シルバーの城郭城跡の散歩道「関ケ原合戦古戦場跡」
関ヶ原の戦いは、安土桃山時代の慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)に、
美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦です。
決戦場が関ケ原に決まるまで西軍は大垣城に主力を置き東軍の家康軍を迎え撃つ陣構えでした。
1600年(慶長5年)8月11日石田三成は西軍の本拠地として大垣城に入ります。
対する徳川家康率いる東軍福島正則らは大垣から一里北西の岡山を陣と定めます。
麓に空濠と土囲を巡らし堅牢な陣地とします。
本陣の周囲300間の土囲、南北に竹槍の柵を設けるというものです。
そして杭瀬川を挟んでにらみ合うこと1ケ月。
0.関ケ原合戦の前哨戦 |
史跡 関ヶ原岡山陣跡 この山は、海抜53メートルの立稜で慶長五年(1600年) |
「岡山の陣」 |
家康の馬印とのぼり旗 |
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大垣の敵をおびき出すには最適の場所を家康の家臣は選び家康を迎えたようです。 |
この美濃赤坂岡山山頂の「史跡関ケ原合戦 岡山本陣址」碑の横に
「弘文天皇壬申難
現地の「布陣図」(今はありません)から見ると 前哨戦の「杭瀬川の戦い」は両軍の中間あたりの杭瀬川で戦われたようです。 |
「杭瀬川の戦い」の模様 |
岡山本陣から大垣城方面を見た画像です。 |
麓の「浄土宗 紫雲山 安楽寺」については「中山道 美濃十六宿(後編)」 「赤坂宿ー後編」を参照して下さい
00
杭瀬川の戦い 大垣市南一色町 海抜12m |
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「杭瀬川の戦い」があったとされる「日吉神社」(中央辺りの森)付近の杭瀬川 |
「杭瀬川の戦い跡」 |
杭瀬川の戦い跡 |
杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)は、慶長五年九月十四日(1600年10月20日)に行なわれた戦いです。 九月十四日、東軍の総大将である徳川家康が美濃赤坂(現在の大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に これが「杭瀬川の戦い」です。 |
杭瀬川は、大垣城と赤坂の岡山の中間あたりにある川で、周辺には森林が生い茂っていたとされています。 西軍の島清興はこの中に一隊を伏せて伏兵とし、残る部隊で対岸へ渡り、東軍の中村一栄隊の前で苅田を始めた。 この挑発に中村一栄隊の将士が乗って小競り合いが始まり、まもなく有馬豊氏隊も参加して乱戦となった。 島清興はある程度戦うと、敗れた風を装って退却をはじめ、両隊を釣り出す事に成功。 追撃した中村・有馬隊は伏兵の横撃を受けて壊乱状態に陥り、さらに宇喜多家の明石全登が参戦して東軍の両隊は大 被害を受けて敗走しました。 |
美濃での前哨戦は西軍の勝ち
この「杭瀬川の戦い」で西軍の苅田作戦でおびき出された東軍の中村一栄隊の将で家老の「野一色頼母助義」は西軍の伏兵に横撃され
敗走中に深田に足を取られたところを宇喜多家中の浅賀三左衛門(浅香左馬助)に組みつかれ、ついに討ち取られた。
この戦いで東軍は40人程が戦死。
頼母は乱戦の中、後れて追いついた家臣の奮闘によってその首は敵(左近方)に渡さずに済み、赤坂宿の
古墳上に葬られました。
中村勢の指揮官で家老職を務める野一色頼母助義は近江野一色村の出身で、中村家中で八千石を領していた人物である。
この日の出立ちは「金の三幣の指物に馬印は鳥毛の二ツ団子」という颯爽たるものであったという。
古墳の上にある兜塚 大垣市赤坂町 |
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「兜塚」(野一色頼母助義の墓) |
「兜塚」 「兜塚」の由来は関ヶ原決戦の前日の「杭瀬川の戦い」で戦死した東軍の武将「野一色頼母」を葬り、その兜を埋めためと言われています。 以来この古墳は「兜塚」と呼ばれています。 (大垣市教育委員会) |
「杭瀬川の戦い」から「関ケ原合戦」まで
此の頃、三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していたが、いずれも淀殿に拒否され果たせなかった。
また輝元には出馬の意思があったといわれるが、、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされている。
また、西軍の北陸道平定軍に従軍していた京極高次が突如として戦線を離脱、居城の大津城に籠城して東軍への加担を鮮明にした。
このため三成は毛利元康を大将に、小早川秀包や立花宗茂ら1万5,000の軍勢を割いて、大津城攻撃へと向かわせた(大津城の戦い)。
さらに9月14日には西軍の首脳であったはずの前田玄以が大坂城を退去し、閑居するという事態も発生した。
この玄以も、一説には東軍に内応していたという。
こうして西軍は当初の戦略が狂っていった。
14日夜から15日朝まで
14日夜に家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せた。
これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進する。
西軍の転進を知った家康も、即座に関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて西へ向かった。
(フリー百科事典・ウィキペディア「関ヶ原の戦い」より)
こうして翌日の関ヶ原の合戦となりました。
関ケ原合戦 |
関ケ原合戦陣容
(陣名頭の数字は道順番号、ナシは碑址なし)
東軍 | 反応軍 | 西軍 | 傍観軍 | |||||
陣名 |
兵力 |
陣名 | 兵力 | 陣名 | 兵力 | 陣名 | 兵力 | |
大将 |
01徳川家康 |
30.000 |
17石田三成 | 6.000 | ||||
あ行 | 24浅野幸長 22有馬則頼 31井伊直政 25池田頼政 21生駒一政 15奥平貞治 織田有楽 |
13.900/4 13.900/4 6.000/2 13.900/4 1.800 (交渉監視) 400 |
赤座直保 小川祐忠 |
5.000/4 |
11宇喜多秀家 08大谷吉継 |
17.000 4.000/4 |
26安国寺恵瓊 |
30.000/5 |
か行 |
加藤嘉明 金森長近 04京極高知 21黒田長政 |
3.000 1.200 3.000 5.400/2 |
朽木元網 06小早川秀秋 |
5.000/4 |
16
蒲生郷舎 木下頼継 13小西行長 |
. 4.000/4 6.000 |
28吉川広家 |
30.000/5 |
さ行 | 18島左近 03島津豊久 14島津義弘 |
. . 6.000 |
||||||
た行 | 21竹中重門 32田中吉政 筒井定高 04藤堂高虎 寺沢広高 徳永寿昌 |
5.400/2 3.000 2.800 2.500 2.400 (?) |
戸田重政 |
4.000/4 |
30長曽我部盛親 |
30.000/5 |
||
な行 | 29長束正家 | 30.000/5 | ||||||
は行 | 05福島正則 古田重勝20細川忠興 02本田忠勝 |
6.000 1.000 5.000 .500 |
10平塚為広 |
4.000/4 |
||||
ま行 | 31松平忠吉 | 6.000/2 | 27毛利秀元 | 30.000/5 | ||||
や行 | 23山内一豊 | 13.900/4 | ||||||
ら行 | ||||||||
わ行 |
07脇坂安治 |
5.000/4 | ||||||
初戦 | 24陣 |
67.900 |
5陣 |
20.000 |
16陣 |
65.000 |
5陣 | 30.000 |
最終 | 29陣 | 87.900 | 11陣 |
45.000 |
5陣 | 30.000 |
布陣を大別すると東軍(徳川家康軍側)・反応軍(開戦前は西軍側であったが戦中に東軍となった)
西軍(最後まで石田三成側)・傍観軍(参戦せず)の色分けで掲載します
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関ケ原合戦陣址順路8
(緑字:東軍、青字:西軍、赤字:反応軍、桃字:傍観軍)
道順 | 陣址・その他 |
01 | 徳川家康最初の陣址(桃配山)(不破郡関ケ原町大字野上1424-1) |
02 | 本田忠勝陣跡(不破郡関ケ原町大字関ケ原公門5) |
03 | 島津豊久の碑(大垣市上石津町牧田) |
04 | 藤堂高虎・京極高知陣跡(関ケ原中学校 校内) |
05 | 福島正則陣跡(春日神社)(不破郡関ケ原町大字松尾111) |
06 | 小早川秀秋陣跡(不破郡関ケ原町大字山中731-1) |
07 | 脇坂安治陣跡(不破郡関ケ原町大字藤下476-1) |
08 | 大谷吉継陣跡(不破郡関ケ原町大字山中宮上) |
09 | 大谷吉継の墓(不破郡関ケ原町山中2360) |
10 | 平塚為広の碑(不破郡関ケ原町大字藤下) |
11 | 宇喜多秀家陣跡 (天満神社)(不破郡関ケ原町大字関ケ原4146-1) |
12 | 開戦地(不破郡関ケ原町大字関ケ原2368-1) |
13 | 小西行長陣跡 (神明神社)(不破郡関ケ原町大字関ケ原2368-1) |
14 | 島津義弘陣跡(不破郡関ケ原町関ケ原小池) |
15 | 奥平貞治の墓(不破郡関ケ原町大字玉) |
16 | 蒲生郷舎陣跡 (笹尾山西麓)(不破郡関ケ原町関ケ原) |
17 | 石田三成本陣跡 (笹尾山)(不破郡関ケ原町大字関ケ原4008) |
18 | 島左近陣跡(笹尾山東麓)(不破郡関ケ原町関ケ原) |
19 | 決戦地(不破郡関ケ原町関ケ原) |
20 | 細川忠興陣址(陣屋公園)(不破郡関ケ原町関ケ原) |
21 | 黒田長政・竹中重門陣跡(丸山狼煙場)(関ケ原町大字関ケ原732) |
21 | 生駒一政陣跡と金毘羅神社(730) |
22 | 有馬則頼陣址(詳細不明)(不破郡垂井町伊吹) |
23 | 山内一豊陣址(中山道松並木)(不破郡関ケ原町大字野上1391-2) |
24 | 浅野幸長陣址(垂井一里塚)(不破郡垂井町) |
25 | 池田輝政陣址(春王丸・安王丸墓)(不破郡垂井町御所) |
26 | 安国寺恵瓊陣跡(不破郡垂井町宮代) |
27 | 毛利秀元陣跡 (南宮山展望台)(不破郡垂井町宮代) |
28 | 吉川広家陣跡(不破郡垂井町宮代) |
29 | 長束正家陣跡(不破郡垂井町垂井栗原) |
30 | 長曽我部盛親陣跡(清水公園)(不破郡垂井町垂井栗原) |
31 | 井伊直政・松平忠吉陣跡(東首塚)(不破郡関ケ原町大字関ケ原908) |
32 | 田中吉政陣跡(不破郡関ケ原町大字関ケ原959-2) |
32-1 | 徳川家康最後の陣址(不破郡関ケ原町大字関ケ原959-2) |
33 | 関ケ原歴史民俗資料館(不破郡関ケ原町大字関ケ原) |
34 | 西首塚(不破郡関ケ原町大字関ケ原) |
掲載順は関ケ原の東口の国道21号にある「徳川家康最の陣跡(桃配山)」から始め、次の陣跡へ近い道順を主眼に
国道21号の南側から西へ進み最終は「徳川家康最後の陣跡」と合戦進展時系列も勘案し掲載します。
(頭の数字は道順)
01
東.徳川家康 不破郡関ケ原町野上 海抜96m |
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01「徳川家康最初陣址」 |
「徳川家康最初陣址」 |
国史跡 徳川家康最初陣地 |
桃配山からは石田三成本陣の笹尾山まではあまりにも遠く、 |
最初の「徳川家康最初陣跡」(桃配山)の国道21号を西へ約900m進み「関ケ原駅前」信号
を南へ曲がり「関ケ原クリニック」駐車場東の小路を東へ入ると小さな碑があります。
02 東.本田忠勝陣跡 不破郡関ケ原町関ケ原)3126-8 海抜121m |
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本田忠勝の陣跡 |
「本田忠勝陣址」 |
国道21号「関ケ原駅前」信号から狭い道を南下すると東側(左側)に小さな標識があります。 |
狭い路地を奥へ30mほど入ると「公門第二会館が」が左にあり、 |
奥は意外に広く「秋葉神社」と「陣址」碑があります。 |
次は、少し遠いですが大垣市(旧養老郡)上石津町へ寄ります。(片道約1.2km南)
国道21号「関ケ原駅前」信号から狭い道を南下した道に戻り、さらに南下し、
県道56号線を横断しさらに南下しJR東海道新幹線のガード下をくぐり約1km南下すると名神高速道路の下をくぐります。
名神高速道路の下〜約150m程の下り坂の西側(右側)に碑と案内板があります。
03 西.島津豊久の碑 大垣市上石津町牧田 海抜 98m |
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鳥頭坂の島津豊久碑 |
島津豊久の碑 |
島津豊久奮戦の地(鳥頭坂) |
碑の下の鳥頭坂 |
島津豊久の鳥頭坂の殿(しんがり)戦以降の島津隊 古文書によると、「豊久はやっと上石津多良(羅)へ辿り着いたが、遂に多良の城拍子谷で落命、 戦線離脱後の義弘公一隊は、近江国の小林新六郎正祐の山路案内により、 |
次は藤堂高虎・京極高知
陣跡です。陣跡は関ケ原中学校の校内にあります。
今来た道を北へ進み国道21号線まで戻った方が分かり易いと思います。
04-藤堂高虎・京極高知
陣跡 |
がしかし、国道21号から関ケ原中学校へ南折する道が狭く説明し難い場所です。
国道21号を西進して梨の木川(狭い川ですので見逃し易い川幅です)を渡ると、
右側に「西首塚」が見えて50mほどの南へ入る道がみえたら南折します。
(西首塚は進行方向の反対車線ですので、後ほどの行程でご案内します。)
04
東.藤堂高虎 不破郡関ケ原町関ケ原芝柴井 海抜 140m |
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藤堂高虎 |
国道21号線から南へ入る道も、以外と狭いが正面に中学校が見えますから分かり易いと思います。 |
藤堂高虎・京極高知
陣跡 |
次は近くの福島正則陣跡へ。
これも狭い道を標識に従って西進するか、国道21号へ戻り地図で「春日神社」を探して南折してください。
(関ケ原中学校から約300m西の地点ですが文面では説明しにくい場所です。)
05
東.福島正則陣跡 不破郡関ケ原町関ケ原2497 海抜 131m |
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福島正則陣跡 |
福島正則陣跡 |
目印の春日神社は陣跡の向かいにあります。 |
陣跡には「月見宮大杉」も目印ですが、狭い道幅では見にくくあまり当てにはなりません。 |
次の陣跡は「小早川秀秋陣跡」ですが往復に2時間は要する松尾山山頂にあります。
その道順に「井上神社」があります。
06.小早川秀秋陣跡 |
小早川秀秋陣跡の松尾山へ進まれる方は、「井上神社」から南へ約200mほど進み
名神高速道路下を通り「黒血川」を渡ると西側に駐車場があり松尾山への登山口があります。
06 反.小早川秀秋陣跡 不破郡関ケ原町今須字溝口 海抜 m |
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山頂へは約1時間程度です。山頂は城址が公園化されています。 |
同じ道を下って駐車場から黒血川を渡ってすぐ西(左)の道へ入り北へカーブして200m程進んだ
交差路を西へ入り50mほどの南側に反応軍「脇坂安治陣跡」碑があります。
07.脇坂為広陣跡 |
標識があるので従ってください。直わかります
07 反.脇坂安治陣跡 不破郡関ケ原町藤下 海抜 105m |
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脇坂安治陣跡 |
名神高速道路ガード手前に標識があります。 |
標識まで戻りガード下をくぐり北へ進み旧中山道「不破関守址」まで進みます。 |
この先、旧中山道へ戻り不破地区を西へ向かい国道21号を横断し西軍の「大谷吉継陣址」までの道順の間に、
皇位をめぐる古代の戦い「壬申の乱」に関係する場所通りますが興味のある方は、
「壬申の乱と不破の関」のページを参照して下さい。
主な「壬申の乱史跡」は |
では、「大谷吉継陣址」から「大谷吉継の墓」へ向かうために中山道へ戻り、
更に国道21号へ出ます。
松尾山の「小早川陣跡」から中山道への道により「国道21号」へ出るルートはいろいろありますので
最短の道で出て下さい。(最近のこの辺りは新しい道が次々できますので現地の標識に従ってください)
国道21号へ出て西へ進むと押しボタン信号(信号の名前がありません)があり
広い道がJR東海道本線の下をくぐって北へ進んでいます。
この道が「広域農道」で次の目標の「10.平塚為広の碑」へ行けます。
参考までに通過する地区の「壬申の乱」関連の地案内図を掲載しておきます。 |
道なりに250m程進み国道21号へ出ます。
国道21号を西へ300m程進み押しボタン信号の三叉路の北へ曲がりJR東海道本線下をくぐり「広域農道」を北へ進みます。
国道21号から「広域農道」へ入る「押しボタン信号」三叉路 |
「広域農道」を道なりに150m程進むと「平塚為広の碑」があります。 |
10. 西.平塚為広の碑 不破郡関ケ原町大字藤下 海抜 135m |
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平塚因幡守為廣碑 |
「平塚為広の碑」から北へ100m程の西側に案内板と標識があります。
「説明板」には、この辺りが関ヶ原の戦い時に両軍が死闘を繰り広げた場所の説明があります。
藤川台(関ケ原町藤川台) 藤古川(関の藤川)の右岸に位置している、この川岸の上を藤川台戸称します。 |
標識「大谷吉継墓 450m10分」に従って西(山中)へ進みます
山中を450m約10分歩くと標識があります。
標識から30mほどの場所に「大谷吉継の墓」が見えます。
08. 西.大谷吉継の墓 不破郡関ケ原町山中2360 海抜 m |
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国史跡大谷吉継(吉隆)墓 なぜ敵方の藤堂家が墓を建てたのか、なぜ大谷吉継の五輪塔と並んで |
何故ここに「湯浅五助」の墓が並んでいるの?
湯浅五助 墓は、岐阜県関ケ原町に存在する。 |
次は「大谷吉継陣跡へ分岐標識から進みます。
この分岐標識から「300m4分」です
09. 西.大谷吉継陣跡 不破郡関ケ原町山中宮上 海抜 m |
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大谷吉継陣跡 |
陣跡のすぐ下に最近できた「松尾山眺望地」があります。
「松尾山眺望地」 |
松尾山眺望地 |
次は「宇喜多秀家陣跡」へ向かいます。
先ず今登ってきた道を引き返し「広域農道」まで戻ります。
ここで「徒歩の方」と「車の方」で進む方向が分かれます
徒歩の方 |
「広域農道」を北へ上り「藤古川ダム堰堤」の上を歩き 字山中から対岸の「字関ケ原」へ渡ります。 |
車の方 |
国道21号まで戻り「松尾」信号を北へ曲がり最初のT字路(標識あり)を西へ曲がり 途中「不破の関・北限の土塁跡」脇を通り道なりと標識に従って「宇喜多秀家陣跡」(天満神社)へ進みます。(車の方は画面を「10−2天満神社東口」まで進めて下さい。) |
徒歩の方のは「広域農道」を北へ300m程進むと右側(東側)に小さな標識があります。
「宇喜多秀家陣跡400m8分」 |
上図 左下部あたりにあります。 |
ダム堰堤上を対岸へ渡ります。
10-1. 藤古川ダム堰堤東口 不破郡関ケ原町大字藤下 海抜 155m |
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堰堤上面を渡り対岸へ |
堰堤から上の道へ登ります。 |
標識によると「宇喜多秀家陣跡 200m4分」とありますが |
10-2. 天満神社東口 不破郡関ケ原町大字関ケ原 海抜 138m |
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「車の方」の入口
「車の方」の入口陣跡(天満宮)への入口 |
「宇喜多秀家陣跡」へは天満神社碑から参道を奥へ150mほど入る。
11.
西.宇喜多秀家陣跡 不破郡関ケ原町関ケ原4146 海抜 151m |
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宇喜多秀家陣跡 |
「宇喜多秀家陣跡」は上図中央上部あたりです。 |
「天満山南 浮田秀家陣所古跡」碑 |
「宇喜多秀家陣跡」から「開戦地」へ移動します。
「12.開戦地」へは上図に従って進んでください。 |
「開戦地碑」は神明神社にあります。
(駐車場は近くに広い場所があります。)
12. 開戦地再掲 不破郡関ケ原町関ケ原4126 海抜143m |
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史蹟 関ケ原古戦場 開戦地 碑 |
目印となる神明神社横には広い駐車場もあります。 |
国史跡
開戦地 |
次は「小西行長陣跡」です。この神明神社の西側のフエンスを奥へ進みます。
神明神社西から北の方を見ると幟が見えます。
100m程北へ進むと陣跡があります。
13.
西.小西行長陣跡 不破郡関ケ原町関ケ原4126 海抜 143m |
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小西行長陣跡 |
「天満山北 小西行長陣所古址」碑と説明板 |
次は「島津義弘陣址」ですが、 |
車の方は国道365号線「小池北」信号を北西に70m程の歩道橋を辺りの南へ入る小路に入ると
民家の塀に「島津義弘陣址」の標識を見つけました。
「島津義弘陣址 100m 1分」 |
標識の指す道は狭くて車では入れません。 |
偶然「島津義弘陣址」へ出ることが出来ました。 |
この地を訪れて(シルバーの散歩道)
県内に住む者でも探しにくいこの場所へ「薩摩(鹿児島県)」から海路と陸路で直線でも800kmを
千五百余の兵と兵糧を携え戦うために陣を布いた心境は測りがたく不安だったと思われます。
着陣後しばらくは、此処がどこで三成本陣との位置関係も敵方の位置も方角も分からず、
どの方向へ構えたらいいのか!?
開戦地(北々東方向)はここからは見えません。
(多くの将兵は味方の開戦を知らせる狼煙で威を決して出陣したことでしょう)
薩摩隼人も不安だらけで開戦に突入し半日で勝敗が決し、中央突破の作戦で
薩摩に帰り着いたのはわずか八十余騎と言われています。
14. 西.島津義弘陣跡 不破郡関ケ原町関ケ原小池 海抜 143m |
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「小池 島津義弘陣所址」碑 島津義弘(惟新=いしん)陣址 |
碑の周りには多数の碑があります。 |
次は少し遠い場所ですが「奥平貞治の墓」をご案内します。
奥平貞治は開戦時に小早川秀秋が必ず寝返ることを確かめるために
家康の命により小早川陣内に派遣されていた東軍の武士の墓です。
(なぜこんな離れた場所に墓があるのか説明板はありません。)
島津義久陣跡から国道365号へ出て国道を北へ1.8km辺りの側道へ下りた場所にあります。
15. 東.奥平貞治の墓 不破郡関ケ原町関ケ原2497 海抜 192m |
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「奥平藤兵衛源貞治碑」と案内板の奥に「奥平藤兵衛貞治墓」 |
国道365号「玉」信号から北へ200mの左側 |
場所は関ケ原町玉の国道365号「玉」(たま)信号から200m北の |
国道から外れて70m程進むと左手(西側)に小さな標識が軒下に見えます。 |
軒下を50mほど入ると「奥平貞治の墓」と「碑」があります。 |
再び関ケ原合戦場の中央部へ戻ります。
「奥平貞治の碑と墓」から国道365号線を戻り石田三成本陣址下の駐車場へ向かいます。
笹尾山本陣は遠くからもよく見えます。 |
本陣下には西軍各隊がひしめくように幟旗をひらめかせていたことでしょう。 |
駐車場西寄りの矢来の登り口に「蒲生郷舎(さといえ)陣址」があります。
(駐車場東寄りの竹矢来登り口に島左近の陣跡があります。)
「蒲生郷舎(さといえ)陣址」は石田三成本陣跡の下あたりです。 |
16.
西.蒲生郷舎陣跡 不破郡関ケ原町関ケ原1979 海抜 167m |
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蒲生郷舎陣址 |
続いて笹尾山の頂上にある「石田三成本陣跡」へ登ります。
17.
西.石田三成本陣跡 不破郡関ケ原町関ケ原1979 海抜 167m |
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山頂には本陣跡が再現されています。 |
笹尾山本陣は遠くからもよく見えます。 |
本陣下には西軍各隊がひしめくように幟旗をひらめかせていたことでしょう。 |
本陣は幾重にも矢来や柵で防御されていました。 |
本陣からの展望は合戦場全体を把握するには絶好の場所でした。 |
東軍の烽火場の「丸山」はS字カーブの左の山辺りです。 |
国史跡 石田三成陣地 |
本陣跡の東側の道を下ると竹矢来の出口に「島左近陣跡」説明板があります。
18.
西.島左近陣跡 不破郡関ケ原町関ケ原1979 海抜 157m |
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島左近陣跡
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島左近陣址 |
島左近陣址は石田三成本陣跡の東口です。 |
決戦の地は笹尾山のすぐ近くの下あたりです。
19.決戦地 不破郡関ケ原町関ケ原1167 海抜 160m |
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国史跡 決戦地 |
決戦地碑から笹尾山の幟がよく見えます。 |
次は「細川忠興陣址」です。
決戦の地から国道21号へ出て、「陣場野」信号まで200mほど進み南折し50mの住宅地の道を東へ
70mほどの突き当りにある「陣屋公園」が陣址です。
公園の入口正面の大きな松の元に碑があります。(松は最近枯れて切られる恐れがあります)
(「JAにしみの」も目印になります。)
20.
東.細川忠興陣跡 不破郡関ケ原町関ケ原 海抜 m |
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細川忠興陣址碑は画面右端です。 |
細川忠興陣址 |
国道21号関ケ原バイパス「陣場野」信号を南にあります。 |
次は国道21号東の丸山(通称のろし山)の黒田長政・竹中重門陣址です。
「細川忠興陣址」から「国道21号線関ケ原バイパス」に出て東南へ下り「丸山」信号の
次の「瑞竜」信号を左折(北折)し250mほど山の中へ進むと右側に
「丸山のろし場駐車場」(無料)があります。
(数台駐車できますが地元の人も停めています)
車停めの鎖があり、此処からは徒歩で登ります |
道の両側竹藪に覆われた薄暗い舗装道路を約10分登ります。
丸山(狼煙場) 不破郡関ケ原町関ケ原2490 海抜 140m |
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「史蹟 関ケ原古戦場 岡山狼煙場」碑 国史址 岡山(丸山)烽火場 |
素晴らしいパノラマです。中央に「関ケ原史蹟案内図」もあります。 |
丸山狼煙場 |
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国道21号関ケ原バイパス「瑞竜」信号を北へ200mから「丸山」へ |
「のろし場」脇に金毘羅神社がありこの金毘羅神社を祀った元となる生駒一政の陣もあった様です。
21-1. 東.生駒一政
不破郡関ケ原町関ケ原2490 海抜 140m |
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生駒一政と金刀比羅羅神社 |
次は丸山から下り国道21号線沿いを関ケ原町から垂井町へ向かいます。
関ケ原町野上あるいは垂井町伊吹の中山道沿北辺りの相川の北に「有馬則頼陣址」、
旧中山道松並木に「山内一豊陣址(出世の松)」があります。
22. 東.有馬則頼陣址 不破郡関ケ原町関ケ原野上 or
不破郡垂井町伊吹 |
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推定される陣跡 |
JR東海道線の間と国道21号「関ケ原バイパス」の「大高」信号付近と思われる。 |
想定場所より少し東に南宮山がよく見え、水場の近い高台の場所とも思えます。 |
次は「有馬則頼陣址」から東の中山道松並木の中間点の「山内一豊陣址」へ
23. 東.山内一豊陣址 不破郡関ケ原町関ケ原野上 海抜 91m |
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山内一豊陣跡 |
国道21号「新日守」信号から1kmほど西、「一ツ軒」信号から東へ750mほどの、 |
旧中山道の中間あたりの北側に「案内板」と「幟」があります。 |
国道21号「桃配運動公園」の標識近くにも
「山内一豊出世の松」案内板があります。
山内一豊陣址 |
次はさらに東へ1500mの旧中山道沿いの「日守」信号手前の「垂井の一里塚」が「24.浅野幸長陣址」です。
24. 東.浅野幸長陣址
不破郡垂井町日守 海抜 54m |
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一里塚浅野幸長陣址古跡 |
「24.浅野幸長陣址」(中山道「垂井の一里塚」)は上図の上部左端です。 |
史蹟 垂井一里塚 |
一里塚は中山道の両側にありました。 権現山一里塚 八瀬沢一里塚 奥の田一里塚 鴨ノ巣一里塚 大湫の一里塚は健在 詳しくは「シルバーの散歩道・中山道四十七宿」の内 |
次は「25.池田輝政陣址」です、国道21号を東へ800mほどの南側「池田輝政陣址」へ、
「25. 池田輝政陣址」は 上図では上部右寄りです |
25. 東.池田輝政陣址
不破郡垂井町御所野 |
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「御所野 池田輝政陣所古跡」碑 |
池田輝政は垂井御所野の「安王・春王の墓」に陣を張りました。 |
県指定 史蹟春王・安王の墓 |
目印は国道21号線南側の大きな標識です。 |
結城合戦 「春王丸」、「安王丸」は結城氏再興のための犠牲 「春王丸」、「安王丸」にはもう一人兄弟が居た その後足利成氏の子孫は関東地方の勢力と手を結び、勢力を拡大し、 「結城晴朝」はその後、秀吉の養子となっていた徳川家康の次男「秀康」を養子に迎え隠居しました。 (フリー百科辞典 ウィキペディアより) |
次は傍観軍の「安国寺恵瓊陣跡陣址」へ
「池田輝政陣址」から国道21号線を東へ300m程の「御所野」信号を南折し900mほどで 裏山への道は入口が分かり難いので、南宮大社へお参りし中央の神楽舞台の東に門があります。 |
先ず南宮大社へ
神楽殿の左(東)に門があります。(建物の角(左)の奥に見えます) |
門を出ると灯篭が2基あります。その間を通って右へ入ります。 |
しばらく登ると連鳥居が続きます。脇を登って |
最後の鳥居を左へ曲がり橋を渡って山道を登ります。 |
100mほど登ると広い場所に出ると、正面に陣址説明板が見えます。 |
蛇溜池の横に関ヶ原合戦の時の安国寺恵瓊陣跡があります。
26. 傍.安国寺恵瓊陣跡 不破郡垂井町宮代 海抜 m |
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安国寺恵瓊 |
その道を更に登り山頂の毛利輝元陣址へ行きます。
安国寺恵瓊陣跡のすぐ上に市杵島(いちきしま)大神の祠があります。 |
市杵島(いちきしま)大神 素盞鳴尊と天照大神が、天安河で誓約をした時に化生した神様で、島に斎く女神です。 なぜここに祀られているかは分かりません。 |
市杵島大神を過ぎた辺りから山道となります。
20分ほど登ると展望台へ到着します。
27. 傍.毛利秀元陣跡
不破郡垂井町宮代 海抜 m |
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展望台には望遠鏡があり(無料)名古屋駅前のビル群や安八の木曽三川公園の展望塔など手に取るように見えます。 |
毛利秀元陣跡 中国百二十万石の太守である毛利輝元の養子。 関ヶ原合戦では西軍に参戦した輝元の名代で南宮山に陣を構えたましたが、東軍に内通した一族の吉川広家に押し止められ、合戦に参戦できませんでした。 その際、進退に窮した秀元が、摩下に兵糧を使う真似をさせた話は、「宰相殿からの弁当」として知られています。 その後、大坂城に戻った秀元は、籠城し徹底抗戦すること主張しましたが聞き入れられず、毛利家は大幅に減封されてしまいました。 (垂井町教育委員会) |
この陣形図を見ると徳川家康は小早川・吉川などの裏切りがなかったら完全に袋のネズミだった |
「南宮大社」の前の道を川に沿って西へ進みます。
700mほど西へ進むと左(南)側に岐阜県立不破高校があり、その先の空き地に「吉利広家陣跡」の案内板があります。
28. 傍.吉川広家陣跡 不破郡垂井町宮代 |
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吉川広家陣址 |
次は垂井町栗原にある「29.長束正家陣跡」へ向かいます。
「長束正家陣跡」 |
29. 傍.長束正家陣跡 不破郡垂井町垂井栗原 海抜 m |
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栗原城址を探していて迷い込んだ広場の山側にきれいな桜があったりました。 |
その広場に長束家正陣跡がありました。 |
広場の隅には朽ちた神社がありました。 |
長束
正家 長束 正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)は、安土桃山時代の官僚・大名であり、豊臣政権の五奉行の一人である 初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると豊臣氏直参の家臣になった。 高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。 九州の役・小田原の役・文禄・慶長の役の際には、兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍した。 文禄4年(1595)に近江水口5万石を拝領し(のち加増されて12万石)、五奉行の末席に名を連ねる。 慶長5年(1600)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。 首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという |
次は「長曽我部盛親陣跡」へ向かいます。
「長曽我部盛親陣跡」 |
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「29.長束正家陣跡」から県道215号へ戻り南へ約650mの西側地点に
の案内板があります。 |
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案内板を西へ入り150m程進むと「清水寺(せいすいじ)公園」へ出ます。
ここが「30.長曽我部盛親陣跡」です。
30. 傍.長曽我部盛親陣跡 不破郡垂井町垂井栗原 海抜 m |
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長曽我部盛親陣跡 |
最後に関ケ原町内に戻って最後の三陣跡を回ります終了となります。
まず30.井伊直政・松平忠吉陣跡(東首塚)へ向かいます。 |
「東首塚」の東奥に陣跡があります。
東首塚(東軍将兵の塚)と 不破郡関ケ原町関ケ原 海抜 130m |
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「史跡 関ケ原古戦場 東首塚」碑と「首級墳碑」 国史跡 東首塚 |
首洗いの古井戸 |
「首級墳碑」 |
東首塚を出て北へ250mほどのぼると、道路が交差する三角地に「田中吉政陣跡があります。
32. 東.田中吉政陣跡 不破郡関ケ原町関ケ原918-3 海抜 147m |
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田中吉政陣址 |
三差路の真ん中にあります。 |
いよいよ関ケ原古戦場巡りも最終盤に来ました。
田中吉政陣址から北へ70mほどの東側に「徳川家康最後の陣址(床几場)」があります。
33.
東.徳川家康 不破郡関ケ原町陣屋野 海抜139m |
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国史跡 徳川家康最後の陣址 |
陣屋野の床几場 |
「徳川家康最後の陣址」から南東へ350mほどのJR東海道本線のガードをくぐり国道21号線へ出ます。
国道21号線を西へ「関ケ原西町」信号を過ぎ200mほどで梨の木川を渡ると右側(北側)に供養堂(西首塚)があります。
交通量の多い国道21号沿いにあるので分かり易い場所です。 |
この国道21号線付近には駐車場がありません。(国道脇に駐車するのは大変危険です。ご注意下さい!)
34.西首塚
不破郡関ケ原町関ケ原 海抜127m |
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西首塚 |
国道21号線沿いに「西首塚」碑と、奥に「史跡 関ケ原古戦場 西首塚」があります。 |
社の奥には雑然と五輪塔がありました。 |
以上で34か所の陣址を無駄のない順路で紹介したつもりです。
順路で分かり難い分は(説明が下手な部分)、手書き地図で補いました。
(シルバーの散歩道)
シルバーの城郭城跡の散歩道「関ケ原合戦址」