シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址09」(揖斐郡春日・谷汲・藤橋・徳山・坂内)の城址を収録しました。


大垣城周辺の城址08


城郭・城址の散歩道「目次」へ


大垣城周辺の城址10

このページで紹介する城址の一覧表

揖斐郡(春日・谷汲・藤橋・坂内・徳山)

地区15箇所の城址を紹介します。

春日(村)

100.池戸(いけっと)(春日村池戸)、101.小島城((おじま)(揖斐川町春日六合東山)、
101-1.
上狩宇城(揖斐川町春日六合東山)、
101-2.下狩宇城
(揖斐川町春日六合東山)、
102.川合城(揖斐川町春日・川合=春日小学校)、102-1.さざれ石公園(揖斐郡春日川合)

谷汲(村)

103.深坂陣屋(揖斐川町谷汲深坂)、103-1.円立寺(揖斐川町谷汲深坂)、
104.深根陣屋(揖斐川町谷汲深根)、104-1.渡船場跡(揖斐川町谷汲深根)、
105.野村陣屋(揖斐川 町谷汲大洞・大野町野)、
106.
長瀬城
(揖斐川町谷汲長瀬字殿屋敷)、
107.
府内城(揖斐川町谷汲長瀬)、108.伊野小坂の山城((揖斐川町谷汲岐礼)、
109.
高科砦
(揖斐川町谷汲高科)、
藤橋(村) 110.杉原砦藤橋城・揖斐川町藤橋東杉原)、
徳山(村) 111.徳山城(揖斐川町徳山本郷)、112.徳山屋敷(揖斐川町徳山)、
坂内(村) 113.坂本城(揖斐 川町坂内坂本)、114.小谷山城広瀬城跡(・揖斐川町坂内広瀬)、

 

揖斐郡春日(旧村)

村内の3箇所の城址を紹介します。

100.池戸(いけっと)城址

岐阜県揖斐郡春日池戸

北緯

35

28

01.5

東経

136

30

30.8

名阪近鉄「樫村」バス停
バス停に「池戸城跡」の案内板があります。

池戸城址
春日村大字六合字池戸平にあって、小島城(上狩宇城)の要砦であった。
この城郭を築いたの人や年代は未詳であるが、正和年間(1317〜1318)に
西尾右京亮が支配し、河合龍登守が住んでいたといわれる。
西尾氏は、南北朝に勤王し、延元二年(建武四年、1337年)九月十八日、
北朝方の小笠原兵庫助等と揖斐野に戦い、敗れて、各地の勤王の士とともに退却し
小島城(上狩宇城)池戸城、下狩宇城等を守備していたが、
同年五月に池戸城が攻められ落城した。
池戸に殿様の墓と言い伝えられている椿の大木と五輪の石塔があり、
この比の人は、元弘年間(1331〜1334)から建武の頃、
池戸城主主将であるということで、「等平寺」を建立した人である。
(春日村)

         池戸城址
 旧春日村樫村のバス停の粕川の対岸が城址です。、川が蛇行し河川段丘が突き出した台地上にあったとされます。

池戸城址はバス停の川向うの川が蛇行した上あたりと言われています。

 

101.小島(おじま)城址

岐阜県揖斐郡春日六合

北緯

35

28

東経

136

29

小島城址は「上臈谷不動明王堂」です。

入口は県道32号「樫村」バス停から旧道へ入り、
西へ集落を抜けて登り坂を約1.5km程にある分岐点のから案内板により
右折し100m程の

小島城址
「樫村」バス停(池戸城址案内板があるバス停)脇に案内板があります。

「小島(おじま)城址」の途中までクルマで登れます。

「上狩宇」へ登る途中に、脇へ登り道があり「矢印」と案内板があります。

しばらく登ると車数台が置けるスペースと小島城址の遊歩道があります。

小島城址
「南無観世音大菩薩」が「小島城址です。
春のお祭りのため城址はテントや椅子があって城址とは思えませんでした。

「上狩宇城」「下狩宇城」
地元の人によるとこの図のように小島城の左上に「上狩宇城」が別にあったといいます。
左下の粕川近くに「下狩宇城」もあったそうです。

駐車場へ戻り道を更に登ります。

101-1.狩宇城址

岐阜県揖斐郡春日六合

北緯

35

 

東経

136

 

「小島城址」の上方の「上狩宇」地区にも多数の民家があります。
殆どの家が製茶業の様です。

陽当たりの良い製茶には絶好の土地の様です

上狩宇城址の証(小島城主の居宅跡)
「御所の馬場」跡と「小島城主土岐頼康居宅跡」碑
地元の人が言う「上狩宇城跡」がここです。

天空の地「連歌」
君の御幸は 名こそ高けれ 是もまた 百数なりし小島山 源頼康
文和二年(1353) 当時

上狩宇城跡は碑より下の「金髪神社」境内と言われています。

上狩宇地区より下り粕川へりまで下りてくると「下狩宇」地区があります。

101-2.下狩宇城址

岐阜県揖斐郡春日六合

北緯

35

 

東経

136

 

「下狩宇」地区の川がカーブして流れる場所に出島のような場所に
遍光寺があり地元の人は「ここに砦があった」と言います。

 

102.川合城址
(春日小学校)

岐阜県揖斐郡春日川合  海抜 238m

北緯

35

287

46.

東経

136

27

38.

「川合城址」碑なし
地元の人達は学校への登り坂を「城の坂」と呼んでいることと
城の前に「六社神社」があることで確認。

川合城址
川合城址は春日川合の春日小学校です。

城への上り口に「六社神社」があります。
ここから学校へ登る坂道を地元の人はいまも「城の坂」と呼んでいます。

「春日小学校」が城跡と言われています。

城址を全部収めようと裏山に登りましたが無理でした
寺の前から城跡(小学校)へ登る坂「城の坂」は収まっています。

川合城址(春日小学校)から長谷川に沿って8kmほど遡り、
山向こうの垂井町岩手との境になる「岩手峠」近くまで進むと右手にあります。
その途中に住家が散在するのには驚きました。
電気は来ているようなので安心しましたが、生活用品はどうしているのでしょう?

102-1.さざれ石公園

岐阜県揖斐郡春日川合  海抜 238m

北緯

35

287

46.

東経

136

27

38.

 

揖斐郡揖斐川町谷汲

地区内の7箇所の城址を紹介します。

103.深坂陣屋跡

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲深坂  海抜 106m

北緯

35

29

40.

東経

136

35

55.

深坂陣屋跡
 揖斐川市街地「国道303」から「県道251号(揖斐川谷汲山線)」で北へ向かい
約1.5km先の「小野坂トンネル」を越えます。
700m走ると谷汲深坂地区へ着きます。
深坂地区の「円立寺」前の奥の方に「深坂陣屋址」はあります。
県道251を更に進むと北側奥に「深根陣屋址(本陣屋敷成績義校跡)」があります。

「円立寺」西の小さな橋の袂を山側(北)に入る道を100mほど進むと
イノシシ避けのゲートがあ里、その向こうに碑が見えます。

イノシシ避けを越えて進むと石垣も残り陣屋の遺構と木碑がが見えてきます。

碑の向きが反対なのか裏へ回らないと陣屋址の文字が読めません

道の入口に案内がないので地区の人も関心のない人は知りません。」

陣屋の歴史
 旗本戸田氏が500石でここに陣屋を構えた以外詳しいことは不明です

この地区を訪ねたとき、地域の方々が「深坂陣屋址」「深根陣屋址」について間違えて教えて下さった場所。

103-1.戸田伊豆守民栄顕彰之碑
征清役忠死者碑日露戦病者英霊之碑 群

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲深坂

地元の人が「深坂陣屋址」でないかと教えて下さった場所。
深坂公民館前の小路を山へ入り、5〜8分程度登ると三つの碑があります。

地元の人達も忘れ去られた三つの碑

円立寺の山門は「深坂陣屋門」が移築されています。

103-2.永應山圓立寺
深坂陣屋移築門

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲深坂

北緯

35

29

東経

136

35

円立寺
県道251号(揖斐川・谷汲山線)の谷汲深根の集落の中央辺りにあります。
昔は街道が寺の東側を走っていたので、現在の道路は寺の裏門にあり、
移築された深根陣屋門は寺の東側(表側)にあります。

県道251号側は裏門で正門である移築された「深坂陣屋門」は
東側にあります。(昔の街道は裏側を通っていました。)

新道に面した石柱は裏門です。

深坂陣屋の移築門
旧道に面した裏側に移築門があります。

何の説明文もありません(お尋ねしたとき住職が教えて下さった)

円立寺から更に東へ進むと

104.深根陣屋跡
(本陣屋敷 成績義校址)

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲深坂深根
海抜 95m

北緯

35

29

54.

東経

136

36

13.

画面に見える一番奥の家の裏が「深根陣屋址」です

一番奥の家の横を通りさらに奥へ

地元の人もこの奥に碑なんか無いとの事でしたが
陣屋址の入口に倒れて木の葉に埋もれていました。
枯草を押し退けて近くの杉の木に立て掛けました。

雨が降っても掛からないように木陰に建てましたが、いずれは倒れるでしょう。

「本陣屋敷 成績義校 址」と読めます。
ネットで調べたところ明治6年に学校制度が発足し、現在の揖斐川町立小学校の前身で
名礼、徳積地区に三要義校、深坂地区に成績義校、大洞地区に咸寧義校
横蔵横倉地区に止信義校、長瀬地区に馨香義校、岐礼地区に成道義校の六つの「義校」が
揖斐地方に設立された。
そこで当深坂地区は明治になって不要となった「深坂本陣建物」を校舎として利用した
江戸から明治にかけての遺構と思われます。

明治19年に三要義校・成績義校・咸寧義校の3校が合併し、坂内尋常小学校と改称しました。
其の後さらに揖斐川町立小学校となりました。
(揖斐川町立谷汲小学校沿革史より抜粋)

「深根陣屋址」や「深坂陣屋址」を訪ねまわっていると「渡船場跡」もあったことに気づきました。

104-1.渡船場跡

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲深坂深根

深根地区の街道の分岐に地蔵堂がありその裏に「渡船場跡」の碑があります

昔はこの向こうの田圃が池だったそうです。

野村陣屋は手掛かりがありませんでした。

105.野村陣屋跡

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲大洞

地元でいろいろ調査しましたが地元では知らないとのこと。

105-1.郷蔵跡

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲大洞

「郷蔵跡」と陣屋跡
(江戸時代、郷村などで、年貢米を上納するまで貯蔵し、また凶作に備えて穀類を保存した共同倉庫。)
大洞地区の真ん中あたりに「郷蔵跡」があります。
この近辺の寺や旧家などを訪ねまわりましたが「野村陣屋」は聞いたことがないとの事でした

揖斐川町谷汲大洞には「野村陣屋」は無かったと思います。

 

106.長瀬城跡

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬字殿屋敷
海抜 76m

北緯

35

31

42.

東経

136

38

50.

長瀬城址
小山の南麓に城址碑と一族の五輪塔があります。
(説明板などは見当たりません)

長瀬城址
揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬地内の「ニュー谷汲温泉」駐車場北の山側の
遊歩道に「砦址」碑と「長瀬城址」碑があります。

長瀬城址は長瀬小学校の東
 県道255号左手に長瀬小学校があり、この学校の東側の田畑及び北側の丘陵が城址とされます。
 「谷汲温泉」の駐車場の山側に城址碑「砦址」があります。

                長瀬城址の歴史
 
延元二年(1337)の谷汲の合戦前に南朝方の武将で宇津志城主(根尾)の堀口貞満がこの地に何らかの砦を築いたのが最初と考えられます。
 文和二年(1353)に北朝後光厳天皇が小島城に逃れた際に鷹司忠経が随行し長瀬に住み、忠経の子の冬基が長瀬城主となり土豪化し、土岐氏、その後、斉藤氏に属しました。
 天文十六年(1547)に斉藤氏に属していた九代正光は土岐氏を庇護するという名目で攻め入ってきた織田勢と戦い、正光と弟の光政は討死iし長瀬城も落城し廃城となりました。

更に奥に城址碑があります

更に進むと「長瀬城跡」碑があります

長瀬城址碑のある近くには「谷汲温泉」があります。
この日は休日だったので簡単に入れたのかもしれません。

 

107.府内(ふない)城跡

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬
岐阜ゴルフカントリークラブ谷汲へ入る道沿いの
稲荷神社が城跡         海抜 97m

北緯

35

31

55.

東経

136

38

03.

城址は稲荷神社の東側付近

府内城址
谷汲カントリークラブへの道路の入口近くの北側にある
稲荷神社上の辺りが城址と言われています。

稲荷神社が終点の道で車を駐車するスペースがない

すぐ前の家の犬が激しく吠えるので、家の人に話を聞こうにも
機嫌が悪そうで早々に退散することにしました。

 

108.伊野小坂の山城

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲岐礼  海抜 114m

北緯

35

33

01.

東経

136

38

31.

伊野小坂の山城跡
場所は揖斐郡谷汲岐礼と高科の境の小山で
県道255号線から150mほど東へ入った所です。

目印のない城跡です
揖斐郡揖斐川町谷汲岐礼(ぎれ)地区で「県道255号」と「樽見鉄道」が接近してる場所。

国道255号線から入ると「樽見鉄道」の上に架かる橋を渡り
山へ入る道を進みます。

山頂には碑も案内板も無いそうです。

 

109.高科砦跡

岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲高科  海抜 112m

北緯

35

33

26.

東経

136

38

24.

高科砦址
国道265号 鍋原(なべら)地区から谷汲高科地区へ入る
入口にある白倉神社が高科砦址です

地元の人に尋ねたら簡単に「そこの白倉神社が城跡だ」と教えてくれました。

城址碑や遺構など探しましたが見つかりません。

地元の人の話を信じて変えることにしました。

 

揖斐郡坂内・藤橋・徳山(旧村)

地区の5箇所の城址を紹介します。

7−藤橋(村) 110.杉原砦藤橋城・揖斐 川町藤 橋東杉原)、
8−徳山(村) 111.徳山城(揖斐 川町徳山本郷)、112.徳山屋敷(揖斐川町徳山)、
9−坂内(村) 113.坂本城(揖斐 川町坂内坂本)、114.小谷山城広瀬城・揖斐 川町坂内広瀬)、
 

110.杉原砦址
(西美濃プラネタリウム・藤橋新城)

岐阜県揖斐郡揖斐川町藤橋東杉原

北緯

35

38

07.0

東経

136

29

28.3

杉原砦址
国道417号を横山ダムから15kmほど北上すると
西美濃プラネタリウム・藤橋新城が見えてきます。
国道から下りると新城の駐車場前に杉原砦址の「武山神社」がります。

土産店と食事処を営むご主人は此の「武山神社が砦址だ」と説明してくれました。
「証拠は七人塚がある」との事でした。

藤橋城の歴史
 「美濃城砦群考」によれば「揖斐川流域地区は、中世から近世に掛けて
多くの数の城館、城砦が構築された地区の一つである。
 当藤橋城は、中世城郭として南北時代に杉原砦として築城されたもので、
今から約600年の昔、越前に勢力を奮った南朝方の雄、新田義貞が、
北朝方に組した美濃の土岐氏に対抗する最前線の砦として配置したものと思料される。
 人工の築城技術がまだ充分発達しない時代でもあり、しかも防御態勢の整備に緊急を要する場合、
天然の要害に簡単な人工を加えることが最も時宣に適した築城策であった。
 時の流れに従った改廃、再築が繰り返されたものと思われる。 
(現地説明板より)

風聞 七人塚
杉原砦を死守する杉原家盛一族五百の軍兵は、ひしめき寄せる斉藤先発千余の軍勢を迎え撃ち、
吹雪の中 死闘十余度に及んだが衆寡敵せず、ついに敗色深しと見るや、家盛は潔く自決しようとした。
この時、これを押しとどめ、再起を期して他国に落ち延びさせようとする七人の近従がいた。
東前之谷の山道を追手が追いすがる度、ある時は岩陰から、あるいは大樹の後ろから
大音声で家盛の名を名乗って躍り出て、追手と切り結び、主を逃がさんため時を稼ぎ、
七人ことごとく敵の刃の下に倒れ果てたのである。
降りしきる雪の中、家盛は無事落ち延び給うたとか、あるいは山中にて自害して果て給うたとか、
その生死はさだかでなかった。
そして数年の星霜が流れたとある秋の暮れ、村へやってきた商人風の男の口から、
家盛は尾張国尾州に落ち延びられ寄る辺のものにかくまわれて再起を図られていると
里長に告げて立ち去ったと伝えられている。

以来七人の忠誠を称えて、ここに村人達のてによって祀られてきた。
(藤橋村教育委員会)

新藤橋模擬城の天守はプラネタリウム

竹下内閣の時の「故郷創生資金」で整備された城と民家で、今では維持費が大変とか。

 

111.徳山城址

岐阜県揖斐川町徳山村本郷

北緯

35

39

55.7

東経

136

30

14.8

今は徳山ダムの湖底が城址です

 

112.徳山屋敷跡

岐阜県揖斐川町徳山村本郷

北緯

35

39

55.7

東経

136

30

14.8

今は徳山ダムの湖底が城址です

 

113.坂本城跡

岐阜県揖斐川町坂内坂本

北緯

35

39

55.7

東経

136

30

14.8

城跡は分かったが
坂本城址は国道303号から県道274へ入り、
揖斐川町坂内坂本地の集落の山の上にあるとの事でした。
集落へ入っていろいろ聞きましたが「城跡へは赤い色の屋根の人に聞け」と言います。
家を訪ねて城跡のことを聞くとうちの裏の竹藪から昔は登ったが
竹藪の手入れがしてないので、とても登れることはできない」との事でした。

坂本城址
他の資料にも大よその場所は記してありますが、
正確な場所は不明でした、現地を訪ねて地元の人達の話をまとめると、
1.「昔は赤い屋根の家の裏から登れたが砂防壁が出来てから道が無くなった」
2.「その後はイビデンの発電所から登れたが、今は無人だから駄目だ」    

そこで他の人に聞くと「かみ(上流)にある発電所からなら登れる」とのこと
ただし「今は人がおらんしな」とのことでしたが、兎に角行ってみることにしました。

教えられた通り橋の手前で狭い道へ入ると「イビデン水力発電所」が見えました。

先ほどの話の「今は人がおらんしあな」の意味は発電所が無人化されてるということでした。

柵に沿って裏へ回ると登り口らしきところがあるので近寄って見ますと

水圧鉄管の上を村の人が言うように、上へ上がる階段はありますが
許可が要るようです。

村の人の話ではここを登って行くと城址へ行けるそうです。
(が諦めました。)

 

114.小谷山城址
(広瀬城址)

岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内広瀬

北緯

35

36

07.6

東経

136

24

49.8

小谷山城の歴史
広瀬氏の居城とされる以外、詳細は不明です。

小谷山(広瀬)城址碑

小谷山(広瀬)城址
揖斐郡揖斐川町坂内広瀬の中心地の「JAいび川坂内出張所」横の道を北へ入り
数十m入って左へ入る山道を約30分で城址へ着きます。

目印
目印は揖斐川町坂内広瀬の「坂内振興事務所」です。
上り口
「坂内振興事務所」の隣の「JAいび川坂内出張所」横の道から入ります。

登山道へ
70m程進むと「広瀬城址(小谷城)遊歩道」の立札があるのでその道へ入ります。

20分ほど登ると石段後らしき跡が続きます。

30分で城址へ到着
城址には、色んな碑があります。

小谷山城址碑(奥にもあります)

天守の形をした作り物と「城主 広瀬兵庫守」碑

木の間から下の家を見ると標高差は150m〜200mと思われます

 


大垣城周辺の城址08


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大垣城周辺の城址10

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。

シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址09」(揖斐郡春日・谷汲・藤橋・徳山・坂内)