シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城」の城址を収録しました。

築城者:
竹腰尚綱 または
宮川吉左衛門尉安定

築城年代:
明応九年(1500)

所在地 大垣市郭町

形 式 平  城   

 終更新日付
 14/02/07 17:46

 終更新日付 14/02/07 17:46


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大垣城周辺の城址「大垣市内編」01

かっての大垣城は、牛屋川(うしやがわ=水門川)や豊富な自噴泉を利用して、四重の水堀を擁する要害堅固な城でした。
その中心に、4層4階の白亜の天主がそびえていた。南と東に大手、北と西を搦手(からめて)とし、総曲輪(そうくるわ)に
は7つの門(七口之門)、三重櫓5基、二重櫓10基、渡櫓(わたりやぐら)26基を備え、外堀と中堀の間を武士屋敷が埋め
つくしていた。

大垣城は大垣市街地の中心にありJR大垣駅から550mほどにあります。
大垣駅前の大通り「郭町商店街」に「史跡 大垣城址」の道標がありすぐに分かります。

道標から西を見ると東門が見えます。

まずは東門から入りましょう

東門

大垣城
 一般に大垣城は、天文四年(1535)ごろ宮川吉左衛門安定が牛屋村大尻に築城したといわれるが、一説には明応九年(1500)、竹腰彦五郎尚綱が築城した牛屋城が今の大垣城であるとも云われている。 永禄二年(1559)、氏家直元(卜全)が城主となって以来、関ヶ原合戦までの40年間に城主が池田、三次、木下、加藤、一柳、羽柴、伊藤と入れ替わっている。                             
 畿内と東国の境となるこの地は西美濃の中心をなし、中山道、美濃路が通り、水門川、揖斐川を経て伊勢湾につながる陸・海・川野要害であり、「美濃を制するものは天下を制す」といわれほど軍事・経済上の要地であった。                                 
 豊臣秀吉は、この城を東国に対する「要」の城と重視していた。   

大小姓多門跡
東門は、七口之門の一つだった旧柳口門を移設したもの。
大垣城跡
 大垣城は、牛屋川を天然の外濠尼とりいれた要害堅固な平城で、天文四年(1535)宮川安定(やすさだ)によって創建されたと。伝えられている。 慶長五年(1600)関ヶ原合戦では、西軍の本拠となり壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、戸田家が入城してからは、歴代藩主と共に天下泰平の世を謳歌した。 先の戦災で惜しくも天主閣を焼失したが、現在城跡一帯は市民の憩いの場として親しまれている。 (大垣教育委員会)        
東門内のエリア
東門の周りにはかっての堀の面影が残っています。
東門から郭町商店街がよく見えます 東門に続き丑寅櫓が並びます

 

大垣城天主

大垣市郭町

北緯

35

21

31.6

東経

136

37

08.3

東門から天主への道

天主への石段

天主入口

天主入場料は100円

天主東附多門

明治の頃の大垣城と現在の比較写真

戸田氏鉄の治水への取り組み
 戸田氏は徳川家康の三河以来の譜代の家臣で、氏鉄は家康の近習を勤めていた。摂津尼崎五万石を領していたころに、河川改修や大坂城の修築で功績を認められ、寛永十二年(1635)60歳で大垣10万石の藩主に栄進した。                                                                 
 氏鉄は入封(にゅうほう)後、藩財政の基盤を固めるため積極的に新田開発を進めた。また、早くから郷中諸法度書(ごうちゅうしょはっとかき)・大垣町中諸法度書・公儀御法度を交付して、城下の秩序を取り締まった。 そのうえで氏鉄は、文教の振興、文化芸能を奨励した。みずからは林羅山(はやしらざん)尼儒学を学び、八幡神社を再建して、今に伝わる「大垣まつり」を盛り上げ、民衆への配慮も怠らなかった。                      

戸田氏鉄画像
 
(大垣城蔵 写真/牧野貞之)

戸田氏庸(うじつね)
 (大垣城蔵)

厄災の時代の大垣藩主 戸田氏庸(うじつね)
 文化三年(1806)に八代目藩主となる。氏庸が藩主の時代は厄災だった。文化八年(1813)の大火に続き、文化十二年(1815)には豪雨で揖斐川が氾濫し、美濃一帯が大洪水となった。天保六年(1835)の洪水では、堤防の決壊は代官らの手抜き工事が原因とされ、怒った海西・石津郡60か村の農民が、工事関係者の家を打ち壊す事件が起き、大垣藩も出兵した(万寿騒動)。こうした苦難の中、氏庸は藩校「致道館」(のちの敬教館)を設け、教育文化の振興を図った。            

水屋の建築
 洪水から命や財産を守るため、低湿地の輪中集落で生まれた独特の建築様式で、比較的豊かな農家に見られる。
母屋とは別棟で、土盛りや石垣の上に建てられた。普段は倉庫や客室に用いられ、洪水の時は水屋に起居し、備え付けの小舟で移動した。             
明治のはじめ頃の川口水門
(岐阜県歴史史料館)
 戸田氏鉄は寛永十三年(1636)に外淵(そとぶつ)村と川口村の境界に水門を建設、承応二年(1653)に改良して閘門(こうもん)を造った。閘門は、逆流の際は、自然に扉が締まり、水が減るとし自然に開く仕組みで、30年ごとに改修された。現在は「旧水門跡」の石柱だけが建つ。                            
大垣城由来
 大垣城は古く応仁年間(15世紀)には東大寺城と呼び、当時の城主は大井荘のうち石包名(いわかねみょう)という地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました                         
 天正十三年(1585)九月豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として天主の造営を命じました。この工事は天正十六年七月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四階建て総塗りごめ様式でたいへん優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。                                                                 
 昭和十一年(1936)国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれてきましたが、昭和20年の戦災で惜しくも焼失しました。
その後お城再建の機運が高まり昭和33年5月着工、翌34年4月に昔のままの姿で竣工したのがこの天主です。         

 大垣市郷土館の城郭模型
 南北にならぶ本丸と二の丸を結ぶのは、廊下橋1本のみ。高い
石垣を、深い内堀が囲む。二の丸に政庁である表向(おもてむき)
が置かれたのは戸田氏信(うじのぶ)のころ。 その後、本丸・二の丸は非常時の篭城に備えられ、表向御殿は南側の三之丸に置かれた。 三之丸と、穀倉が置かれた竹之丸・天神丸などは、土塁と内堀に囲まれ、外堀とのあいだを戸田氏一族をはじめ、上級武士の屋敷が埋めた。                         

島原の乱当時の大垣城下図
 寛永14〜19(1637〜42)頃の大垣城下図を、江戸中期に写したとされる現在最古の写本。武家屋敷は黄色地、町家は白地、寺社地は白地にその寺社之名称が記されている。                                
 武士名に「島原御供」「大垣御留守居」「島原討死」などと付され、寛永十四年(1637)の島原の乱の藩士の動静を物語る貴重な資料。(大垣市立図書館蔵)                                         
なぜ?四層四階建て?
 天正十八年(1590)から城主となった伊藤祐盛(すけもり)は、大垣城の修築を行ない、文禄四年(1595)から翌慶長元年(1596)にかけて天主を築いた。天主は合戦図屏風には三階立てに描かれており、元和六年(1620)に松平忠良(ただよし)が世にも稀な四層四階に改築したといわれている。 四(死)を忌み嫌っていた当時の築城としては世に類を見ない構造であった。  寛永十二年(1635)戸田氏鉄(うじかね)が城主になって以来は、明治維新まで戸田氏十一代による大垣藩政が続けられた。                         

天主南東面
 大阪歴史博物館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」によれば、石田三成が篭城したときの天主は3層に描かれれる。元和六年(1620)
松平忠良が大改築して4層にしたともいわれる。東と南の附多門櫓(つけたもんやぐら)も、このとき複合された。戦災で焼失した天主の用材は、1、2階が古く、3,4階がやや新しかったという。   

雪の大垣城
 四層四階の天主は高さおよそ20m、本瓦葺きの屋根に鯱が輝く。白亜の壁と格子窓、千鳥破風が美しく
麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれていた。 (写真/竹中好明氏)

天主を中心に左に天主南附多門、右に天主東附多門(現在の入城口)

天主東附多門 天主南附多門
おあむの松
 関ヶ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦らと西軍三成勢に属し大垣城に立てこもっていた。落城の不安がつのるある日、東軍から矢文が届き「玄暦は家康様手習師匠であったので逃がす」と伝えた。      
「おあむ」は父母と西堀端の松から堀のたらい舟に乗り移り西岸に上陸、無事に逃れた、そののち松を誰言うとなく「おあむの松」と愛称した。昭和の大戦直前枯れたが植え継ぎ青年の樹とし「二代目おあむの松」と命名した。 (現地説明板より)                                           

おあむ
 正徳年間(1711〜16)ころに成立した「おあむ物語」には、関ヶ原合戦のとき大垣城内にいた娘が、老後、子や孫に語った戦争体験が記されている。石火矢(いしびや=大砲)の恐ろしさ、鉄砲玉を鋳たことなど、臨場感溢れる内容である。                                             
 大垣城に籠城していた父は、石田三成の家臣山田去暦。おあむは父母とともに天主の窓から釣り縄で下り、堀をタライで渡って脱出した。逃げる途中で母が出産するハプニングも伴ない、ようやく土佐の国へ逃れる。その地で雨森儀右衛門と結婚、夫に死別後は、甥の山田喜助に養われた。寛文年間(1661〜73)に80余歳で没したという。(岐阜県図書館)                               

上空から見た大垣城周辺 (写真/大垣市)

大垣城越しに望む金華山
 大垣城の北東およそ25kmほどの、標高329mの金華山山頂(後方中央)に岐阜城が
そびえる。岐阜城は、関ヶ原合戦では西軍の織田秀信の居城であったが、福島正則・池田
輝政らに攻められて落城した。  (写真/和田不二男)                     

石垣の化石
 大垣白の石垣は、美濃赤坂の金生山(きんしょうざん)から切り出された。金生山は、約2億5000万年前に赤道付近に出来た海底火山がプレートの移動によって運ばれたものという。古生物の堆積により石灰岩層を形成、天主台や東門付近の石垣にウミユリ・フズリナ・貝殻などの化石がみられる。            

明治29年(1896)7月・9月の風水害
明治29年の水害は大垣を中心とした輪中地域における最大の、そして最後の大水害であった。       
 この年の7月19日より22日にかけて大垣では降水量378mmとなり各河川は増水して、21日に揖斐川にて
今福が破堤し続いて水門川など46箇所で破堤して大水害となった。                        
この災害復旧中の9月6日に台風が襲来して暴風雨となり、再び各河川で破堤して大風水害となった。    
9月の大垣の浸水は7月より約1メートル高く大垣町の約80パーセントの家々が屋根まで達する軒上浸水となった。                                                              
 この大垣城石垣に刻まれたのがその水位であり、この惨状を後世に伝えるため大垣の金森吉次郎が私財を
投じて建てたのが、この洪水碑である。                                          

水没した大垣町
 降り続いた豪雨で堤防が決壊、大垣市内にも濁流が流れ込
み、これまでにない大洪水にみまわれた。大垣魚屋町の金森
吉次郎は、風雨の中、決死の覚悟で堤防を切り割り、溜まった
水を揖斐川に排水。                         
 これにより8000戸の家屋と4万人の生命が救われた。   
(写真提供 岐阜地方気象台)

一層目

天主1階西側の入側
 天主内部の平面は1,2階が等しく、3階、4階と
面積が小さくなる。1,2階は5間四方、周囲に1間
の入側(廊下)をめぐらす。母屋と入側の境に建具や壁はない。窓は土戸(とちど)片引き、内側に格子を付ける。   (写真は昭和11年国宝に指定されたときの写真・大垣市立図書館蔵) 

 
火縄銃
初期の火縄銃

日本製様式管打銃(慶応時代)

合印鑑

三つ葉葵の団扇
 戸田氏鉄が徳川家康から拝領した団扇。
 華やかに蒔絵(まきえ)の桜花に豪華な三つ葉葵の飾り金具を施す。

 

 

 

 

 

 

高 札(こうさつ)

何事ニよらざる事に            
大勢申合候をととうととなへととう    
してしいてねがい事くわだつるを    
こうそといひあるひハ申合せ居町   
居村をたちのき候をてうさんと申す堅く
御法度たり若右類之儀これあらハ  
早々其筋之役所え申出べし      
御ほふひ下さるべく事         
慶応四年三月    太政官

「解説」
 
明治元年(慶応四年)三月十五日明治新政府は旧幕府
 の高札を撤去を命じ、代わって五札の太政官の指示を
 命じた。
 これを五榜(ごぼう=五つの立て札)の掲示という。
 資料は、このうち第二札であり徒党・強訴・逃散を禁じる
 ないようを示している。

鑑札

大垣藩札(天保年間)

紋入蒔絵矢筒と鞭ほか

関ヶ原合戦のジオラマ

二層目

連署禁制
(れんしょきんせい)(複製)
慶長五年(1600)九月五日(関ヶ原合戦の十日前)

禁制   あかさか さいえん寺
一 當手軍勢乱妨狼藉之事               
 (とうてぐんぜい・らんぼうろうぜきのこと)       
一 伐採竹木之                      
(ちくぼくをばっさいするのこと)           
一 放火之事                        
(ほうかのこと)                  
右条々、於違背者、速可                
(みぎじょうじょうそむきにおいては、すみやかに)     
處厳科者也、 仍如件、                 
  (げんかにしょすべきものなり よってくだんのごとし)       
慶長五年                     
     九月五日 治部少(石田三成)花押
            摂津守(小西行長)花押
            兵庫頭(島津義弘)花押
             秀 家(宇喜多秀家)花押

石田三成をはじめ西軍の武将が西円寺に発行した制札

 

池田輝政判物
(いけだてるまさはんもつ)(複製)

己上
(いじょう)
當手軍勢乱妨狼藉
(とうて・らんぼう・ろうぜき)
放火之事、令停止迄、
(ほうかのことをていしせしめすみやかに
何、 為御人数、
(なになにのごにんずうたりといえども)
此折紙を以、可申
(このおりがみをもって もうし)
理者也、
(ころわるべきものなり)
慶長五年 八月
三左衛門尉(花押)
しまの 西圓寺

 関ヶ原の戦いに際し、池田輝政が草道島の西円寺
に発行した制札である。
 池田軍の兵には狼藉を働かせないし、放火をさせ
ないことを保証している。
 西円寺は真宗門徒に大きな支配力をもっており、
東西両軍から保護されたことは注目に値する。

なお、西円寺について詳しいことは中山道後編「曽根城址編」にあります。

窓外には戌亥櫓が間近に見えます

三層目

三層目は柱と階段などの構造物で狭くて展示物は少ない

天主3階内部 北東隅
 内部は各階とも簡素な構造で、3階
の床面積は約29坪、天井までの高さ
は約4,4m。用材は、松平忠良が改築したときの欅(けやき)に旧材が混じる。窓は各面に二連窓と両端に単窓を付ける。周囲に半間の入側(いりがわ=廊下)をめぐらして、南側の千鳥破風(ちどりはふ)屋根裏には便所を備える(写真は昭和11年国宝に指定されたときの写真・大垣市立図書館蔵)

四層目

四層目から眺める伊吹連峰
 かっては、高い建物もなく関ヶ原付近の丘の鞍部が遠望でき、戦いに敗れ京の六条河原で斬首された石田三成も、この風景を見つめたことでしょう。

「大垣の古謡」 
天気よければ大垣様の 時の太鼓の音のよさ
 江戸時代、大垣の「時の太鼓」は、俵町柳口門外にあり、毎日城下に時刻を知らせていました。「天気よければ
大垣様の 時の太鼓の音のよさ」「明日はお天気、大垣様の太鼓の音よさ」と歌にも唄われて、人々に慕われました

明治維新で七口之門・東西総門破却命令
 明治二年(1869)の版籍奉還の翌年、七口之門(ななくちのもん)と東西の総門を破却。 廃藩置県にともない、城郭の所管は陸軍省、ついで大蔵省に移り、明治六年(1873)5月には、旧城地の建物・立木・石垣などいっさいを公売することになった。                                                 
 このころ、地元では城郭の保存運動が盛んであったため、入札の実施は翌年7月になったが、天主・艮隅櫓(うしとらすみやぐら)などを除くほとんどの建物が取り壊され、資材として転用された。                                          
 明治九年(1876)1月、本丸跡地は中学校敷地として払い下げを受けたが、のちに二の丸跡地とともに公園になる。この間、払い下げや維持に費用を要したため、わずかに残る建物や石垣を売却しなくてはならなかった。天主と艮隅櫓、その周辺の石垣は、こうした尽力のもとにようやく保存された。                       

公売の際の大垣城郭
 1、本丸建物26か所(天主・多門・櫓・橋・門・番所・蔵)
 2、二の丸建物7か所(門・櫓・招魂社)
 3、三之丸建物16か所(門・米蔵・多門・櫓・渡櫓=わたりやぐら)
 ほかに三之丸外鐘門櫓・内柳口渡櫓・釜笛村(かまぶえむら)火薬庫・立木500本・石垣など
以上入札を受け付ける 岐阜県告示

市民の保存運動により残った天主と艮隅櫓、その周辺の石垣は昭和11年に国宝に指定されたが
昭和20年に米軍の空襲により全てが焼失した。                              

艮隅(丑寅)櫓
(うしとらすみやぐら)

艮隅櫓
 
2重2層の総塗籠め造り、本瓦葺き(ほんがわらぶき)、初重の北面に千鳥破風を飾り、西と南に多門を付ける。当初の建物は正徳四年(1714)の地震で崩壊したため、旧材を使用して再建したという。 
(写真は昭和11年国宝に指定されたときの写真・大垣市立図書館蔵)               

(くろがね)門跡

鉄門の基礎石はしっかりと残っています。

大垣城鉄門 
   鵜沼で見つかる

               由来
 当門は、大垣城本丸の表口に建てられいた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家の同市蘇原野口町)の自邸の門としていたが、各務原市へ寄付され、平成21年に当地へ移築されました。
 規模は、間口約5.7b、高さ4.5bあり、構造形式から高麗門と称されています。
 高麗門とは、左右二本の本柱上部に小ぶりな切妻造の屋根を架け、更にその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。

 当門と同様に、高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門の二例が現存しています。
正面 城内側

                移築作業時に判明
 岐阜県各務原市の民家の門が、戦災で焼失する前の旧大垣城の鉄(くろがね)門だったことが分かった。
 門は同市の医者宅の屋敷内に置かれていたが老朽化し、維持管理が大変なことから昨年市に寄贈された。
 門は各務原市鵜沼西町の鵜沼宿町屋館の向かいに移築作業の過程で旧大垣城の鉄門だと分かった。
 今回 門が大垣城の門であると判断する決め手になったのは、壁下の部材に見つかった「墨書」だった。
 十数人の名前が書かれ、江戸末期の大垣藩の大工奉行らの名前であることが判明した。
 また、門の鬼瓦には大垣藩主戸田家の門「九曜紋」があったことなどから大垣城本丸の表門であったとされた
 寄贈者は「旧加納城の門だと言い伝えられていたのでビックリしている」と話しているそうです。
                       明治維新で公売入札で払い下げ
 旧大垣城は天文四年(1535)の築城とされ、明治維新により城の七つの門は明冶四年(1871)の廃藩置県に伴なって払い下げられ、明冶6年(1873)ごろの大垣城公売入札の岐阜県告示に「鉄門、高一丈一尺、巾三間」の記述があり、今回の門と形式や規模がほぼ一致している。
 大垣城は昭和11年(1936)に国宝となったが、20年に空襲で焼失し、34年に天守閣などが再建されている

              鉄板と漆喰で火矢から守る
 当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。

麋城の滝
(びじょうのたき)

 

七間多門跡
七騎(しちき)多門

七間多門
 関ヶ原合戦のとき、7人の地侍が七間多門で防戦し功をたてたという。 このことから、七間多門は七騎(しちき)多門と称されるようになった。 本丸跡に七間多門跡の標識が建つが、実際は二の丸または三之丸にあったとも伝えられる。                                                                  

東埋門跡

   

辰巳櫓跡

辰巳櫓石垣と下の井戸

戌亥櫓
(乾隅櫓・水之手櫓)

戌亥櫓(水之手櫓)
 本丸腰曲輪(こしくるわ)の北西に位置する隅櫓。水を汲み上げるための井戸櫓で、堀に開く水之手門をともなう。天主との間には、水之手門と番所が置かれていた。                                 
戌亥櫓に連なる戌亥南附多門

水之手門跡

かって、この門の近くに井戸が掘られていたので水之手門と呼ばれた。

西門

西門
 本来、本丸の門は南側の鉄門(くろがねもん)と北側の水之手門だけだったが、修景野整
備に伴ない、店主の西側に狭間(さま)を設けた櫓門形式の門が作られた。         
西門への通路

その他

戊辰の役碑

菱田海鷗碑(天主北下) 戸田公入城三百五十年記念碑(艮隅櫓西)
小原鉄心碑(西門東) 飯沼慾斎碑(西門南)
 
   

大垣市郷土館
  大垣藩主戸田歴代にゆかりのある展示品を中心に大垣城
復元城郭模型や関ヶ原合戦屏風絵図のほか、郷土の歴史資
料などが見学できます。 入口の門は旧大垣藩の家老戸田邸
の正門と船板塀を移築し、内部には自噴泉「麋城(びじょう)の
井戸」のある美しい日本式庭園がつくられている。       

 戸田公入城350年の記念事業として建設された施設で、歴代の大垣藩主戸田公の顕彰と郷土の先賢を偲ぶことができる。また、館内には樹齢500年を越すサツキの盆栽などが展示されている。(大垣観光協会)                 

 

大垣城下の城門跡
七口御門跡

大垣城七口之門
 大垣城は、南と東を大手、北と西を搦手(からめて)とする要害堅固な城郭で
あり、惣郭には、大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の七口
之門があった。(現地説明板より)                          

明治維新で七口之門・東西総門破却命令
 明治二年(1869)の版籍奉還の翌年、七口之門(ななくちのもん)と東西の総門を破却。 廃藩置県にともない、城郭の所管は陸軍省、ついで大蔵省に移り、明治六年(1873)5月には旧城地の建物・立木・石垣など、いっさいを公売することになった。

大手門跡

大垣市郭町東2丁目

北緯

35

21

25.7

東経

136

37

17.5

大垣城大手門跡
大垣城の東にあり、大垣城の正門である。町屋の本町の通じていた。現在、広峰神社が建てられており、神社の東の水路がかっての内堀である。城主氏家常陸介直元のとき、松之丸の地に住んでいた松井喜右衛門に替地をさせ、この地の警護を命じている。
大垣城の正門
七口之門のひとつ。明治四年(1871)大手門を取り壊した下りに廣峰神社を移築したため、大手門北部の原形をよくとどめ、東側の石垣は往時のままである。

大手門跡
 大垣城は、南と東を大手、北と西を搦手(からめて)とする要害堅固な城郭であった。惣郭(そうくるわ)には、大手口・南口・柳口・竹橋口・清水口・辰之口・小橋口の七口御門がりなかでもこの大手口御門(東大手)は城の正門で、はじめに高麗門と呼ばれる第一の門をくぐって、左におれると威風堂々とした第二の門である櫓門につきあたる二重の城門を配置した枡形形式の堅固なものであった。                           
 明治四年(1871)大手門を取り壊したおりに、その枡形跡に広峰神社を移築した。そのため、同神社境内は大手門北部の原型をよくとどめ、東側の石垣は皇子のままである。また、その名残で、今もこのあたりを本町大手または大手通り、大手町などと呼ぶ。  (大垣教育委員会)                            

小橋口門跡

大垣市郭町東1丁目

北緯

35

21

32.2

東経

136

37

20.7

現地に案内板がないため性格には確認できませんでしたが、昔の堀跡らしき溝が残っている付近と判断します。

辰之口門跡

大垣市高砂町

北緯

35

21

38.2

東経

136

37

04.6

大垣城辰之口門跡
 大垣城の北西にあり、侍屋敷の八幡曲橋に通じていた。藩主戸田采女正氏は天保十一年(1840)、辰之口門外に学問所を創設し、のちに致道館さらに敬教堂と改称した。藩主氏彬のとき規模が拡大され、藩校から多くの学者・文人が生まれた。(現地 説明板より)                                  

辰之口門から見た大垣城

清水口門跡

大垣市丸の内二丁目

35

21

28.0

東経

136

36

55.0

大垣城清水口門跡
 大垣城の西にあり、侍屋敷の八幡曲輪に通じていた。大垣まつりのとき、山がこの門から曳き入れられた。かって、この門の近くに「大垣の三清水」の一つがあり、城主の御用井戸として保護されてきたが、明治五年に取り壊された。現在、清水口門は、植物学者飯沼慾斎之別荘平林荘跡の正門として移築されている。     
(現地 説明板より)

清水口門から見た大垣城

竹橋口門跡

大垣市丸の内二丁目

北緯

35

21

21.3

東経

136

36

53.6

大垣城竹橋口門跡
 大垣城の南西にあり、侍屋敷の八幡曲輪に通じていた。大垣まつりのとき、山が清水口門から城内へ曳き入れられ、城主に掛芸を行ったのち、この門から場外に出て町屋へと曳き廻された。(現地 説明板より)      

柳口門跡

大垣市丸の内二丁目

北緯

35

21

20.6

東経

136

36

59.3

大垣城柳口門跡
 大垣城の粘性にあり、侍屋敷の八幡曲輪に通じていた。現在、柳口門は、大垣城の東門として移築され、往時を偲ばせている。(現地 説明板より)                                     

柳口門から見た大垣城

南総門跡

大垣市郭町4丁目

北緯

35

21

25.7

東経

136

37

17.5

大垣城南口門跡
 大垣城の南にあり、南大手門ともいわれ町屋の俵町に通じていた。氏家常陸介直元が永禄六年(1563)、松之丸まで大垣城を拡張した時、松之丸に住んでいた沼波玄古に替地をさせ、この地の護衛を命じている。   
(現地説明板より)

大垣城下美濃路
東・西口御門跡

東総門跡
(名古屋口門跡)

大垣市東外側町1丁目

北緯

35

21

35.5

東経

136

37

25.4

東総門(名古屋口門)
 三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総堀内には、古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。東方に位置する東総門は、名古屋方面にあることから名古屋門とも呼ばれ、明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。この門を設け、総堀に橋を掛けることにより、有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。ここには中山道赤坂宿へ向かう街道門も併設されていた。(現地案内板より)       

西総門跡
(京口御門跡)

大垣市船町1丁目

北緯

35

21

15.0

東経

136

36

57.1

西総門(京口門)
 三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総堀内には、古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、その町屋を縫うように美濃路が通っていた。西方に位置する西総門は、京都方面にあることから京口門とも呼ばれ、明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。この門を設け、総堀に橋を掛けることにより、有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。(現地案内板より)                                            

二重の櫓の様子が描かれた古図

かっての大垣城は、牛屋川(うしやがわ=水門川)や豊富な自噴泉を利用して、四重の水堀を擁する要害堅固な城でした。

         城の用語コラム(堀)

水堀(みずぼり): 堀は、「水堀」「空堀(からぼり)」「泥田堀(どろたほり)」に分類することができる。 水     堀は「濠」ともいう。 戦いのときは堀として使用するが、通常は水路として、舟などが通行すること     があった。
空堀(からぼり): 水のない堀のこと。 古代から中世、近世にかけて、山城などで使用されている堀形     である。 断面はV形か凹形をしていることが多い。 多くの場合、平常時に底を通路として使用し     ていた。 大坂城本丸、名古屋城本丸は、平城(ひらじろ)でも空堀のある好例といえる。
泥田堀(どろたほり): 湿地帯などを利用した堀で、底が泥状になっている。 堀としての防御力は最高     といわれる。 忍城(おしじょう=埼玉県行田(ぎょうた)市)、備中(びちゅう)高松城(岡山県岡山     市)などが有名である。、
堀切(ほりきり): 丘陵上の城や山城で用いられた空堀。 尾根を一直線に掘り切ってあるので、堀切と     よばれた。 尾根や丘陵に、鉈(なた)で切込みを入れた感じで、交通を遮断して、敵の侵入を防     いだ。
竪堀(たてほり): 中世山城にみられる空堀の一種。 等高線に対して直角に掘られた空堀のこと。 敵     が山腹を横に移動するのを防いだり、敵が登ってくるのを防ぐものである。
畝堀(うねほり): 主に空堀内を畝で仕切って、堀の中の敵の移動を防いだもの。 障子堀ともいう。 山     中城(静岡県三島市)、騎西(きさい)城(埼玉県騎西町)、小田原城(神奈川県小田原市)などで     大規模な畝堀が発見されている。
堀障子(ほりしょうじ): 畝堀の中にある仕切りのこと。 畝堀は堀の中に、障子を立てたように仕切りを     つくるので、この名がある。 障子の桟に似ているからという説は誤り。
二重堀(にじゅうほり): 平城や山城などで、平行して堀が2本に掘られているもの。 二重なので、防御     力が高まる。
三日月堀(みかづきほり): 武田氏がよく用いた丸馬出(まるうまだし)の前面が半円形なので、それを     三日月堀という。 そのほか、カーブした堀をいうこともある。
                    (「週刊 名城を行く」から)

次のページから大垣城の周辺にある城址をご案内します。


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大垣城周辺の城址「大垣市内編」01

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。

シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城」