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シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址08」(揖斐郡揖斐川町)の城址を収録しました。


大垣城周辺の城址07


城郭・城址の散歩道「目次」へ


大垣城周辺の城址09

このページで紹介する城址の一覧表

H.揖斐郡揖斐川町・谷汲・坂内・藤橋・徳山村

町村内の10箇所の城址を紹介します。

揖斐川町

90.清水古城(きよみずこじよう=揖斐川町清水字後川)、
91
.清水城(きよみずじよう=揖斐川町清水字後川)、
91-1.清水岡田陣屋跡(揖斐川町清水字後川=清水公民館)、
91-2.月桂院(揖斐川町長良)
92.揖斐陣屋(揖斐川町三輪北新町)、
93.
揖斐城跡
(揖斐川町三輪城台山上)、
93-1.手旗信号による米相場の中継所跡(揖斐川町三輪城台山上)
94.
白樫城(しらかし=揖斐川町白樫字大谷)
94-1.
小島頓宮御旧跡(揖斐川町白樫字大谷)、
94-2.白樫(斉藤)一族の墓(揖斐川町白樫字大谷)、
95.
角之御前屋敷(揖斐川町白樫)、94-1.角之御前遺跡(揖斐川町白樫)、
96.
上野城(揖斐川町上野)、
97.
揖斐北方城
(揖斐川町北方)、98.小津城(揖斐川町小津)、
99
城ヶ峰城
(揖斐川町小谷)、

 

90.清水古城址
(きよみずこ)
   「釣月
(ちょうげつ)院」

岐阜県揖斐郡揖斐川町清水  海抜 67m

北緯

35

28

13.

東経

136

36

07.

                     清水古城跡
 1.源頼光(よりみつ)六代の孫で頼兼(よりかね)清水(きよみず)に住み、清水五郎と称した。
  
その子頼高の子孫四代に亘り、約百六十年間清水に住み、清水古城の源を作る。
 2.林七郎左衛門通兼(初代、延元元年(1356))清水山頂に城を築く、六代通忠に及る約二百年間
       君臨す
 3.禅宗の傑僧「夢想国師」古城山腹に「釣月院」を開基。
 4.城主加納悦左右衛門を稲葉一鉄が攻め落とし、天正年間(1573〜)一鉄、山を崩し、平地(清水小   学 校地)に移し、清水城(91清水城址参照)を築く。
 5.(境内にある)この多くの墓石は、清水山城を守った武士のものであり、昭和52年土採りの際出土し
       たものである。
                           (揖斐川町教育委員会)

「清水古城跡」の釣月寺は標高67m程の山腹にあります。
登り道は寺の私道なのか未舗装で悪い道ですがゆっくり登れば大丈夫です。
揖斐川町清水の国道303号「清水後川」信号西の「T建設」横の
山へ入る道を登ります。

清水古城址
国道303号「清水後川」信号西の北側三叉路を山側(北側)へ入り
突当りを東へ曲がり山へ登る(路面は悪いが車で通行可)

登り口から見た「清水古城跡」の釣月院の桜
田圃の向こうのガードレールが登り口で釣月院の私道です。

「釣月院」への上り口
登り口は国道303の「清水後川」信号西100mほどの三叉路の建設会社角を西北へ入る。
突当りの右の悪路が「釣月院」への上り口
(檀家さんも、この悪路を車で登られますがゆっくり登れば大丈夫です)

約2・300mの山道を車で登ると境内に着きます。

「釣月院」境内
(右奥に見える墓石群の右端に「清水古城」の説明板があります)

境内から見下ろした「清水小学校(清水城址)

 

91.清水城址
(きよみず)

岐阜県揖斐郡揖斐川町清水字後川

北緯

35

28

03.9

東経

136

35

54.4

        清水(きよみず)城址
 清水城は、現在は本の丸部分が清水小学校の敷地となって、正門脇に石垣が残っている。
 正門前と校内の2ヶ所に案内板が設けられている。
 二の丸と侍屋敷一帯は、住宅地となっていて、堀も埋められている。
 また、三の丸は水田となり本の丸と三の丸の間を名鉄揖斐線の線路が通っていた。
 なお、清水城の近く(清水字長良)にある月桂院は、稲葉氏の菩提寺で稲葉一鉄の墓もあり清水城の陣鐘も梵鐘として使われている。

清水小学校校門脇に「清水城址碑」があり、校舎前に「清水城の説明板」がります。

清水城址
国道303号「清水後川」信号から西へ入り、狭い道を進み
1本目を南へ曲がり正面に清水小学校校門が見えてきます。

清水城址は説明しにくい場所にあります。
国道303「清水後川」信号(この信号は「清水古城跡釣月院へ登った道より1本南にあります)
を西へ入りこの地図に従って進むより説明しにくい場所です。

      城主稲葉通重が狼藉事件を起こし改易、廃城となる
 
清水城は、元は山城で延文元年に林通兼によって築城されたと云われ、戦国時代には加納氏が居城したが、曽根城主稲葉一鉄(良通)(127-1牧田合戦ノ地参照)に攻められ落城した。(01-01曽根城址参照)
 稲葉一鉄は、山城を廃して麓に新城(平城)を築いた。 その後、豊臣秀吉の不審を被り、清水城に隠居した。
 一鉄の死後、庶子重通が城主となり清水城12,000石を領した。 重通の子通重は、慶長5年の関ヶ原では東軍に与し本領安堵されたが、慶長12年に狼藉事件を起こして改易となり、城も廃城となった。

戦国の勇将 稲葉一鉄良通の居城跡
1、 永禄年間(1558以後)稲葉一鉄は清水(きよみず)山城を崩し、新しく城をこの地に築いて、後 曽根より移り住んだ。石垣はその時、山から運んだ石を使ってこしらえたものである。            
 2、 一鉄は清水に八幡宮を建て、鐘楼を作って陣鐘をつるした。 現在は一鉄のはかのある月桂院で梵鐘として使われている。                                             
3、天正十六年(1588)73才で没す。                                        
(揖斐川町教育委員会)

 

91-1.清水岡田陣屋跡

岐阜県揖斐郡揖斐川町清水字後川

北緯

35

28

東経

136

35

清水(きよみず)小学校校門前にある「清水公民館」がそうだと言われています。

清水(きよみず)岡田陣屋跡
清水城址(清水小学校)のの向かいの清水公民館(少し前までは畑地でした)

近くに「稲葉一鉄の墓」のある月桂院があります。
先ほどの「清水古城跡」の釣月院と似た名前でよく間違われます。

91-2.月桂院

岐阜県揖斐郡揖斐川町長良72

北緯

35

28

東経

136

35

月桂院(稲葉一鉄の墓のある寺)
(釣月院と間違われやすい寺)

 

92.揖斐陣屋址

岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪  海抜 42m

北緯

35

29

06.

東経

136

34

47.

「竹中医院」の東軒下に碑はあります。

国道303「上新町」信号から北へ入り「揖斐小学校」前まで、
道をクランクして東へ50mほどで「竹中医院」へ。

    揖斐陣屋は揖斐小学校と三輪神社
 揖斐小学校西隣に三輪神社があり、
小学校沿いの路地を300m東に行くといったん左折しすぐ右折した道の先がL字に曲がっています。
この角の病院横に城址碑が立っています。
陣屋跡は揖斐小学校と三輪神社となっています。

                  揖斐陣屋の歴史
 慶長5年、関ヶ原の戦功によって1万石を加増された西尾光教は、美濃曽根城より入封し、
 揖斐城のある城台山の麓に山を背にした新城(新揖斐城)を築いたが、2代にして嗣子無く改易となった。
 西尾氏改易後、揖斐の地は天領となり、旗本岡田善同が5千石を領して揖斐を采地とした。
 岡田氏は、西尾氏の築いた揖斐城跡に陣屋を築いた。(91-1清水岡田陣屋跡と思われます)

 

93.揖斐城址

岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪城台山上

北緯

35

29

31.1

東経

136

34

30.9

山頂の「史跡揖斐城址」碑
周囲には各種曲輪(くるわ)や複数の切濠が残っています。

揖斐城址
車の方は「揖斐署小学校」前から途中の「一心寺」まで登れます。
徒歩で登山される方は下の極楽寺側からの登山をお奨めします。
(シルバーの散歩道)

揖斐城の沿革
揖斐城は、南北朝時代の1343年に、美濃・尾張・伊勢三国の守護を務めていた土岐頼康(よりやすの)弟、
頼雄()よりかつによって築かれたとされる典型的な中世の山城です。
土岐頼雄は築城後、揖斐姓を名乗りました。
標高223m、下の町屋から比高約180mにある城台山の山頂の尾根を中心に、
現在も各種の遺構が比較的良好な状態で残っています。
一の曲輪(くるわ)・二の曲輪・三の曲輪をはじめ、太鼓曲輪や複数の空堀(竪堀=たてほり、堀切)、
さらには今も水をたたえる井戸などを見ることができ往時の姿をわずかに偲ぶことができます。
中世の山城は、大阪城や姫路城のような豪華な近世の城と異なり、
主に土と木材を用いて築かれた質素な造りの城であったとされています。
戦国時代の1547年に「国盗り物語」でも知られる斉藤道三に攻められて落城するまでの約200年の間、
6代の城主によって守られてきました。
(現地の「史跡揖斐城址」説明板より)
(01-01曽根城址参照)

途中の一心寺までは車が入れます
上り口は少々分かり難いが三輪神社が目印です 途中は道が狭い

途中「「米相場」を知らせる狼煙場があり
当時の相場師が寄進した灯篭が残されています。

93-1.手旗信号による米相場の中継所跡

金刀比羅神社は米相場の中継地
 金刀比羅神社前の広場に駐車できます。この金刀比羅神社
は、揖斐川水運の盛んであった頃、天保四年 領主岡田膳巧
外知に謀り、川筋各位の侵攻に基き、四国金刀比羅大権現よりを後分身を奉斎しおまつりしたのが始まりです。      
また当山上では、赤坂方面より手旗信号で送られてくる米相場を受信したところと聞いており、当時 名古屋方面相場師の寄進した燈明が今も残っております。               

一心寺からは徒歩となります。
 一心寺は天保元年(1830)播隆上人の開基。はじめ阿弥陀堂といわれ後に一心寺と改められた。             
揖斐城址まで450m
南の丸
「二の丸」「三の丸」と同じように本丸を囲む城で本丸の守りに使われた。

理想的な縄張りの山城
  揖斐城は、山頂部に南の丸・本の丸・二の丸・三の丸・太鼓曲輪・北の丸・搦手曲輪と連郭式に曲輪を配置した典型的な山城です。  遺構もよく残っていて、本の丸北側の桝形虎口、二の丸の竪堀、三の丸の大手門跡、北の丸の堀切など素人にも見分けることが出来た。                          

         斉藤道三に攻められ落城炎上した本丸跡
 揖斐城は、康永2年に美濃の名族土岐頼清の子揖斐頼雄によって築かれた。
揖斐氏は、頼雄−詮頼−友雄−基春−基信と続いたが、基信の子が無く、土岐宗家より光親が養子となった。
 天正16年に、斎藤道三は守護土岐頼芸を大桑城に攻め、頼芸を国外に追放し美濃を手中にした。
 道三は、頼芸に味方した相羽城の長屋景興を攻め滅ぼし、更に土岐一族の揖斐光親を揖斐城に攻めて落城させた。 光親は城を脱出するがその後は流浪する。 揖斐城は、この落城によって焼失し廃城となった。

揖斐城址碑

二の丸にある古井戸 主郭北側虎口外の堀切と土橋
帰りは別ルートで下ることも出来ます。
江戸時代 名古屋と赤坂方面の米相場の手旗信号を中継をした場所と言われています。

 

94.白樫城址
(しらかし)

岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫字大谷

北緯

35

28

38.4

東経

136

32

16.3

「白樫城址登り口」碑は白樫農事集会所の隅にあります

白樫農事集会所
「白樫城登り口碑」は「白樫農事集会所」の南西角にあります。
昔はこの碑から西へ真直ぐに山へ向かって道があってそうです。
(今は集落の人達もどうなっているか不明だそうです)

白樫城址
県道32号「市場」信号の次の交差点を西へ入ると数百m
「白樫農事集会所」へ出ます。
その後は現地の案内板に従って進んでください。

「白樫城登り口」碑
「白樫城登り口」碑は「白樫農事集会所」前にあります。

「白樫城登り口」碑前から山へ向かって登って見ます。

道は急に無くなります

少し進むと{大威徳神社跡」碑と説明板があります。
説明板には
「大威徳(だいいとく)神社址 永正(えいしょう)年間(1500〜1520)は
伽藍地で社僧寺七十五余あり、天台宗が栄えた地であった。
白樫城主”斉藤公”は、角の御前に居館を構え、
文武両道の守護神として厚く信仰した神社である」

とあります。

碑の横にかっての登山道跡があります。
今は「小島頓宮社舊跡」碑と「白樫神社」から車でもう一段上まで
車で登れますが道の途中から旧登山道口があるそうですが、地元の人も今はどこか分からないそうです。

城跡は画面左上の倒れ掛かったように見える杉の木辺りだそうです。
城跡には何もないそうです。
(集会所の「ゲートボール」場に居た地元の方々に聞きました)

もう一つの上り口を探しました。

白樫地区の中心にある「清涼山光蓮寺」の前の道50m先に案内板あり

←小島頓宮址
←白樫城址 
  城主の墓→
の案内板があります。

左に「小島頓宮社舊跡」碑 「右に「白樫神社」
「白樫城址上り口」は見当たらず。

               白樫城址は山崩れで跡形なし
 国道417号線を揖斐川町の下岡島信号を左折し県道32号線に入り市場の信号を右折し1Kmほどで白樫地区で「小島頓宮・白樫城」も案内標識がいたるところにありますが、城は三百数十年前に台風で尾根が崩れ城址は無いそうです。
    白樫城の歴史
 土岐氏の重臣斎藤利安によって築かれたと云われていますが、築城年代・築城者も定かではありません。
 斎藤利安は、美濃守護土岐政房・政頼の2代に仕えた老職であり利安は、白樫城から後に文殊城、稲葉山麓長井洞へと移ったが、享禄3年に斎藤道三によって暗殺されたと云われています。
 白樫城には、稲葉良通(一鉄)の重臣斎藤利三が居城したが、織田信長が美濃を支配した頃には既に廃城となったそうです。

94-1.小島頓宮社舊跡碑
    (おじまとんぐうしゃ)

岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫

小島頓宮社御舊跡
文和二年(1353)六月、後光厳(ごこうごん)天皇は京都の乱を避けて、
美濃国に行幸(ぎょうこう)された。
足利義詮(あしかがよしあきら)は、天皇を奉じて土岐頼康ら三千余の兵に守られ、
十三日垂井の宿に着かれた。
途中、瑞巌寺に一夜宿られ、翌日、小島の頓宮に入られた。
八月末、足利尊氏(あしかがたかうじ)が鎌倉より尾張に着いたと聞かされた。
八月二十五日、小島頓宮社より垂井を経て、九月二十一日、京都に還幸された。
美濃明細記(元文三年・1738)より「池田郡小島郷白樫村に舊跡あり、
瑞岩寺村杖突明神の山際に一夜御宿(おんやど)り、それより白樫村に行幸
北朝(ほくちょう)後光厳院幸之地也。」
(現地説明板より)

94-2.白樫(斉藤)一族の墓

岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫

白樫神社へ登る道の途中から案内表示に沿って登ります

一般の墓と混在していて探しましたが分かりませんでした。

 

95.角之御前屋敷跡
(春日局公園)

岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫  海抜 61m

北緯

35

28

33.

東経

136

32

20.

角之御前屋敷跡
県道32号「市場」信号を北進すると、「揖斐小島郵便局」前をとおり
「角之御前屋敷跡」(春日局公園)へ着きます。
更に北進すると「角之御前遺跡」説明板が見えてきます。

角之御前屋敷跡
県道32号「市場」信号を北進し、「揖斐小島郵便局」前をとおり
「角之御前屋敷跡」(春日局公園)へ着きます。
更に北進すると「角之御前遺跡」説明板が見えてきます。

春日局屋敷だったとされる春日局公園が「角之御前屋敷跡」です。

 ここ白樫の地は、石器時代の昔から多くの人々が住んだ形跡が、数多く出土品からうかがい知ることができます。
 その中で、今から約五百年前、この地域を支配していた土岐氏の執権職として斉藤利安が白樫城を築き、
 二代斉藤利頼、三代斉藤利三と続きました。

 1、白樫城     斉藤利安が延徳二年(1490)築城、二代利賢、三代利三と約百年続きました。
 2、斉藤一族の墓 三代城主斉藤利三が反逆の罪となった後、白樫の人々が城主を偲び墓を守ってきました。
             永正十二年の銘の残る五輪塔もあります。
 3、城主居城跡  城主一族は、ここ「角の御前」と呼ぶ館でくらしました。
            この一角に「局田」と呼ばれる屋敷跡もあり、一帯から青磁片や二目茶碗・鉄砲玉、
            それに館の土台石ヶ並んで出土しました。
 4、大威徳神社  白樫大門屋敷に鎮座する神社であり、斉藤氏三代の守護神とし、厚く崇敬しました。
 5、土岐八幡社  土岐氏は清和の嫡流たるによって八幡大菩薩を氏神とし、この地を領有したとき八幡神社を建立し            崇敬しました。
                      以下略     (現地説明板より)

 

95-1.角之御前遺跡

岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫  海抜 61m

北緯

35

28

33.

東経

136

32

20.

「春日局公園」の道を北へ150mほどの東側田圃の脇にぽつんと案内板が立っています。

「角の御前」には高貴な人々が
昭和53年の圃場整備の折り多数の遺物が出土した。
十二世紀から十五世紀の建物の跡が3棟、出土品が5,000点以上あったそうです。

正面の田あたりから多数の出土品があったそうです。

 

96.上野城址

岐阜県揖斐郡揖斐川町上野  海抜 71m

北緯

35

29

09.

東経

136

32

34.

この地、「揖斐川町上野」には「城山」という地区名があります。

県道256号から真直ぐ坂を上がって左に「日吉神社」見ながら広い空間へ出ます。
この三差路の角に「城山」の標識があります。

「城山」の標識がある道を、もう1本北へ(奥へ)進み東折(右折)します。
右へ曲がると道はクランクを過ぎると
北側(左側)に「町史跡 上野城址碑があります。

そうすると道の左側(北側)に碑が見えてきます。

何度も回りましたが!?
何度足を運んで探しても見つかりませんでした。
お寺の住職さんや近所の人に聞いても「そんなの見たことない」でした。
先回ももっと広範囲にまわり、寺の住職さんに教えられた通りの道を入り車を凹ましてしまい諦めていました。
同じように難い垂井の「岩手弾正屋敷址」を無事見つけた帰りに縁起を担いで
今回が最後と寄って、今回はクルマを降り歩いて住宅地図を見ながら1本1本確かめながら
歩いていた時、少し向こうの道の杉枝に埋もれた石が見えたので、ワクワクしながら草むらを横断して見つけました。
(シルバーの散歩道)

 

97.揖斐北方城址

岐阜県揖斐郡揖斐川町北方字城山  海抜 189m

北緯

35

30

14.

東経

136

32

13.

桜の時期以外は山頂まで車で登れます。

        揖斐北方城址は城山山頂
 国道303号線を揖斐川町外れまで進むと北側に北方小学校があり、この前の旧道(舗装道)が山頂まで通じている。 山頂の主郭部は、城山公園となっています。

「揖斐北方城址」へは国道303から北側からも、南側からも車で登ることができます。

城山(揖斐北方城跡)
地元の人は城山と呼ぶ桜の名所に「揖斐北方城」はあります。
桜シーズン以外は車で城址まで行けますが、この期間だけは麓の駐車場に停めますが
ここも早朝で満車になります。

史蹟「北方城跡」
 建武延元の頃、吉田休三入道ここに城を築きと伝う。
 建武三年 後醍醐天皇 再び叡山に行幸せられ叡山を以って南朝の策源地とせられた。
 越前金崎城が陥ると、新田氏の一族 堀口美濃守貞満は根尾谷に退き、根尾城(D-65)主 根尾入道貞氏、岐礼(E-103)の豪族山本貞元、揖斐北方城(E-95)主の吉田休三入道、長峰城(D-68)主 山岸新左衛門光頼 等に呼応して北朝に抗し美濃の土岐氏と戦ったことは、
谷汲の戦下
長瀬の戦い、揖斐野合戦 池戸 下狩宇 上狩宇合戦等に見えている。 
 思うに当地方が南朝に組したのは、横蔵 谷汲の両寺が中心になって天台の信仰により叡山と策動したものと考えられる。
(揖斐川町文化財)

                 揖斐北方城の歴史
 北方城は、建武・延元の頃に吉田休三入道によって築かれたと云われている。
 建武3年、後醍醐天皇が比叡山に行幸され再度挙兵された。
 越前金ヶ崎城が落城したのち、新田氏の一族堀口貞満は根尾谷城に退き、根尾貞氏・山本貞元・山岸光頼らと呼応して、吉田入道も南朝方に与し、北朝方の土岐氏と戦った。
 その後の城の歴史は不明です。
                           (現地説明板より)

 

98.小津城址

岐阜県揖斐郡揖斐川町小津  海抜 212m

北緯

35

30

14.

東経

136

32

13.

地元に疫病は流行り、多くの人が死んで城跡に
この碑を建てたと伝わっているそうです。

目印は「小川橋」
揖斐川町から国道303を北上、揖斐川町役場を過ぎて約10km程の
「東津汲」信号で右折、「久瀬診療所」前を通り県道268へ入り、
小津川に沿って4kmほど進むと小津地内で北へ入る町道があります。
この町道を1kmほど北上すると小津川に架かる「小川橋」あります。
この「小川橋」の北詰の正面の棚田が「小津城」跡です。

小津城址
国道303号の揖斐郡旧久瀬村地区へ入り久「瀬中学校」「久瀬郵便局」の
交差点から県道268号へ入り5km程進むみ「小川橋」を渡った正面の田圃の奥

「小川橋」
碑は正面の城跡の上の段の山の入口に建てられています

県道268から分岐した道

碑から見下ろした城址(ビニールが張ってある一面が城址)と地元の人は説明してくれました。
その下に先ほど渡った「小川橋」が見えます。

 

99.城ヶ峰城

岐阜県揖斐郡揖斐川町小谷・谷汲深坂

城ヶ峰城址は揖斐城址からアプローチします。
城ヶ峰山は352mで山歩きも兼ねます。

 


大垣城周辺の城址07


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大垣城周辺の城址09

シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址08」(揖斐郡揖斐川町)