シルバーの城郭城跡の散歩道「関ケ原合戦古戦場跡」


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関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)に、
美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦です。

決戦場が関ケ原に決まるまで西軍は大垣城に主力を置き東軍の家康軍を迎え撃つ陣構えでした。

1600年(慶長5年)8月11日石田三成は西軍の本拠地として大垣城に入ります。
対する徳川家康率いる東軍福島正則らは大垣から一里北西の岡山を陣と定めます。
麓に空濠と土囲を巡らし堅牢な陣地
とします。
本陣の周囲300間の土囲、南北に竹槍の柵を設けるというものです。
そして杭瀬川を挟んでにらみ合うこと1ケ月。

0.関ケ原合戦の前哨戦
「杭瀬川の合戦」岡山仮本陣

史跡 関ヶ原岡山陣跡

この山は、海抜53メートルの立稜で慶長五年(1600年)
関ヶ原合戦のとき東軍の総大将徳川家康の本陣が構えられところで、
天下分け目の大合戦に勝利を得た徳川ゆかりの地を記念して
岡山の名を勝山と改めと伝えられています。

「岡山の陣」
岐阜城を攻撃して意気あがる東軍は慶長五年八月二十四日、西進して赤坂一帯を占拠しました。
よく二十五日、軍監の本田忠勝と井伊直政が相談し、徳川家康の本営に定めたのが、
この岡山(現 勝山)です。
以来家康が到着するまでの約二十日間、東軍諸将は丘の麓や周囲に布陣し、砦を築いて
大垣城を本拠とする、石田三成らの西軍と対峙しました。
ちなみに大垣城へはこの岡山から東南方向わずか4kmにすきません。

家康の馬印とのぼり旗
慶長五年九月十四日の正午頃、約三万の軍勢を率いた徳川家康がついに赤坂に到着
岡山山頂の営舎に入りました。同時に大垣城に向けて自らのの馬印とのぼり旗を立てさせ、大垣城の西軍を動揺させたと言います。
この時の様子は、「金の扇子の大馬印」、「銀の繰半月の小馬印」、「離稜土欣求浄土の流旗」、
「丸に三つ葉葵紋三段ののぼり旗」と、「総白ののぼり旗」が数知れずたなびいたと言います。

大垣の敵をおびき出すには最適の場所を家康の家臣は選び家康を迎えたようです。
(頂上にはこの他に模擬の「家康物見台」が作られていましたが今は見当たりません。)

この美濃赤坂岡山山頂の「史跡関ケ原合戦 岡山本陣址」碑の横に
「弘文天皇壬申難

現地の「布陣図」(今はありません)から見ると
この岡山を中心に杭瀬川を挟んで大垣城に向けて布陣したようです。
杭瀬川の南から西へ大谷川まで矢来が組まれ
池田輝政・浅野幸長・有馬則頼・山内一豊・等が右翼に
本陣近くには松平忠則・井伊直政・本多忠勝などが布陣したようです。

前哨戦の「杭瀬川の戦い」は両軍の中間あたりの杭瀬川で戦われたようです。

「杭瀬川の戦い」の模様
慶長五年九月十四日の午後、家康の着陣による将兵の同様を抑えるため、西軍の「島右近」や「蒲生郷舎」、「明石全登」らは
大垣城を出撃し、杭瀬川一帯で東軍の中村一栄・有馬豊氏の両隊と戦い、勝利しました。(杭瀬川の戦い)
家康はこの戦いの一部始終を岡山の本営で食事を取りながら観戦し、飯粒がひざの上に落ちるのも気が付かないほどであったといいます
古記録では扉を営舎の屋根にのせて観戦したようです。

岡山本陣から大垣城方面を見た画像です。

麓の「浄土宗 紫雲山 安楽寺については「中山道 美濃十六宿(後編) 「赤坂宿ー後編」を参照して下さい

00 杭瀬川の戦い
(日吉神社付近)

大垣市南一色町 海抜12m

北緯

35

22

05.

東経

136

36

06.

「杭瀬川の戦い」があったとされる「日吉神社」(中央辺りの森)付近の杭瀬川
(現在は堤防が築かれ川幅は狭くなっています。)

「杭瀬川の戦い跡」
県道231号「笠木町西」の信号を500mほど南下すると
西側に「日吉神社」の鳥居が見えてきます。
そのあたり一帯が杭瀬川の戦い跡です。

杭瀬川の戦い跡
県道231号
「笠木町西」信号を500mほど南下すると西側の
堤防下に「日吉神社」の鳥居が見えてきます。
この「日吉神社」付近と言われています。

杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、慶長五年九月十四日(1600年10月20日)に行なわれた戦いです。
 関ヶ原の戦いの前哨戦にあたり、この戦いは局地戦であったが、西軍が大勝しました。

 九月十四日、東軍の総大将である徳川家康が美濃赤坂(現在の大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に
 大軍を率いて到着しました。
 このため、大垣城の西軍の中で動揺が走るようになり、一部の兵士の中には逃亡する者も相次いだと言われています。
 
 事態を憂慮した石田三成の家老・島清興は戦勝による士気の回復を進言し、東軍に奇襲攻撃をかけることにしました。

これが「杭瀬川の戦い」です。

 杭瀬川は、大垣城と赤坂の岡山の中間あたりにある川で、周辺には森林が生い茂っていたとされています。
 西軍の島清興はこの中に一隊を伏せて伏兵とし、残る部隊で対岸へ渡り、東軍の中村一栄隊の前で苅田を始めた。
 この挑発に中村一栄隊の将士が乗って小競り合いが始まり、まもなく有馬豊氏隊も参加して乱戦となった。
 島清興はある程度戦うと、敗れた風を装って退却をはじめ、両隊を釣り出す事に成功。
 追撃した中村・有馬隊は伏兵の横撃を受けて壊乱状態に陥り、さらに宇喜多家の明石全登が参戦して東軍の両隊は大  被害を受けて敗走しました。

美濃での前哨戦西軍勝ち
この「杭瀬川の戦い」で西軍の苅田作戦でおびき出された東軍の中村一栄隊の将で家老の「野一色頼母助義」は西軍の伏兵に横撃され
敗走中に深田に足を取られたところを宇喜多家中の浅賀三左衛門(浅香左馬助)に組みつかれ、ついに討ち取られた。
この戦いで東軍は40人程が戦死。
頼母は乱戦の中、後れて追いついた家臣の奮闘によってその首は敵(左近方)に渡さずに済み、赤坂宿の
古墳上に葬られました。

中村勢の指揮官で家老職を務める野一色頼母助義は近江野一色村の出身で、中村家中で八千石を領していた人物である。
この日の出立ちは「金の三幣の指物に馬印は鳥毛の二ツ団子」という颯爽たるものであったという。

古墳の上にある兜塚
東軍 野一色頼母助義の墓
(赤坂宿西口御使者場跡)

大垣市赤坂町

北緯

35

23

08.6

東経

136

34

44.6

宿場西の「赤坂宿御使者場跡」は古墳上にあり「兜塚」とも言われています。

「兜塚」(野一色頼母助義の墓)
県道216号の「嫁入普請の家」から西へ400m
「昼飯大塚古墳」から東へ300mの南側にあります。
(昼飯大塚古墳については「中山道・後編赤坂宿下」を参照ください)

                      「兜塚」
 「兜塚」の由来は関ヶ原決戦の前日の「杭瀬川の戦い」で戦死した東軍の武将「野一色頼母」を葬り、その兜を埋めためと言われています。
 以来この古墳は「兜塚」と呼ばれています。      (大垣市教育委員会)

「杭瀬川の戦い」から「関ケ原合戦」まで
此の頃、三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していたが、いずれも淀殿に拒否され果たせなかった。
また輝元には出馬の意思があったといわれるが、、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされている。
また、西軍の北陸道平定軍に従軍していた京極高次が突如として戦線を離脱、居城の大津城に籠城して東軍への加担を鮮明にした。
このため三成は毛利元康を大将に、小早川秀包や立花宗茂ら1万5,000の軍勢を割いて、大津城攻撃へと向かわせた(大津城の戦い)。
さらに9月14日には西軍の首脳であったはずの前田玄以が大坂城を退去し、閑居するという事態も発生した。
この玄以も、一説には東軍に内応していたという。
こうして西軍は当初の戦略が狂っていった。

14日夜から15日朝まで
14日夜に家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せた。
これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進する。
西軍の転進を知った家康も、即座に関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて西へ向かった。
(フリー百科事典・ウィキペディア「関ヶ原の戦い」より)

こうして翌日の関ヶ原の合戦となりました。

関ケ原合戦

関ケ原合戦陣容
(陣名
頭の数字は道順番号、ナシは碑址なし)

東軍 反応軍 西軍 傍観軍
陣名

兵力

陣名 兵力 陣名 兵力 陣名 兵力

大将

01徳川家康

30.000

17石田三成  6.000
あ行 24浅野幸長
22
有馬則頼
31井伊直政
25池田頼政
21
生駒一政
15奥平貞治
   織田有楽
13.900/4
13.900/4
 6.000/2
13.900/4
 1.800
(交渉監視)
  400
   赤座直保
   小川祐忠




 5.000/4
 5.000/4





11宇喜多秀家
08大谷吉継




17.000
  4.000/4




26安国寺恵瓊





30.000/5





か行    加藤嘉明
   金森長近
04京極高知
21黒田長政
 3.000
 1.200
 3.000
 5.400/2
   朽木元網
06小早川秀秋

 5.000/4
15.000

16 蒲生郷舎
   木下頼継
13小西行長
.
  4.000/4
  6.000
28吉川広家


30.000/5


さ行 18島左近
03島津豊久
14島津義弘
.
.
  6.000
た行 21竹中重門
32田中吉政
   筒井定高
04藤堂高虎
   寺沢広高
   徳永寿昌
5.400/2
3.000
2.800
2.500
2.400
(?)
   戸田重政




4.000/4




30長曽我部盛親




30.000/5




な行 29長束正家 30.000/5
は行 05福島正則
   古田重勝
20細川忠興
02本田忠勝
6.000
1.000
5.000
 .500
10平塚為広


4.000/4


ま行 31松平忠吉 6.000/2 27毛利秀元 30.000/5
や行 23山内一豊 13.900/4
ら行
わ行

07脇坂安治

 5.000/4
初戦 24陣

67.900

5

20.000

16陣

65.000

5陣 30.000
最終 29陣 87.900 11

45.000

5陣 30.000

 布陣を大別すると東軍(徳川家康軍側)・反応軍(開戦前は西軍側であったが戦中に東軍となった)      
西軍(最後まで石田三成側)・傍観軍(参戦せず)の色分けで掲載します

東 軍

反応軍

陣名 兵力 陣名 兵力
01徳川家康 30.000 13竹中重  5.400/2
02浅野幸長 13.900/4 14田中吉政 3.000
03有馬則頼 13.900/4 15筒井定高 2.800
04井伊直政  6.000/2 16藤堂高虎 2.500
05池田頼政 13.900/4 17寺沢広高 2.400
06生駒一政 1.800 18徳永寿昌 (?)
07奥平貞治 (交渉監視) 19福島正則 6.000
08織田有楽 400 20古田重勝 1.000
09加藤嘉明 3.000 21細川忠興 5.000
10金森長近  1.200 22本田忠勝 500
11京極高知  3.000 23松平忠吉 6.000/2
12黒田長政  5.400/2 24山内一豊 13.900/4
  24  

67.900

陣名 兵力
01赤座直保  5.000/4
02小川祐忠  5.000/4
03朽木元網  5.000/4
04小早川秀秋 15.000
05脇坂安治  5.000/4
 I  
 I  
 I  
 I  
 I  
 I  
 I  
 I  
5陣 20.000

西 軍

傍観軍

陣名 兵力 陣名 兵力
01石田三成 6.000
02宇喜多秀家 17.000 07島左近 数字ナシ
03大谷吉継 4.000/4 08島津豊久 数字ナシ
04蒲生郷舎 数字ナシ 09島津義弘 6.000
05木下頼継 4.000/4 10戸田重政 4.000/4
06小西行 6.000 11平塚為広 4.000/4

11陣

39.000

陣名

兵力

01安国寺恵瓊 30.000/5
02吉川広家 30.000/5
03長曽我部盛親 30.000/5
04長束正家 30.000/5
05毛利秀元 30.000/5
    

5陣

30.000

関ケ原合戦陣址順路8
緑字:東軍青字:西軍赤字:反応軍桃字:傍観軍

道順 陣址・その他
01 徳川家康最初の陣址(桃配山)不破郡関ケ原町大字野上1424-1
02 本田忠勝陣跡不破郡関ケ原町大字関ケ原公門5)
03 島津豊久の碑大垣市上石津町牧田)
04 藤堂高虎・京極高知陣跡(関ケ原中学校 校内)
05 福島正則陣跡(春日神社)不破郡関ケ原町大字松尾111
06 小早川秀秋陣跡(不破郡関ケ原町大字山中731-1
07 脇坂安治陣跡(不破郡関ケ原町大字藤下476-1)
08 大谷吉継陣跡(不破郡関ケ原町大字山中宮上)
09 大谷吉継の墓(不破郡関ケ原町山中2360)
10 平塚為広の碑(不破郡関ケ原町大字藤下)
11 宇喜多秀家陣跡 (天満神社)(不破郡関ケ原町大字関ケ原4146-1)
12 開戦地(不破郡関ケ原町大字関ケ原2368-1)
13 小西行長陣跡 (神明神社)(不破郡関ケ原町大字関ケ原2368-1)
14 島津義弘陣跡(不破郡関ケ原町関ケ原小池)
15 奥平貞治の墓(不破郡関ケ原町大字玉)
16 蒲生郷舎陣跡 (笹尾山西麓)(不破郡関ケ原町関ケ原)
17 石田三成本陣跡 (笹尾山)(不破郡関ケ原町大字関ケ原4008)
18 島左近陣跡(笹尾山東麓)(不破郡関ケ原町関ケ原)
19 決戦地(不破郡関ケ原町関ケ原)
20 細川忠興陣址(陣屋公園)不破郡関ケ原町関ケ原)
21 黒田長政・竹中重門陣跡(丸山狼煙場)(関ケ原町大字関ケ原732)
21 生駒一政陣跡と金毘羅神社(730)
22 有馬則頼陣址(詳細不明)不破郡垂井町伊吹)
23 山内一豊陣址(中山道松並木)不破郡関ケ原町大字野上1391-2)
24 浅野幸長陣址(垂井一里塚)不破郡垂井町)
25 池田輝政陣址(春王丸・安王丸墓)不破郡垂井町御所)
26 安国寺恵瓊陣跡(不破郡垂井町宮代)
27 毛利秀元陣跡 (南宮山展望台)(不破郡垂井町宮代)
28 吉川広家陣跡(不破郡垂井町宮代)
29 長束正家陣跡(不破郡垂井町垂井栗原)
30 長曽我部盛親陣跡(清水公園)(不破郡垂井町垂井栗原)
31 井伊直政・松平忠吉陣跡(東首塚)(不破郡関ケ原町大字関ケ原908)
32 田中吉政陣跡(不破郡関ケ原町大字関ケ原959-2)
32-1 徳川家康最後の陣址(不破郡関ケ原町大字関ケ原959-2)
33 関ケ原歴史民俗資料館(不破郡関ケ原町大字関ケ原)
34 西首塚(不破郡関ケ原町大字関ケ原)

 掲載順は関ケ原の東口の国道21号にある「徳川家康最の陣跡(桃配山)」から始め、次の陣跡へ近い道順を主眼に
国道21号の南側から西へ進み最終は「徳川家康最後の陣跡」と合戦進展時系列も勘案し掲載します。
(頭の数字は道順)

01 .徳川家康
   最初の陣址(桃配山)

不破郡関ケ原町野上 海抜96m

北緯

35

21

44.

東経

136

29

25.

01「徳川家康最初陣址」
国道21号「野上」信号から930mほど西、
「一ツ軒」信号から東へ250mほど東の国道21号南側にあります。
駐車場はシーズン中は国道21号北側にあります。

「徳川家康最初陣址
国道21号南側に幟と看板あり
(無料駐車場は国道21号北側・ただし夏季期間のみ解放)
桃配山

天下をわける壬申の乱の大いくさは千三百年ほど前であった。
吉野軍をひきいた大海人皇子は、不破の野上に行宮をおき、ざわみ野において、
近江軍と向き合っていた。急ごしらえの御所に、皇子がはいったのは、六月の二七日である。
野上郷はじめ、不破の村人たちは、皇子をなぐさめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。
「おお、桃か。これは縁起がいいぞ!」皇子は、行宮につくが早いか、桃の出迎えにあって、こおどりして喜んだ。
皇子は、はたと膝をたたき、不破の大領を呼んだ。「この不破の地は、山桃の産地であると聞く。
なかなか味もいい。どうだろう。わたしはこの桃を、軍団みんなに一個ずつ配ってやりたい。
戦場における魔よけの桃だ。これを食べて戦場に出れば、武運百倍。
もりもりと働いてくれよう。大領、この近郷近在の山桃を全て買い上げ、軍団の兵士皆に、私からの桃だといって、
配ってくれ」 大領、宮勝木実(みやかつのきみ)は、胸を打たれて平伏した。
木実は行宮所在地の大領(郡長)として、御所を建て皇子をお守りしている。
「ありがたいことでございます。戦勝につなぐ縁起のいい桃。
兵士の命を守る魔よけの桃。天子様から賜った尊い桃。全軍の兵士は勿論、村の者たちも、
涙を流しなして喜び存分の働きをしてくれるでありましょう。」
このとき木実が確信したとおり、この桃を押し戴いた数万の将兵の士気は、いやが上にも高まり、
連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであった。
此の奇縁により、この桃を配った所を桃配山とか、桃賦野(ももくばりの)とよんで、今に伝わっている。
九百年のあと、徳川家康は、この快勝の話にあやかってもも配山に陣をしき、一日で天下を自分のものにした。
(現地説明板より)

国史跡 徳川家康最初陣地
慶長五年九月十五日未明に、家康の配下三万余は、ここ桃配山周辺に陣取り、家康はこの山頂において、
大馬印を高々と掲げ指揮に当たりました。
最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、しきりと作戦会議が開かれたと思われます。
ここにある二つの岩は、家康がその折荷テーブルと腰掛に使用したと伝えられています。
(関ケ原町)

桃配山からは石田三成本陣の笹尾山まではあまりにも遠く、
それに現在のお建物がなくても合戦場全体も掌握できる場所ではありません。
いかに家康がゲン担ぎでこの場所を選んだかが分かる気がします。
下の国道21号線も名神高速道ができてから閑散としています。
車の方は桃配山の対向車線側道に少し広い幅の場所があるので、そこに短時間駐車して下さい。
(画面の中央の幟旗の右のクルマの位置あたり)

最初の「徳川家康最初陣跡」(桃配山)の国道21号を西へ約900m進み「関ケ原駅前」信号
を南へ曲がり「関ケ原クリニック」駐車場東の小路を東へ入ると小さな碑があります。

02 .本田忠勝陣跡

不破郡関ケ原町関ケ原)3126-8 海抜121m

北緯

35

21

23.

東経

136

28

33.

本田忠勝の陣跡
慶長五年九月十五日軍艦として家康を守り関ケ原の中央に進出、
生駒・金森・古田・織田の諸隊が備える背後に
家康の本陣(桃配山)を背にして麾下の隊を指揮した。

福島・黒田隊などの先陣が進撃し、金森・織田等の諸隊が前進すると
忠勝の先陣の井伊直政に負けじと梨木川北方で島津隊と奮戦した。
戦後 伊勢桑名十万石に転封(てんぽう)された。
(関ケ原町)

「本田忠勝陣址」
関ケ原大字公門5丁目の旧町内の狭い道の奥にあります。
国道21号「関ケ原駅前」信号を南へ370m(道が少し広くなる)ほどの左側(東側)に
小さな標識と石碑「本田忠勝陣地」があります。
小さな標識のある狭い道を東へ

国道21号「関ケ原駅前」信号から狭い道を南下すると東側(左側)に小さな標識があります。
(車の方は辻の西にある「関ケ原クリニック駐車場」を短時間借用します。)

狭い路地を奥へ30mほど入ると「公門第二会館が」が左にあり、
手前を左に曲がり、道なりに右へ進むと幟が見えます。

奥は意外に広く「秋葉神社」と「陣址」碑があります。

次は、少し遠いですが大垣市(旧養老郡)上石津町へ寄ります。(片道約1.2km南)

国道21号「関ケ原駅前」信号から狭い道を南下した道に戻り、さらに南下し、
県道56号線を横断しさらに南下しJR東海道新幹線のガード下をくぐり約1km南下すると名神高速道路の下をくぐります。
名神高速道路の下〜約150m程の下り坂の西側(右側)に碑と案内板があります。

03 西.島津豊久の碑

大垣市上石津町牧田 海抜 98m

北緯

35

20

52.

東経

136

29

03.

鳥頭坂の島津豊久碑
ここな、養老郡上石津大字牧田地内の鳥頭坂というところであるが、
関ケ原合戦の際 午後三時頃 西軍は総くずれとなったので、
最後までよく頑張った島津勢も遂に敵中突破し、ここまで来たが、
東軍の松平忠吉、井伊直政、本田忠勝等が激しく追撃して来たので島津帷新の甥、
島津豊久が頑強にくいとめた。
その間に島津勢は、多良峠を経て、後 鹿児島へ帰ることができた。
豊久の生死は、不明であるが、古跡保存会の手により、この地に豊久の碑を建てたのである。
一説には、豊久は、多良まで落ち延びたが、手傷が重いため、自害してしまったという。
(関ケ原観光協会)

島津豊久の碑
大垣市上石津牧田地内の「鳥頭坂の殿戦」のあった鳥頭坂の
途中にある説明板の脇の小路を登ると「碑」があります。

島津豊久奮戦の地(鳥頭坂)
慶長五年(1600)九月十五日関ケ原合戦の時、
午後三時頃 西軍はほとんどの軍が総崩れとなった。
西軍の島津隊は最後まで頑張って戦ったが、
果敢にも的中突破を図り、主君義弘公を守りながら、
東軍の徳川家康本陣を横切り、
血路を伊勢街道に求めまて南進しました。
島津義弘の甥、豊久(日向守土佐原城主)は、
ここ鳥頭坂付近でしんがり戦を展開し、
追撃軍を頑強に食い止めたので、その間に義弘公は戦線を離脱し、
鹿児島に帰り着くことが出来た。
この地、鳥頭坂には豊久の勇戦を讃える碑が建てられている。
(上石津町)

碑の下の鳥頭坂

島津豊久の鳥頭坂の殿(しんがり)戦以降の島津隊
鳥頭坂に次いで上石津上野では家老の阿多盛淳が第二の殿戦を行い、
その後本隊(義久公)は遠く戦線を離脱することが出来ました。
上石津樫原にある高輪山瑠璃光寺には古色蒼然たる豊久の位牌が祀られています。
また 寺の裏手に豊久の五輪塔が祀られ、「島津塚」と呼ばれています。

古文書によると、「豊久はやっと上石津多良(羅)へ辿り着いたが、遂に多良の城拍子谷で落命、
御尊骸はその時案内した庄屋の三輪一斎が、茶毘葬にして御廟に納めた」と記されています。

戦線離脱後の義弘公一隊は、近江国の小林新六郎正祐の山路案内により、
保月越えで無事薩摩へ帰着(80数名)することができました。
大垣市上石津郷土資料館発行「上石津の史跡探訪」より)

次は藤堂高虎・京極高知 陣跡です。陣跡は関ケ原中学校の校内にあります。
今来た道を北へ進み国道21号線まで戻った方が分かり易いと思います。

04-藤堂高虎・京極高知 陣跡
関ケ原町の中心部 字 関ケ原の関ケ原中学校門内西に在ります。

がしかし、国道21号から関ケ原中学校へ南折する道が狭く説明し難い場所です。
国道21号を西進して梨の木川(狭い川ですので見逃し易い川幅です)を渡ると、
右側に「西首塚」が見えて50mほどの南へ入る道がみえたら南折します。
(西首塚は進行方向の反対車線ですので、後ほどの行程でご案内します。)

04 .藤堂高虎  
  京極高知
陣跡
  (関ケ原中学校 校内)

不破郡関ケ原町関ケ原芝柴井 海抜 140m

北緯

35

21

23.

東経

136

28

02.

藤堂高虎   
 京極高知 陣跡

藤堂・京極隊は、ここ中山道の南に位置する柴井に陣し、松尾山や山中村などの西軍に備えました。
ところが小早川隊の寝返りで戦況は一変したのです。
大谷隊と小早川隊との壮絶な死闘の真つ只中へ、本両隊が突入し、
これに呼応した脇坂隊も加わり、大谷隊は壊滅に追い込まれていったのです。
(関ケ原町)

国道21号線から南へ入る道も、以外と狭いが正面に中学校が見えますから分かり易いと思います。

藤堂高虎・京極高知 陣跡
陣跡は関ケ原中学校の校内にあります。

次は近くの福島正則陣跡へ。
これも狭い道を標識に従って西進するか、国道21号へ戻り地図で「春日神社」を探して南折してください。
(関ケ原中学校から約300m西の地点ですが文面では説明しにくい場所です。)

05.福島正則陣跡
(春日神社)

不破郡関ケ原町関ケ原2497 海抜 131m

北緯

35

21

21.

東経

136

27

50.

福島正則陣跡
東軍の先鋒となった福島正則(約6千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。
一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、
宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退ノ攻防が続きました。
首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の賞賛を受けたとされています。
(関ケ原町)

福島正則陣跡
東山道・東城門跡まで戻った方が分かり易い道順になると思います。

目印の春日神社は陣跡の向かいにあります。

陣跡には「月見宮大杉」も目印ですが、狭い道幅では見にくくあまり当てにはなりません。

次の陣跡は「小早川秀秋陣跡」ですが往復に2時間は要する松尾山山頂にあります。
その道順に「井上神社」があります。

06.小早川秀秋陣跡
小早川秀秋陣跡の松尾山へは中山道西の「今須宿」からも登れますが遠回りになりますので
関ケ原松尾から登った方が疲れません。

小早川秀秋陣跡の松尾山へ進まれる方は、「井上神社」から南へ約200mほど進み
名神高速道路下を通り「黒血川」を渡ると西側に駐車場があり松尾山への登山口があります。

06 .小早川秀秋陣跡

不破郡関ケ原町今須字溝口 海抜  m

北緯

35

20

43.3

東経

136

26

26.2

山頂へは約1時間程度です。山頂は城址が公園化されています。

同じ道を下って駐車場から黒血川を渡ってすぐ西(左)の道へ入り北へカーブして200m程進んだ
交差路を西へ入り50mほどの南側に反応軍「脇坂安治陣跡」碑があります。

07.脇坂為広陣跡
小早川秀秋陣跡の松尾山から下り「黒血川」を渡り直ぐ西へ曲がります。
道なりに進み「名神高速道路」の手前に陣跡があります。

標識があるので従ってください。直わかります

07 .脇坂安治陣跡

不破郡関ケ原町藤下  海抜 105m

北緯

35

21

03.

東経

136

27

44.

脇坂安治陣跡
安治は関ケ原の戦い当時は洲本城主で、かって賤ヶ岳七本槍の一人として名を上げた武将でした。
東軍に通じていた安治にとって、小早川の裏切りは願っても無いことでした。
しかも東軍が優勢に転じる頃合いを見計らい、自ら槍を振るい、大谷隊の側面に、
先頭をきって踊りこんでいったのでした。
(関ケ原町)

名神高速道路ガード手前に標識があります。
標識を西へ入り50mほどの南側に反応軍「脇坂安治陣跡」碑があります。

標識まで戻りガード下をくぐり北へ進み旧中山道「不破関守址」まで進みます。

この先、旧中山道へ戻り不破地区を西へ向かい国道21号を横断し西軍の「大谷吉継陣址」までの道順の間に、
皇位をめぐる古代の戦い「壬申の乱」に関係する場所通りますが興味のある方は、
「壬申の乱と不破の関」
のページを参照して下さい。

主な「壬申の乱史跡」
不破の関庁跡」、 「天武天皇の兜掛石と沓脱石」、そして有名な「不破関守跡」、
「不破の関庁跡と天武天皇の兜掛石・沓脱石」、「鍛冶工房跡」、
「北限の土塁跡」、「東北角の土塁跡」、「南限の土塁跡」、
「東山道 東城門址」、「不破の関西城門跡
戸佐々神社」、
弘文天皇(大友皇子)をお祀りした「藤下若宮八幡神社」、
天武天皇(大海人皇子)をお祀りした「井上(いのがみ)神社」、
壬申の乱で戦った兵士が水を得るために矢尻で掘った「矢尻の井と箭先(せんさき)地蔵堂」、
弘文天皇が自害された埋葬されたと伝えられる「自害峰の三本杉と弘文天皇御陵候補地」、
更にその先の「玉地区」には壬申の乱の壮絶な戦い黒血川の謂れとなった
「玉倉部の戦跡」
(玉倉部大橋)などの地があります。

では、「大谷吉継陣址」から「大谷吉継の墓」へ向かうために中山道へ戻り、
更に国道21号へ出ます。

松尾山の「小早川陣跡」から中山道への道により「国道21号」へ出るルートはいろいろありますので
最短の道で出て下さい。(最近のこの辺りは新しい道が次々できますので現地の標識に従ってください)
国道21号へ出て西へ進むと押しボタン信号(信号の名前がありません)があり
広い道がJR東海道本線の下をくぐって北へ進んでいます。
この道が「広域農道」で次の目標の「10.平塚為広の碑」へ行けます。

参考までに通過する地区の「壬申の乱」関連の地案内図を掲載しておきます。

道なりに250m程進み国道21号へ出ます。

国道21号を西へ300m程進み押しボタン信号の三叉路の北へ曲がりJR東海道本線下をくぐり「広域農道」を北へ進みます。

国道21号から「広域農道」へ入る「押しボタン信号」三叉路
(広域農道へは「JR東海道本線」のガードをくぐります。)

「広域農道」を道なりに150m程進むと「平塚為広の碑」があります。

 

10. 西.平塚為広の碑

不破郡関ケ原町大字藤下 海抜 135

北緯

35

21

28.

東経

136

27

32.

平塚因幡守為廣碑
合戦当時 垂井城主(一万二千石)だった為広は、吉隆(吉継)と親しかったため、
大谷隊に加わっていました。
平塚為広・戸田重政両隊の勇戦振りは目覚ましかったが、
脇坂安治(08参照-松尾山口に布陣)らの背反が加わり、味方の壊滅を見極めた為広は、
辞世の句を討ち取った首に添えて吉隆に届けさせると、藤川台の露と消えました。
それを碑裏に留めたのは子孫定二郎です。
(関ケ原町)

「平塚為広の碑」から北へ100m程の西側に案内板と標識があります。

「説明板」には、この辺りが関ヶ原の戦い時に両軍が死闘を繰り広げた場所の説明があります。

藤川台(関ケ原町川台)

藤古川(関の藤川)の右岸に位置している、この川岸の上を藤川台戸称します。
地形が平らで、やや高い所からその名があります。
此処に大谷吉継(吉隆)、戸田重政、平塚為広等が布陣し、
小早川隊等との壮絶な死闘を展開しました。
大谷隊が最初陣した宮上の丘陵上には空堀が縦横に連なっており、
地形をうまく生かした陣の構築跡がみられます。
(関ケ原町
川台)

標識「大谷吉継墓 450m10分」に従って西(山中)へ進みます

山中を450m約10分歩くと標識があります。

標識から30mほどの場所に「大谷吉継の墓」が見えます。

08.  西.大谷吉継の墓

不破郡関ケ原町山中2360 海抜 

北緯

35

21

東経

136

27

国史跡大谷吉継(吉隆)墓
吉継は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。
旧友の苦痛を察した吉継は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束でここ宮上に出陣してきたのです。
壮絶な死闘の末、吉継は、首を敵に渡すな、と言い残して自害しました。
この墓は敵方の藤堂家が建てたものです。
(関ケ原町)

なぜ敵方の藤堂家が墓を建てたのか、なぜ大谷吉継の五輪塔と並んで
「湯浅五助隆貞之墓」が並んで立っているかは下段で。

 

何故ここに「湯浅五助」の墓が並んでいるの?

湯浅五助
湯浅 五助(ゆあさ ごすけ)は、戦国時代の武将。大谷吉継の家臣。
元は関東浪人で、三十代にして吉継に仕えた新参衆、小身の武士であり、馬屋別当の職にあったとされる。
大谷吉継の家臣の中でも、特に武勇に秀でた槍の名手であったといわれる。
岡部小衛門・富永主膳・中田六兵衛らとはしばしば語らいをなし、
「いかにもしつかに物やわらかなるよきもの」と評される人格者、
「それほと主人の用に立申候」と評されたという。

関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の攻撃によって大谷隊が壊滅したとき、切腹した大谷吉継の介錯を務めた。
この際、ハンセン病を患っていた吉継は、自害する前に五助に
「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えて果てた。
五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めた。
埋め終わった時に、五助は藤堂高虎の軍に所属する藤堂高刑に発見されると、
「私の首の代わりに、主君の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と頼み、
藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取った。
藤堂高虎は、甥の高刑が湯浅五助の首を取ったことに喜び、徳川家康の本陣に報告した。
五助の首を見せた際、家康は手柄を褒めつつ、
大谷吉継の側近である五助なら主君の居場所も知っているはずと、高刑を詰問した。
高刑は五助との約束を守り頑として在処を言わなかった。
その姿勢に家康は感心し、自分の槍と刀を与えたという(『平尾氏箚記』)。

墓は、岐阜県関ケ原町に存在する。
合戦後まもなく藤堂家によって建立された大谷吉継の墓の隣に、
大正5年(1916年)、五助の子孫により建立されたものである。
(フリー百科事典『ウィキペディア』より)

次は「大谷吉継陣跡へ分岐標識から進みます。

この分岐標識から「300m4分」です

09. 西.大谷吉継陣跡

不破郡関ケ原町山中宮上 海抜 

北緯

35

21

東経

136

27

大谷吉継陣跡
親友三成の懇請を受けた吉継は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。
松尾山に面し、東山道を見下ろせる この辺りは、
古来山中城と言われるくらいの要害でした。
九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、
浮田(宇喜多)隊ら友軍の陣造りも進め、
十五日未明の三成ら主力の着陣を待ったといいます。
(関ケ原町)

 

陣跡のすぐ下に最近できた「松尾山眺望地」があります。

「松尾山眺望地」
正面には松尾山がその手前に「JR東海道新幹線」「国道21号」
その手前に「中山道」そして「JR東海道本線」が見えます。

松尾山眺望地
正面1.5キロ先に望む標高293米の山が松尾山である。
関ケ原合戦において、小早川秀秋が布陣したことで有名である。
当時の遺構がそのまま残っており、山頂に軍旗が翻っていることが確認できる。
吉次継は予てから秀秋が二心を疑っていたので、
自ら二千の兵を率い下方 山中村の沿道に出て、専ら秀秋に備えていた。
案の定秀秋の兵一万三千が山を下り突進してきたが、
その大軍を麓まで撃退すること三度。
遂に総崩れとなり吉継は自刃した。
こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した大谷吉継之勇姿が偲ばれる。
(関ケ原町)

次は「宇喜多秀家陣跡」へ向かいます。

先ず今登ってきた道を引き返し「広域農道」まで戻ります。

ここで「徒歩の方」「車の方」で進む方向が分かれます

徒歩の方

「広域農道」を北へ上り「藤古川ダム堰堤」の上を歩き 字山中から対岸の「字関ケ原」へ渡ります。

車の方

国道21号まで戻り「松尾」信号を北へ曲がり最初のT字路(標識あり)を西へ曲がり         
途中「不破の関・北限の土塁跡」脇を通り道なりと標識に従って「宇喜多秀家陣跡」(天満神社)へ進みます。(車の方は画面を「10−2天満神社東口」まで進めて下さい。)

徒歩の方のは「広域農道」を北へ300m程進むと右側(東側)に小さな標識があります。

「宇喜多秀家陣跡400m8分
「関ケ原合戦開戦地1km20分
の標識脇の細い道へ入りダム堰堤まで下ります。

上図 左下部あたりにあります。

ダム堰堤上を対岸へ渡ります。

10-1. 藤古川ダム堰堤東口

不破郡関ケ原町大字藤下 海抜 155

北緯

35

21

33.

東経

136

27

23.

堰堤上面を渡り対岸へ

堰堤から上の道へ登ります。

標識によると「宇喜多秀家陣跡 200m4分」とありますが
「陣跡」入口までが200mで天満神社の参道が100m位いあります

 

10-2. 天満神社東口

不破郡関ケ原町大字関ケ原 海抜 138

北緯

35

21

33.

東経

136

27

38.

「車の方」の入口

「車の方」の入口陣跡(天満宮)への入口
徒歩の方は画面右の電柱陰に碑と説明板があり参道から入ります。(参道約100m
車の方は画面左の道を進へ80mほどの入口です。

「宇喜多秀家陣跡」へは天満神社碑から参道を奥へ150mほど入る。

1. 西.宇喜多秀家陣跡
(天満神社)

不破郡関ケ原町関ケ原4146 海抜 151m

北緯

35

21

34.

東経

136

27

31.

宇喜多秀家陣跡
西軍副大将の秀家は、一万七千の兵を配して中山道をおさえました。
午前八時頃東軍福島勢の猛攻から戦いが始まり、
秀家の前衛明石全登(てるすみ)の隊との激突となりました。
宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りと言われています。
秀家は敗走中 池田郡白樫村の矢野五右衛門に助けられ、
その後八丈島へ流され、八十三歳まで生き延びています。
(関ケ原町)

「宇喜多秀家陣跡」は上図中央上部あたりです。

「天満山南 浮田秀家陣所古跡」

「宇喜多秀家陣跡」から「開戦地」へ移動します。

「12.開戦地」へは上図に従って進んでください。

「開戦地碑」は神明神社にあります。
(駐車場は近くに広い場所があります。)

12. 開戦地再掲
(神明神社)

不破郡関ケ原町関ケ原4126 海抜143m

北緯

35

21

45.

東経

136

27

41.

史蹟 関ケ原古戦場 開戦地 碑

目印となる神明神社横には広い駐車場もあります。

国史跡 開戦地
慶長五年九月十五日、霧が薄くなり視界も広がった午前八時。
先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、
宇喜多隊に一斉に射撃を浴びせました。
一方井伊隊も福島隊に遅れまいと、島津隊の陣に向かって攻撃を開始し、
合戦の火蓋が切って落とされた所です。
(標柱の位置は北寄りに移動)
(関ケ原町)

次は「小西行長陣跡」です。この神明神社の西側のフエンスを奥へ進みます。

神明神社西から北の方を見ると幟が見えます。

100m程北へ進むと陣跡があります。

13. 西.小西行長陣跡
(神明神社)

不破郡関ケ原町関ケ原4126     海抜 143

北緯

35

21

45.

東経

136

27

41.

小西行長陣跡
小西行長は、ここ北天満宮に六千の兵を率いて参戦しました。
午前八時ごろ、戦闘開始の狼煙をあげ、味方に合図すると共に、
西軍の主力の一つとして勇戦しています。
しかし小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、それに乗じた本多隊の襲撃で、
兵士たちが敗退し始めたのは午後一時過ぎのことでした。
(関ケ原町)

「天満山北 小西行長陣所古址」碑と説明板

次は「島津義弘陣址」ですが、
曲がりくねった旧道を東西南北や前後左右で説明しるのは大変難しい!

車の方は国道365号線「小池北」信号を北西に70m程の歩道橋を辺りの南へ入る小路に入ると
民家の塀に「島津義弘陣址」の標識を見つけました。

「島津義弘陣址 100m 1分」
この辺り道が狭いため、案内板もカーブミラーも民地に入っています。

標識の指す道は狭くて車では入れません。
おおよその方向感で車の通れる道を探して大回りすることにしました。

偶然「島津義弘陣址」へ出ることが出来ました。

この地を訪れて(シルバーの散歩道)
県内に住む者でも探しにくいこの場所へ「薩摩(鹿児島県)」から海路と陸路で直線でも800km
千五百余の兵と兵糧を携え戦うために陣を布いた心境は測りがたく不安だったと思われます。
着陣後しばらくは、此処がどこで三成本陣との位置関係も敵方の位置も方角も分からず、
どの方向へ構えたらいいのか!?
開戦地(北々東方向)はここからは見えません。
(多くの将兵は味方の開戦を知らせる狼煙で威を決して出陣したことでしょう)

薩摩隼人も不安だらけで開戦に突入し半日で勝敗が決し、中央突破の作戦で
薩摩に帰り着いたのはわずか八十余騎と言われています。

14. 西.島津義弘陣跡

不破郡関ケ原町関ケ原小池 海抜 143

北緯

35

21

50.

東経

136

27

43.

「小池 島津義弘陣所址」碑

島津義弘(惟新=いしん)陣址
戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北國街道を抑えるため、
ここ小池村に陣を構えました。
西軍がことごとく敗退する中で、「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せつけるため、
義弘は最後の賭けに出たのです。
「背進」を最後の武器に変えたその決断こそ、
現代まで語り継がれる「敵中突破」なのです。
(関ケ原町)

碑の周りには多数の碑があります。

次は少し遠い場所ですが「奥平貞治の墓」をご案内します。
奥平貞治は開戦時に小早川秀秋が必ず寝返ることを確かめるために
家康の命により小早川陣内に派遣されていた東軍の武士の墓です。
(なぜこんな離れた場所に墓があるのか説明板はありません。)

島津義久陣跡から国道365号へ出て国道を北へ1.8km辺りの側道へ下りた場所にあります。

15..奥平貞治の墓

不破郡関ケ原町関ケ原2497 海抜 192m

北緯

35

22

12.

東経

136

26

47.

「奥平藤兵衛源貞治碑」と案内板の奥に奥平藤兵衛貞治墓」
奥平貞治の墓と碑
家康はかねて反応を約束していた小早川秀秋を監視するために、
奥平貞治を松尾山に派遣していました。
決心を促(うなが)された秀秋は、ついに山を下りて友軍の大谷隊を攻撃しました。
その時貞治は陣頭に立ち、一時大谷隊に押され、
松尾山の麓へ後退した際、奮戦後戦死しています。
墓は子孫の貞昭(さだあき)、碑は保存会により夫々建てられました。
(関ケ原町)

国道365号「玉」信号から北へ200mの左側

場所は関ケ原町玉の国道365号「玉」(たま)信号から200m北の
国道から左へ外れる小路を下ります。

国道から外れて70m程進むと左手(西側)に小さな標識が軒下に見えます。
近所の家の軒下にクルマを停めさせていただいて路地を西へ入ります。

軒下を50mほど入ると「奥平貞治の墓」と「碑」があります。

再び関ケ原合戦場の中央部へ戻ります。
「奥平貞治の碑と墓」から国道365号線を戻り石田三成本陣址下の駐車場へ向かいます。

笹尾山本陣は遠くからもよく見えます。
中央の白い幟が石田三成本陣です。

本陣下には西軍各隊がひしめくように幟旗をひらめかせていたことでしょう。

駐車場西寄りの矢来の登り口に「蒲生郷舎(さといえ)陣址」があります。
(駐車場東寄りの竹矢来登り口に島左近の陣跡があります。)

「蒲生郷舎(さといえ)陣址」は石田三成本陣跡の下あたりです。

 

16. 西.蒲生郷舎陣跡
(笹尾山西麓)

不破郡関ケ原町関ケ原1979 海抜 167

北緯

35

22

03.

東経

136

27

04.

蒲生郷舎陣址
郷舎は左近と共に、三成隊の先陣として終始右翼から奮戦激闘を続けました。
そのため、黒田・細川・加藤の隊は容易に笹尾山を攻めることができなかったのです。
しかし西軍劣勢となるや、有楽の降伏勧告に腹を立てた郷舎は、
敵中に躍り込みました。
その後有楽の家臣に討たれ戦死したとも伝えられています。
(関ケ原町)

続いて笹尾山の頂上にある「石田三成本陣跡」へ登ります。

17. 西.石田三成本陣跡
(笹尾山)

不破郡関ケ原町関ケ原1979 海抜 167

北緯

35

22

03.

東経

136

27

04.

山頂には本陣跡が再現されています。

笹尾山本陣は遠くからもよく見えます。
中央の白い幟が石田三成本陣です。

本陣下には西軍各隊がひしめくように幟旗をひらめかせていたことでしょう。

本陣は幾重にも矢来や柵で防御されていました。

本陣からの展望は合戦場全体を把握するには絶好の場所でした。

東軍の烽火場の「丸山」はS字カーブの左の山辺りです。

国史跡 石田三成陣地
ここ笹尾山一帯の石田隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、
前衛隊の島左近らの指揮のもと、すざましい死闘を展開しました。
小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激減し、
西軍の敗色濃厚となるや、最早(もはや)これまでと三成は北國街道沿いに敗走していったのです。
(関ケ原町)

本陣跡の東側の道を下ると竹矢来の出口に「島左近陣跡」説明板があります。

18. 西.島左近陣跡
(笹尾山東麓)

不破郡関ケ原町関ケ原1979 海抜 157

北緯

36

22

03.

東経

136

27

44.

島左近陣跡
島左近の陣容は定かでないが、笹尾山東麓
(画面の右端の「笹尾山山頂 徒歩5分」の案内前あたり)で奮戦したとおもわれます。

島左近陣址
郷舎は左近と共に、三成隊の先陣として終始右翼から奮戦激闘を続けました。
そのため、黒田・細川・加藤の隊は容易に笹尾山を攻めることができなかったのです。
しかし西軍劣勢となるや、有楽の降伏勧告に腹を立てた郷舎は、
敵中に躍り込みました。
その後有楽の家臣に討たれ戦死したとも伝えられています。
(関ケ原町)

島左近陣址は石田三成本陣跡の東口です。

決戦の地は笹尾山のすぐ近くの下あたりです。

19.決戦地

不破郡関ケ原町関ケ原1167 海抜 160

北緯

35

22

01.

東経

136

27

50.

国史跡 決戦地
西軍有利な陣形でのぞんだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、
たちまちにして戦況を一変させました。
小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、
各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中砲火を受けながらも、
最後まで頑強に戦いました。
笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。
(関ケ原町)

決戦地碑から笹尾山の幟がよく見えます。

次は「細川忠興陣址」です。
決戦の地から国道21号へ出て、「陣場野」信号まで200mほど進み南折し50mの住宅地の道を東へ
70mほどの突き当りにある「陣屋公園」が陣址です。
公園の入口正面の大きな松の元に碑があります。(松は最近枯れて切られる恐れがあります)
(「JAにしみの」も目印になります。)

20. 東.細川忠興陣跡
(陣屋公園)

不破郡関ケ原町関ケ原 海抜 

北緯

35

22

東経

136

27

細川忠興陣址碑は画面右端です。

細川忠興陣址
細川忠興は、五千余の兵を率いて、この付近に布陣し、黒田長政らとともに、
笹尾山の石田三成と激しく戦いました。
本戦前には西軍により正室・玉子(ガラシャ)が自害に追い込まれ、
父・幽斎も丹後田辺城を攻撃されるなど、
その胸中は特に複雑であったと思われます。
碑に描かれているのは、忠興が着用下と伝わる越中頭形兜と愛刀兼定を治めた歌仙拵で、
文武に秀でた忠興らしい逸品です。
(関ケ原町)

国道21号関ケ原バイパス「陣場野」信号を南にあります。

次は国道21号東の丸山(通称のろし山)の黒田長政・竹中重門陣址です。

「細川忠興陣址」から「国道21号線関ケ原バイパス」に出て東南へ下り「丸山」信号の
次の「瑞竜」信号を左折(北折)し250mほど山の中へ進むと右側に
「丸山のろし場駐車場」(無料)があります。
(数台駐車できますが地元の人も停めています)

車停めの鎖があり、此処からは徒歩で登ります

道の両側竹藪に覆われた薄暗い舗装道路を約10分登ります。

丸山(狼煙場)
21. .黒田長政    
  
東.竹中重門陣跡

不破郡関ケ原町関ケ原2490 海抜 140m

北緯

35

21

59.

東経

136

28

27.

「史蹟 関ケ原古戦場 岡山狼煙場」碑

国史址 岡山(丸山)烽火場
関ヶ原の戦いのとき、この山頂には長政と重門が陣を布きました。
霧も晴れ上がった午前八時ころ、ここから狼煙があげられ、東軍諸隊に攻撃の合図が出されたのです。
同時に、西軍が陣取る笹尾山、北天満山にも狼煙が立ち上がり、東西軍は一斉に、正面の敵との戦闘を開始しました。
(関ケ原町)

素晴らしいパノラマです。中央に「関ケ原史蹟案内図」もあります。

丸山狼煙場
竹中重門・黒田長政陣址碑

国道21号関ケ原バイパス「瑞竜」信号を北へ200mから「丸山」へ

「のろし場」脇に金毘羅神社がありこの金毘羅神社を祀った元となる生駒一政の陣もあった様です。

21-1. .生駒一
と金毘羅神社

不破郡関ケ原町関ケ原2490 海抜 140m

北緯

35

21

59.

東経

136

28

27.

生駒一政と金刀比羅羅神社
慶長五年(1600)九月十五日の関ケ原合戦のとき、徳川軍に加わった讃岐の領主生駒一政公は、
黒田長政公と竹中半兵衛公と共に東軍の最右翼軍として、この岡山の地に陣を構えた。
このとき一政公は、捧持してきた金刀比羅宮(香川県琴平町)の祭神大物主神の
御神像を松の木にかけ戦勝を祈願した。
合戦後、村人はこの御神像をもらい受け、祭祀したと伝えられる。
その後、商売の神様として関ケ原村全体の崇敬を受け、
金刀比羅講(俗称:金毘羅講)が組織され、毎年十月十日、
讃岐の本宮に代表者を派遣して神符を奉載していた。
(関ケ原町)

次は丸山から下り国道21号線沿いを関ケ原町から垂井町へ向かいます。

関ケ原町野上あるいは垂井町伊吹の中山道沿北辺りの相川の北に「有馬則頼陣址」
旧中山道松並木に「山内一豊陣址(出世の松)」があります。

22. .有馬則頼陣址  

不破郡関ケ原町関ケ原野上 or   不破郡垂井町伊吹
        海抜 96   海抜 0m

北緯

35

21

46.

東経

136

29

52.

推定される陣跡
国道21号「関ケ原バイパス」の垂井町と関ケ原町の境あたり。
(上図の上部 相川辺りと推定されます。)
国21のバイパス工事で現場が確認で出来なくなったと思われます。

JR東海道線の間と国道21号「関ケ原バイパス」の「大高」信号付近と思われる。

想定場所より少し東に南宮山がよく見え、水場の近い高台の場所とも思えます。

次は「有馬則頼陣址」から東の中山道松並木の中間点の「山内一豊陣址」へ

23. .山内一豊陣址
(山内一豊出世の松)

不破郡関ケ原町関ケ原野上  海抜 91

北緯

35

21

50.

東経

136

29

42.

山内一豊陣跡
慶長五年(1600)家康の会津征伐に従軍した一豊は、関ヶ原の戦いで北上に際し
掛川城を明け渡し出陣となりました。
岐阜・大垣城の兵と戦い、ここ野上に入ると一豊外八将は一里塚より
桃配山までの間の中山道を左右に並列し陣し、南宮山の兵に備えた。
その後、家康の進撃にあたり、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、
使い番による家康からの命令を受け、山内隊は有馬・蜂須賀の隊と共に
柴井の地まで前進して戦いました。
戦後、妻の内助の功もあって土佐の国王になっています。
(関ケ原町)
南宮山の兵とは
傍観隊のことで26.安国寺恵瓊隊、27.毛利秀元、28.吉川広家、29.長束家正、
30.長曽我部盛親
の五隊のことで各項を参照して下さい

「関ケ原柴井」の地とは?
現在の国道21号「松尾」信号付近で04.藤堂孝虎・京極高知陣と
05.福島正則陣の中間の北辺り、

国道21号「新日守」信号から1kmほど西、「一ツ軒」信号から東へ750mほどの、
北側に「山内一豊出世の松」の看板あり。

旧中山道の中間あたりの北側に「案内板」「幟」があります。

国道21号「桃配運動公園」の標識近くにも
「山内一豊出世の松」案内板があります。

山内一豊陣址
慶長五年(1600)家康の会津征伐に従軍した一豊は関ケ原の戦いで西上に際し
居城の掛川城を東軍の中継地として明け渡し出陣しました。
山内一豊は、ここ「野上」に陣を構え、ここで家康からの伝令を受け、
西進して戦いました。
(山内一豊出世の松案内板より)

次はさらに東へ1500mの旧中山道沿いの「日守」信号手前の「垂井の一里塚」が「24.浅野幸長陣址」です。

24. .浅野幸長陣址  
(垂井一里塚址)

不破郡垂井町日守  海抜 54

北緯

35

22

03.

東経

136

30

53.

一里塚浅野幸長陣址古跡
幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐国府中十六万石の領主であった。
関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、
その先鋒を務め、岐阜城を攻略。
本戦ではこの辺りに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。
戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。
(垂井教育委員会)

「24.浅野幸長陣址」(中山道「垂井の一里塚」)は上図の上部左端です。
国道21号「日守」信号から旧中参道へ入り、西へ70m程の南側にあります。

史蹟 垂井一里塚
徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。
これにより、江戸日本橋を基点として一里(4`弱)ごとに、五間(約9b)四方、
高さ一丈(約3b)、頂に榎を植栽した塚が、道を挟んで二基ずつ築かれた。
国の史跡に指定された一里塚は、中山道では
東京都板橋区志村のそれとの二か所だけであり、
交通史上野重要な遺跡である。
(垂井教育委員会)

一里塚は中山道の両側にありました。
向こう側の一里塚は住宅になっています。
明治時代に一里塚は売却されました。
しかし5間四方(約24坪)の狭い区画なので山の中では売れ残りました。
その例が中山道の瑞浪地区です。瑞浪市の場合は一里毎に連続して四箇所もの一里塚が当時のままで
残っているは大変珍しいことです。

権現山一里塚
湫の東端、釜戸町との境に近い樫の木坂の途中にあり、南塚が径9m、高さ5m、北塚が径10m、高さ3.5m、
両塚の間隔は11mで南塚は八瀬沢、奥の田一里塚と共に自然の地形を一部利用して構築しています。

八瀬沢一里塚
湫と日吉町の境、琵琶峠の西側にあり、南塚は湫町地内で径10.3m、高さ5m、
北塚は日吉町地内で径9.4m、高さ4m、両塚の間隔は10mです。

奥の田一里塚
日吉町細久手に東にあり、南塚は径10m、高さ4m、北塚は径10m、高さ4m、
北塚は径12.6m、高さ3.5m、両塚の間隔は10m

鴨ノ巣一里塚
日吉町の西側で御嵩町との境に近い平岩地内にあり、南塚は径10m、高さ3.6m、
北塚は径11m、高さ2.7m 両塚は地形の関係から東西に16m隔てて構築されており
奥の田一里塚と共に丘陵の尾根に造られています。

大湫の一里塚は健在
刈安神社入口という石標のところが権現山への登山口でもあり、1603年-1604年に
大井から御嵩までの道が新設された時に設けられたものです。
権現山をはじめ八瀬沢、奥之田、鴨之巣一里塚が1里毎に連続して4ヶ所が当時のまま残っており、
瑞浪一里塚として県の史跡に指定されています。

詳しくは「シルバーの散歩道・中山道四十七宿」の内
「権現山一里塚」「尻冷やし地蔵」
八瀬沢一里塚」と、「奥の田一里塚」「琵琶峠」
「鴨ノ巣一里塚「細久手宿」編を参照して下さい。
(シルバーの散歩道)

次は25.池田輝政陣址」です、国道21号を東へ800mほどの南側「池田輝政陣址」へ、

25. 池田輝政陣址」は 上図では上部右寄りです

 

25. .池田輝政陣址  
(安王丸・春王丸の墓)

不破郡垂井町御所野 

北緯

35

21

55.5

東経

136

31

37.5

「御所野 池田輝政陣所古跡」
小牧・長久手の戦いで父と兄が戦死すると家督を継ぎ、池田城主大垣城主岐阜城主を経て
三河吉田十五万二千石の領主になりました。
徳川家康の息女督女姫をめとりました。
関ケ原合戦では東軍に属し、織田秀家の籠る岐阜城を攻略。
合戦当日は南宮山の西軍に備え、御所野に陣を構えました。
合戦後は姫路五十二万石に加増され、姫路の宰相(さいしょう)と呼ばれました。
(垂井教育委員会)

池田輝政は垂井御所野の「安王・春王の墓」に陣を張りました。

県指定 史蹟春王・安王の墓
嘉吉元年(1441)関東管領 足利持氏の遺児春王丸(13歳)安王丸(11歳)は、
結城合戦に捕えられ、京都へ護送中、将軍足利義教の命により、
垂井町時宗の金蓮寺において斬られここに葬られた。
(垂井町教育委員会)

目印は国道21号線南側の大きな標識です。
碑へは車で入れません。
入口脇の「焼肉屋たんたん」(現在は閉店中)の駐車場を拝借できます。

結城合戦
足利持氏与党の最後の抵抗と「春王丸」、「安王丸」無念
その後 結城氏は1387年から50年にわたり鎌倉府下で下野守護として領土を治めていました、
しかし、「永亨の乱」において足利持氏方に味方したため守護を小山氏に奪われ遺恨を持っていました

 「永亨の乱」によって、足利持氏が滅亡しましたが、その遺児「春王丸」、「安王丸」は難を逃れ結城氏朝に匿われていました。

    「春王丸」、「安王丸」は結城氏再興のための犠牲
 そして当主である結城氏朝は小山氏打倒と下野守護奪還のため、足利持氏の遺児を奉じて、
公方党であった諸氏に檄を飛ばし、勢力を糾合し、結城城において蜂起したのです。

 鎌倉幕府はこれに対して上杉憲実に命じて結城城を包囲させ持久戦としたうえで信濃、甲斐、駿河の軍勢を結城に向かわせた。
結城方は奮戦し篭城約1年も持ちこたえたものの最期は幕府と上杉憲実の軍勢の総攻撃を受け敗退しました。
 この乱のあと担ぎ出された持氏の遺児「春王丸」、「安王丸」は京都への護送途中、美濃垂井において殺され、
鎌倉公方の一族は絶えたかに見えました。

「春王丸」、「安王丸」にはもう一人兄弟が居た
 しかし、遺児の中で、もう一人奇跡的に信濃国人大井氏に匿われていた遺児がいたのです。
これが後に鎌倉公方に復帰し、その後関東管領、幕府と相争った足利成氏でありました。

 その後足利成氏の子孫は関東地方の勢力と手を結び、勢力を拡大し、
豊臣秀吉の代には秀吉に臣従し所領を安堵され名も「結城晴朝」改姓します。

「結城晴朝」はその後、秀吉の養子となっていた徳川家康の次男「秀康」を養子に迎え隠居しました。
この「秀康」は「松平」改姓し江戸時代まで続き「春王丸」、「安王丸」の無念は晴らされることになりました。

(フリー百科辞典 ウィキペディアより)

次は傍観軍の「安国寺恵瓊陣跡陣址」へ

「池田輝政陣址」から国道21号線を東へ300m程の「御所野」信号を南折し900mほどで
南宮大社へ着きます。(車の方は駐車出来ます)
陣址は南宮大社の裏にあります。

裏山への道は入口が分かり難いので、南宮大社へお参りし中央の神楽舞台の東に門があります。
これをくぐって山道が見えますから右へ曲がって坂を登ります。

先ず南宮大社へ

神楽殿の左(東)に門があります。(建物の角(左)の奥に見えます)

門を出ると灯篭が2基あります。その間を通って右へ入ります。

しばらく登ると連鳥居が続きます。脇を登って

最後の鳥居を左へ曲がり橋を渡って山道を登ります。

100mほど登ると広い場所に出ると、正面に陣址説明板が見えます。

蛇溜池の横に関ヶ原合戦の時の安国寺恵瓊陣跡があります。

26. 傍.安国寺恵瓊陣跡

不破郡垂井町宮代 海抜 

北緯

35

21

東経

136

28

安国寺恵瓊
 安芸の守護武田氏の遺児といわれています。 
武田氏滅亡の後、安芸安国寺で出家しました。
 毛利氏の外交僧として活躍し、豊臣秀吉の才能を見抜いた話は有名です。
 関ヶ原合戦では石田三成らと共謀して毛利輝元を西軍の総大将に引き込むことに成功しました。
 合戦の当日は南宮山のふもとに陣を構えましたが、吉川広家の裏切りで動くことができず敗戦後逃亡、
 京都に潜んでいるところを捕まり六条河原で斬首されました。
(垂井町教育委員会)

その道を更に登り山頂の毛利輝元陣址へ行きます。

安国寺恵瓊陣跡のすぐ上に市杵島(いちきしま)大神の祠があります。

 

市杵島(いちきしま)大神
素盞鳴尊と天照大神が、天安河で誓約をした時に化生した神様で、島に斎く女神です。
なぜここに祀られているかは分かりません。

市杵島大神を過ぎた辺りから山道となります。

20分ほど登ると展望台へ到着します。

27. .毛利秀元陣跡
(展望台)

不破郡垂井町宮代 海抜 

北緯

35

21

東経

136

28

 展望台には望遠鏡があり(無料)名古屋駅前のビル群や安八の木曽三川公園の展望塔など手に取るように見えます。

              毛利秀元陣跡
 中国百二十万石の太守である毛利輝元の養子。
 関ヶ原合戦では西軍に参戦した輝元の名代で南宮山に陣を構えたましたが、東軍に内通した一族の吉川広家に押し止められ、合戦に参戦できませんでした。
 その際、進退に窮した秀元が、摩下に兵糧を使う真似をさせた話は、「宰相殿からの弁当」として知られています。
 その後、大坂城に戻った秀元は、籠城し徹底抗戦すること主張しましたが聞き入れられず、毛利家は大幅に減封されてしまいました。
                            (垂井町教育委員会)
この陣形図を見ると徳川家康は小早川・吉川などの裏切りがなかったら完全に袋のネズミだった

「南宮大社」の前の道を川に沿って西へ進みます。

 


700mほど西へ進むと左(南)側に岐阜県立不破高校があり、その先の空き地に「吉利広家陣跡」の案内板があります。

28. 傍.吉川広家陣跡

不破郡垂井町宮代

北緯

35

21

29.0

東経

136

31

19.4

吉川広家陣址
毛利元就の次男吉川元治の子。
元禄・慶長の役では石田三成とたいりつしました。
関ケ原合戦では、西軍の敗北を予想しながら本家の輝元が西軍に属したため、
主家の存続をはかり東軍に内通しました。
合戦当日、南宮山のふもとに陣を構え、毛利隊が合戦に参加するのを
押しとどめ役割を果たしました。
しかし、合戦後は広家の思惑がはずれ、毛利氏は大幅に領地を削減されることになりました。
(垂井町教育委員会)

次は垂井町栗原にある「29.長束正家陣跡」へ向かいます。

「長束正家陣跡」
国道21号垂井町「宮代」信号を南へ2.300mほどの
地点小さな四辻を西へ入ると民家が途切れたあたりの草原に案内板があります。

 

29. 傍.長束正家陣跡

不破郡垂井町垂井栗原 海抜 

北緯

35

21

東経

136

28

栗原城址を探していて迷い込んだ広場の山側にきれいな桜があったりました。

その広場に長束家正陣跡がありました。
長束家正陣跡
長束家正は、文禄四年近江水口五万石の領主となり、
ついで十二万石荷加増され、従四位下侍従に叙任
慶長三年(1598)七月、五奉行の一員に列せられました。
同五年の関ケ原合戦では西軍に属し、九月十五日の決戦では千五百人のへいとともに
ここ境野に陣し、合戦前には東軍の池田輝政軍との間に銃撃戦があったとされます。
その後、光成方の敗北を聞くと水口城に帰城しましたが、池田長政に欺かれて自害しました。
(垂井町教育委員会)

広場の隅には朽ちた神社がありました。
帰ってから画像を見ると傍に石碑が映っていましたので
碑文を確認すればよかった残念に思っています。

                     長束 正家
 長束 正家
(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)は、安土桃山時代の官僚・大名であり、豊臣政権の五奉行の一人である
 初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると豊臣氏直参の家臣になった。
 高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。
 九州の役・小田原の役・文禄・慶長の役の際には、兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍した。

 文禄4年(1595)に近江水口5万石を拝領し(のち加増されて12万石)、五奉行の末席に名を連ねる。
 秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加、水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀るも失敗した。

 慶長5年(1600)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。
 初め伊勢の安濃津城を攻略し、関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡)に布陣したが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると敗走した。
 水口城を目前に、追手の池田輝政・長吉に包囲され、弟直吉と共に自刃した。享年39という。

 首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという
                           (現地 愛知県稲沢市稲葉町3丁目 の説明板より)
(長束正家の屋敷跡「美濃路七宿」の「美濃路ー3 稲葉宿」も是非参照ください)

 次は「長曽我部盛親陣跡」へ向かいます。

長曽我部盛親陣跡」
長束家正陣跡から県道215号を南へ650mほど進むと
点滅信号手前2本目の角に案内板があります。

 


「29.長束正家陣跡」から県道215号へ戻り南へ約650m西側地点に

長曽我部盛親陣跡  (徒歩3分)
竹中半兵衛閉所の地(徒歩30分)
栗原九十九坊跡   (徒歩28分)

の案内板があります。

案内板を西へ入り150m程進むと「清水寺(せいすいじ)公園」へ出ます。
ここが「30.長曽我部盛親陣跡」です。

30. 傍.長曽我部盛親陣跡

不破郡垂井町垂井栗原 海抜 

北緯

35

21

東経

136

28

長曽我部盛親陣跡
土佐二十二万石の領主長曽我部盛親は、関ケ原合戦の際西軍に属し、
ここ栗原山麓に陣を敷きましたが、吉川広家の内通により傍観軍となり
西軍の敗色を見て戦わずして帰国の途につきました。
途中、牧田川金谷(屋)にて、徳永寿昌(松ノ木城主)の軍六百人
今尾城主市橋長勝の軍三百人の東軍勢との間に戦いがありました。
帰国後は、領地を没収され浪人となり、大阪夏の陣では豊臣方で活躍しましたが、
捕えられて斬首されました。
(垂井町教育委員会)

なお上記の「牧田川金屋の戦い」129-1「金屋河原の合戦」碑
また「松ノ木城」については138松ノ木城址
また「今尾城」については136今尾城址を参照してください。

最後に関ケ原町内に戻って最後の三陣跡を回ります終了となります。

まず30.井伊直政・松平忠吉陣跡(東首塚)へ向かいます。
垂井町栗原から国道21号へ戻り、西へ、関ケ原「駅前」信号を北へ曲がり
JR東海道本線の上を渡ると「東首塚」へ出ます。

「東首塚」の東奥に陣跡があります。

東首塚(東軍将兵の塚)と
31.
.井伊直政    
 東.
松平陣跡

不破郡関ケ原町関ケ原 海抜 130m

北緯

35

21

37.

東経

136

28

13.

「史跡 関ケ原古戦場 東首塚」碑と「首級墳碑」

国史跡 東首塚
この塚は関ケ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、
家康によって実験された将士の首が、ここに眠っています。
文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和17年には、徳風会によって、
名古屋から山王権現社本殿・唐門が塚の脇に移築されて、
東西両軍の戦没者供養堂となりました。
(関ケ原町)

首洗いの古井戸
合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実検され、
その後塚を作って懇(ねんご)ろに葬られました。
首実験に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級(しきゅう)の
血や土等が洗い落されたと伝えられています。
戦国期の戦場では、首実験後は敵味方の戦死者を弔い、
供養塚を築くというのが習わしだったのです。
(関ケ原町)

「首級墳碑」
この碑は、関ケ原宿 年寄 古山兵四郎が首塚への思いを込めて建てたもので、
その要旨は次の通りである。
『英傑なる徳川家康が東国において勢力を拡大したため、
石田三成は豊臣政権不利と見て旗を挙げた。
慶長五年(1600)九月両勢力はここ関ケ原において激突したが、
内応などの戦況の急変により、三成側は大敗した。
家康は床几場において首実験をしたにち、土地の人に、すべての首や遺骸を、
東西二か所に首塚を作り葬らせた。
東軍に敵対した、西側将士に罪がないとは言えないが、
主君秀頼のために命を捧げたことに他ならず、憎めるものではない。
敵に、豊臣の危機に直面し犠牲になった納め葬ることは、仁義に厚い心得の
成しえることであり、まさに家康の教えが、今の世に泰平をもたらしたと言えよう。
将来この首塚が、丘や谷に変わり果てる事の無いよう乞い願うものである。』
文化十四年(1817)中国・姑蘇・楊小漢訳
(関ケ原町)

東首塚を出て北へ250mほどのぼると、道路が交差する三角地に「田中吉政陣跡があります。

32. .田中吉政陣跡

不破郡関ケ原町関ケ原918-3 海抜 147m

北緯

35

21

13.

東経

136

28

06.

田中吉政陣址
田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山から討って出る先手の兵と激突。
本隊が二・三百米ほど引き下がる。そこに他の東軍諸隊の兵が食らいつく。
というように、両軍間で激しい白兵戦が展開されたのです。
三成が自分の意志で、残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、
合戦後六日目のことでした。
(関ケ原町)

三差路の真ん中にあります。

いよいよ関ケ原古戦場巡りも最終盤に来ました。
田中吉政陣址から北へ70mほどの東側に「徳川家康最後の陣址(床几場)」があります。

33..徳川家康
          最後の陣址(首実検場)

不破郡関ケ原町陣屋野 海抜139m

北緯

35

21

44.

東経

136

28

04.

国史跡 徳川家康最後の陣址
戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から
笹尾山の東南1キロのこの地点に進出させました。
ここで、家康は陣頭指揮にあたるとともに、戦いが終わると、
部下の取ってきた首を実検しています。
周囲の土塁や中央の高台は、
天保十二年(1841)に幕府の命令により、
この地の領主竹中家が築いたものです。
(関ケ原町)

陣屋野の床几場
家康は「厭離穢土欣求浄土」の幟の元で首実検を行いました。
(関ケ原町)

「徳川家康最後の陣址」から南東へ350mほどのJR東海道本線のガードをくぐり国道21号線へ出ます。
国道21号線を西へ「関ケ原西町」信号を過ぎ200mほどで梨の木川を渡ると右側(北側)に供養堂(西首塚)があります。

交通量の多い国道21号沿いにあるので分かり易い場所です。

この国道21号線付近には駐車場がありません。(国道脇に駐車するのは大変危険です。ご注意下さい!)

34.西首塚
(西軍将兵の塚)

不破郡関ケ原町関ケ原 海抜127m

北緯

35

21

26.

東経

136

28

04.

西首塚
東首塚に比べ粗末で小さく説明板や案内板もありません。

国道21号線沿いに「西首塚」碑と、奥に「史跡 関ケ原古戦場 西首塚」があります。

社の奥には雑然と五輪塔がありました。
道順25の「東首塚」の「首級墳碑」の、関ケ原宿 年寄 古山兵四郎
首塚への思いを込めて建てた意思が分かる思いです。
当時、徳川政権下でよく見逃されたと思います。
周囲の住民も同じ思いだったのではないでしょうか。

以上で34か所の陣址を無駄のない順路で紹介したつもりです。
順路で分かり難い分は(説明が下手な部分)、手書き地図で補いました。
(シルバーの散歩道)


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シルバーの城郭城跡の散歩道「関ケ原合戦址」