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シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址11」(養老郡)の城址を収録しました。


大垣城周辺の城址10

城郭・城址の散歩道(目次)へ

大垣城周辺の城址12

このページで紹介する城址の一覧表

養老郡養老町・大垣市上石津町

市郡内の10箇所の城址を紹介します。

養老郡
養老町

126.宇田城(養老町宇田)、   127.大墳城(おおつか=養老町三神(みかみ)町)、
127-1.移築された荘福寺(養老町押越)、127-2.金屋河原の合戦碑(須賀神社)(養老町安久)、
127-3.牧田合戦址と多羅街道址と象鼻古墳群
(養老町橋爪)、
128.
押越城(養老町押越474) 、129.大跡城(おお あと=養老町大跡)、
130.
下笠代官所
(養老町下笠) 131.大葉城(養老町大場)、
132.根古地城
(養老町根古地)、133.柏尾城(養老町柏尾)、

大垣市

134.市之瀬城(桑原家住宅)(大垣市上石津町一之瀬)、
135.
西高木家陣屋
(多羅城(大垣市上石津町宮)

 

126.宇田城址

岐阜県養老郡養老町宇田  海抜 10m

北緯

35

19

11.

東経

136

33

33.

県道215から約200mの地点付近に「大通寺」はあります。
宇田城址
応永年間(1374〜1426)土岐悪五郎廉貞の子康任が宇田郷に地に移り住み
宇田館を築城したことに始まる。
子孫は当地に勢力を伸ばし繁栄をを見た。
天文十六年(1547)美濃国守護土岐頼芸勢として
大桑合戦に参加して敗れる。
以後一族に衰えが見られ当地より離散するものが現れるようになり当城も廃城となる。
現在城を偲ぶものとしては、城内に築かれ康貞親子を弔う大通寺と
小字堀之内の地名が残るのみである
(寄贈 宇田安彦)

宇田城址(大通寺)
養老町宇田の県道214号(養老赤坂線)の「飯田西」信号を西へ約600mの交差点を
南進し一つ目の交差点を西進する。

有源山 大通寺
後村上天皇の御代、源頼光十三代の後胤土岐悪五郎康貞が合戦により亡くなった
一族郎党の霊を弔う為、正平八年(1353)宇田郷の地に開創した寺であり、
宇田城の一部をなす寺内には開創した康貞嫡子康任親子の五輪塔と供に一族郎党のが点在する。
また康貞の功績を称え、後の大垣藩藩主七代に亘り二〇五年間二石七斗六升三合を
贈った黒印状(黒印状(こくいんじょう)とは、
戦国時代から江戸時代にかけて将軍・大名・旗本などが墨を用いて
押印した上で発給した文書のこと。)がある。
(寄贈 宇田安彦)

土岐悪五郎康貞(宇田城主 三河守)  宇田二郎康任(二代城主・土岐一郎)
実相蛇殿謙巌憔恭大居士       真如院寂長良翁義温大居士

 

127.大墳(大塚)城址
(おおつか)         

岐阜県養老郡養老町三神町  海抜 9m

北緯

35

18

43.

東経

136

33

33.

「荘福寺 大墳(大塚)城址」碑
養老町三神地区の牧田川右岸の堤防下に碑はあります。
碑文には「昭和9年牧田川改修工事に伴い現在地に移築した」とありますが、
現在地は養老町三神町で、荘福寺は「押越町」にあるようです。
(文言の差異は後ほど調べる予定です・シルバーの散歩道

大墳(大塚)城址
県道216号の「養老警察署多芸警察官駐在所」のある交差点を東へ入り、
「みかみ集会所」の次の三叉路を北へ曲がり堤防手前の西側に碑が見えます。

「荘福寺 大塚城の地」碑
石碑の文言によると「昭和9年に牧田川改修のため現在地 押越に移築したとあります。
しかし、「碑」の現在地は養老町三神です。

         大塚城
 九毛六郎兼頼は小笠原長清六世の孫で九毛家の始祖である。
 荘福寺境内の大塚城に住み、その子孫は、多芸郡に勢力を広め織田信長・豊臣秀吉に仕え、一万石を領していた。
 九毛三郎兵衛兼利(安職)は天正十七年(1589)安八郡福束に移り二万石を領した。
 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いには西軍に属し敗退した後、前田家に仕えた。

     荘福寺 大塚城の址
 荘福寺は小笠原長清が建久年間(1190〜1199)二創建し、小笠原家の末裔 九毛家の菩提寺である。
 元禄十二年(1699)焼失、後再建した。
 室町時代の歌人、徹書記の配流地で、姥石の伝説がある。
 長清の遺骨を納めた漆骨臓器は県指定文化財である。
 昭和九年(1934)牧田川改修のため現在地押越に移築した。

 

127-1.移築された元大塚城址の
荘福寺

岐阜県養老郡養老町押越町  海抜 12m

北緯

35

18

18.

東経

136

33

22.

荘福寺の場所
県道215号(養老〜赤坂線)「高田西町」信号から東へ「五日市川」を渡って
3本目の南へ入り2本目を曲がり50mの左側に「荘福寺」があります。

移転してきた「荘福寺」
県道215号(養老・赤坂線)の「高田西町」信号の南東70mの変形四差路を南へ
入り二つ目の三叉路を東40mに「荘福寺」があります。

「荘福寺 大塚城址」碑(養老町三神)にある荘福寺は
養老町押越に移築されていました。

この寺のスポンサーは現在は「玉泉堂酒造」さんです。

玉泉堂酒造

本社建物は「養老町役場」前ですが「荘福寺」については元本社のあった
押越の奥様の方が詳しいようです。

 

127-2.金屋河原の合戦址碑
(須賀神社)

岐阜県養老郡養老町安久  海抜 −1m

北緯

35

15

35.

東経

136

36

14.

「金屋河原の合戦址」「須賀神社」の合戦碑

金屋河原の合戦址
金屋河原の合戦址は養老町金屋ですが126宇田城址や
牧田川の対岸には127大墳城跡がすぐ近くです。
合戦址には何も無く、「須賀神社」に合戦碑があるのみです。

 

金屋河原の合戦址
慶長五年(1600)九月十五日関ヶ原の戦いで栗原山・岡ヶ鼻に陣を構えていた
西軍の将(長曽我部盛親=土佐の二十二万石の領主で兵六千人を率いて参戦中、
詳しくは115-1長曽我部盛親陣跡を参照)は、その敗報を聞いて、戦わずして伊勢方面へ逃げようとした。
東軍の松ノ木城主徳永・横井などの軍は、口ヶ島村・岩道村に陣を構えていたが直ちにこれを金屋河原に迎え撃った。
この戦いで、東軍は侍八十一人、雑兵六十三人の首を挙げた。
金屋の春日神社の堤防の脇にあるムクの巨木は、その首を埋めた墓標と言われ、
玉泉寺には、戦死者を弔った五輪の塔がまつられている。  養老町教育委員会
(碑の文のまま)

合戦のあった河原は堤防改修工事中でした。

迎え撃った「松ノ木城主 徳永寿昌」
慶長五年(1600)九月十五日関ヶ原の戦いで 西軍の将 長曽我部盛親(土佐の二十二万石の領主)は
兵六千人を率いて栗原山・岡ヶ鼻(現不破郡垂井町栗原)に陣を構えていたが、
吉川広家の内通により傍観軍となり
西軍の敗報を聞いて、戦わずして伊勢方面へ逃げようとした。
この時、東軍の松ノ木城主 徳永寿昌は軍六百人と今尾城主市橋長勝の軍三百人は、
口ヶ島村・岩道村に陣を構えていて、直ちにこれを金屋河原に迎え撃った。
この戦いで、東軍は侍八十一人、雑兵六十三人の首を挙げた。
土佐二十二万石の領主長曽我部盛親は、帰国後は、領地を没収され浪人となり、
大阪夏の陣では豊臣方で活躍しましたが、 捕えられて斬首されました。
とあり松ノ木城主 徳永寿昌については詳しくは不明です。
( 詳しくは115-1長曽我部盛親陣跡138松ノ木城址を参照を参照してください。)

 

127-3.牧田合戦址碑
多羅街道址
象鼻山古墳群

岐阜県養老郡養老町橋爪  海抜 

北緯

35

15

東経

136

36

「金屋河原の合戦址」「須賀神社」の合戦碑

牧田合戦の地址(稲葉備中守・丸毛兵庫頭奮戦の地)碑
県道96号(大垣・養老公園線)を南進し「蛇持」信号を西折し象鼻山麓の南側に碑があります。
(名神高速道路ガード手前約200m手前)

碑文
大永五年(1525)江州(滋賀建草津市)小谷城(日本五大山城の一つ。標高約495m小谷山に築かれ、
浅井長政とお市の方との悲劇の城で、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城。)主
浅井亮政治は、牧田に陣を構えた。
これに対して美濃国守護職土岐頼芸は、栗原山(10-115栗原城址参照)に軍を進めた。
八月二日両軍は栗原・別所・橋爪・牧田付近で激戦を交えたが、
勝敗ノつかぬまま両軍引きあげてしまった。
これを牧田合戦と言う。
碑文(裏面)
この戦いで、大墳城(おおつか=11-127大墳城址参照)主 丸毛兵庫頭の一族は奮戦して、太田柄をたてた。
稲葉備中守通則は、その子五人と共に討死してしまったので出家していた末子が還俗して稲葉家を継いだ。
この人が勇将と称えられた稲葉一鉄(08-90稲葉一鉄が攻め落とした清水古城跡
08-91稲葉一鉄が建てた清水城址
06-75-1稲葉一鉄の墓参照)である。
(養老町教育委員会)

多羅街道址

古道 多羅街道
古道多羅街道の現存する唯一の場所(約70m)がここです。
多羅街道は、現在の大垣市上石津多良と養老町橋爪(当地)、
新宮、室原を経て大垣を結ぶ重要な街道(約25km)でした。
江戸時代も多良は、旗本高木家の居所で、この地方の産業の中心地でした。
また大垣は、十万石戸田家の城下町で政治・経済・文化の中心地として多良地方とは
深い関係を持っていた関係で、この古道が多くの人が往来し、
各地の政治・産業・文化発展の役目を担っていました。

象鼻山古墳群

象鼻山古墳群(ぞうびざんこふんぐん)
岐阜県養老町の南宮山の東南端に位置する象鼻山(別庄山)の山頂にある古墳群。
弥生時代後期から古墳時代後期(2世紀中頃から6世紀)に築造された約70基の古墳からなる。
墳形様式は前方後方墳・円墳・方墳で発掘調査された10基の古墳のうち、
1号墳は3世紀後半、1号墳周辺の7基は2世紀に、また51号墳と53号墳は5世紀の築造とされている。
(フリー百科事典ウィキペディアより)

入口の奥に柵がありますが、鍵なしの鎖です。
鹿が田畑に出て来ないようにしてあるので、開けたら必ず閉めて置くこと。
手前の鎖とポールは車用です、

 

128.押越城址

岐阜県養老郡養老町押越  海抜 23

北緯

35

18

09.

東経

136

33

20.

「押越城址(渋谷家)」
県道215「押越北」信号から250m南西の大きな屋敷「渋谷家」「押越城址」です。

押越城跡
目標があまりない城址ですが画面左下隅にある養老小学校が目印になると思います。

城門まで15mほど入ります

渋谷家は一区画全部を占めています

 

129.大跡(おおあと)城址

岐阜県養老郡養老町大跡  海抜 3m

北緯

35

17

13.

東経

136

34

42.

大跡城址は六社神社の東
 大跡城は、六社神社の境内一帯にあったと云われていますが、
 位置は六社神社の北西約200m、隋陽寺の西南約100m

大跡城址
県道213号「大跡」信号の北西方向の水田あたり。

中央の茂みが屋敷跡
現在の住人は最近この地を購入した方で歴史とは無関係。
大跡城の築城年代や築城者は不明であるが、戸倉九久右衛門の居城と云われています。
周りの田圃は以前は城の濠のまま残っていたが昭和34年(1959)8月13日の集中豪雨時に約2mの浸水にあい、
埋められ水田となりました。
(近くの随陽寺のご住職の話から、平成13.12)

城域だったと言われる六社神社

随陽寺
大跡城址の話を聞かせてくださったご住職の寺

 

130.下笠代官所跡

岐阜県養老郡養老町下笠  海抜 13m

北緯

35

16

53.

東経

136

35

22.

県道225「小倉鳥江大垣線」の「下笠中村」信号南100mの
三差路を西へ入り、道なりに70m程進むと、
南に「素戔鳴神社」、北に「下笠代官所跡」碑がある。

下笠代官所跡
県道225号線と県道213号線の交差する「下笠中村」信号を
200mほど南下し、変則四差路を西へ曲がり、50mほどの電柱の脇に
立派な碑があります。

この一区画全部が代官所だったそうです。

 元和元年(1615)から元禄十二年(1699)まで八十四年間ここに代官所が置かれ初代石原清左衛門一重から第四代石原清左衛門正利まで、この地方の幕府直轄地の年貢の収納やその他の政治を支配しました。(石碑文より)  下有知(現美濃市)の代官から下笠代官所へ初代石原清左衛門一重が移り、二代?重、三代正永と続き、四代石原清左衛門正利の時、四日市代官所に移りました。(石碑文より)

 

131.大葉城址

岐阜県養老郡養老町大場  海抜 2m

北緯

35

15

51.

東経

135

35

55.

「大葉城址」
国道258(水郷街道「根古地」信号を西へ曲がり、500mほど西進し、
最初の三差路を北折すると上図の最下段へ出る。
道なりに300m程進むと東側に「西運寺」が見えてくる。

大葉城址(西運寺東の民家か田圃)
国道258号(水郷街道)「根古地」信号を西へ入り、道なりに800mほど進むと
「西運寺」西にでます。大葉城址はこの辺りです。

西運寺の近くの人の話
西運寺の北西隣の、「この家が城の中心だったと言われている」と話してくださった。(平成13.12)

城の歴史
  大葉城は、築城年代や築城者は定かでないが、土岐氏一族岡田頼時の居城と云われている。
 (「ようこそ! お城の旅日記へ」より

西運寺城址とも言われている

 

132.根古地城址

岐阜県養老郡養老町根古地218  海抜 −1m

北緯

35

15

35.

東経

136

36

14.

根古地城址の「天照寺」
寺の境内に「八幡神社」が祀られているのは、かっては城内に 
城主が出陣するとき無事の帰還を願って「八幡大菩薩」にお参りするために祀っていたと考えられる。

根古地城址(天照寺)
国道258号(水郷街道)の「根古地」信号南50mの西側にあります。

「天照寺」

同じ境内にある「八幡神社」

岐阜県史跡「天照寺薩摩工事義歿者墓」
時の幕府は宝暦3年(1753)12月25日に薩摩藩(現、鹿児島)に木曽三川(岐阜県)治水工事を命じた。
工事は薩摩藩の家老平田靱負が総奉行となり幕府の厳しい監督の元にすすめられた。
大勢の犠牲を強い、また藩の財政を圧迫するなどして工事が成し遂げられました。
その時の犠牲者がこの寺に祀られています。
(現地説明板より)

 

133.柏尾城址
(かしわお)

岐阜県養老郡養老町柏尾  海抜 58m

北緯

35

17

32.

東経

136

25

51.

柏尾城址
養老郡柏尾地区は「県道56」と「県道96」が交差する「養老公園東」下地区と
「神明神社」「存徳寺」がある上地区に分かれています。
城があったと思われる地区は上地区と思われます。
柏尾上地区は「石畑」地区から神明神社までの100mほどの道の両側の
十数軒の地区です。
城址の話を聞こうと平日尋ねましたが殆どが(存徳寺住職も)留守!
ただ一軒の細川宅が応対に出て下さり、一時間ほど話を聞けましたが
「以前から地区で話題になっていたが文書など無いため不明」とのこと。
神明神社上にある千体仏の近くに山中ながら平らな部分があり
そこが城址と思われるとの事でした。
(シルバーの散歩道)

柏尾城址(神明神社)
県道56号と県道213号の交差する「石畑」信号から山へ入れますが
「ふれあいセンター養老広場」辺りからの方が道は広いと思います。
後は1本道を神明神社へ近くまで車で入れます。

家並が無くなると神明神社までの道が続きます。

神明神社付近は城址のような石垣が各所にあります。

土中から出た墓石群だそうです。
その上にある城址のような平らな部分

 

134.市之瀬城址
(桑原家住宅)

大垣市上石津町一之瀬  海抜 79m

北緯

35

18

39.

東経

136

28

48¥4.

139市之瀬城址へは国道365「川西」信号を西へ入り
300mにある三叉路を左へ曲がり川に沿って坂道を登ると
藁葺の屋根が見えてきます。

市之瀬城址(桑原家)
国道365号線(牧田川やまざくら街道)の一之瀬地区の「バイパス旧伊勢街道」
へ入り山の方へ登り川に沿って登ると麦藁葺きの住家が見えてきます。

国道365から西側に弓なりに集落へ入る道を進むと突き当りに「桑原邸」の看板があります。
三叉路を南へ入るります。

100mほど進むと三叉路へ、、正面に「桑原家住宅」の説明板があります。
三叉路の右側上に「桑原邸」の麦わら屋根が見えます。

国重要文化財 桑原家住宅
 桑原家の先祖は天文十四年(1545)に伊勢の阿下喜(あげき)城から移り住んだといわれ、
織田信長・豊臣秀吉の重臣の一人として仕えた。
 また江戸時代には、尾州藩の郷士として重きをなしきた家柄である。
 屋敷はもと、現屋敷地の右上段にあったが、享保十八年(1733)火災にあい、
その後現在地に新築されたのが現建物である。
(途中の三叉路の説明板より

 

135.旗本西高木家陣屋址
(多羅城址)

大垣市上石津町宮

北緯

35

16

57.0

東経

136

28

09.3

国道365の「上石津」信号を西へ入り「旧伊勢街道」沿いにある。

旗本西高木家陣屋跡
国道365線(牧田川やまざくら線)「下多度」信号か「上原」信号から西側へ入り
旧伊勢街道を脇にある「旗本西高木家陣屋跡(多羅城址)」へ。

  旗本西高木家
  関ヶ原合戦の功によって、翌年、高木家が多羅(上石津)に入封した高木家は西高木家・東高木家・北高木家の3家があり、
それぞれ陣屋を構え、明治維新までつづいた。
 西高木家陣屋跡には長屋門が移築されており、周辺部には石垣が残る。
特に埋門(うずみもん)の石垣はほぼ完存という。
また北高木家には蔵が残る。。

西高木家の遺構
 「濃州q行記(のうしゅうじゅんこうき)」(寛政年間)によると、「高木三家の館は祢
宣上と宮村の間にあり館を山の峰に構え、下より見上げ殆ど城郭に彷彿たり」とあ
るように、埋門跡から高台へと続く堅固な石積みは往時を偲ばせ、背後には陣屋を
取り巻くように谷川(加治屋川)が流れて、自然の要塞をなしています。               

美濃衆陣屋跡碑
高木家入郷地の碑
 高木家は大和の出で伊勢を経て美濃に移り弘治二年(1556)斉藤道三に仕えて駒野にいましたが
永禄七年(1564)に織田信長に従い、その後軍功により今尾城を給わりこの地を本拠としました。                     
 豊臣時代には高木一族は甲斐(山梨)に赴きやがて徳川家康に召しだされ
慶長二年(1597)上総(かずさ)国(千葉県)などに所領を与えられました。                                                   
  関ヶ原合戦の時には徳川勢の案内者として西上し軍功により美濃国 、多良の地を拝領。
 慶長六年(1601)に入郷しました。
(現地碑文より)

旗本西高木家陣屋跡
(平成八年 岐阜県史跡指定)
表門
 陣屋跡には表門(嘉永五年の棟札)と土蔵(文政十年)が残るのみで、
奥に見える母屋は明治29年に新築されたものだそうです。

高木家の歴史
  高木家は、清和源氏を祖とし玉との喬木村に住み氏とした。  その後伊勢国に移り室町時代の中頃には美濃国石津郡駒野に住し、斉藤道三や織田信長に従い駒野、今尾を与えられこの地を根拠としていた。            
  信長亡き後は信雄に従い、秀吉により信雄が秋田に遠流されると貞利は一族と共に甲州(山梨)の加藤光泰の許へ寓居した                                                    
 文禄四年 貞利は徳川家康に召され上総国で千石を与えられ、慶長五年の関ヶ原合戦の軍功により多良郷の内、貞利(西家)二千三百石、貞友(東家)千石、貞俊(北家)千石を拝領し、翌六年入部した。             
 この三家は交代寄合美濃衆といい、大名格で寓せられ参勤交代を行ない江戸期を通じ在地して所領や周辺の治安維持に当たり明治に至った。                                          
 また、寛永元年以来、国役普請奉行を勤め、この後水行奉行に任ぜられ濃・勢・尾州の川通利を年々巡検し水利治水事業に当たっていた。                                             
木曽三川の水奉行として活躍
 高木家は寛政年間以後、木曽水系における国役普請のたびに普請奉行を勤めました。宝永二年(1705)からは、美濃・伊勢・尾張の川通巡見役義を命じられ、幕末まで一貫して、日常にも、諸河川の見分や見回りの御用を勤めました。                                            
 宝暦四年(1754)之薩摩藩の御手伝普請(宝暦治水)には、西高木家の高木新兵衛は、東・北家ともども御用掛として普請監督に当たりました。その時に書かれた公用日記「蒼海記」はよく知られています。    
宝暦治水
揖斐川の河床は25bも低い

 濃尾平野を見下ろす木曽三川之中でも、揖斐川之河床は木曽川より25bも低いため、ひとたび洪水ともなればみな揖斐川へと流れ込み、そのたび輪中の堤は決壊して農地は大きな被害を受けてきました。   
 宝暦三年(1753)12月25日、将軍家重はこの木曽三川の治水工事(お手伝普請)を薩摩藩の島津重年に命じました。                                                        
 薩摩藩では家老の平田靭負を総奉行として約900人の藩士が宝暦四年四月二日より工事を始め、翌年の三月に完成しました。この間薩摩藩では莫大な費用と80数名の尊い犠牲者を出しました。         
大榑川の洗堰工事
 宝暦治水工事は工区を四つに分けて行なわれましたが、大川洗堰工事(三之手)は油島の食違堰工事(四之手)と共に実に難工事でした。 この工事は長良川が揖斐川にそそぐ、大傳川の入口付近に長さ186b、幅12bにわたる石積みを敷き詰め、長良川の水かさが増すと、この石堤を越えて大川へ流れ、水之勢いを緩めるようにした水越場のことです。       

宝暦治水と水奉行高木家
 高木家は一之手を高木新兵衛・三之手を高木内膳・四之手を高木玄蕃がそれぞれ幕府役人と共に
普請奉行として工事の監督にあたりました。                                                                           
 宝暦四年四月二十二日高木新兵衛の家来内藤十佐衛門(川通役)は計画通りに出来ない工事上の責任をとって切腹しました。
(蒼海記)また、高木内膳の家来枡屋伊兵衛は、大傳川洗堰工事の時、
洪水による難工事を見て自ら濁流に身を投げ尊い人柱になったと伝えられています。
このように監督すべき立場にあった高木家からも犠牲者が出ています。

東高木家
 東高木家陣屋跡の旧伊勢街道添いに土蔵が
1棟、老松と共に昔の名残を留めています。 
 文政年間の建物と伝えられ、昭和54年に改修され今日に至っています。北側には石積みが一部残っています。               
北高木家
 北高木家陣屋跡には新しく道路が敷設されたりして、遺構は現存せず、わずかに旧伊勢街道添いに石積みが残存するのみで、昔の面影を偲ぶことは出来ません。              
 昔の伊勢街道は、東高木家陣屋と北高木家陣屋の間を通る急坂で、今も残っています。  

大垣城周辺の城址10

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大垣城周辺の城址12

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