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シルバーの城郭城跡の散歩道「岐阜城周辺の城と城址」

所在地

  岐阜市・各務原市・関市
美濃加茂市・羽島郡・
加茂郡・本巣郡・高山市・
郡上市・中津川市・瑞浪市・
恵那郡

                  「岐阜市周辺の城と城址」
 岐阜城を取り巻く岐阜市内、各務原市、関市、美濃加茂市、羽島郡、加茂郡、本巣郡と
県下の高山市、郡上市、中津川市、瑞浪市、恵那郡の城と城址をご案内します。
岐阜市 @加納城址・A高桑城址・B長森城址・C鷺山城址・D黒野城址・
E上茜部城址・F川手城址・G鏡島城址の8城址
各務原市 H伊木山城址・I鵜沼城址の2城址
関市 J関城址の1城址)、
美濃加茂市 K堂洞城址の1城址)
羽島郡 L伏屋城址・M松倉城址の2城址)
加茂郡 N加冶田城址・O猿啄(さるばみ)城址の2城址)、
本巣郡 P北方城址の1城址)など17城址
高山市 Q高山城址・
R鍋山城址・S松倉城址の3城址
中津川市 22苗木城址の1城址)
郡上市 21郡上八幡城の1城)
瑞浪市 23鶴ケ城址・24小里城址野2城址)
恵那郡 25岩村城址・26明智城址野2城址)
 

計1城・26城址

なお

岐阜城周辺の城址

岐阜市内の8城址
 岐阜城周辺には歴史的に有名な加納城址、川手城址、鷺山城址があり
その外に高桑城址・長森城址・黒野城址・上茜部(かみあかなべ)城址・
鏡島城址などがあります。

 

岐阜城周辺の城址

徳川家康が「関ヶ原の戦」直後に近世代に合う平城を街道筋に造らせるため織田信長天下取りの出発点となった
自慢の岐阜城を廃し、城の木材から石垣まで加納村へ持ってこさせ、徳川四天王の一人「本田忠正」に作らせ、
長女「亀姫の婿奥平昌正」を城主とし加納城は始まりました。

@加納城跡

岐阜市加納丸の内

北緯

35

23

50.4

東経

136

45

50.2

加納城址は加納大手町の大手門跡から始まります。

加納城大手門跡

岐阜市加納大手町

北緯

35

24

04.8

東経

136

45

53.1

大手門碑は歩道橋の影に建っています。
交差点の北側には「岐阜大学付属小・中学校」「聾学校」「加納小学校」などが本丸跡まで続いています。

              初代藩主は「奥平信昌」
 江戸幕府の京への守りとして重要な位置を占めた「加納城」は初代城主に「奥平信昌」と言うより家康の長女「亀姫」の夫に”十万石”を与え、この地を守らせました。
 しかし、”社長の娘”と結婚した”平社員”信昌”は亀姫の我が儘に手をやいたようです。
                       その後の加納城主
 家康に大抜擢された、奥平家も子供、孫とも病弱でわずか三代17年で衰退し以降、大久保氏・戸田氏・安藤氏・永井氏と四氏13代が城主となり、永井氏6代目の「永井尚服」(なおこと)の時に明治維新を迎えています。
 この地には家康の長女亀姫の横暴ぶりを伝える話や史跡があります。
                
徳川家康の長女「亀姫様」の謎の半生
 その一つに「亀姫侍女十二相祠堂跡」が岐阜市加納北広江町36にあります。
 この亀姫侍女十二相祠堂には関ヶ原合戦後7年目に突然12人の亀姫様の侍女が咎を受け処刑されて葬られた祠堂とされ
なぜ一度に12人もの侍女が処刑されたか?まだ天下は統一されていない時期なので豊臣方の隠密陰謀説?、亀姫様の乱心か?などが噂されましたが天下が統一された頃に12人の侍女のお堂が建てられ祀られたとされています。
 (詳しくは「中山道美濃路中編・加納宿ー1」に亀姫侍女十二相祠堂跡の記載があります)
 しかし、「奥平信昌」と亀姫様は子孫に恵まれず三代で途絶えました。
 二人の墓はここから数百mの加納奥平町の「盛徳寺」に仲良く並んでいます、また
亀姫様の菩提寺「光国寺」は加納にし広江28番地にあります。
 (
奥平信昌と亀姫の葬られている「盛徳寺」と亀姫様の菩提寺「光国寺」「中山道美濃路中編・加納宿ー2」にあります)

上空から見た加納城址

付近は中世の政治文化の中心地
加納城本丸跡の南は十五〜十六世紀には美濃国の政治と文化の中心でした。
写真の荒田川左岸には、守護土岐氏によって壮大な伽藍を誇る正法寺(正法寺町)、その南には
美濃国守護土岐氏の守護所革手城(光樹町)が築かれ、右岸(西側)には船田城(水主町)、
当時の加納城(加納丸の内)は、守護代斎藤氏の居城でした。

現地説明板より

加納城縄張りと現在の住宅図
加納城の西側の堀は埋められて現在は加納長刀堀と町名で残されています

終戦後は自衛隊駐屯地
最近は城址として少しは整備され簡単な案内板が設置され城跡らしい雰囲気が出来ました。

              国史跡 加納城跡
 徳川家康は、慶長五年(1601年)三月、娘婿の奥平信昌を加納城主として十万石を与え、また亀姫の粧田として二千石を給した。
 築城は岐阜城落城の翌年で、岐阜城の館邸を加納に移して修築しました。
 本丸、二の丸、三の丸、厩曲輪、南曲輪(大藪曲輪)などを備え、関ヶ原戦後初の本格的城郭でした。
 加納城歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し最後の永井氏の時代に明治維新を迎えました。
 明治二年加納城第十六代城主、永井肥前守尚服が藩籍を奉還し、加納藩は同年七月十四日に廃藩に至りました。
 加納城址は、この本丸のほかは二の丸北側の石垣を僅かに残しているのみです。
                        (現地説明板より)

裏門(搦め手)も戦後自衛隊が駐屯していた当時のままです

史跡「加納城址」本丸の石垣
本丸北面の石垣は岐阜市近傍の山で産するチャートといういしを材料に積み上げられています。
石はほとんど自然石のまま積み上げられ、石と石の間には川原石が詰められています。
手前のグランドは濠が埋められたあとです。

本丸付近も、ただ広場になっていて近所の人が犬の散歩に来る程度です。

濠も埋められて駐車場になっています

城下町であった加納町を散策すると町名のほかに多少城下の跡らしきものが見当たります。

加納城中大手門

加納沓井町

北緯

35

24

00.2

東経

136

45

48.8

 二之丸と三之丸の間にあった中大手門跡で現在は、加納沓井町の民間の駐車場となっています。

 関ヶ原合戦後まだ豊臣方の残党が巻き返しを狙っている最中の築城で堅固な上にも政治の中心としても機能を果たす必要があったと思われます。

 また、城下町として加納宿の発展も必要であるため、解放性と防御性には苦労した城下町構造になっていたとおもわれます。

(現在はこの標識は見当たりません)

由緒ある町名
 加納城近くは「西丸町」「鉄砲町」「矢場町」「長刀堀町」「鷹匠町」「御車町」など由緒ある町名が続きます。

加納城南大手門

加納西丸町1丁目

(中野茂一 宅ガレージ角)

北緯

35

23

53.2

東経

136

45

44.3

加納城址北西角から数十mの私宅の隅に標識が立てられています

 

二の丸東北隅櫓跡

加納二の丸

北緯

35

23

50.2

東経

136

45

57.3

岐阜地方気象台と二の丸東北隅櫓
 加納城二の丸跡にあり現在は岐阜地方気象台が建っています。

 家康は関ヶ原の合戦後、鉄砲や大筒(大砲)の発達に伴い、山城建築で優雅な天守閣様式を確立した、織田信長の城造りを発展させ、周囲に堀をめぐらせた本格的な平城を、ここ加納城に集約しました。
 そして、家康は長女「亀姫」の夫である奥平信昌に十万石の領地を与え、此の城の城主としました。
 このことから、当時の加納城が軍事上重要な役割を担っていたことが伺えます。
 (右写真) 岐阜気象台は二の丸跡にあり、御殿があった場所です。

加納小運動場は昔は濠でした。

現在の二の丸、三の丸跡、と現在の「荒田川」

             加納城址(二の丸・三の丸)
 加納城は、慶長五年(1600年)の関ケ原の合戦の後、徳川家康が豊臣方の巻き返しに備えて築いたものです。
 本丸・二の丸・三の丸・厩曲輪(うまやぐるわ)・大藪曲輪(おおやぶぐるわ)などを備え、周囲に堀を巡らした平城(ひらじろ)でした。
 家康は、長女の亀姫の夫である奥平信昌に10万石の領地を与え、この城の城主としました。
 このことから、当地の加納城が軍事上重要な役割を担っていたことがうかがえます。
 二の丸には御殿、三の丸には役所がありました。 この場所は二の丸と三の丸を隔てる堀にあたります。  巾は23〜24mもあり、隣りの荒田川から水を引いていました。
 右手の石垣は二の丸の東北隅櫓のもので、岐阜城の天主(三層櫓)が移築されましが、享保三年(1728年)の火災で焼失しました。         (現地説明板より)

加納城址の南東約400m程の済美女子高校の校舎と校庭の間に川手城址があります。

A 川手(革手)城跡

岐阜市正法寺町

北緯

35

23

33.7

東経

136

45

56.9

川手城(革手とも云います)跡は岐阜市正法寺町の
済美女子高校の校門脇にあります。

済美女子高校は路を挟んで両側にあります。
路は昼間は歩行者専用になっています

その路の中間辺りに「川手城跡」はあります。

                   川手城の由来
 美濃源氏は平安末期から鎌倉時代にかけて、美濃各地に土着した清和源氏の一族です。
 なかでも光衡は、源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地「土岐」に土着し、「土岐氏」と改め、現在の瑞浪市一日市場に居住し、屋敷に源氏の守り神の八幡神社を祀っています。
 そして、美濃国守護職(1189年)となって、鎌倉幕府と共に栄え、土岐源氏の祖となりました。
 光衡の子「光行」は、源實朝(みなもとのさねとも)に仕え池田親九郎追討の軍功(1216年)をあげ「左衛門尉」(さえもんのじょう)となり土岐氏浅野に住み東美濃を統一しました。

                             「土岐氏」始祖
 その子「光定」は、土岐惣領を継ぎ、執権「北条貞時」の娘を妻にして、隠岐守となり土岐氏隆盛の基となりました。
土岐中興の祖となる土岐頼貞は、文武に秀で人物豊かで、その子「頼清」や「頼遠」と共に、元弘の変(1333年)に後醍醐天皇の令旨に応じ、足利尊氏に従い数多くの軍功をあげ「土岐絶えば幕府(足利)絶ゆべし」「諸家の頭、筆頭の頭」と信任を深くし、西美濃をも治めて美濃国守護の地位を築き、減瑞浪市一日市場、元土岐市大富にその居館を構え、十一代続く守護職の初代となりました。

二代目は斬殺
第二代守護職「土岐頼遠」は、父「頼貞」と共に足利尊氏に従って数々の軍功をあげ、元土岐市大富に住みしましたが、
辺地なればと現岐阜市南長森に「長森城」を築き居住。(長森城址はあとで紹介)

 

B 上茜部城跡

岐阜市正法寺町

北緯

35

23

33.7

東経

136

45

56.9

        上茜部城跡 堀秀政 生誕の地
 上茜部城は、戦国時代「堀秀政」の祖先が本郷の地に築き、天正年間(1570年)秀政の居城でした。
 秀政は天文二十二年(1553年)堀秀重の嫡男として生まれ幼名「菊千代」、長じて「久太郎」と称し十三歳にして信長に仕え数多くの武勲をたて、天正九年(1581年)に長浜城を、翌十年には本能寺の変後「秀吉」の先鋒として光秀を山崎に討って、その知勇をめで、羽柴の称号を賜わる。

 その後「賎ケ岳の合戦」に功をたて佐和山城主に、長久手の合戦、紀伊根四国征伐の功のより「従四位下侍從左衛門督」となる。

 そして天正十三年(1585年)に北ノ庄城主として十八万八百石余を拝領し、同十五年(1587年)に秀吉に従い九州島津征伐、同十八年(1590年)には秀吉の「小田原城攻め」には一方の大将として参戦中に陣中で病死す。享年三十八歳。
                   (現地説明板より)

上茜部城址から東3kmほどの中山道沿いにある長森城址(切通観音)をご案内します。

C長森城址

岐阜市切通六丁目

北緯

35

23

44.3

東経

136

47

58.2

切通観音(長森城址)の場所は分かりにくいので参考にして下さい

長森城由来
文治年間(1185年)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。
延元二年(1337年)美濃国守護二代「土岐頼遠」が土岐郡大富より長森に居を移し、
長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめました。
文和2年(1353年)長森城が手狭になったため、土岐頼康は川手城を築城、本拠地を川手城に移しました。
長森城は土岐氏の土岐直詮が城主とり、土岐氏は以後川手城を本拠地としました。

                                       切通観音 
 渋谷金王丸が築城した長森城があった場所で、長森城はその後土岐氏が城主となったのですが、土岐氏が川手城に本拠地を移し、廃城になった後には切通陣屋が築かれました。
 しかし今は城や陣屋の面影は無く、 石碑と切通観音があるのみです。

次に岐阜市の西の端で羽島市との境の境川堤防上にある高桑城址をご案内します。
目印は善覚寺です。

D高桑城址

岐阜市柳津町高桑

北緯

35

21

00.1

東経

136

42

47.5

                 高桑城址
 鎌倉時代初め(1190年代)から永禄七年(1567)まで、ここに高桑城がありました。
 この城は土塁で築かれ、周囲は役400m、その北西には御館様と呼ばれる城主高桑氏の住居がありました。
 城は、大永(たいえい)七年(1527)留守役の武山氏に渡り、永禄七年(1567)織田信長の手によって落城しました。
 今は、堤外に土盛りが一部残っており、城石は慈恩寺の観音堂の石垣に使われいます。
                       (岐阜市文化財審議会)

次は岐阜城北西3kmにある斎藤道三ゆかりの鷺山城址をご案内します

E鷺山城跡

岐阜市長良鷺山

北緯

35

26

47.4

東経

136

45

14.0

            小説「国取り物語」のお陰で残った「鷺山」(さぎやま)
 40年くらい前昭和36年頃(1961)の高度成長期の宅地開発が盛んな頃、この歴史的にも有名な小さな山「鷺山」は
宅地造成の埋め立て土や、名神高速道路工事用に使われ約3ヘクタールほど削られてしまいました。
 山を崩し始めた頃、「NHKテレビ」で司馬遼太郎の「国盗り物語」が放映され、それまで悪者の代表だった「斉藤道三」が全国の脚光を浴び、風前の灯火だった、「鷺山」も崩されずに済みました。
 その上、近くの「道三塚」も整備され、料金を取って見せるほどになりました。(現在は元に戻ってタダ)
 今では、「道三塚」も昔に戻って子供の遊び場となっています。
                         火の玉伝説の「道三岩」
  「鷺山」の削られた一角に頑として動かない大きな岩が二つありました。
 一つは人間の顔に似ており「人面岩」でしたが、付近で火の玉が現れ、「道三」が首を探し回っているとも言われ
道三岩」と呼ばれるようになりました。
鷺山城
 長良川の北に東西200m南北500m、高さ68mの独立丘が「鷺山」です。
 古来から展望がよく城址として目立ってきました。
 「東山道」が北の麓を通り、南に長良川を控える、この要地は古く鎌倉時代に「源頼朝」の家臣「佐竹常陸介秀義」が最初に築城したと伝えられています。
 室町時代には土岐一族の地となり十一代「土岐頼芸」はここに住んだといわれています。

乗っ取り「斉藤道三」
 頼芸の重臣になった「斉藤道三」はしばしば頼芸の居城を訪ねましたが、下克上(げこくじょう)で一挙に土岐氏を攻め滅ぼし美濃国を制覇しました。
 しかし、「道三」も天文十七年1548)に稲葉山城(後の岐阜城)を息子の「義竜」に譲り、隠居所としてこの「鷺山」に移り住みました。

麓にある「鷺山城址」の碑

濃姫も住んだ「鷺山城」
 道三の娘で織田信長の正室となった「濃姫」も一時ここに住んでいました。
 ところが、その九年後に、道三も息子「義竜」に”長良川決戦”で滅ぼされ「鷺山城」は廃城となりました。

鷺山城(さぎやまじょう)は、平安時代末期、鎌倉時代 - 戦国時代の城である。
標高68mの鷺山の山頂にある。戦いの為の城ではなく、住居としての城であったという。

                 鷺山城の栄枯衰勢
 鎌倉時代の文治年間(1185〜1190)、佐竹常陸介秀義が築城する。

 室町時代、美濃国守護大名である土岐氏の城となるが、文和2年(1353)に川手城が築城されると、鷺山城は重要視されなくなり、
次第に衰退する。永正年間、土岐頼芸が鷺山城を再興し、後の土岐氏第11代として川手城に入るまで居城する。

 享禄3年(1530)、斎藤道三により土岐氏が追放され、道三が稲葉山城に拠点を移したことにより再び衰退する。

 天文17年(1548)、道三が家督を息子の斎藤義龍に譲ると鷺山城を改修、鷺山城に隠居する。しかし義龍はこの道三の行動を、
家督を義竜の弟(斉藤龍重、斉藤龍定)に譲ると勘違いし、弘治元年(1555)、道三を鷺山城から追放する。
 弘治2年(1556)には、義龍は道三を攻め滅ぼし、これを討ち取る(長良川の戦い)。この戦いの後、鷺山城は廃城となる。

                      礎石
 昭和39年(1964)、東海道新幹線や名神高速道路の建設用土砂の採取の為、鷺山城があった鷺山の一部は削り取られる。 この時、鷺山城の礎石と思われる石が発見される。
 一部は削り取られたが、城跡は保存され、土塁、堀等がある。
 礎石の確定的な論証はできないが古城をしのぶ貴重な資料である。

次に鷺山城址から西へ2.5km黒野城址をご案内します

F黒野城跡

(岐阜市黒野)

北緯

35

27

24.6

東経

136

43

37.8

黒野城主「加藤貞泰」の遺恨と義理と見極め
 父、加藤光泰は、はじめ斉藤義竜(道三の義息)に仕えていましたが義竜が織田信長に滅ぼされると、
織田・豊臣氏に仕え甲斐国(山梨県谷村城二十四万石の城主となりましたが、石田三成が時の
関白豊臣秀吉
へ讒言(ざんげん=中傷)により領地を没収されました。
(一説によると朝鮮の役に陣中で没したとも伝えられています)

十六歳の城主「加藤貞泰」
  「加藤光泰」は甲斐国領地(二十四万石)没収後、息子「左衛門尉貞泰」(十六歳)に家督を譲ることで家系は断絶にならず、美濃国黒野(岐阜市黒野)四万石に減禄移封されました。
領地は厚見郡(あつみ)、方県郡(かたがた)で新封地に着くや、文禄三年(1594年)に十六歳の貞泰黒野城を築き市場制度を取り入れ、城下町の繁栄を図りました。

史跡「黒野城址」碑

菖蒲苑となった濠

                 途中で寝返り
 関ヶ原合戦時には「加藤貞泰」は二十歳を迎え、石田三成に遺恨を抱いていましたが、岐阜城の織田秀信はじめ周辺の武将が「西軍」に組したため、それに追従しました。
 黒野城は関ヶ原合戦の攻防線からは離れていたため「西軍」の防御線にも有利な位置になかった。
 竹鼻城、岐阜城が相次いで落城したため、情勢を見極め「東軍」に帰属し二十日後の関ヶ原合戦を戦いました
 このため領地没収を免れ合戦後の慶長十五年(1610)までは黒野城を居城としていましたが、同年七月に伯耆国米子城(鳥取県六万石)に移封され、元和三年(1617)伊豫国大洲城に移り「左近太夫」と名を改め、同九年、(1623)四十四歳で亡くなっています。

              黒野城は十五年間で廃城
 面積17,523u、本丸築堤の高さ5.4mあり、周囲の濠の一部には水をたたえ昔の面影がよく残っています。
 美濃国黒野藩の城であるが、わずか13年で廃城となった。

                 現状
 黒野城跡地は岐阜市史跡に指定されており、公園として整備されている。
 本丸跡地にはグラウンドとなっており、水堀、高さ5mの土塁、城門の礎石などが残っている。

今も残る「庄屋」宅門構え

若き城主の治世
 「加藤貞泰」は黒野時代には洪水に悩まされた領民の苦しみを見かね、長良川右岸に堤防を設け民政の安定に心がけるなど慕われた若き城主でした。
 周辺には「惣門口」「木戸」「二之丸」「井之上」「徳田屋敷」等のゆかりの地名が町名として残っています。
 黒野城跡は岐阜市史跡に指定されています。

城鬼門治めの春日神社

異説黒野城物語
(慶長2年)、加藤貞泰により築城される。

 加藤氏は西美濃安藤氏の一族であり、代々美濃国黒野が所領であったという。
 土岐氏に仕えてていたが、加藤光泰(加藤貞泰の父)は斎藤氏、豊臣秀吉に仕え、甲府24万石を与えられている。
 光泰は文禄の役に出陣したが、帰国途中の文禄2年(1593)に病死する。

 子供の貞泰は幼少であるという理由で、美濃国厚見郡・方県郡4万石に削封されてしまった。
 加藤貞泰は領地内の寺院を仮の住居としてし、黒野城の築城に着手したという。

 貞泰は黒野城の築城後、城下町の建設や、楽市制度の導入するなど基礎を固めていたが、慶長5年(1600)、石田三成と徳川家康が対立すると、西軍側の岐阜城城主織田秀信につき、竹中半兵衛らと共に犬山城の警備を行う。
 しかし、岐阜城が落城すると東軍に和議を申し入れ、関ヶ原の戦いでは東軍に参戦する。
 貞泰は戦後、所領を安堵されたことにより、黒野城は黒野藩4万石の城となる。

 慶長15年(1610)、加藤貞泰は伯耆国米子藩6万石へ加増移封され、黒野藩は廃藩となった。
 これにより黒野城は廃城となる。

 一説によれば、貞泰が長良川右岸の堤防整備を行った結果、長良川左岸の加納城が浸水したと、加納藩主奥平信昌の正室・亀姫が、実父・徳川家康に訴えたため、黒野藩は廃藩となったという。

岐阜市西の長良川沿いの中山道近くにある鏡島城址をご案内します

G鏡島城址

岐阜市鏡島町

北緯

35

24

25.3

東経

136

42

49.7

鏡島城主「石河駿河守光清」の墓
鏡島弘法境内の堤防側に広い墓地があり、その中央にあります
                    鏡島城
 石川駿河守光清が鏡島へ移り城を構えたされる。
 光清は、荒廃していた鏡島弘法乙津寺の伽藍を再建し、京より孤岫宗峻を招いた。
 その孫杢兵衛光信は織田信長に仕え、光信の子光政は豊臣秀吉に仕えた。
 光政の子貞政は、関ヶ原の合戦や、大坂の陣に徳川方として参戦し、大身旗本となった。城は、貞政の前後に廃城になったものと思われる。

岐阜市の南郊外、岐南町伏屋にある伏屋城址をご案内します

H伏屋城趾

羽島郡岐南町伏屋三丁目

北緯

35

22

55.8

東経

136

47

48.7

伏屋城趾
織田信長が美濃の国を守るために豊臣秀吉に作らせた砦です。伏屋城は、木曽川の上流から材木を筏にして運び、わずかな日数で砦を作ったため「一夜城」とも「太閤城」ともいわれました。現在も土塁の一部が残っています。

伏屋城址は分かりにくい場所です。岐南インター東北1,120mほどの所です 

中部排水路沿いの目印の無い角を南へ入ります

               もう一つの「一夜城」
 織田信長が美濃を攻めるため、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に命じて築かせた城と伝えられています。
 古書によると、秀吉は、木曽川周辺に勢力をもつ土豪らの助けを借り、材木を集めて筏を組み、木曽川を利用してこの伏屋に運び込み、砦のような城を築いたとあります。
 これが「伏屋城」で、短期間に作られたことから「一夜城」とも呼ばれています。
 永禄年間(1558〜1569)ころ築かれたと考えられます。

小牧・長久手の戦い
天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いで、秀吉は最北端の砦として、この伏屋城を伏屋市兵衛に守らせました。

続いて南へ3kmほどの川島町松倉にある松倉城址をご案内します。

I松倉城址

羽島郡川島町松倉町

北緯

35

22

02.5

東経

136

51

16.9

    たびたびの木曽川の氾濫で場所は不明確
 松倉城は、木曽川を挟んで美濃側への押さえの城として築かれました。
蜂須賀小六・前野将右衛門らで有名な「川並衆」の拠点の城でもありました。

 現在は、木曽川の治水のため地形は随分変わったものと思われますが、
松倉城にあった樫の大木が水上交通の目印になったとか。 
この樫木を祀った「樫大神」の碑が城址に建てられいます。

               城の歴史
 松倉城は、天文16年に織田信秀によって築かれ、坪内頼貞が初代城主となりました。  四代利定は、川並衆の一人として信長の美濃攻めの案内役として戦功あげました。 
 天正12年、利定は小牧長久手の合戦に際して徳川家康・織田信雄に組したが、秀吉方の池田恒興の軍勢を前に松倉城と新加納城を自ら焼き岡崎方面へと撤退しました。
 その後利定は、天正18年に徳川家康に仕え、慶長5年の関ヶ原での戦功により
6,533石の大身旗本となりました。

実際の城址は木曽川の河川敷きだそうです。

             この地(松倉上ノ島)は、坪内氏の古城あとである。
 戦国の頃、加賀国(現石川県)の富樫の庶流坪内内藤左衛門尉頼定が尾張に来て、犬山城主織田信康(信長の叔父)に
仕えた後、天文十六年(1547)に、初代松倉城主となり松倉を領地とした。
四代目城主坪内(喜太郎)玄蕃頭利定は、織田信長に従いたびたびの合戦に臨み、武功を輝かせた。
 しかし信長没後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と不和になり本領を離れ、一時、金山(現益田郡金山町)に退くことになる。
 たまたま天正十八年(1590)徳川家康に迎えられことになり、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦には井伊直政の軍に属し
抜群の戦功をたてた。
 その功により家康から直々に感状を贈り、翌年、葉栗・各務両郡において六千五百三十三石を賜ることになった。
 その後、坪内氏は旗本を仰せつかり、坪内宗家は江戸に出府し、幕府の組織の重要な地位を占めた。

                     樫大神
 戦国時代の終わりの頃(天正年間)、この地、川島に松倉城が築かれていました。
 当時この地、小網島と松倉上ノ島との境に、樫の大木が高くそびえていました。
 この樫の大木は、四方から眺められ水陸の交通の目印になっていたといわれています。
 この樫の木の下に、松倉城主坪内氏の墓があり、長い間守り続けられてきました。
 そして、明治43年8月、当時の守役であった小島清太郎さんが、この樫のことを忘れ去られることがないようにと碑を建立したといわれています。
 現在の碑の位置は、木曽川の改修工事のため7・80mほど南に移動しています。
 工事の時墓の跡からたくさんの土器や人骨が見つかりました。
 此の時の土器は川島町の「ふるさと史料館」に保管されています。

織田信長と反信長四城同盟(伊木山城・鵜沼城・加冶田城)の加冶田・堂洞合戦に関係する
伊木山城・鵜沼城・猿啄城・加冶田・関城・鉈尾山城を紹介します。

加治田・堂洞合戦に関係ある城址

まず岐阜城に最も近い城から紹介します

J伊木山城跡

各務原市小伊木4丁目

北緯

35

22

53.3

東経

136

56

38.9

 伊木山城は、築城年代や築城者については諸説があり、詳細については定かでないが、永禄年間には伊木忠次が居城していた。 
 永禄8年、織田信長に鵜沼城と伊木山城の攻略を命じられてた木下秀吉は、伊木山城主伊木忠次を調略して織田方に降らせた。 
 城の遺構は、曲輪だけで土塁や竪堀を注意深く探して見たが残っていないようです。 山頂部から西へ尾根筋を行くと熊野神社旧社殿跡を含めて2つのピークがあり、それぞれが出丸的な防御設備が配置されていたと考えられます。
 伊木忠次はその後池田輝政に仕え、天正18年に輝政の三河吉田(豊橋市の吉田城)への転封に従って移り、伊木山城は廃城となった。 伊木山城は、木曽川沿いにある独立丘陵で、現在は「いこいの森伊木の森」となっている伊木山山頂部に築かれた城です。 
 伊木山山頂部に主郭を置き、東西それぞれに2段の曲輪を置いた縄張りで、主郭部には現在はテレビの中継設備が設置されている。

次は犬山城の対岸の岩山にある鵜沼城をご案内します。

K 鵜沼城跡

各務原市鵜沼南町

北緯

35

23

28.7

東経

136

56

55.8

犬山城の対岸にある岩山が鵜沼城跡です。
木曽川に突き出た要害で、永享(えいきょう)年間(1429〜41年)に大沢氏が築き、
代々大沢氏が城主となりました。
永禄4年(1561年)頃から、織田信長の美濃攻めが始まり、
諸城が次々と陥落していく中にあって鵜沼城だけは抵抗を続けました。
そして、木下藤吉郎の斡旋によって、ようやく開城しました。

鵜沼城址の対岸に犬山城が見えます

上流(桃太郎神社付近)から見た鵜沼城跡の岩山
近年まで頂上で旅館が経営されていましたが、事件があり旅館は取り壊され、
立ち入り禁止となっています。

関市にある席城址をご案内します。

L 関城址

関市安桜山

北緯

35

29

06.4

東経

136

55

16.5

本丸曲輪

本丸に祭られている御嶽大神 ニの丸曲輪 三の丸曲輪

                  関城物語 
 長井氏は守護土岐氏の守護代であった斎藤氏の支族で、斎藤利国の嫡子利親が家督と継ぎ弟利隆は長井姓を名乗り斎藤氏の本城小野城に近い富野に志津野城を築いて本拠とした。
 長井利隆の子隼人佐道利は、父の拠城志津野城の近くの椎倉城を築いて自ら居城としていたが西武儀の雄大矢田城の城主山田氏が道三に攻略されたから武儀地方に広く勢力を伸ばし関の安桜山に関城を構え本城とした

 道利は道三の子義龍と謀り長良川の戦いで道三を討ち取り、道三と姻戚関係であった明智城を討伐し侵攻を重ねる織田勢を撃退するなど戦功をたて、日根野備中守とともに国主義龍の最も信頼する武将であった。
 義龍が急死して子の龍興が継ぐと信長の美濃侵攻が激しくなり東濃諸城の討伐が始まり大沢治郎左衛門正重の鵜沼城を誘降、多治見修理の猿啄城を攻略し堂洞城・加治田城を降し関城の長井道利を討伐する戦略であった。
 道利は堂洞城・加治田城と同盟を結び信長勢の迎撃体勢を固めたが、加治田城が盟約を破り信長の誘降に応じ堂洞城落城し次は関城の番となった。
 道利は孤軍となり信長勢に立ち向かったが大軍の前に落城した

甘柿で有名な美濃加茂市蜂屋にある堂洞城址をご案内します

M堂洞城跡

美濃加茂市蜂屋町大仲寺

北緯

35

28

34.4

東経

137

00

26.5

国道418号線の道標 
 此処を北へ約2キロに城跡があります。

  国道418号線 蜂屋町下蜂屋にある道標
 以前はもっと奥にあった道標を国道沿いに移転させたため城址は「是より北 八百米」とありますが、実際はここから北へ2キロあります。

約1キロにある天神神社 神社前を過ぎると池がありさらに登る

狭い道をどんどん進むと、小さな峠へ出ます。
道が交差している左に大きな水源タンクがあります

50mほど進むと左にわき道が見えます。
この道を200m進むと城跡へ出ます

 薄暗い林の中に城跡がありましたが、薄暗くて気味が悪く早々に退散しました。

 案内板の脇にある「八畳岩」ですが、何の謂れがあるのか不明です。

                 信長軍に攻められて落城 
 永禄8年(1565年)尾張の織田信長が小牧山から軍を進め木曽川を越え美濃に伊木山城を築き鵜沼城猿啄城を攻略し加茂郡内に侵入した。

 これに対し堂洞城加治田城関城鉈尾山城の4城は同盟と誓い信長勢を遊撃する手筈であったが加治田城主佐藤忠能は盟約に背いて無断で信長の降伏勧告を受け入れた。

 その夜堂洞城主の岸信房は正室としていた加治田城主佐藤紀伊守忠能の娘を斬殺し翌朝首を竹竿の先に刺して加治田城の正面の長尾丸山の頂上にさらされたという。

 翌日信長の武将である丹羽長秀・河尻鎮吉の軍勢が堂洞城に攻めよせたが、城兵も果敢に応戦したが長尾口丸山方面で奮戦していた信房が討死にしたとの報告を受けた信周は妻と刺し違え自害した。

 城兵も一人の逃亡者もなく全員討死にし、死をもって義理を通した岸一族は滅亡し堂洞城は落城した。

反信長同盟を裏切った加治田城

N加冶田城跡

加茂郡富加町加冶田

北緯

35

29

40.4

東経

136

59

48.5

登り口:美濃加茂市から県道63号で富加町に入り、県道97号との交差点から少し北へ進んで左側の農道に入り、突き当たりを左折して進むと、右側に清水寺(きよみずでら)への案内がある。ここを右折して進むと、写真の場所が現れるから、橋を渡ると駐車場とトイレがある
分岐点の道標 加治田城跡

            加治田・堂洞合戦
 現在 古城山加治田城跡(海抜270m)と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵城(きゃくてきじょう)とも呼ばれていました。
 桶狭間の戦いで今川氏を破った織田信長にとって斉藤龍興が支配する美濃を攻略することは上洛へ向けての重要な戦略でした。
 永禄七年(1564)信長は清洲を出立し、美濃に近い小牧に本拠地を移しました。
 信長の侵攻に備え、斉藤方である関城主 長井隼人正道利(はやとのしょうみちとし)を盟主として、堂洞城主の岸勘解由信周(かげゆのぶちか)、加治田城主の佐藤紀伊守忠能(きいのかみただよし)は反信長の盟約を結んでいました

 美濃攻略に向けて犬山城を攻略した信長は、永禄八年(1565)八月木曽川を渡り鵜沼城(大沢基康)、坂祝町にある猿啄城(さるばみじょう・多治見修理)を次々と攻め落とし、いよいよ岸氏が守る堂洞城へと進軍していきました。信長方への投降を断った堂洞城の岸氏に対し、秋も半ばの旧暦八月二十八日午刻(正午)いよいよ攻撃が開始されました。

 信長は高畑の恵日山に本陣を置いて関城から岸方へ援軍が来るのを防ぎ、夕田と蜂屋より丹羽長秀らが、そして信長方に寝返った加治田城主佐藤紀伊守の軍勢が北面の加治田から攻め入りました。
 そして酉刻(午後六時)、ついに堂洞城
落城しました。
 加治田城主佐藤紀伊守は反信長の盟約のため人質として娘の八重緑を堂洞城の岸方へ養女に出していましたが、加治田方が信長方に寝返ったのを怒った岸勘解由は、開戦前日に加治田城からよく見える長尾丸山でこの娘を竹槍で刺殺したとされています。

 城を枕に義に殉じた岸勘解由と 時勢を洞察して領地を守った佐藤紀伊守。
 この対照的な先人の行動は、それぞれ価値を持って人の生き方について語りかけます。

 佐藤紀伊守は堂洞城陥落後八月二十九日には信長家臣の斉藤新五とともに、関城主長井隼人の反撃を衣丸(現在の加治田字絹丸)で迎え撃ち、翌日には関城
陥落させています。
 中濃三城の陥落後、信長の命令により斉藤新五が佐藤紀伊守の養子となり加治田城主を継ぎました。
 その後の佐藤紀伊守は永禄十年(1567)に隣の伊深村に隠居して仏門に入り、自らが加治田に建てた龍福寺のために尽くしました。
 城主を継いだ斉藤新五は信長の家臣として各地の戦闘に参加し、天正十年(1582)本能寺の変で戦死するまで、その一生を信長の天下統一に捧げました。

 その後の治田城は天正十年(1582)の加治田・兼山合戦を斉藤玄蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城主森長可(ながよし)の領地となり廃城になったといわれています。

    平成十二年十一月 富加町史を一部改変 富加町教育委員会

国道21号線と木曽川河畔の城山山頂にある猿啄城跡を紹介します。

O猿啄(さるばみ)城跡

加茂郡坂祝町勝山字城山

北緯

35

25

14.9

東経

136

57

56.4

勝山の上に見えるのが城址にある展望台

国道21号線には入り口付近の両側に標識 下流より見た猿展望台
現在、城跡に猿啄城展望台があるが、これは1997年12月に坂祝誕生100周年を記念して造られたものです。

山頂の展望台

猿啄城物語

 応永十四年(1407)の頃は西村豊前守善政(にしむらぶぜんのかみよしまさ)の城であった。
 享保三年(1530)清和源氏土岐氏流で斎藤道三に仕えていた田原左衛門尉頼吉は大泉寺の正斎会に出かけていた西村善政を急襲して討ち城を乗っ取り猿啄城主となった。
 天文十六年(1547)頼吉は大泉寺の慣例により正月4日新年斎会に出かけたが、今度は自分の家臣である土岐氏流の多治見修理に襲われ討ち死にした。

 多治見修理は井ノ口に出任し、斎藤道三の情を受けて羽振りをきかせ義龍、龍輿に仕えた。
 永禄八年(1565)八月信長は稲葉山城の外郭をなす東濃諸城を攻略しようとして美濃に侵攻した。

 織田信長は鵜沼城攻略を木下藤吉郎に任せ猿啄城攻撃に向かった。
 猿啄城を守る多治見修理の軍勢は僅かで、攻撃する織田軍は丹羽長秀、河尻鎮吉を将とする二つの軍でその数は数千人であった。
 織田軍は山勢急峻で難攻したが優勢を頼みに押しまくり、また東西の屋根づたいに城に接近し火矢を放ち落城させ、多治見修理は搦手より脱出し北の山を越え落ち延びた。

 信長は幸先のよい戦勝を喜び以来この地を勝山と称することにした。 河尻鎮吉は一連の東濃作戦が終わると信長より猿啄城を与えられ周辺13ヶ村の領主となった。
 天正三年(1575)岩村城へ移り、猿啄城は廃城となった。

途中の道標 堀切跡

城址碑

その他の県下の主要城址をご案内します。

 

高山城址は高山市内にあります

P 高山城跡

高山市空町城址公園

北緯

35

00

00.0

東経

136

00

00.0

高山城本丸跡へは高山市政記念館前交差点から東へ進む道か、
南へ曲がる道のいずれかあります。

高山市政記念館前交差点から東へ進む道を上ると城山公園へ出ます

            高山城の由来
 
永正年中(1504〜1521年)に高山外記が、この山の頂きに築城し、天神山と称してた。
 これが高山という地名および城の起源とも言われています。
 永禄元年(1558年)に三木自綱に攻められて落城し、天正13年(1585年)8月に金森長近公が豊臣秀吉の命により飛騨一国に攻め入り、三木氏を滅ぼして領主となりました。
 金森氏は天正18年築城に着手し16年の歳月をかけて高山城を完成させました。
 全国でも平山城として屈指の名城といわれ元禄5年(1692年)出羽の国上山に転封し天領となるまで、金森氏6代107年間の居城でした。
 元禄8年幕命により加賀藩の手で徹底して破却され昔日の姿を失った。
 臥牛山城、巴山城、岊城などの雅名があった名城でした。
城山公園登り口には「搦手」(からめて)の道札があります。

             高山城
 標高686m通称城山は、別名「臥牛山」、巴山とも言います。
 金森入国以前は、「天神山城」とも呼ばれていました。
 飛騨の守護である多賀出雲守徳言によって、文安年間に築城され、近江の多賀天神を祈ったことから多賀天神山、城は多賀山城と呼ばれていました。
 永正年間には高山外記が在城していました。
 天正13年、金森長近は、秀吉の命を受けて飛騨へ侵攻し、翌年飛騨一国を賜った。
 金森は城地として、最初は鍋山城(現漆垣内町)を考えたが、後にこの天神山城址を選定した。
 飛騨の中央にあり東西南北の街道が交差する最も適所と考えたのである。
 築城は天正16年から始め、慶長5年までの13年で本丸、二の丸が完成し、以後可重によって更に3年で三の丸が築かれた。
 高山城は信長の安土城構築後に築かれ、大きな影響を受けている。
 御殿風の古い城郭形式をもち、外観二層、内部三層の構造をもつ天主を備えているのが特長で、秀吉の大阪城築城以前における城郭史上初期に位置つけられます。
 本丸屋形には台所、風呂、大広間、茶室などがあった。
 南の大手方面には南の出丸、北の搦手方面には東北曲輪、中段屋形が配置されています。

鍋山城址は高山市街地の東方約3km、標高753mの鍋山にあります。

Q 鍋山城跡

高山市松之木町鍋山

北緯

35

00

00.0

東経

136

00

00.0

製作中

松倉城は飛騨の里から1kmほど上がると「松倉シンボル公園」があります。
車でこられた方はここに駐車して画面左の石段を登ります。

R 松倉城跡

高山市西之一色町松倉山

北緯

35

00

00.0

東経

136

00

00.0

                      史跡松倉城
 三木良頼、自綱によって永禄年間(1558)から天正年間中頃(1573)にかけて築かれた。
 三木良頼は永禄元年(1558)長子良頼(自綱)を将として天神山城(後の高山城)の高山外記と畑佐城(新宮町)の山田紀伊守を討った。
 三木自綱は天正5年(1577)山中城(下岡本町)の岡本豊前守を討ち、白川郷を除く一円を支配し、桜洞(益田郡荻原町)を冬城に松倉城を夏城とした。
 松倉城は山城ながら山上の本丸に矢倉、城門を置き標高856.7m、比高360mの松倉山上に巨石を使って、堅固な石垣を築き上げる、戦国末期の山城から一歩前進した雄大な縄張りを持つ城である。
 このころ自綱は、越中の佐々成政二通じて秀吉に従わなかったので、天正13年(1585)秀吉は家臣金森長近二命じて是を撃たせた。
 自綱は高堂城に迎えて戦ったが破れ、秀綱は松倉城で死守した。
 しかし、勇将畑安高が山蔵宗次に討たれ、また藤瀬新蔵が裏切って金森氏に通じ、闇夜に火を放ったので白は落ち、三木氏ここに滅び、以後廃城となった。
                             『現地説明板より』

石段の登り口にはお地蔵様が祀ってあります。

いくつもの石垣を過ぎると本丸に近づきます。

標高865mの本丸跡

郡上踊りで有名な郡上八幡にあります。

S 郡上八幡城跡

郡上郡八幡町

北緯

35

00

00.0

東経

136

00

00.0

製作中

中津川市から木曽川を渡った河畔にあります。

21 苗木城跡

中津川市苗木

北緯

35

00

00.0

東経

136

00

00.0

「城址入り口」「四十八曲り上り口入り口」とは違います

本丸跡

                苗木城天守建物
 
苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていました。
 1階部分の名称は「天守縁下」、板縁を入れて4mx5m(2間×2間半)の広さで、岩の南西側隅にありました。
 2階は「玉蔵」と呼ぱれ、岩が敷地を占め、建物の床面自体の大きさは6mx6m(三間四方)でした。
 ここには1階と3階に通じる階段が設けられていました。
 3階の「天守」は巨岩の上にあり、9m×11m(4間半×5間半)の大きさでした。
 この巨岩の上の柱と梁組は、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用いたしました。   苗木城天守3階部分を一部復元し、展望台として利用できます。      
                         (説明板から)

            二つの巨岩
 本丸跡の一角には2つの巨岩からなる天守台が残っているが、このような天守台も珍しい。往時には三層の天守が築かれていたが、今では巨岩の上に柱と梁組みで天守三階部分の床面が部分的に復元され、展望所となっている。

瑞浪市土岐町

22 鶴ケ城(つるがじょう)

瑞浪市土岐町

北緯

35

00

00.0

東経

136

00

00.0

作成中

23 小里(おり)城跡

瑞浪市稲津町(いなずちょう)小里

北緯

35

00

00.0

東経

136

00

00.0

作成中

24 岩村城跡

岐阜県恵那郡岩村町字城山

北緯

35

00

00.0

東経

136

00

00.0

作成中

岩村の石室千体佛

       石室千体佛
 岐阜県恵那市岩村町一色の「石室千体佛」は七年に一度開帳され、2012/4/22から一般公開された。
 この千体佛は寛永九年(1632)に岩村城主の松平乗寿(のりなが)が領地と住民の安泰繁栄を祈願して建立。
 菩提(ぼだい)寺の龍巌寺(廃寺)に命じて「浄土三部経」壱千部を地中に埋め、その上に石室を設けて一千体の阿弥陀仏像を安置したとされる。
 石室には高さ42aの中尊像一体、同12aの首像10体、同9aの小像990体が並んでいる。
 いずれも木像に金箔が施されている。
 参拝者はわずかな間口からのぞきこんで拝観する。

 (2012年4月22日岐阜新聞「県内サンデーワイド・東濃地域版」より)

 

25 明智城跡

岐阜県恵那郡明智町城山

北緯

35

00

00.0

東経

136

00

00.0

作成中

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。

シルバーの城郭城跡の散歩道「岐阜城周辺の城と城址」