白巌水
境内にある手水石にある白厳は織田信康(織田信長の叔父)の号名です。

 

  2. 上末城跡落合勝正)

愛知県小牧市上末

上陶城とも書きます。
室町時代後期、落合勝正によって築かれた平城でした。
勝正の子安親(やすちか)は、織田氏に仕えています。
小牧対陣のとき、羽柴秀吉に属しました。
安親とその子庄九郎は、秀吉別働隊が三河に進攻
しようとしたさい、道案内をつとめています。
しかし、戦いに敗れ上末城も廃城となりました。

  3.  大草城跡(西尾道永)

愛知県小牧市大草

文安年間(1444〜49)に、西尾道永が築城したとされています。
西尾氏は岩倉織田氏に仕え、付近一帯を領有していました。
しかし、道永死後、ほどなく廃城となりました。

織田長益像

織田信秀(信長の父)の十一男。
兄信長に仕え、一門衆として尾張大草城に封ぜられるが、
彼は武将としてよりも、茶人として名高い。
本能寺の変でも、多くの武将が倒れる中で、奇跡的に脱出し
その後は、織田家の後見職となっています。

 

 4. 岩倉城跡(織田 敏広)

愛知県岩倉市下本町

織田信長に攻められて落城
文明11年(1479)織田一族伊勢守敏広が築き、
子孫が代々居城としてきました。
敏広は、尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を
支配し、尾張下四郡(愛知・知多・海東・海西)を支配
する清洲城の織田敏定と対立していて当時の尾張では
清洲城と並んで最も重要な城でした。
弘治3年(1557)、岩倉城主が信安のとき、清洲城では
織田信長・信行が争っていました。
このとき信安は、信行に味方したため信長に攻められ
永禄2年(1559)浮野合戦で敗れ、
翌二年三月遂に落城してしまいました。
現在は少し小高い本丸跡に安政七年(1860年)に建て
られた「織田伊勢守城址」の石碑が立っています。

当時の城は東西91m、南北約170m標高10mの台地の上にあり内外二重堀があったといわれ、
城跡の南側には現在も丸の内とか外堀という地名が残っています。

 

  5. 一宮城跡(関十郎右衛門)

愛知県一宮市本町3丁目

現在城址には銀行が建っています。
尾張の国の一の宮は、真清田神社です。
その神官、関十郎右衛門が築いた城。

十郎右衛門は織田信長に仕え、のちに豊臣秀吉に仕えています。
しかし、1584年長久手の合戦で池田恒興らとともに討ち死にして
しまい、しばらくは織田信雄の家臣不破広綱の居城となっていまし
たが、天正18年(1590)に廃城とされました。

三菱東京UFJ銀行「一宮支店」
愛知県一宮市本町3-11-1

UFJ銀行玄関脇
当時の城域は東西50m、南北90mほどあったといわれています。

 

  6.   黒田城跡(山内盛豊)

愛知県葉栗郡木曽川町大字黒田

一国一城令で廃城に
室町時代末期、岩倉城主「織田信安」の家老である山内盛豊
の居城に始まる。以降、黒田城は織田領、そして信雄領
となり、長久手の合戦時には、家臣の沢井雄重の城となりました。
のち、羽柴秀吉時代に一柳直盛の居城となり、 関ヶ原合戦時は、
東軍の先鋒の城でもありました。
元和1年(1615)の一国一城令により、廃城とされました。

木曽川町黒田小学校のJR東海道線側の一角に城址公園として整備されています。

黒田小学校
現在、地元では、山内一豊生誕の城として喧伝され黒田小学校の一角に 「城址碑」が建っています。

さて、「小牧・長久手の戦い」に戻ります

最初に両軍が衝突した「羽黒の戦い」では、天正12年3月17日に羽黒(犬山市)まで陣を進めてきた来た
森長可(ながよし)軍を、家康側の武将酒井忠次らが破って、形勢を立て直した。

一方、北伊勢では秀吉軍への守りが不足し、信雄領伊勢国の南半分は、ほぼ壊滅状態となる。

羽黒で敗戦したものの、敵地犬山に拠点を持つことに成功した秀吉は、楽田がくでん犬山市)へ着陣、周辺に砦を築いた。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

/16諸国では

また、諸国へもこの戦いの様相が伝えられ、両将からの呼びかけに呼応し合戦に至った地域もある。
秀吉方、織田・徳川方のどちらにつくか。この戦いは日本中へ大きな影響をおよぼした。

家康軍は急ごしらえの陣城で対応
織田信雄(のぶかつ)に味方する家康は秀吉軍の侵攻が予想される尾張・伊勢を固めることとした。
急を要することなどで、全くのゼロから陣城を築く時間はなく、以前に城ないし砦として使われた 物に手を加え再利用することとなった。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

/1急遽 秀吉岡崎進軍

四月に入り、膠着状態を破って秀吉軍は岡崎侵攻のための別働隊を進めた。
四月六日夜半、@池田恒興・元助の父子、森 長可 A堀 秀政、長谷川秀一 B秀吉の甥で総大将の三好信吉(後の豊臣秀次)
の順で、約24.000人の軍勢が岡崎へ向けて進軍を始めた。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

池田恒興(つねおき)

美濃大垣城主
父は摂津池田出身の恒利(つねとし)、恒利の妻は、信長の乳母(めのと)
であった。 その子が恒興(つねおき)で、通称勝三郎。
織田信長に仕え本能寺の以降は羽柴秀吉に付属し、天正11年(1583年)
に美濃大垣十三万石を与えられる。

一夜にして犬山城を奪取する
翌年、秀吉と織田信雄(のぶかつ)の争いでは双方から誘われるが、
秀吉方に属した。 信雄方には徳川家康が加わった。
恒興は軍議で留守中の犬山城を無傷で一夜にして取り、
秀吉を大阪から迎える。

長久手で家康軍に追いつかれる
しかし、戦線は膠着状態となり、恒興は、家康の本拠である三河に攻め込む
別働隊を志願するが、家康に感付かれ家康軍に追撃され、長久手の戦いが
開始されました。
恒興は、その子元助や森長可(ながよし=森蘭丸の兄)とともに戦死した。

家康は、秀吉軍が岡崎へ向けて移動を開始した翌日の4月7日か遅くとも8日には岡崎侵攻隊の動きを把握、
8日夜には自身が小牧山砦(城?)から小幡城(名古屋市守山区)へ進んだ。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

(小幡城は下図の春日井郡の文字の左下横あたり)

小牧・長久手の合戦当時の関連
主要武将居城館図

犬山城、羽黒城、小口城、小折城、小牧山城、刈安賀城、清洲城、比良城、
前田城、蟹江城、星崎城、岩崎城、小幡城、竜泉寺城、上条城、

(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」の説明文を中心に進めます。)

/16家康側も追撃開始

徳川軍の岩崎城主・丹羽勘助氏次を道案内とした榊原康政ら4,500人の先発隊と、
9,300人の本隊が秀吉方を追撃に向かった。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

/16岩崎城の戦いと落城

4月9日早朝、岡崎侵攻の秀吉方の先鋒池田隊は、岩崎城(日進市)のそばを通りかかった。
池田恒興は岡崎への道を急ぐため、この家康方の城を攻めずに通過しようとしたが、
岩崎城の留守を守っていた城主の弟、丹羽氏重らが、鉄砲を撃ちかけてきたため、これを攻め落としてしまった。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

岩崎城
(愛知県日進市岩崎)

模擬天守

現在は模擬城
位置は先ほどの図の愛知郡の中間

この城には城主氏次の姉婿で、長久手城主の加藤藤太郎右衛門忠景も留守番に来ており、200余りの城兵とともに戦死した。
忠景41歳、氏重16歳であった。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

長久手城址は愛知県長久手市城屋敷(下図Fの位置)

長久手城址は(愛知県長久手市城屋敷2408番地) 上図Fの位置
(景行天皇社の右下あたり)

長久手城址
(愛知県長久手市城屋敷
2408番地)

           市史跡 長久手合戦史跡 長久手城址
 長久手城は、中世末期、長久手村を領有した加藤太郎右衛門忠景(1543〜84)の居城です。
 忠景は、16世紀の中頃、前領斎藤氏の古城を修理して入城し、その後近隣地侍らと信仰を深め、姻戚を結びました。
 天正12年(1584)小牧・長久手の戦い時には、家康に従った義弟岩崎城主丹羽氏次の留守を預かって奮戦しましたが池田隊の多数に敗れ、城兵230余名もろともに戦士しました。
 城は後に民家になり、荒れ果てましたが、文化6年(1809)忠景子孫の尾張藩士画当地を訪れ、宅跡の観音堂脇に石標を立て、供養しました。
              (長久手古戦場国指定 長久手市教育委員会)

城址は現在公園となり観音堂が建っている隅に城址碑があります。

城址と言うり濠のある大きな邸程度で、大勢に攻められたら、ひとたまりもなかったと思われます。

加藤太郎右衛門忠景宅跡碑
長久手城址は加藤太郎右衛門の居住跡。 幅3〜6m、深さ1、7〜7、5mの堀割りを挟んで、
台形の平面を持つ東城と長方形の西城が並立する連郭構造であったことがわかっています。
長久手町教育委員会 「長久手町文化マップ」より)

再度「小牧・長久手の戦い」に戻ります。

10/16白山林の戦い
家康軍の急襲

岩崎城落城の4月9日早朝に同じく秀吉の甥で、当時わずか17歳の三好信吉が指揮する秀吉方の最後尾は、
同日早朝、白山林(尾張旭市=下図愛知郡岩崎城の上辺り)で朝食をとっていた。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

小牧・長久手の合戦当時の関連
主要武将居城館図

犬山城、羽黒城、小口城、小折城、小牧山城、刈安賀城、清洲城、比良城、
前田城、蟹江城、星崎城、岩崎城、小幡城、竜泉寺城、上条城、

そこへ徳川軍の先鋒隊が背後から急襲。
不意を突かれた三好隊は、慌てて防戦に努めたが、ついに総崩れとなった。

大将信吉は自分の馬も見失って細ケ根(ほそかね=長久手市荒田/地下鉄車庫北東)付近まで徒歩で逃げてきて、
、討死寸前まで追い込まれ可児才蔵という武者に馬を借りたいと頼みましたが断られてしまいました。
そこへ信吉の武将の木下勘解由利利匡(きのしたかげゆとしただ)が、自分の馬を信吉に差し出して逃がし、
兄弟の木下助左衛門祐久と共に、追って来た徳川軍と戦って戦死した。
(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

(落ちのびた総大将三好信吉は後の豊臣秀次となる)

総大将三好信吉に馬を貸して逃がし、討ち死にした木下勘解由の塚は愛知県長久手市荒田9番地1の県営東原山住宅群の
東南の「ライオンズマンション藤が丘ガーデン」の名鉄バス「南原山」バス停付近にある。

木下勘解由塚
(きのしたかげゆつか)

市指定史跡 長久手合戦史跡 木下勘解由塚
木下勘解由左衛門利匡(きのしたかげゆとしただ)の戦死地です。
秀吉方の岡崎侵攻の総大将三好信吉(後の豊臣秀次)は、白山林(尾張旭市)の戦いで敗北し、
ここまで徒歩で逃げてきて、木下勘解由利匡と出会いました。
利匡は自分の馬を信吉に与えて逃れさせ、御幣を地に立てて追って来た敵と奮戦し、戦死しました。
また、兄弟の木下助左衛門祐久も敵を一時くい止め、この付近で戦死しました。
後世、ここを勘解由塚、御幣塚、上様塚などと称しています。
長久手市教育委員会

すぐ前に「名鉄バス 南原山(みなみはらやま)」バス停があります。

木下勘解由(きのしたかげゆ)は愛知県長久手市荒田9番地1(下図左上端のGの位置)

木下勘解由(きのしたかげゆ)は(愛知県長久手市荒田9番地) 上図Gの位置
(上図の左上隅あたり)

再再々度「小牧・長久手の戦い」に戻ります。

〜秀吉軍 唯一の勝ち戦〜

11/16桧ケ根戦い
   (ひのきがね)   

三好隊の敗走を知った秀吉方の第2隊の堀 秀政は、
ただちに桧ケ根(長久手市坊の後/中央図書館付近)の丘陵上に陣を構えた。 
まもなく白山林で勝利した徳川勢が突進してきた。
地の利を得た堀勢は、接近した敵に鉄砲をつるべ撃ちをあびせた。
隊列を乱した徳川勢に向けて、秀次は総攻撃を命令。
堀勢の鋭い攻撃に徳川の先鋒隊は、多数の死者を出し、大打撃を受けた。

しかしこの時、秀次はすでに家康本隊が東方に進出しているのを知った。
深追いは不利と判断した秀次は、急いで自軍をまとめて、北方へ引き上げていった。

(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

堀 久太郎秀政本陣地跡

長久手中央図書館の外観

桧ケ根の戦い跡
長久手市坊の後 長久手中央図書館

堀 久太郎秀政本陣地跡(愛知県長久手市坊の後/中央図書館付近)

堀 久太郎秀政本陣地跡
 この本陣地跡は、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの折、秀吉方武将堀 秀政が桧ケ根の戦闘で本陣を布いたところです。
 堀 秀政(1553〜90)は、初め美濃の斎藤氏の家人でしたが、後に 信長に仕え、信長の死後は秀吉に属して戦い、小牧・長久手の戦いでは、秀吉方の軍鑑(ぐんかん=いくさめつけ)として進軍し、桧ケ根の戦闘で榊原康政、大須賀康高ら家康方の追撃を撃ち破りました。
 当時の桧ケ根は標高81.2m、山頂に立てば北から進軍してくる家康軍と、南に先行する味方の池田・森隊の両軍が同時に見渡せる格好な場所でした。
  長久手町教育委員会(現地説明版より)

堀 久太郎秀政本陣地跡(愛知県長久手市坊の後/中央図書館付近)は(下図Hの位置)

木下勘解由(きのしたかげゆ)は(愛知県長久手市荒田9番地) 上図Gの位置
(上図の左上隅あたり)

一方家康本隊の動きは

12/16.仏ケ根の決戦
(ほとけがね)       

4月9日の朝、色金山(いろがねやま=長久手市岩作色金/現 色金山歴史公園)周辺に着いた
家康本隊は、続々と香流(かなれ)川を渡って、午前10時ころ富士ケ根(長久手市富士浦)から
仏ケ根(長久手市武蔵塚の北部)、前山(長久手市城屋敷の東部)に陣を構えた。

(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より)

色金山(いろがねやま)
( 長久手合戦史跡マップの右上D

色金山登り口
安昌寺脇の墓場入り口から登ります。
( 長久手合戦史跡マップの右上色金山Dの下I

途中に「馬泉水広場」があります。
馬泉水広場

ここに徳川軍が軍馬に水を飲ませた泉があったといういわれが、名前の由来です。
(インターネットなどで山頂にある「家康の床几石」と間違われる石です)

「伴若狹守盛兼の墓碑」

次に「伴若狹守盛兼の墓碑」があります。
小牧・長久手のい戦いで戦死した家康方の将、伴若狹守盛兼(ばんわかさのかみもりかね)の墓碑
盛兼は近江の出身で、もとは織田信長に臣従したが、その後、
天正11年(1583)三河に赴き家康の家臣として、遠州氣賀を領した。
翌年の「仏ケ根の戦い」で戦死した(享年三十八歳)が、後の文政七年(1824)に
盛兼の弟の子孫尾張徳川家家中、滝川吉十部徳広によって、
領地遠州気賀の方に向けて建立された。
(現地説明板より)

更に登ると山頂が見えてきます。

山頂にある説明板より
「国史跡 長久手古戦場 色金山(いろがねやま)」
天正12年(1584)4月、小牧山で秀吉と対峙していた家康は、
8日午後8時ごろ約9千の兵を率いて小牧山を出発、岡崎奇襲を企てて先行する
秀吉方の別働隊を追って、9日早朝 色金山に兵を進めました。

家康は、この山上に金扇の馬標を立て四方を望見して軍議をめぐらしました。
今も残る山頂の巨石は、その時家康が腰掛けたという逸話にちなみ、
「床几石」と呼ばれ崇められ親しまれてきました。
(長久手教育委員会)

家康 「床几石」碑

現在は家康床机石の西に模擬展望楼があります。

模擬望楼から西に兵を進めた「御旗山」が見えます。
「御旗山」は下図の中央あたりC=富士社上)

長久手町文化財マップ(長久手町教育委員会 社会教育課発行)

「仏ケ根(ほとけがね)」の決戦に出てくる地名
色金山(いろがねやま)は、右上のD
香流川は長久手市を東から西へ蛇行して流れる川で「長久手市文化の家」上あたりに名前がある。
武蔵塚は下部あたりのB
武蔵塚の付近@
庄九郎塚勝入塚下のA

一方家康本隊の動きは

13/16.家康、御旗山
                (みはたやま)
( 長久手合戦史跡マップの右上D)

色金山に兵を進めた家康は、そこで家康方大須賀康高・榊原康政らの先遣隊が、
白山林(尾張旭市)で秀吉方の三好秀次隊を破ったことを知りました。
 しかしその後、先遣隊は桧ケ根山麓で、秀吉方の堀秀政隊に敗れ、敗走を始めました。
 家康は直ちに救援を決め、南方 岩崎方面(日進市)にいる秀吉方の池田・森隊の様子をうかがいながら
 この御旗山に進軍し、頂上に金扇の馬標(うまじるし)を立てました。   

一方、岩崎城を落とした秀吉方の池田恒興のもとへ、総大将 三好信吉の大敗の報告がもたらされた。
池田常興は急いで馬首を返し、すでに布陣を終えた徳川軍に対し、常興は自分の長男元助を右翼に、
娘婿の森 長可(ながよし)を左翼に配した。                         

両軍は激しく戦ったが、勝敗はなかなか決しなかった。                        
しかし家康本陣に突進した長可が、井伊隊の銃弾を頭に受けて戦死(享年27歳)したため、
戦いは徳川軍が優勢になった。 

(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」より) 

御旗山の場所は、(長久手市富士浦602番地)にあり麓に「富士神社」の鳥居があります。

御旗山愛知県長久手市富士浦602番地)は(下図Cの位置)

御旗山

(長久手合戦史跡マップのC

御旗山の登り口にある「富士浅間神社」の鳥居

御旗山山頂には「御旗山」碑と後に地元民が祀った「富士神社」があります。

       国史跡 長久手古戦場 御旗山
 天正12年(1584)4月9日、色金山に兵を進めた家康は、そこで家康方大須賀康高・榊原康政らの先遣隊が、白山林(尾張旭市)で秀吉方の三好秀次隊を破ったことを知りました。
 しかしその後、先遣隊は桧ケ根山麓で、秀吉方の堀秀政隊に敗れ、敗走を始めました。
 家康は直ちに救援を決め、南方 岩崎方面(日進市)にいる秀吉方の池田・森隊の様子をうかがいながら この御旗山に進軍し、頂上に金扇の馬標(うまじるし)を立てました。
             (長久手市教育委員会) 現地説明板より

安昌寺の場所は長久手市岩作色金92で、県道57号の「早稲田」信号と「熊張真行田」信号の中間くらいの北側

安昌寺

長久手町文化財マップ)の上N

安昌寺
(長久手市岩作(やざこ)色金92番地)
合戦後、雲山和尚が戦死者を手厚く供養したということで、
後年、尾張藩士はじめ多くの藩士が当時を訪れ、合戦にまるわる
各種の書付を残しました。
長久手町文化財マップ)の右上I)

武蔵塚は広い地域の地名が「長久手市武蔵塚」であるため大変説明しにくい。

武蔵塚

長久手町文化財マップ)の上B

広い公園のような場所の隅にあり、何度回っても気づきませんでした。

           国史跡 長久手古戦場 武蔵塚
 森長可(ながよし)(1558〜84)、庄蔵、武蔵守)の戦死の場所と伝えられています。
 長可は美濃(岐阜県)金山城主で、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は、秀吉方に味方しました。
 舅(しゅうと)池田恒興(つねおき)らとともに、家康の本拠地岡崎を突こうとして失敗し、四月九日の仏が根の戦闘で戦死しました。
 長可は、天正十年(1582)の本能寺の変で、信長とともに落命した蘭丸の長兄で、勇猛果敢な武将として知られています。
 塚名は、長可の異名鬼武蔵にちなんで名付けられたものです。
                       (長久手市教育委員会)

長久手の戦いの主戦場となった「古戦場公園」
ここに「勝入塚」「庄九郎塚」があります。

古戦場公園
史跡 長久手古戦場
町郷土資料館

長久手町文化財マップ)の上

勝入塚は「長久手古戦場野外活動施設」の「町郷土資料館」向かいの林の中にあります。

勝入塚は「長久手古戦場野外活動施設」の「町郷土資料館」向かいの林の中にあります。

勝入塚

長久手町文化財マップ)の上@

          国史跡 長久手古戦場 勝入塚
 池田常興(つねおき)(1538〜84、庄三郎、信輝、勝入斎)の戦死の場所と伝えられています。
 常興は美濃(岐阜県)大垣城主で、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は秀吉に味方しました。
 この戦いの中、小牧山(小牧市)と楽田(がくでん)(犬山市)で家康と秀吉が対峙したとき、家康の本拠地の岡崎攻めを秀吉に進言し、自ら軍を率いて侵攻しました。
 しかし、途中、岩崎城(日進市)を攻めるのに手間取り、家康軍先遣隊に追撃の機会を与えてしまいました。
 結局この地で家康の本隊と会い、仏が根の戦闘で戦死しました。
 常興は、天正八年(1580)入道し、勝入斎と名乗りました。
 塚名はこの法名にちなむものです。
                       (長久手市教育委員会)

庄九郎塚は「長久手古戦場野外活動施設」の南端にあります。

庄九郎塚

長久手町文化財マップ)の上A

すぐ南には「東部丘陵線リニモ」が見えます。

          国史跡 長久手古戦場 庄九郎塚
 池田之助(ゆきすけ)(1564〜84)、庄九郎、元助(もとすけ)、紀伊守(きいのかkみ)の戦死の場所と伝えられています。
 之助は池田常興(つねおき)の長男で岐阜城主、天正十二年(1584)小牧・長久手の戦いの時は、
父に従って参戦しました。
 父や義兄(森長可=ながよし)とともに家康本陣の岡崎奇襲を企てましたが失敗し、戦死しました。
 残された一子元信は、秀吉の馬廻りに取り立てられ、その後秀頼(豊臣秀吉の三男)に仕えましたが、大阪城落城前には本家池田輝政(之助の弟)の家来になりました。
 塚名は之助の幼名庄九郎にちなんで名付けられました。
                      (長久手市教育委員会)

 

血の池と鎧掛けの松

長久手町文化財マップ)の上F
の長久手城址したあたりの
「血の池公園」)

                「血の池」のいわれ
 天正十二年四月九日の長久手合戦では、この一帯が主戦場となり、付近の御馬立山に布陣した家康軍と
秀吉軍の池田勝入、池田元助、森長可(ながよし)などの武将が対峙し、死闘を繰り返した結果、秀吉方の三将が討死しました。
 「血の池」は、家康方の渡辺半蔵などの武将が、血槍や刀剣を洗ったことからその名が付いたと言われています。
 毎年合戦の行われた頃になると、池の水が血の色に赤く染まって漂ったと言い伝えられており、名松「鎧掛けの松」と共に永く人々の心に語り継がれてきました。
                          (現地説明板より)

名松「鎧掛けの松」

長久手町文化財マップ
(長久手町教育委員会社会教育課発行)

(県道57号 早稲田信号南へ入る)

首塚

長久手町文化財マップ)の右上E)

県道57号信号「早稲田」脇に「南東へ100m」の標識有り

100mほど入ると東側に塚が見える。

             国史跡 長久手古戦場 首塚
 天正12年(1584)4月9日、長久手合戦の舞台となった長久手の村々は、野といわず山といわず戦死者の山となりました。
 この惨状を目の当たりにし、心を痛めた岩作(やざこ)村安昌時の雲山和尚は、村人たちと共に屍を集めて埋葬し塚を築いて供養しました。
 毎年、合戦の日には首塚に香華(こうげ)が手向けられ、村人らによって法要が営まれますが、法要には遠く名古屋から、尾張藩士らの参詣もありました。
                        (長久手市教育委員会 現地説明板より)

 

14/16.戦闘地区が尾張西部

長久手の戦いで勝利をおさめた家康は、直ちに小幡城を経て小牧城に戻った。
一方秀吉は4月9日昼ごろ、楽田の本営で岡崎の侵攻隊の敗戦を知り、すぐに大軍を率いて救援に向かった。
しかし、ときすでに遅く、龍泉寺まで進んだものの、そのころ家康は小幡城まで兵を引いた後であった。

翌10日には、家康は小牧城まで戻っており、秀吉軍はなすすべもなく楽田にひき返した。
その後、両軍は小牧・楽田周辺で小競り合いをしていたが、4月下旬に秀吉が美濃国鵜沼(岐阜県)に移動すると
戦闘地区も尾張西部に移った。

5月に加賀野井城、竹鼻城(岐阜県羽島市)、
6月に蟹江城(愛知県海部郡蟹江町)で局地戦があった.。

以上が「長久手教育委員会」発行の「長久手町文化マップ」の説明文ですが
秀吉軍は負け戦として終わるわけにもいかず、何とか家康を引きずり出したく以後の場所で
激しい合戦が行われました。

ここで岐阜県羽島市西加賀野井の「加賀野井城址」、羽島市竹鼻町の「竹ヶ鼻城址」、
愛知県一宮市奥町の「奥城址」、同県海部(あま)郡蟹江町の「蟹江城址」、
愛西市(旧海部郡)大野町の「大野城址」の五城跡現地を回ってみました。

結果、加賀野井城落城(現地説明版)、竹ヶ鼻城水責め(現地説明板)、
蟹江町の「蟹江城について」の「蟹江合戦」の一文がありました。

加賀野井城址

羽島市下中町西加賀野井内屋敷620

北緯

35

16

57.2

東経

136

42

49.2

      加賀野井城址
 加賀野井城は、水田の片隅に塚のようになった処に案内板と標柱があるだけです。
 資料によれば、木曽川の氾濫で加賀野井村は東西に分割(東加賀野井は愛知県)され、それまでは加賀野井川が流れ、この川を利用して加賀野井城は築かれていたといわれている。

加賀野井城址への行き方

入口の目印
県道118号線の上中町一色信号を東へ曲がり道なりに進む
上中町一色信号より南から入る場合は歩行者用地下道南の道を入ると建物「NIKKO」前へ出る。
県道118号線から見た建物「NIKKO
建物「NIKKO」脇を堤防方向へ入る
真っ直ぐに堤防へ進む

                     堤防手前に少し木の生えた場所が城址です
                加賀野井城址
 築城時期も築城者も不明である。 城は木曽川に面して建っていたとされる。
 尾張からの侵略阻止用として築かれたことは確かである。 戦国時代には加賀野井氏が城主であった。
 城は関ヶ原合戦後に廃城となった。現在は荒地に城址説明版がある。

                 加賀野井城と小牧・長久手の戦い
 加賀井氏は織田信長、信雄(のぶかつ)に仕え、加賀井重望は信雄から加賀野井郷の知行を宛がわれていた[
 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは加賀野井城でも合戦があり、重望をはじめ小坂雄吉ら2000人余が城を守っていた。
 5月4日(6月12日)には羽柴側の大軍が城を包囲した。
 これに対して、5月5日(6月13日)に織田信雄は羽柴秀吉が冨田寺に本陣を構えて加賀野井城を包囲しようとしている事を不破源六に伝え、旧7日(6月14日)には源六による加賀野井への後詰要請を徳川家康にも伝えた事も書き送っている。
 しかし秀吉側は5日には竹ヶ鼻および祖父江(現・愛知県稲沢市祖父江町)近辺に放火し、加賀野井城の外構を破って堀を残すのみになり、これを木下重堅に報じている。
 加賀野井城は7日に落城して将兵は断首され、続いて奥城(一宮市奥町)も落ち、翌旧10日(6月18日)には竹ヶ鼻城(羽島市竹鼻町)も攻略予定に入った(竹ヶ鼻城の水攻め)。
 この際、秀吉は尾張国西部の要衝である加賀野井城を落とす事で家康自身の出陣を誘い、直接対決を
目論んだとされる。
 7日には加賀井重宗・重望の親子は城から突撃し、脱出に成功している。
 その後加賀井重望は秀吉から登用の誘いを受けて秀吉に仕え、慶長4年(1599)には加賀野井に8、000石の知行を与えられたが、慶長五年(1600)に除封された。
 同年の関ヶ原の戦いでは、福島正則が加賀野井城の付近で渡河を行なっている
                    (フリー百科事典「ウィキペディア」より)

         加賀野井城主は口論で斬殺、断絶・廃城
 この城の築造年代は明らかでないが、天正年間(1573〜1591)には加賀野井弥八郎秀望が織田信長の家臣となり、四百五十貫文(一万石)を領して城主となっていた。
 本能寺の変(天正十年・1582)の後、豊臣秀吉と主筋織田家との間に対立が生じ、天正十二年四月長久手において戦ったが、豊臣方の大敗となり、翌年五月緒戦の雪辱のため一転して当城を攻撃した。
 城中には信雄の援軍二千余騎も加わり必死に防いだが、豊臣方十万の大軍の前に抵抗しきれず、城明け渡しと、除名を条件に和議を申し入れたが秀吉は受け入れなかった。そのため、五日夜陰に乗じ大手門より打って出て、最後の決戦を試し見た。しかし衆寡適せず城兵は枕を並べて討死し、城主加賀野井秀望はからくも脱出して関東にのがれて落城に至った。
 その後加賀野井秀望は、秀吉に仕えて旧知加賀野井1万石を領した。
 加賀野井秀望は、慶長5年の関ヶ原の合戦の直前、三河池鯉鮒で水野忠重と口論して忠重を斬殺、秀望も水野の家臣に斬られ絶命し、加賀野井氏は断絶し城も廃城となった。
                         (羽島市教育委員会)

竹ケ鼻城址は元映画館の映画史料館となっている

竹ヶ鼻城址

岐阜県羽島市竹鼻町丸の内3

北緯

35

32

14.7

東経

136

42

18.0

映画史料館が城址とされています。

 関ヶ原合戦前哨戦で落城
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦の前哨戦であった岐阜城攻防戦の際西軍に組みした岐阜城主織田秀信の部下として竹ヶ鼻城主杉浦五左衛門重勝は、応援の毛利・梶川・花村らの諸将とともに木曽川右岸に布陣したが福島正則を将とする東軍に裏をかかれ竹鼻城にたてこもった。
 毛利・梶尾・花村らは降り重勝のみ本丸を死守したが、ついに城に火を放ち自害して果てた以来この城は使われず廃城となった。

最初に本丸跡の碑があった所。 堀跡
竹ヶ鼻城の水攻め(小牧・長久手の戦い)
天正12年(1584)長島城にいた信雄は徳川家康の援助を受けて小牧・長久手で秀吉と対決することとなった
長久手の一戦で敗北した秀吉は徳川家康との決戦を考え長島城の信雄を攻める作戦に変え、信雄方の加賀野井城と竹ヶ鼻城を攻撃の的とした
10万騎をひきいる秀吉は5月6日加賀野井城を総攻撃し1日で落城させ、竹ヶ鼻城には信雄・家康を引き出すため長期戦の構えをみせた。
地形を見聞した秀吉は木曽川の支流足近川に目を付け水攻めの作戦を実施した
竹ヶ鼻城の東に足近川とつながる逆川が流れており、この逆川堤を利用して町家ぐるみ城を長堤で囲むこととした
秀吉は竹ヶ鼻城の北西1kmにある砂山に付城を築き本陣とした(後の太閤山といわれた)
築堤工事は5月11日より5・6日間で実施され、高さ3m、幅14・5間、長さ2.6kmの長堤ができあがった
これが太閤の一夜堤といわれるものである
足近川の水を一夜堤の中に入れ、水は二の丸まで入り町家は1mも浸水した
700人が立てこもる城内では筏を組んだりして対抗したが、町屋では逃げ場を失ったねずみやヘビが押し寄せ婦人や子供はこれに苦しみ死ぬものも多かったという
竹ヶ鼻城では信雄や家康に救援の使者を送ったが援軍は現われず、ついに城主不破源六は秀吉の申し入れを受託して開城し伊勢長島の信雄の城へ退却した。
                     (現地説明板より)
こぼれ話
豊臣秀吉が竹ヶ鼻城を水攻めにしたとき、八神城の姫は竹ヶ鼻城主不破源六郎友綱に嫁いでいた
不破城主は義父毛利八神城主に救援を求めたが毛利軍は援軍を出さなかった
このため不破城主は水の満ちくる中で酒宴を張り夫人と離縁した
夫人は泣く泣く石田・八神の村境まで帰ってきたが「もうここからは御父上の御領地、一旦嫁いだ娘がどうして今更里に帰りましょう」と言って貞宗の短刀でのどを一突きにして石田の野の露と消えた
お供の三七は墓印に一本の稚松を植えると自分の自刃して果てた
この松はやがて馬子唄にも「石田・八神の三七松は天でおそれて地でひらく」と歌われ枝を折ると血がにじみ、松にふれると奇病にかかるおそろしい松となったという
                       (現地説明板より)

奥城址の現地を訪れても「小牧・長久手の戦い」の記述はありませんでした。

奥城址

愛知県一宮市奥町川並東

北緯

35

19

25.2

東経

136

75

23.3

奥城址は地元まで行って付近の人に聞いても、ほとんどの人が知らない。

奥城址への行き方
@、手掛かりは「一宮市奥町西保育園」構内とだけしか分からない。
A、一宮市奥町川並東付近まで行き、近所の人に聞く         

園の周りをぐるぐる回って見ても分からない。

近所の畑の人に訪ねて、「園内にあるよ」とのことで見渡したが分からない。
園の保母さんに聞いて「園の東南の隅にあるよ」とのことで中に入れてもらって分かりました。

                    尾張国「奥城」跡
  小牧・長久手の戦いが長期化したので、豊臣秀吉が西尾張に移動し加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を囲んだ。その際織田信照を「奥城」に迎えて籠城したが落城した。
                   (フリー百科事典「ウィキペディア」より)

小牧・長久手の戦いが長期化したので、豊臣秀吉が西尾張に移動し加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を囲んだ。

その際織田信照を迎えて籠城したが落城した。

15/16.蟹江合戦

     蟹江合戦
                   秀吉の雪辱戦と家康・信雄の離反を狙った戦い
  天正十二年(1584)六月の蟹江合戦は特に激しく大きな戦いであった。
  この戦いは長久手の戦いで徳川家康に大敗した秀吉の雪辱戦であり、尾張における制海権を確保し、
 織田信雄(のぶかつ)と家康を離反させるために決行された。
  秀吉は隠居していた滝川一益(かずます)を主将にし、九鬼水軍をともない蟹江城(海部郡蟹江町城)を取り囲んだ。
  滝川一益は蟹江城主佐久間正勝の留守を預かっていた前田長定に凋落を図り内応させ入城に成功したが、
 大野城(海部郡大野町、蟹江城の西約2kmの地点)城主山口重政が助力を拒み、蟹江城内では鈴木重安・重治兄弟らの 抵抗にあい、徳川・織田連合軍の反撃により、秀吉の野望は挫折せざるを得なかった。

  秀吉にとって、武力で家康を屈服させることを断念し、これ以降は謀略戦(外交戦)に転ずる決意をした戦いであった。

合戦当時は城の真下まで海が迫っていたようです。
「蟹江産業文化会館」で頂いた「蟹江城址公園案内図」の裏面にあった
、「蟹江城について」の説明文に添付された「蟹江合戦の図」

「蟹江合戦」大野城蟹江城の位置
(直線距離で約2.2km

家康が本陣を置いたと言われる大野城址

大野城址

愛知県愛西市大野町郷前218
(日光川ウオーターパーク対岸)

北緯

35

07

35.2

東経

136

46

39.3

大野城址への行き方
愛知県海部郡蟹江町 県道29号の日光川に架かる橋の西約300mの三叉路を南へ入り
町道を1kmほど進むと道路左側に「大野城址」の看板が目に入ります。
立て看板の東30mほどにあるのが「大野城址」です。

            史跡 大野城址
 大野城(砦)は戦国時代、蟹江城の支城のひとつとして築かれ、天正十二年(1584)四月、秀吉対家康の前哨戦がこの地で起こった「蟹江合戦」です。
 時の大野城主山口重政は、母を人質にとられながらも徳川方に味方し敵を撃破、徳川の天下取りの基礎を開きました。
 昭和五四年(1980)に城址に碑が建てられました。
                           (愛西市教育委員会)

秀吉の九鬼水軍に占拠されるも、反撃し2週間に及ぶ籠城に持ちこたえた蟹江城

蟹江城址

愛知県海部郡蟹江町城1−214
(奥町西保育園運動場奥隅に移設)

海抜−7m(カーナビによる)

北緯

35

08

02.2

東経

136

47

38.3

蟹江城址は大変分かり難い場所にあります。

    蟹江城址へ行くには。が下の地図です。)
@、県道29号の蟹江川に架かる「三明橋」東50mの「今」信号を南へ
   入る。
A、上の地図のように30mほど進むと「西」側に産業文化会館があり
   。ます
B、「受付」で尋ねると、用意されている上の「地図」渡してくれます。
(近くの交番を訪ねて住宅地図で説明して下さっても「分かり難い所に
あるでな〜」とのこと、「産業文化会館」一番です。)

赤四角:蟹江城址公園
赤丸:本丸井戸 

天正十二年(1584)の「蟹江合戦」の翌年におきた大地震で倒壊したまま、最近まで放置されていたため、
城址は民地となり、本丸にあったと伝えられる「本丸井戸」付近に「蟹江城址」の碑を建て公園化してあります。

                   蟹江城址
 織田信長が本能寺の変に倒れると、次男織田信雄の家臣佐久間政勝が城主として入城した。
 天正12(1584)年、小牧長久手合戦に政勝が伊勢菅生城の築城のため城を離れている際に、留守居の前田与十郎が秀吉方に内応した。
 秀吉方として参戦していた一益が、九鬼水軍を率いて蟹江城に入城したが、これに気付いた家康が派遣した井伊直政に包囲される事となった。
 一益はこれを迎え撃って籠城したが、織田・徳川連合軍は蟹江城を猛攻、一益は前田与十郎の首を添えて降伏を申し出て認められ、7月3日に海路伊勢に退去した。
 この戦いを蟹江合戦と呼称している。
 蟹江城は、その翌年に発生した大地震で倒壊し、廃城となった。
                             蟹江町(現地説明板より)

蟹江城址
永享年間(1429〜1441)に北条時任が築城したと伝えられる。
天正十二年(1584)、秀吉軍と織田・徳川連合軍によるこの城をめぐる戦いがあり、織田・徳川連合軍が勝利した。
翌年、城は大地震で大破し、現在はこの石碑と本丸井戸跡が残るのみである。
(蟹江町)

当時は海際に城があった
干潟か海の向こうに「蟹江城」が描かれている古絵
(現地説明板より)

海抜 ー0.6m
「蟹江産業文化会館」の現在の海抜高

城址公園の西50mほどの道路に「本丸跡井戸」があります。

本丸跡井戸

城址公園の西の道路に井戸枠が見えます。

                     蟹江城本丸井戸跡
 蟹江城の本丸井戸跡だと伝えられ、江戸時代の蟹江本町村絵図にも、この位置に「古井」と記されている。
 蟹江城は、天正十三年(1585)の大地震で大破した後、跡形もなく消えてしまったが、この本丸井戸跡はここに確かに城があったことを物語っている。
                     (蟹江町 現地説明板より)

この辺りは車が入れない道だから
(中を覗くと水がありました。)

本筋の「小牧・長久手の戦い」に戻ります。

16/16.和 睦

11月になると、 桑名から長島方面へ攻撃した秀吉と、長島城にこもる信雄が単独で和睦したため、
大義名分を失った家康も兵を引き、8ケ月間にわたった「小牧・長久手の戦い」は、幕を閉じた。

この戦いで、信雄は伊勢国の大半と伊賀国を秀吉にわたし、事実上の敗北。
秀吉は、旧織田軍団を自身へ臣従させ支配体制を再編成、
翌年には関白となり全国統一を推し進めていく。

家康は、結果的に秀吉に臣従したが、その実力を全国の大名に認識させ、
秀吉政権下でも格別の地位を保ち、徳川政権樹立の足がかりを固めていった。

(愛知県長久手市 長久手教育委員会発行「長久手合戦史跡めぐり」の説明文を中心に進めてきました。)

   あとがき
17.
蛇 足

小牧・長久手の戦いにおける各軍の移動距離

「犬山城落城」から「羽黒の戦い」・「長久手の戦い」・「竹が鼻城水攻め」「蟹江合戦」最後の信雄・秀吉の和睦までの
広範囲にわたる戦線の「移動距離(km)」と各軍の「動員数()」と「日数()」にまとめて表化(単位:km千人日)してみました。

この戦いは「織田・徳川軍(2万)」対「羽柴軍(6万)」と倍以上の兵力に対して家康は消耗戦に持ち込んで
互角に戦い内容的には家康の勝利とした「いくさ」といわれているので検証できないか表化してみました。
(表化には「フリー百科事典ウィキペディア」と長久手町教育委員会発行の「長久手町文化財マップ」と
長久手町教育委員会発行の「長久手合戦史跡めぐり」を参考にさせていただきました。

天正12年

両軍の動き(織田信雄・徳川家康軍羽柴秀吉軍

織田・徳川軍
移動距離×動員数)

km
千人日

羽柴秀吉軍
(移動 距離×動員数)

km
千人日

3月06日

 織田信雄 三家老を謀殺し、家康と落ち合うため伊勢長島を出陣  伊勢長島→小牧?
?(km) ?人

682

ーー

ーー 
3月?日

 家康軍先発隊、北伊勢へ出陣

岡崎城→北伊勢
?(km) ?人

ーー

ーー

3月13日  池田恒興 大垣城から出陣 犬山城を落城させる ーー

ーー

大垣城→犬山城
36(km)6,000人

456
3月〃日  家康 岡崎城出発、14日清洲城へ入城 岡崎城→清洲城
89(km)10,000人

1780

ーー

ーー

3月15日  家康 15日に小牧城へ移動、砦や土塁を築かせる 清洲城→小牧城
15(km)20,000人
300

ーー

ーー

3月16日  森長可 美濃可児郡兼山の金山城から羽黒砦へ着陣 ーー

ーー

兼山城→羽黒砦
46(km)1,000人

92
3月17日  羽黒の戦い(八幡林の戦い)
 早朝、家康側の酒井忠次、榊原康政隊3000人が羽黒砦を急襲
小牧城→羽黒砦
9(km)3,000人
27

ーー

ーー

3月21日
 〜27日
 秀吉は雑賀衆や根来衆の攻勢に手間取り、大阪城を出発、
 27日へ犬山城へ入城
ーー

ーー

大阪城→犬山城
200(km)36、000人

50,400
4月01日  秀吉、楽田砦に着陣し周囲の砦の修復、土塁の構築にかかる ーー

ーー

犬山城→楽田砦
8(km)60,000人

480
この間  両陣しばらく膠着状態となる ーー

ーー

ーー

ーー

4月06日  秀吉陣から4隊に分けて家康留守の岡崎城めがけて2万の軍勢が密かに 出発、    第一隊(先鋒):池田恒興父子       6000
         第二隊(次鋒):森長可             3000
         第三隊(目付):堀秀政             3000
         第四隊(本隊):羽柴秀次(総大将)    8000
ーー

ーー

楽田砦→(岡崎)

20,000人

 
4月09日  岩崎城の戦い 秀吉軍の第一隊(先鋒)池田恒興父子隊6000人、第二隊 (次鋒)森長可隊3000人が岡崎城攻めのめ途中の岩崎城から 鉄砲を撃ち かけられ応戦、留守を守る丹羽氏重ら230名を攻め(玉砕)落城させる。 ーー

ーー

楽田砦→岩崎城
29
(km)9,000人

261
  白山林の戦い 第四隊(本隊)の指揮者で全軍の総大将羽柴秀次は楽田を出陣後白山林(尾張旭市)で休息していたが、後方から家康側の水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から榊原康政勢の一斉攻撃に見舞われた。
 この奇襲によって秀次勢は成す術なくほぼ潰滅する。
 秀次は自身の馬を失い、供回りの馬で辛くも逃げ遂せた。
 また、目付として付けられていた木下祐久やその弟の木下利匡を初めとして多くの木下氏一族が、秀次の退路を確保するために討ち死にした
小牧城→白山林
(水野忠重・ 丹羽氏次・大須賀康高
 榊原康政ら)

26km(9,000人)
234 楽田砦→白山林
(総大将 羽柴秀次)   23km(8,000人)
184
 桧ケ根の戦い 羽柴秀次勢より前にいた堀秀政勢(3000)に、秀次勢の敗報 が届いたのは約2時間も後のことであった。
  堀勢は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を組み込んで桧ケ根に陣を敷き、迫り来る徳川軍を待ち構えた。
  秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、ほどなく檜ヶ根(桧ケ根、長久手市)辺りで堀勢に襲い掛かったが、戦上手なことから「名人久太郎」と尊称される秀政の前に敗退した.。
白山林→桧ケ根
(水野忠重・ 丹羽氏次・大須賀康高
 榊原康政ら)
3km(9,000人)
27

第三隊(目付)
堀秀政
7km(3,000人)

21
 長久手の戦い( 仏ケ根の戦い) 岩崎城を占拠した先鋒・池田恒興  次鋒・森長可に徳川軍本隊出現の報が伝わったのはこの頃、両将は驚愕し大慌てで引き返し始めた。
  その頃、家康は榊原康政勢の敗残兵を組み込み、御旗山から前山と呼ばれる辺りに陣を構えた。
  右翼に家康自身3,300人、左翼には井伊直政勢3,000人、これに織田信雄勢3,000人を足して計9,000人以上。
 一方、引き返して対峙した恒興・森勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)、次男・池田輝政勢4,000人、左翼に森勢、後方に恒興が陣取りこちらも計9,000人。
 数では互角であったものの、地の利においては山に陣取り斜面に鉄砲隊を3段構えで配するなど万全の構えである徳川軍に対し、羽柴軍の恒興勢は機動力が奪われる湿地の長久手の地での布陣を余儀なくされるなど、完全に後手に回った形となっていた。
 対峙は2時間ほど続いたという。
 4月9日午前10時ごろ、ついに両軍が激突。
 両軍入り乱れての死闘は2時間余り続いた。
 戦況は一進一退の攻防が続いたが、森長可が鉄砲隊の銃弾を眉間に受け討死した辺りから一気に徳川軍有利となった。
 池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。
 池田元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。
 やがて恒興・森勢は四散しあえなく潰滅、合戦は徳川軍の大勝利に終わり、ただちに小幡城に引き返した。
 羽柴軍に2,500人余り、徳川軍には550人余りの死者が出たとされる。

 勝利した家康軍は、すぐに小幡城に引き返した。

 一方、秀吉は午後になって白山林の戦いにおける敗戦を聞き、2万の軍勢を率いて竜泉寺城へ入った。夕刻、家康が小幡城にいることを知り、翌朝攻撃することを決め、念のため守りを固めようと竜泉寺城に一夜で堀を掘った。
ところが、家康は9日夜半に小幡城を出て小牧山城へ戻った。5月1日には大坂城へ向かった。そこで、5月3日に織田信雄は小牧山城から長島城へ戻った。6月12日、徳川家康も小牧山城から離れ清洲城に入った。
桧ヶ根→     
 色金山→御旗山

4km(9,000人)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


御旗山→小幡城
8km(20,000人)

 

小幡城→小牧城
15km(20,000人)

36

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

160

 

300

 

岩崎城(日進市)  →長久手
  6km(9,000人)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 楽田砦→
    竜泉寺城
   19km(50,000人)

 

 

54

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

950

4月10日  家康が小牧城へ戻ったことを知った秀吉は、4月10日に楽田城へ退いた      竜泉寺城→楽田砦
     19km(50,000人)
950
5月1日  秀吉は楽田からも撤退して5月7日大坂城に帰還した。    

大阪城→犬山城
200(km)36、000人

50,400
中間
累計
  両陣しばらく膠着状態となる 234km
75、000人

1766
km
千人日

593km
288,000人

104,248
(km)
千人日

 

織田・徳川軍VS羽柴軍 比

1

1

約4倍

約60倍

以上の「中間累計」から勘案すると、(移動距離×動員数)は織田・徳川軍VS羽柴軍であるが
移動日数を積算すると織田・徳川軍VS羽柴軍60となり経費負担は圧倒的に羽柴軍は過大となる。

この点を家康は利用して秀吉の誘い出しに応じず、秀吉の消耗を待つ作戦に出たと思われます。

後半戦は一部地域を除き「南美濃」から「東伊勢」へ移ります。

天正12年

両軍の動き(織田信雄・徳川家康軍羽柴秀吉軍

織田・徳川軍
移動距離×動員数)
km
千人日
羽柴秀吉軍
(移動 距離×動員数)
km
千人日
5月04〜
   10日
 秀吉軍は小牧・長久手の戦いが長期化したので、西尾張に移動し加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を囲んだ。
加賀野井城落城

 加賀野井重望をはじめ小坂雄吉ら2000人余が城を守っていた。
 5月4日には羽柴側の大軍が城を包囲した。これに対して、5月5日に 織田信雄は羽柴秀吉が冨田寺に本陣を構えて加賀野井城を包囲しようとしている事を不破源六に伝え、同7日には源六による加賀野井への後詰要請を徳川家康にも伝えた事も書き送っている。
 秀吉側は5日には祖父江(現・愛知県稲沢市祖父江町)近辺に放火し、加賀野井城の外構を破って堀を残すのみになり、これを木下重堅に報じている。
 加賀野井城は7日に落城して将兵は断首された。
竹ヶ鼻城の水攻め
 しかし秀吉側は翌10日には竹ヶ鼻城も攻略に入った。
 この際、秀吉は尾張国西部の要衝である加賀野井城を落とす事で家康自身の出陣を誘い、直接対決を目論んでいたとされる。
 しかし、加賀野井重宗・重望の親子は7日に城から突撃し、脱出に成功している。
加賀野井重望
(2000人)

 

 

 

 

 

大阪城(?)→冨田寺

羽柴秀吉
(20,000人?)

 

 

竹が鼻城

 
5月?日  奥城落城(尾張国). 
 その際織田信照を迎えて籠城したが落城した。
 これらの作戦は秀吉が家康を戦場に引き出そうとしたが家康は応じなかった。
       
6月16日

7月3日
蟹江合戦
 
織田信雄方の蟹江城主・佐久間正勝が伊勢に砦を築くため留守役を前田与十郎に任せた。
 与十郎は伊勢国神戸の滝川一益と通じていたため、一益は好機とばかりに九鬼水軍を率いて海からの上陸作戦により蟹江城へ入り羽柴軍側の城とした。
小牧長久手合戦に政勝が伊勢菅生城の築城のため城を離れている際に、留守居の前田与十郎が秀吉方に内応した。
 これに気付いた家康が派遣した井伊直政に包囲される事となった。
 一益はこれを迎え撃って籠城したが、織田・徳川連合軍は蟹江城を猛攻、一益は前田与十郎の首を添えて降伏を申し出て認められ、7月3日に海路伊勢に退去した。
井伊直政  

九鬼水軍

 
           
11月11日  織田信雄、秀吉と和睦
<講和へ>
 戦況としては信雄・家康連合軍側が優勢だったが、合戦から半年以上経った11月11日、秀吉は本領安堵を条件に信雄に単独講和を申し入れた。
 信雄は、自身が始めた合戦で、しかも家康のおかげで優勢だったにも関わらず、自己保身のために秀吉からの講和を勝手に承諾した。
 信雄の講和を知った家康は、戦の大義名分を失ったため11月21日に兵を引き上げた。
 その後、秀吉は滝川雄利を使者として浜松城へ送り、家康との講和を持ち込んだ。
 家康は次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にと大坂へ送ることで和議の形を取った。
 こうして、この合戦は幕を閉じ、以後秀吉政権が確立していったが、家康の実力を世間に見せつける結果となった。
 その後、秀吉は家康に配下としての上洛を再三に渡って促したが家康は応じなかったため、秀吉は妹を家康の正室とし、母を人質に差し出すなどした。
 合戦終了から2年経った天正14年(1586)10月27日、ついに家康は上洛し、大坂城で秀吉と会見し臣従を誓った。
       
11月21日  家康 織田信雄が単独で秀吉と和睦したため戦う名目を無くしたため岡崎へ兵を引く。    

 

 

北陸での戦い

8月28日〜
9月11日
北陸 末森城の戦い
 
小牧・長久手の戦に呼応し、織田・徳川連合軍に味方した越中国の佐々成政は、8月28日に羽柴方の前田利家の朝日山城(石川県金沢市加賀朝日町)を急襲。
 前田氏家臣の村井長頼がこれを撃退する。
 9月9日、成政は利家の領国である加賀国と能登国の分断をはかるべく、宝達山を越えて坪山砦に布陣し、総勢15,000人で末森城を包囲する。
 利家の増援軍を警戒し、神保氏張を北川尻に置いて警戒にあたらせた。
 9月10日、戦闘が始まると城将奥村永福・千秋範昌らの篭城軍1,500が決死の篭城戦は展開。
 戦況は佐々軍が有利であり、前田方の城代土肥次茂が討死するなど、落城寸前にまで追い込まれる。
 金沢城にて急報を聞いた前田利家は兵2,500人を率いて出陣。
 高松村(かほく市)の農民桜井三郎左衛門の案内により、佐々軍の手薄な海岸路に沿いながら北川尻を越えて今浜まで進軍する。
 9月11日明け方には末森城に殺到する佐々軍の背後から攻撃し、これを打ち破った。 (両軍ともに750人余りの死者が出たとされる。)
佐々成政15,000  

4,000(末森城1,500
前田軍2,500

 

(表化の作成理由)
大阪(秀吉4万人)、伊勢長島(信雄3千人)、岡崎(家康2万人)各地から西尾張に集結し、
羽黒を始め長久手、東美濃を転戦する膨大な戦費を必要とした戦いだったと思われます。
そこで両軍の移動・滞在経費(兵器・弾薬類・食料・土木工事用具・戦闘金子)など
が算出できないかと思いつきましたが、途中の経緯や戦後処理の方法など資料不足のためダメでした。

機会を見て再度挑戦したいと思います。(Mori70Silver)

          遊歩散策へ

シルバーの城郭城跡の散歩道「小牧長久手の戦いの城砦址と遺構」