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シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址02」(羽島市・岐阜市柳津町)の城址を収録しました。


大垣城周辺の城址01

大垣城郭・城址の散歩道(目次編)へ

大垣城周辺の城址03

 

  羽島市・岐阜市柳津町

9箇所の城址を紹介します。

羽島市・岐阜市柳津内のヶ所の城址位置図

岐阜市柳津町  23.柳津城(光澤寺)(柳津町本郷・光沢寺)24.高桑城(柳津町高桑)
        
24-1.美濃路一里塚
(羽島市小熊町西小熊)、24-2.源平の古戦場址(岐阜市柳津町佐波)
羽島市  25.竹ヶ鼻城(竹鼻町丸の内3丁目)、25-1.太閤の一夜堤碑(竹鼻町西野町)、
        26.
石河
(いしこ)邸砦址(竹鼻町駒塚)、27.,間島太閤山砦址(福寿町間島)、
        28.
本郷城
(神明神社)(柳津町本郷)、29.須賀(すか)城跡)横手東公園(堀津町横手)
          30八神城(桑原町八神)31.加賀野井城(下中町加賀野井)、
     31-1.城屋敷
下中町城屋敷)、31-2.鏃(やじり)石、 檪江(いちえ)神社(羽島市下中町市之枝)、

 

23.柳津城址

羽島郡柳津町本郷(現岐阜市) 海抜11m

北緯

35

21

50.

東経

136

44

36.

柳津城址碑

柳津城址
県道151号「本郷」信号の南西に「光澤寺」があります。

聖徳山光澤寺柳津城址と言われています。

                   柳津城址
 戦国時代には、木曽川の本流は今の境川あたりを流れてい、要所には大小の城がありました。
 その当時、ここに柳津城があったと言われています。
 旧柳津村には一ヶ城・七ヶ城という字名があり、ここには柳津城の出城や砦があったと思われます。
 柳津城主は竹腰摂津守といわれていますが、弘治二年(1556)長良川の合戦(岐阜城周辺の城址参照)で戦死し、
 その後、叔父の成吉摂津守が城主になりました。
 成吉摂津守は斉藤義龍の武将さらには龍興の重臣として仕えました。
 当時、尾張国だあった柳津まで美濃の勢力が及んでいたようです。
                         (岐阜市・岐阜市文化財審議会)

本堂山門など建て替えられて「本郷城址碑」は本堂の裏へ移されました。

 

24.高桑城址

羽島郡柳津町高桑(現岐阜市)  海抜 6m

北緯

35

20

58.

東経

136

42

28.

城跡説明板あるのみ碑はない。

高桑城址と美濃路
県道157号境川橋の北袂の堤防道路を東へ1kmほどの堤防南に立て「高桑城址」の看板あり
この堤防道路が中山道「垂井宿」と名古屋の「宮宿」をつないだ「美濃路」。
かっての大動脈でした。

高桑城址
岐阜方面からも羽島市からも、いずれからも「県道157号」が分かりやすいと思います。
目印は「善覚寺」が良いと思います。

正面奥の松の木から竹藪あたりが城址です
境川
(江戸時代には木曽川の主流で尾張藩と美濃藩の境の川の意でしたが
現在は流れが変わり本流はかなり東へと変わりました)沿いの堤防脇にあり
竹藪前の説明板を見落とさなないよう気を付けて下さい。

高桑城址
鎌倉時代初め(1190年代)から永禄十年(1567)まで、ここに高桑城がありました。
この城は土塁で築かれ、周囲は約400m、その北西には御館様と呼ばれる城主家高桑氏の住居がありました。
城は、大永七年(1527)八月 留守役の武山氏に渡り永禄十年(1567)織田信長の手によって落城しました。
今は堤外に土盛りが残っており、城石は慈恩寺の観音堂の石垣に使われています。
(岐阜市・岐阜市文化財審議会)

 高桑城(たかくわじょう)は、岐阜県岐阜市柳津町高桑(旧羽島郡柳津町)にあった、鎌倉時代〜戦国時代の城であ
 る。
 歴史
 築城時期は諸説あるが、高桑城の城主である高桑氏が、承久3年(1221)の承久の乱の際、朝廷側の武将として参戦
  している記録があることから、鎌倉時代初期(1190年代)と推測される。土塁で築かれ、周囲は400m(約8a)。
 高桑氏は代々土岐氏に仕え、この高桑城は土岐氏の川手城(岐阜市連法寺町)の支城の役割を担っていた。
 明応3年(1494)、土岐氏の跡継ぎ騒動で起きた船田の乱により、落城。後に再建される。
 大永7年(1527)、斎藤道三に内通していた留守居の武山氏の手により、高桑城は占領され、高桑氏は越前国へ逃亡 
 する。
 享禄3年(1530)には道三が土岐氏を追放し、美濃国の支配を完了し、正式に武山氏の居城となる。
 永禄10年(1567)、織田信長の命を受けた織田信忠(信長の息子)が攻め、高桑城は落城し、廃城となる。
                          ウイッキペディアより

美濃路一里塚碑が高桑城址の西約800mにあります。

24-1.美濃路 一里塚跡

羽島市小熊町1丁目  海抜1m

北緯

35

20

58.7

東経

136

42

28.5

高桑城址への対岸にあります。

美濃路一里塚
垂井町から名古屋市熱田区の「七里の渡し」までの「美濃路」は
羽島市を通ってています

羽島市指定史跡
江戸時代に大名行列や朝鮮通信使らが往来した美濃路街道の一里ごとに設けられた塚あった。
(羽島市教育委員会 建立)

 

24-2.源平の古戦場跡碑
(坂巻運動場公園)

岐阜市柳津町佐波(さば)  海抜10m

北緯

35

21

07.

東経

136

43

40.

「源平の古戦場跡碑」は「坂巻運動場公園」の南西隅にあります。

碑は「境川」右岸の堤防道路から探したほうが見つけやすいと思います。

「源平の古戦場」碑文
 昔から このあたりの古池は蛙合戦の伝説がある。
 毎年旧三月になると無数の蛙が源平両軍兵の七魂となって合戦すのだという。
 養和元年(1181)三月十日源氏は行家(頼朝の叔父)義圓(ぎえん=頼朝の異母弟)を将として墨俣川の東岸に陣を取り 
 平家は秀衡(清盛の五男)維盛(これもり=清盛の嫡孫)を将として川の西岸に陣を布いた。
 翌十一日激戦となり義圓は討死、行家は敗れ退いて、この地に陣をとったが、防戦の後 源氏は敗走した。
(此の合戦は「治承・寿永の乱」で、詳しくは「美濃路ー2」「義円公園」「源義円の墓」を参照して下さい)
 この池から足近直道一帯は第二ので戦場であって、当時戦死者を弔うために、この地に本養寺が建てられた。
 その後この寺は羽島市足近町市場に移り現在の「願教寺」となる。
 脇の「古戦場 尾張川」の石標は明治になって「願教寺」の手によって建てられたものである。
(昭和六十一年三月)

 

一気に「羽島市」へ入ります

25.竹ヶ鼻城址

岐阜県羽島市竹鼻町丸の内3

北緯

35

19

16.

東経

136

42

17.

城跡碑あり

竹ヶ鼻城址
県道151号(岐阜羽島線)「丸の内3」信号を東へ入り300m「名鉄羽島線」を越え
1本目を南折すると「歴史民族資料館」が城址です。

関ケ原合戦前哨戦で落城
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦の前哨戦であった岐阜城攻防戦の際西軍に組みした
岐阜城主織田秀信の部下として竹ヶ鼻城主杉浦五左衛門重勝は、
応援の毛利・梶川・花村らの諸将とともに木曽川右岸に布陣したが
福島正則を将とする東軍に裏をかかれ竹鼻城にたてこもった。
 毛利・梶尾・花村らは降り重勝のみ本丸を死守したが、
ついに城に火を放ち自害して果てた以来この城は使われず廃城となった。
 (羽島市教育委員会)

羽島市指定史跡「竹ヶ鼻城址」
竹ヶ鼻城は「美濃古城史」によると、応仁年間に築城したとある。
天正九年(1581)城主不破源六は、一時荒廃していた城を拡大し、
城の鬼門の守護神として八剱神社を遷座し、菩提所本覚寺を創立した。
同十二年五月、小牧長久手の戦いで、羽柴秀吉の水攻めにあい一ヶ月後に開城した。
最後の城主杉浦五左衛門は、織田秀信(岐阜城主)の旗下にあり、慶長五年(1600)八月
、関ケ原之戦いで東軍の攻撃を受け、自害して城は炎上し、廃城となった。

城跡の位置は、戦前は竹鼻町1507番地(昭和6年県指定)、
戦後は竹鼻町丸の内3丁目48番地の1(昭和30年市指定)となったが、
これらは口承や地形、文献から推定したもので、石垣などの確証などはない。

今回、本丸の跡と刻む石標を、この地(竹鼻町2624番地)へ移したのは、
すぐ道を挟んで「お城地蔵尊があることや、近年、城町開拓の文書資料から、
この地辺りを本丸の跡とみる新説が出され、今後の研究の進展を期待したことによる。
(羽島市教育委員会)

下の画像はこの地図から見た
旧城跡とお濠と伝えられる水路

最初に本丸跡の碑があった所。 堀跡
竹ヶ鼻城の水攻め
天正12年(1584)長島城にいた信雄は徳川家康の援助を受けて小牧・長久手で秀吉と対決することとなった
長久手の一戦で敗北した秀吉は徳川家康との決戦を考え長島城の信雄を攻める作戦に変え、信雄方の加賀野井城(02-31参照)と竹ヶ鼻城を攻撃の的とした
10万騎をひきいる秀吉は5月6日加賀野井城を総攻撃し1日で落城させ、竹ヶ鼻城には信雄・家康を引き出すため長期戦の構えをみせた
地形を見聞した秀吉は木曽川の支流足近川に目を付け水攻めの作戦を実施した
竹ヶ鼻城の東に足近川とつながる逆川が流れており、この逆川堤を利用して町家ぐるみ城を長堤で囲むこととした
秀吉は竹ヶ鼻城の北西1kmにある砂山に付城を築き本陣とした(後の太閤山(02-27参照)といわれた)築堤工事は5月11日より5・6日間で実施され、高さ3m、幅14・5間、長さ2.6kmの長堤ができあがった
これが太閤の一夜堤(次の項25-1参照)といわれるものである
足近川の水を一夜堤の中に入れ、水は二の丸まで入り町家は1mも浸水した
700人が立てこもる城内では筏を組んだりして対抗したが、町屋では逃げ場を失ったねずみやヘビが押し寄せ婦人や子供はこれに苦しみ死ぬものも多かったという
竹ヶ鼻城では信雄や家康に救援の使者を送ったが援軍は現われず、ついに城主不破源六は秀吉の申し入れを受託して開城し伊勢長島の信雄の城へ退却した
歴代城主
竹腰伊豆守尚隆:初代城主
長井豊後守利隆:土岐氏の重臣で明応5年竹ヶ鼻城から加納城(岐阜城周辺の城址参照)へ移る
長井隼人正道利:豊後守の子で後の関城主
不破権内綱村 :土岐・斎藤・織田信長に仕える
不破源六広綱 :綱村の子で信長・信雄に仕える
一柳伊豆守直末:秀吉の家臣で水攻めで落城後城主となった
伊木清兵衛忠次:秀吉の家臣池田輝政の家老
森寺清右衛門 :伊木が三河国田原城へ転封となり今尾城(12海津郡の城126参照)から移ってきた
杉浦五左衛門重勝:関ヶ原の前哨戦で落城し自刃した
こぼれ話
豊臣秀吉が竹ヶ鼻城を水攻めにしたとき、八神城(02-30参照)の姫は竹ヶ鼻城主不破源六郎友綱に嫁いでいた
不破城主は義父毛利八神城(01-30参照)主に救援を求めたが毛利軍は援軍を出さなかった
このため不破城主は水の満ちくる中で酒宴を張り夫人と離縁した
夫人は泣く泣く石田・八神の村境まで帰ってきたが「もうここからは御父上の御領地、一旦嫁いだ娘がどうして今更里に帰りましょう」と言って貞宗の短刀でのどを一突きにして石田の野の露と消えた
お供の三七は墓印に一本の稚松を植えると自分の自刃して果てた
この松はやがて馬子唄にも「石田・八神の三七松は天でおそれて地でひらく」と歌われ枝を折ると血がにじみ、松にふれると奇病にかかるおそろしい松となったという

羽島市竹鼻町西野町 県道151号竹鼻町蒲池信号交差点に秀吉の「太閤一夜堤」の石碑があります。

25-1.「太閤一夜堤」碑

羽島市竹鼻町蒲池町交差点  海抜 9m

北緯

35

19

03.

東経

136

41

51.

太閤一夜堤碑
県道151号「竹鼻町蒲池」信号交差点南東角の電柱脇にあります。

史蹟 一夜堤の跡」碑
一夜堤は、天正十二年五月 羽柴秀吉が竹ヶ鼻城を水攻めにした時、急造した堤である。
秀吉は延長約3キロメートルの堤を築き、十万の兵をもって不破源六広綱竹ヶ鼻城主を攻め落とした。
(同碑文より)

 

26.駒塚石河(いしこ)邸砦跡

羽島市竹鼻町駒塚   海抜 9m

北緯

35

18

07.1

東経

136

43

72.5

駒塚石河邸砦址
この場所は羽島市の木曽川沿い近くの場所で説明のし難い場所です。
カーナビがあれば、「傳法寺」を設定して行けば確実です。
ただし「石河邸砦址」近くは道が狭くて車の運転に充分注意してください。

石河(いしこ)邸砦址
県道18号線あたりから入ると、かなりスムースに到達できます
カーナビなら「傳法寺」が目印になると思います。
道は普通自動車がギリギリの幅です。

 

邸碑あり

狭い道路の奥にあります。 向かいの「聖徳山 傳法寺」が目印になります

史跡 駒塚石河邸跡
 駒塚石河氏は、慶長十七年に尾張藩付属となり美濃国、摂津国に一万石を領していた。
 寛文九年に駒塚村を所在とすることを命ぜられ、一万八千平方bの宅地に壮大な館舎を営んでいた。
(竹鼻町教育委員会)

向かいの「聖徳山 傳法寺」を目標に探してください。

 

27.間島太閤山砦址

羽島市福寿町間島  海抜13m

北緯

35

20

37.

東経

136

36

07.

砦跡碑あり

間島太閤砦址
県道153号(羽島・茶屋新田線)の「福寿町間島3」信号交差点を西へ
突当りまで進み(約400m)左側(南)に八幡神社が「間島太閤砦址」です。

間島太閤山砦址
県道153号の「福寿町間島3」信号南1本目を西折し150m先の突き当り南にあり。

この辺りは「濃尾平野」の真ん中ですべて平地ですが城跡だけは多少土地が高く神明神社がある。

                  間島太閤山(まじまたいこうやま)
 天正12年(1584)5月、豊臣秀吉が一夜堤を築いて竹ヶ鼻城(02-25参照)を水攻めにしたとき、付城(戦闘指揮所)とした小丘です。
 高さ6メートル、巾40メートル四方でしたが、現在は取りこわされて畑となっている。
 昔、この小丘には清水の湧き出る井戸があり、日照りが続いても枯れなかったといわれている。
 この付近からは古武器類も発掘(はっくつ)されているという。
 太閤山が史跡として、市の文化財に指定されている。
                              (羽島市教育委員会)

砦跡の南側が宅地化され、かって立っていた羽島市の史跡碑がなくなりました。

 

28.本郷城址
  (神明神社)

羽島市福寿町本郷 神明神社

北緯

35

21

50.1

東経

136

44

33.5

城跡碑あり

本郷城址
東海道新幹線「岐阜羽島駅」近くで、神社裏は「長良川」堤防で
神社前には県道18号「美濃路」があり交通の要所にあります。

本郷城跡
県道18号を西進し新幹線脇へ近づいた北の「神明神社」が城址

福寿町本郷の神明神社に本郷城があったといわれる。

拝殿脇に本郷城の碑が

              羽島市指定史跡本郷城址碑が
 本郷城の由来
 
本郷城は、神明神社の西に広がる水田2ヘクタール程であり、明治14年以前には城の内と呼ばれていた。
 城の内とは、慶長6年(1601)より、元和9年(1622)まで稲葉内匠正成(付・妻は斉藤内蔵助利三の娘で、後年徳川3代将軍家光の乳母となる春日局)が、羽栗郡内と中島郡内を合わせてほぼ1万石を領して、居城を構えた本郷城の跡であり、この神明神社も創祀は城の鎮守神との伝承がある。
 現在でも本郷地内には鉄砲町、町裏、町田紅屋、鐘鋳などの小字名が残り、城下町の名残りを止めている。
 今日では城跡の面影を残すものは何もないが、この地が本郷城のあったことが分かる。
                    (羽島市教育委員会)

 

29.須賀城址
  (横手東公園)

羽島市堀津町須賀南 横手東公園     海抜 6m

北緯

35

18

28.

東経

136

40

42.

須賀城址
羽島市堀津町横手1丁目の「横手東公園」の小山に「開発碑」がありますが
「城址碑」ではありません。
ただこの辺りを地元の人達は「定城」と呼び、かっての古城跡と言われているそうです。

須賀城址
県道1号線「舟橋町本町4」信号(五叉路)を西へ600mほどにある
「横手東公園」の中央に碑があり

須賀城址
此処も説明しにくい地です。
この場所より西に走る「県道194号」の「名神高速道路」の下をくぐるガードの
北口から東へ約700m走ると上図の赤点へ来られます。

地元では「横手東公園」と言われている「須賀城址」

開発山の周辺一帯は小字を「定城(さだしろ)」とよび、かっての古城跡と言われている。(抜粋)


30.八神城址

羽島市桑原町八神

北緯

35

15

05.

東経

136

41

44.

明治まで続いたが今は何もなし
 永禄年間(1558〜70)初期、毛利広盛が築くと伝わるが、他説もある。
  戦国期、織田信長・信雄・豊臣秀吉に仕え、関ヶ原合戦では西軍に属したため、合戦後に減知された。
 江戸時代は八神地域の領主として尾張徳川家に仕え、明治まで続いた。
 城地の一角に今も現存する大銀杏は市天然記念物に指定されている。
 (現地説明板より)

八神城址
羽島市八神にある「八神城址」も説明のし難い場所にあります。
「八神郵便局」か「桑原中学校」から探して下さい。

八神城址
羽島市桑原町八神の県道134号の東側の田圃の真ん中に大きく育つった大木が見えます。
白い建物の奥に城址はあります。

八神城跡
カーナビがあっても来難い城址です。
近所に寺などが無いためでしょうか?
唯一「桑原郵便局」が目標になります。

遠くから見た八神城址
右側の高い木が「八神城址の大イチョウ」です。

民地にあるようです。(民家=毛利縫製)の入口に「八神城址碑」が立っています。

事務所と自宅の間を入ります。

                    八神城址
 八神城主は毛利家であった。同氏は鎌倉時代より尾張長岡庄石田郷司職としてこの地方の地頭あるいは領主として幕末まで居住していた。
 明治維新後もこの八神城址の一角に居住していた。
 この間には、土岐・織田・豊臣徳川に仕え、江戸時代には名古屋藩に属した。
                        (現地説明板より)
           八神城址のイチョウ
 このイチョウは、八神城主毛利氏が江戸初期に居住を下中町石田から八神に移した後に植えられたものである。  樹齢三十b、目通り3.9b、に及ぶ大樹である。

毛利家古図

八神領主館地の碑

県道134号線から見た「八神城址」

                    こぼれ話
豊臣秀吉が竹ヶ鼻城を水攻めにしたとき、八神城(B-28参照)の姫は竹ヶ鼻城主不破源六郎友綱に嫁いでいた
不破城主は義父毛利八神城主に救援を求めたが毛利軍は援軍を出さなかった
このため不破城主は水の満ちくる中で酒宴を張り夫人と離縁した
夫人は泣く泣く石田・八神の村境まで帰ってきたが「もうここからは御父上の御領地、一旦嫁いだ娘がどうして今更里に帰りましょう」と言って貞宗の短刀でのどを一突きにして石田の野の露と消えた
お供の三七は墓印に一本の稚松を植えると自分の自刃して果てた
この松はやがて馬子唄にも「石田・八神の三七松は天でおそれて地でひらく」と歌われ枝を折ると血がにじみ、松にふれると奇病にかかるおそろしい松となったという

 

31.加賀野井城址

羽島市下中町西加賀野井内屋敷620  海抜 8m

北緯

35

17

22.

東経

136

43

10.

城址碑あり

加賀野井城跡
羽島市下中町加賀野井の木曽川堤防下にある田園の中にあり、
道路は耕運機が主体で交通が大変。
遠くから見て車が来るのが判ったら「NIKKO」横まで戻るか脇道へ入って待機するか
その場合溝にタイヤを落とさないように十分気を付けること

加賀野井城跡
県道118号の「上中町一色」信号〜東へ曲がると「日興製菓(建物にNIKKOの文字)」
の北側の道を堤防に向けて進むと城跡があります。

入口の目印
県道118号線の上中町一色信号を東へ曲がり道なりに進む
上中町一色信号より南から入る場合は歩行者用地下道南の道を入ると建物「NIKKO」前へ出る。
 
県道118号線から見た建物「NIKKO」
建物「NIKKO」脇を堤防方向へ入る

真っ直ぐに堤防へ進むと遠くに城跡の松の木が見えます。

                     堤防手前に少し木の生えた場所が城址です
                加賀野井城址
 築城時期も築城者も不明である。 城は木曽川に面して建っていたとされる。
 尾張からの侵略阻止用として築かれたことは確かである。 戦国時代には加賀野井氏が城主であった。
 城は関ヶ原合戦後に廃城となった。現在は荒地に城址説明版がある。

         加賀野井城主は口論で斬殺、断絶・廃城
 この城の築造年代は明らかでないが、天正年間(1573〜1591)には加賀野井弥八郎秀望が織田信長の家臣となり、四百五十貫文(一万石)を領して城主となっていた。
 本能寺の変(天正十年・1582)の後、豊臣秀吉と主筋織田家との間に対立が生じ、天正十二年四月長久手において戦ったが、豊臣方の大敗となり、翌年五月緒戦の雪辱のため一転して当城を攻撃した。
 城中には信雄の援軍二千余騎も加わり必死に防いだが、豊臣方十万の大軍の前に抵抗しきれず、城明け渡しと、除名を条件に和議を申し入れたが秀吉は受け入れなかった。そのため、五日夜陰に乗じ大手門より打って出て、最後の決戦を試し見た。しかし衆寡適せず城兵は枕を並べて討死し、城主加賀野井秀望はからくも脱出して関東にのがれて落城に至った。
 その後加賀野井秀望は、秀吉に仕えて旧知加賀野井1万石を領した。
 加賀野井秀望は、慶長5年の関ヶ原の合戦の直前、三河池鯉鮒で水野忠重と口論して忠重を斬殺、秀望も水野の家臣に斬られ絶命し、加賀野井氏は断絶し城も廃城となった。
                            (羽島市教育委員会)

加賀野井城跡の近くに「城屋敷」という地名があります。

 31-1.城屋敷

羽島市下中町城屋敷

北緯

35

17

東経

136

42

後日調査予定

加賀野井城跡の近くに変わった神社があるので紹介します。

 鏃(やじり)石
31-2.檪江(いちえ)神社

羽島市下中町市之枝

北緯

35

17

04.7

東経

136

42

03.9

檪江神社
八神城址の北600mくらいの場所ですから寄って見て下さい。

                   羽島市指定有形文化財鏃石(やじりいし)
 この鏃石は伝承によれば藤原秀郷の作(別名 田原藤大秀郷)といわれる。 縦39a、横27aの自然石である。
 これは今を去る1020余年前の天慶の乱(天慶二年・939)に逆将平将門(たいらのまさかど)征誅の大功を修めた忠臣藤原秀郷公は君命により将門の首級を京都に護送さんために東国より上洛の途路に当檪江神社に参籠祈願をなし後のためにと朝臣自ら矢尻を以ってこの石に刻みおいたといわれる。
  尚、この檪江神社は、尾張国神名帳に登録されている古い宮で地名を生んだ有力な手がかりとされている
  檪江は「いちえ」とよんでいる。   (平成五年八月建之 羽島市教育委員会)

                     鏃石(やじりいし)
 この鏃石(やじりいし・羽島市指定有形文化財)は伝承によれば藤原秀郷の作(別名 田原藤大秀郷)といわれる。 縦39a、横27aの自然石である。
 これは今を去る1020余年前の天慶の乱(天慶二年・939)に逆将平将門(たいらのまさかど)征誅の大功を修めた忠臣藤原秀郷公は君命により将門の首級を京都に護送さんために東国より上洛の途路に当檪江(いちえ神社に参籠祈願をなし後のためにと朝臣自ら矢尻を以ってこの石に刻みおいたといわれる。
                                        (平成五年八月建之 羽島市教育委員会)


大垣城周辺の城址01

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大垣城周辺の城址03

シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址02」(羽島市・岐阜市柳津町)