シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址04」(瑞穂市・本巣郡北方町)の城址を収録しました。


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このページで紹介する城址の一覧表

本巣郡内の8箇所の城址を紹介します。

本巣郡北方町

40.北方城跡(北方町池下246)、40-1.大井神社(北方町池下)、
40-2.戸田孫七郎陣屋跡(北方町池下246)、40-3.北方陣屋奉行所跡(北方町池下)、41.北方陣屋跡(北方町池下)、41-1.郡界石(北方町池下)、

瑞穂市

42.本田代官所跡(瑞穂市本田)、43.本田城跡(瑞穂市本田ほんでん=第1消防分団詰所)、
44.十九条城跡(瑞穂市十九条)、45.十七条城跡(船木城址)(瑞穂市十七条256)、
46.美江寺城跡(瑞穂市美江寺)、47.旗本青木氏陣屋址(瑞穂市居倉)、

瑞穂市・本巣郡 北方町7城址の概略の位置を表示します。

北方城址と北方陣屋跡を探すには、それらの一番北にあたる大井神社を起点にすると分かりやすくなります。

40-1.大井神社

本巣郡北方町地下(じげ)

北緯

35

度

26

分

.

秒
東経

136

度

41

分

.

秒

大井神社の前を南の道の両側に北方陣屋跡や北方城址もあります。

まず大井神社前右(西)が「戸田孫七郎家陣屋跡」です

 

40-2.戸田孫七郎家陣屋跡

本巣郡北方町地下(じげ)

北緯

35

度

26

分

.

秒
東経

136

度

41

分

.

秒

「陣屋南〆切門跡」?
この「戸田孫七郎家陣屋」跡前に「陣屋南〆切門」があったはずですから
この碑は間違いと思われます。
こちら側には「陣屋北〆切門」のはずです。

大井神社前の道を南へ50mほど進むと北方城跡案内矢印版があります。

40.北方城跡

本巣郡北方町地下(じげ)

北緯

35

度

26

分

03.2

秒
東経

136

度

41

分

39.4

秒

城址碑あり

北方城址
目印は「大井神社」か画面左下の北方中学校にして下さい。
そこを出発点にすると分かりやすく行けます。

円鏡寺方面から来ても古くて醜い案内板があります。

北方円鏡寺公園を東へ300m進むと川沿いの道へ出ます。北の突き当たりに大井神社が見えます。
川沿いに北へ80mほど進むと常誓寺があり門前の向かいに「北方城址」の案内標識があります。
標識の沿って東へ70mほど進むと道が南へクランクします。そこに「北方城址」があります

20年くらい前の北方城址の画像です。
(今より風情があった様に思います)

町の東はずれの常誓寺前の
竹藪が「北方城址」

最後の領主は安藤伊賀守守就 
北方町の東の町はずれにある常誓寺前の小川を東に渡った竹藪が北方城址です。   住古阿刀氏館の跡と伝えられ、戦国時代領主の居城となり「七間城」と言われました
 最後の領主は天昇十年(1582年)稲葉一鉄と戦って討死にした安藤伊賀守守就(あんどういがのかみもりなり)でした。   

「安藤伊賀守守就」討ち死に
の場所にある記念碑

平成初期の頃の画像です

北方合戦
  戦国時代、この辺りを治めていたのは安東守就という”美濃三人衆”の一人、1580年武田氏への内通容疑をかけられ、北方を追われました。                                                   
2年後織田信長が本能寺で討たれると挙兵して北方城奪取を試みたものの、三人衆の一人「稲葉一鉄」に敗北。
この後一族は、一鉄に次々と滅ぼされた。これが、北方合戦と呼ばれています。                     

今は整備され公園化されています。

以前は向かいの竹やぶに碑が建っていたように思います

碑の文面は判読できません

現在の大井神社東から東西160m、南北340m程の
広さの平城で多くの屋敷を城内に含め水路で固めた
形式の城であったと考えられるそうです。

元の大井神社前の道に戻り150mほど南下すると「北方陣屋奉行所跡」があります。

40-3.北方陣屋奉行所跡

本巣郡北方町地下(じげ)

北緯

35

度

26

分

.

秒
東経

136

度

41

分

.

秒
 

すぐ隣が「北方陣屋跡」です。

41.北方陣屋跡

本巣郡北方町北方地下(じげ)

北緯

35

度

25

分

00.5

秒
東経

136

度

41

分

37.3

秒

戸田儀七郎家陣屋址碑

北方陣屋跡
目印は「大井神社」か画面左下の北方中学校にして下さい。
そこを出発点にすると分かりやすく行けます。

 北方陣屋(きたがたじんや)は本巣郡北方町にあった陣屋である。
 この陣屋は戦国時代に存在した北方城の城跡の一部を使用しており、現在の大井神社の南一帯といわれている。
 寛文8年(1668年)、美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)が分離した、旗本5,000石の陣屋である。
 美濃国席田郡の8ヶ村(現在の本巣郡北方町、本巣市の一部)を所領していた。
 北方陣屋は、明治元年(1868年)まで存続する。
 建物のうち、門は移築されており、浄土真宗本願寺派の本願寺岐阜別院をはじめ、数箇所が現存するという。
 北方陣屋跡は北方町指定史跡となっている。
                     (フリー百科事典 ウィキペディアより)

敷地は当時のままのようで、かなり広い屋敷です。

碑のある辻の南東角に「郡界石」があります

41-1.郡界石

本巣郡北方町地下(じげ)

北緯

35

度

26

分

.

秒
東経

136

度

41

分

.

秒

「郡界石(夜泣き石)」(町指定重要文化財
旧方県(かたがた)郡と旧本巣郡の群界標として使用した石である。
〆切橋の右端の土手に半分埋まった形で、郡界橋が二個位置づけられていた。
郡の境とは思えないが、大井神社の天正十三年(1585)棟札に「濃州方県郡(ごおり)
生津荘北方天王氏人(うじびと)とあり、大井神社が方県郡であることが明白である。
つまり天王川右岸が境となっているので、郡界石と認識された。
伝聞によると、明治二十九年(1896)の新郡町村の編成がえで、
郡境が東へ六百m(現岐阜農林高等学校の東)に移されたため、
その用が終わったと悲しんで石が夜毎に泣き声をあげ「夜泣石」と呼ばれるようになった。
(北方教育委員会・北方文化財保護協会)

 

42.本田代官所跡
(ほんでん) 

瑞穂市本田仲町  海抜 17m

北緯

35

度

24

分

29.

秒
東経

136

度

40

1

4.

秒

本田代官所跡
県道92号「本田西町」信号の東50mの北側の建物
建物前に「説明板」があります。

本田代官所跡説明板あり

江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地代官所が
ありましたが、詳細は定かでありません。
しかし、古文書等から推測すると、寛文十年(1760年)、
野田三郎佐衛門が初代代官に任ぜられ、
この地に陣屋を設けたと思われます。

本田代官は後に川崎平右衛門定孝(十一年間在任)という
名代官を迎えるなど、この地の人々にも大きく関わりました。
明和七年(1770年)大垣藩に預けられるまで続いたこの地には、
今でも「代官跡」、「御屋敷跡」、「牢屋敷跡」という地所が残っています。
(穂積市教育委員会)

穂積町本田仲町にあります。
本田(ほんでん)には往時をしのばせる町並みが残っている街道筋です。
江戸時代の一時期に代官所が置かれた跡に説明板が立っています。

初代代官 野田三郎左衛門
寛文十年(1670)に野田三郎左衛門が、初代代官に任命され陣屋を設けたと言われています。
代官の中には名代官と慕われ、十一年も在住した川崎平右衛門定孝らが当時の人々と深くかかわりました

 

43.本田城址
(ほんでん)

岐阜県瑞穂市本田仲西  海抜 1m

北緯

35

度

24

分

09.

秒
東経

136

度

41

分

03.

秒

本丸全景主郭北西部の水堀と主郭の雑木林。
いまだに埋め立てられることなく中世平城の水堀が残っているというのは大変めずらしい。
(pappkunの「古城探訪」より)

本田城址
県道23号線「穂積北中学校前」信号から西へ約600mで本田へ

城の正確な歴史は?
 この城の詳細はほとんどわからないが、『新撰美濃志』には寺西備中守が住んだとある。
 備中守は尾張国海東郡万場村の出で、豊臣秀吉に仕えていたという。
 また、日根野備中守弘就が本田城にいたともいわれている。
        (pappkunの「古城探訪」より)

本田城址
本田城址も分かりにくい場所にあります。
県道23号へ入るのには、国道21号(岐大バイパス)の「長良川」と「五六川」の
中間あたりの「穂積中原」信号を北へ折れ、2kmあたりにある
「穂積北中学前」信号を右折(西折れ)し西へ700mほどの北側のこんもりした藪がそうです。

主家は無人ではないようです。

屋敷全体が手入れがして無いようで濠の上へ雑木が!

屋敷周りを濠が残っています。

北側の「本田公民館」と「仲西組公民館」が目印です
(左手が城址です)

公民館脇の三叉路に地蔵堂があります。

 

44.十九城址

岐阜県瑞穂市十九条  海抜  0m

北緯

35

度

24

分

10.

秒
東経

136

度

39

分

30.

秒

十九条城跡
ここには「屋敷」とい小字名があり、城屋敷の名残を示している。
また犀川が西で半円を描いて流れ、天然の要害をなして適地だあった。
永禄四年(1561)五月 織田信長は西濃へ入り「州俣(すのまた=墨俣)
(B-38参照)の要害を
固め滞在していたが軽海(かるみ=真正町)へ出兵し戦いを挑んだ。
激闘の後、斉藤方は引き上げたが、信長は州俣(墨俣)だけだは十分で無いとして十九条村に一城を築き、
一族の織田勘解由左衛門信益(かげゆざえもんのぶます=犬山城主 織田十郎左衛門の舎弟)を城主とした。
軽海の戦いで勘解由左衛門は戦死し、城は焼かれ以後復興はなかった。
(穂積氏教育委員会)

十九条城跡
国道21号「下牛牧(しもうしき)」信号を北へ入り1.6kmほど北上すると
「十九条」信号へでます。
この信号を西折し約300mほど進むと「十九条西」信号があり
これを南折すると城址(津島神社)へ入られます。破棄

                城址は津島神社境内
 十九条城は、津島神社境内となっている辺り一帯に築かれていた。
 神社境内が本丸跡と云われ、案内板が建てられている。
 城域の殆どが宅地化され遺構は殆ど残っていないが、神社北側の道路を挟んで堀跡が僅かであるが残ってい  る。                        (ウイッキペデイアより) 

 十九条城の歴史
 大永6年(1526)、土岐頼純の命により、川手城を防衛する出城の一つとして斎藤利良によって築かれた。
 一番外側の出城である。しかし、土岐氏の衰退、美濃国を斎藤道三が支配するようになると存在意味がなくなり、廃城となる。
永禄5年(1562)、斎藤龍興は十九条城を目指して稲葉山城から出陣する。
これに呼応して信長も兵を出し、十四条(現・瑞穂市)と軽海(現・本巣市)で両軍が激突する。
この戦いで十九条城城主の広良は野々村正成に討たれて戦死する。
十九条城は焼失し廃城となる。
(ウイッキペデイアより)

 

45.十七城跡     (船木城址)

瑞穂市十七条  海抜  0m

北緯

35

度

24

分

10.

秒
東経

136

度

39

分

30.

秒

十七条城跡
現地の「熊野神社」境内に「春日の局」やTVドラマの説明板があり城跡となっていますが、
「熊野神社」より道で1本南の竹藪に家が城址です。
「高橋邸」を訪れ生垣に隠れている{瑞穂市指定史跡 十七条城跡」の石碑を見える様に
椿の木(?)を選定してくださいとお願いをしておきました。
碑のある位置は、こちらから伸びている道が正面へ突き当たった場所の1mくらい左側に
隠れています。
(シルバーの散歩道)

奥には「瑞穂市指定史跡 十七条城跡」とあります

十七条城址(船木城址)
十七条城は、南北朝時代の初め、舟木頼胤が築いた城です。
城主は、数代かわり亨禄年間(1530頃)より林氏の居城となりました。
林家は、徳川家康に仕えて、二万国を所領していました。
お福(のちの春日局)の夫となる、林正成は元亀二年(1571)この十七条城で生まれました。
成人すると、大垣・曽根城主稲葉重通(一鉄の子)の養子となり、
稲葉正成と改姓し、お福と結婚しました。(文禄四年(1595)
お福と正成との間の次男正定は、尾張徳川家に仕え、旧領十七条1006石を所領しました。
定正の孫の代で後継ぎがないため、家は断絶しその采地は、尾張藩に組み入れられ、
十七条城は廃城になりました。  (瑞穂市)

十七条城址
熊野神社の東150m程の「圓慶寺」前の道を南へ70mの三叉路を西へ曲がると
藪と木の茂みに囲まれた「十七条城址」の”高橋百光”氏邸が見えます。
画像の三叉路を左へ進むとガレージがあり高橋邸へ入ります。
右(西)へ進むと柿畑へ出ます。
道が狭いので車で来られた方は気を付けてください

熊野神社

   城は熊野神社付近
 『新撰美濃志』によれば、南北朝時代初頭に土岐頼貞の子・舟木頼胤
(土岐頼員の弟・船木頼重と同一人物とも言われる)によって築城された。
 その後、二階堂氏や仙石秀豊、和田利詮が居城とした 。
時期を経て、享禄年間には林正長が城を改築している。
 正長の子・林玄蕃は永禄5年(1562)に織田信長と斎藤龍興の間で起きた軽海の戦いで
戦死したため、弟の林正三が後を継ぎ、天正6年(1578)に逝去するまで城主を務めた。
 正三の子は稲葉重通の養子になって稲葉正成と名乗り、十七条城で十七条藩・一万石を治めた。
 その子・稲葉正定は尾張藩へ仕え、やはり十七条村で一千石を治めたが、
孫に嗣子がなく延宝3年(1675)に家が断絶、城は廃城となった。
     (「フリー百科事典ウィキペディア」より)

 

46.美江寺城跡

瑞穂市美江寺(市立中(なか)小学校)  海抜 19m

北緯

35

度

24

分

26.

秒
東経

136

度

39

分

36.7

秒

城址碑あり

 

美江寺城址
「瑞穂市立中小学校」と南側の堀址までが城址と言われています。
校庭の隅には立派な模擬城址があります。
県道92号「美江寺宮前町」信号を南へ曲がると中(なか)小学校が見えます。

美江寺城址の中(なか)小学校

校庭の西隅に模擬城跡と碑があります

美江寺城跡
 室町時代に美濃国守護職であった「土岐氏」の部侍「和田八郎」画応仁・文明の頃(1460年代)
本巣郡舟木左十六条に居館を構えたのが「美江寺城の創設です。

 その後「八郎」の子「和田佐渡守」、次いで「和田伊予守高成」、「和田持監高行」と代々此処に遽って土岐氏に至りました。

斎藤道三が台頭して守護職「土岐頼盛と軍を構えた時美江寺城主は「和田持監」であった、
天文十一年(1542年)道三の軍勢が美江寺城を襲い九月四日夜これを攻略し城は灰燼に帰しました。

 いつの頃か城址に神明神社が祀られましたが大正三年(1914)神社を美江神社に遷して
此処に小学校が建てられました。

(瑞穂市)

 

47.旗本青木氏陣屋址

瑞穂市居倉

北緯

35

度

26

分

06.

秒
東経

136

度

38

分

34.

秒

碑あり

瑞穂市西小学校西側の道を850mほど北上すると道の突当りへ出るその道傍に碑がある。
青木氏館あとは碑のある家

旗本青木氏館跡
周囲をぐるぐる回っていて偶然せまい道路に入ってゆっくり進んでいた時、
電柱脇に碑が見えたので帰ってからカーナビの位置と手元の地図データが
一致せず、やっと場所が分かってから、住宅地図に落とすまでが大変でした。
自分で作った地図を見ても、あまりすっきりしない!
やはり「瑞穂市立西小学校」を起点に説明するより他に方法のない
分かりずらい場所です。
(シルバーの散歩道)

目標はこの家です。
目印がないので車でぐるぐる回っていて、偶然電柱の脇に立っている石碑を見つけました。
碑には「瑞穂市指定史跡 旗本 青木氏陣屋跡」

また屋敷の中には「瑞穂市指定史跡 貫学学校跡」の碑も見えます。
貫学学校は明治の初頭における、この地の教育競争の一環で出来た学校跡らしいです。


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