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シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城」の城址を収録しました。
築城者: 築城年代: |
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所在地 : 大垣市郭町 形 式 : 平 城 終更新日付 |
終更新日付 14/02/07 17:46
かっての大垣城は、牛屋川(うしやがわ=水門川)や豊富な自噴泉を利用して、四重の水堀を擁する要害堅固な城でした。
その中心に、4層4階の白亜の天主がそびえていた。南と東に大手、北と西を搦手(からめて)とし、総曲輪(そうくるわ)に
は7つの門(七口之門)、三重櫓5基、二重櫓10基、渡櫓(わたりやぐら)26基を備え、外堀と中堀の間を武士屋敷が埋め
つくしていた。
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大垣城は大垣市街地の中心にありJR大垣駅から550mほどにあります。 |
大垣駅前の大通り「郭町商店街」に「史跡 大垣城址」の道標がありすぐに分かります。 |
道標から西を見ると東門が見えます。 |
まずは東門から入りましょう
東門 |
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大垣城 |
大小姓多門跡 東門は、七口之門の一つだった旧柳口門を移設したもの。 |
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大垣城跡 大垣城は、牛屋川を天然の外濠尼とりいれた要害堅固な平城で、天文四年(1535)宮川安定(やすさだ)によって創建されたと。伝えられている。 慶長五年(1600)関ヶ原合戦では、西軍の本拠となり壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、戸田家が入城してからは、歴代藩主と共に天下泰平の世を謳歌した。 先の戦災で惜しくも天主閣を焼失したが、現在城跡一帯は市民の憩いの場として親しまれている。 (大垣教育委員会) |
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東門内のエリア |
東門の周りにはかっての堀の面影が残っています。 | |
東門から郭町商店街がよく見えます | 東門に続き丑寅櫓が並びます |
大垣城天主 大垣市郭町 |
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東門から天主への道 |
天主への石段 |
天主入口 |
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天主入場料は100円 |
天主東附多門 |
明治の頃の大垣城と現在の比較写真 |
戸田氏鉄の治水への取り組み |
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戸田氏鉄画像 |
戸田氏庸(うじつね) |
厄災の時代の大垣藩主 戸田氏庸(うじつね) |
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水屋の建築 洪水から命や財産を守るため、低湿地の輪中集落で生まれた独特の建築様式で、比較的豊かな農家に見られる。 母屋とは別棟で、土盛りや石垣の上に建てられた。普段は倉庫や客室に用いられ、洪水の時は水屋に起居し、備え付けの小舟で移動した。 |
明治のはじめ頃の川口水門 (岐阜県歴史史料館) 戸田氏鉄は寛永十三年(1636)に外淵(そとぶつ)村と川口村の境界に水門を建設、承応二年(1653)に改良して閘門(こうもん)を造った。閘門は、逆流の際は、自然に扉が締まり、水が減るとし自然に開く仕組みで、30年ごとに改修された。現在は「旧水門跡」の石柱だけが建つ。 |
大垣城由来 大垣城は古く応仁年間(15世紀)には東大寺城と呼び、当時の城主は大井荘のうち石包名(いわかねみょう)という地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました 天正十三年(1585)九月豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として天主の造営を命じました。この工事は天正十六年七月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四階建て総塗りごめ様式でたいへん優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。 昭和十一年(1936)国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれてきましたが、昭和20年の戦災で惜しくも焼失しました。 その後お城再建の機運が高まり昭和33年5月着工、翌34年4月に昔のままの姿で竣工したのがこの天主です。 |
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大垣市郷土館の城郭模型 |
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島原の乱当時の大垣城下図 寛永14~19(1637~42)頃の大垣城下図を、江戸中期に写したとされる現在最古の写本。武家屋敷は黄色地、町家は白地、寺社地は白地にその寺社之名称が記されている。 武士名に「島原御供」「大垣御留守居」「島原討死」などと付され、寛永十四年(1637)の島原の乱の藩士の動静を物語る貴重な資料。(大垣市立図書館蔵) |
なぜ?四層四階建て? 天正十八年(1590)から城主となった伊藤祐盛(すけもり)は、大垣城の修築を行ない、文禄四年(1595)から翌慶長元年(1596)にかけて天主を築いた。天主は合戦図屏風には三階立てに描かれており、元和六年(1620)に松平忠良(ただよし)が世にも稀な四層四階に改築したといわれている。 四(死)を忌み嫌っていた当時の築城としては世に類を見ない構造であった。 寛永十二年(1635)戸田氏鉄(うじかね)が城主になって以来は、明治維新まで戸田氏十一代による大垣藩政が続けられた。 |
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天主南東面 |
雪の大垣城 |
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天主を中心に左に天主南附多門、右に天主東附多門(現在の入城口) |
天主東附多門 | 天主南附多門 |
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おあむの松 関ヶ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦らと西軍三成勢に属し大垣城に立てこもっていた。落城の不安がつのるある日、東軍から矢文が届き「玄暦は家康様手習師匠であったので逃がす」と伝えた。 「おあむ」は父母と西堀端の松から堀のたらい舟に乗り移り西岸に上陸、無事に逃れた、そののち松を誰言うとなく「おあむの松」と愛称した。昭和の大戦直前枯れたが植え継ぎ青年の樹とし「二代目おあむの松」と命名した。 (現地説明板より) おあむ |
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上空から見た大垣城周辺 (写真/大垣市) |
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大垣城越しに望む金華山 |
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石垣の化石 |
明治29年(1896)7月・9月の風水害 明治29年の水害は大垣を中心とした輪中地域における最大の、そして最後の大水害であった。 この年の7月19日より22日にかけて大垣では降水量378mmとなり各河川は増水して、21日に揖斐川にて 今福が破堤し続いて水門川など46箇所で破堤して大水害となった。 この災害復旧中の9月6日に台風が襲来して暴風雨となり、再び各河川で破堤して大風水害となった。 9月の大垣の浸水は7月より約1メートル高く大垣町の約80パーセントの家々が屋根まで達する軒上浸水となった。 この大垣城石垣に刻まれたのがその水位であり、この惨状を後世に伝えるため大垣の金森吉次郎が私財を 投じて建てたのが、この洪水碑である。 |
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水没した大垣町 |
一層目 |
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天主1階西側の入側 |
火縄銃 | |
初期の火縄銃 | |
日本製様式管打銃(慶応時代) |
合印鑑 |
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三つ葉葵の団扇 戸田氏鉄が徳川家康から拝領した団扇。 華やかに蒔絵(まきえ)の桜花に豪華な三つ葉葵の飾り金具を施す。
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高 札(こうさつ) 定 何事ニよらざる事に 大勢申合候をととうととなへととう してしいてねがい事くわだつるを こうそといひあるひハ申合せ居町 居村をたちのき候をてうさんと申す堅く 御法度たり若右類之儀これあらハ 早々其筋之役所え申出べし 御ほふひ下さるべく事 慶応四年三月 太政官 「解説」 |
鑑札 |
大垣藩札(天保年間) |
紋入蒔絵矢筒と鞭ほか |
関ヶ原合戦のジオラマ |
二層目 |
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連署禁制 禁制 あかさか さいえん寺 石田三成をはじめ西軍の武将が西円寺に発行した制札
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池田輝政判物 己上 関ヶ原の戦いに際し、池田輝政が草道島の西円寺 |
なお、西円寺について詳しいことは中山道後編の「曽根城址編」にあります。 |
窓外には戌亥櫓が間近に見えます |
三層目 |
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三層目は柱と階段などの構造物で狭くて展示物は少ない |
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天主3階内部
北東隅 |
四層目 |
四層目から眺める伊吹連峰 |
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「大垣の古謡」 |
明治維新で七口之門・東西総門破却命令 明治二年(1869)の版籍奉還の翌年、七口之門(ななくちのもん)と東西の総門を破却。 廃藩置県にともない、城郭の所管は陸軍省、ついで大蔵省に移り、明治六年(1873)5月には、旧城地の建物・立木・石垣などいっさいを公売することになった。 このころ、地元では城郭の保存運動が盛んであったため、入札の実施は翌年7月になったが、天主・艮隅櫓(うしとらすみやぐら)などを除くほとんどの建物が取り壊され、資材として転用された。 明治九年(1876)1月、本丸跡地は中学校敷地として払い下げを受けたが、のちに二の丸跡地とともに公園になる。この間、払い下げや維持に費用を要したため、わずかに残る建物や石垣を売却しなくてはならなかった。天主と艮隅櫓、その周辺の石垣は、こうした尽力のもとにようやく保存された。 |
公売の際の大垣城郭 市民の保存運動により残った天主と艮隅櫓、その周辺の石垣は昭和11年に国宝に指定されたが |
艮隅(丑寅)櫓 |
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艮隅櫓 |
鉄(くろがね)門跡 |
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鉄門の基礎石はしっかりと残っています。 |
大垣城鉄門 |
由来 当門は、大垣城本丸の表口に建てられいた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家の同市蘇原野口町)の自邸の門としていたが、各務原市へ寄付され、平成21年に当地へ移築されました。 規模は、間口約5.7㍍、高さ4.5㍍あり、構造形式から高麗門と称されています。 高麗門とは、左右二本の本柱上部に小ぶりな切妻造の屋根を架け、更にその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。 当門と同様に、高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門の二例が現存しています。 |
正面 | 城内側 |
移築作業時に判明 |
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鉄板と漆喰で火矢から守る 当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。 |
麋城の滝 |
七間多門跡 |
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七間多門 関ヶ原合戦のとき、7人の地侍が七間多門で防戦し功をたてたという。 このことから、七間多門は七騎(しちき)多門と称されるようになった。 本丸跡に七間多門跡の標識が建つが、実際は二の丸または三之丸にあったとも伝えられる。 |
東埋門跡 |
辰巳櫓跡 |
辰巳櫓石垣と下の井戸 |
戌亥櫓 |
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戌亥櫓(水之手櫓) 本丸腰曲輪(こしくるわ)の北西に位置する隅櫓。水を汲み上げるための井戸櫓で、堀に開く水之手門をともなう。天主との間には、水之手門と番所が置かれていた。 |
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戌亥櫓に連なる戌亥南附多門 |
水之手門跡 |
かって、この門の近くに井戸が掘られていたので水之手門と呼ばれた。 | |
西門 |
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西門 本来、本丸の門は南側の鉄門(くろがねもん)と北側の水之手門だけだったが、修景野整 備に伴ない、店主の西側に狭間(さま)を設けた櫓門形式の門が作られた。 |
西門への通路 |
その他 |
戊辰の役碑 |
菱田海鷗碑(天主北下) | 戸田公入城三百五十年記念碑(艮隅櫓西) |
小原鉄心碑(西門東) | 飯沼慾斎碑(西門南) |
大垣市郷土館 戸田公入城350年の記念事業として建設された施設で、歴代の大垣藩主戸田公の顕彰と郷土の先賢を偲ぶことができる。また、館内には樹齢500年を越すサツキの盆栽などが展示されている。(大垣観光協会) |
大垣城下の城門跡 |
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大垣城七口之門 |
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明治維新で七口之門・東西総門破却命令 |
大手門跡 大垣市郭町東2丁目 |
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大垣城大手門跡 大垣城の東にあり、大垣城の正門である。町屋の本町の通じていた。現在、広峰神社が建てられており、神社の東の水路がかっての内堀である。城主氏家常陸介直元のとき、松之丸の地に住んでいた松井喜右衛門に替地をさせ、この地の警護を命じている。 |
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大垣城の正門 七口之門のひとつ。明治四年(1871)大手門を取り壊した下りに廣峰神社を移築したため、大手門北部の原形をよくとどめ、東側の石垣は往時のままである。 |
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大手門跡 |
小橋口門跡 大垣市郭町東1丁目 |
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現地に案内板がないため性格には確認できませんでしたが、昔の堀跡らしき溝が残っている付近と判断します。 |
辰之口門跡 大垣市高砂町 |
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大垣城辰之口門跡 大垣城の北西にあり、侍屋敷の八幡曲橋に通じていた。藩主戸田采女正氏は天保十一年(1840)、辰之口門外に学問所を創設し、のちに致道館さらに敬教堂と改称した。藩主氏彬のとき規模が拡大され、藩校から多くの学者・文人が生まれた。(現地 説明板より) |
辰之口門から見た大垣城 |
清水口門跡 大垣市丸の内二丁目 |
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大垣城清水口門跡 大垣城の西にあり、侍屋敷の八幡曲輪に通じていた。大垣まつりのとき、山がこの門から曳き入れられた。かって、この門の近くに「大垣の三清水」の一つがあり、城主の御用井戸として保護されてきたが、明治五年に取り壊された。現在、清水口門は、植物学者飯沼慾斎之別荘平林荘跡の正門として移築されている。 (現地 説明板より) |
清水口門から見た大垣城 |
竹橋口門跡 大垣市丸の内二丁目 |
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大垣城竹橋口門跡 大垣城の南西にあり、侍屋敷の八幡曲輪に通じていた。大垣まつりのとき、山が清水口門から城内へ曳き入れられ、城主に掛芸を行ったのち、この門から場外に出て町屋へと曳き廻された。(現地 説明板より) |
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柳口門跡 大垣市丸の内二丁目 |
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大垣城柳口門跡 大垣城の粘性にあり、侍屋敷の八幡曲輪に通じていた。現在、柳口門は、大垣城の東門として移築され、往時を偲ばせている。(現地 説明板より) |
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柳口門から見た大垣城 |
南総門跡 大垣市郭町4丁目 |
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大垣城南口門跡 大垣城の南にあり、南大手門ともいわれ町屋の俵町に通じていた。氏家常陸介直元が永禄六年(1563)、松之丸まで大垣城を拡張した時、松之丸に住んでいた沼波玄古に替地をさせ、この地の護衛を命じている。 (現地説明板より) |
大垣城下美濃路 |
東総門跡 大垣市東外側町1丁目 |
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東総門(名古屋口門) |
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西総門跡 大垣市船町1丁目 |
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西総門(京口門) 三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総堀内には、古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。西方に位置する西総門は、京都方面にあることから京口門とも呼ばれ、明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。この門を設け、総堀に橋を掛けることにより、有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。(現地案内板より) |
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二重の櫓の様子が描かれた古図 |
かっての大垣城は、牛屋川(うしやがわ=水門川)や豊富な自噴泉を利用して、四重の水堀を擁する要害堅固な城でした。
城の用語コラム(堀) 水堀(みずぼり): 堀は、「水堀」「空堀(からぼり)」「泥田堀(どろたほり)」に分類することができる。 水 堀は「濠」ともいう。 戦いのときは堀として使用するが、通常は水路として、舟などが通行すること があった。 |
次のページから大垣城の周辺にある城址をご案内します。
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。
シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城」