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シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址12」(海津郡)の城址を収録しました。


大垣城周辺の城址11


城郭・城址の散歩道「目次」へ

このページで紹介する城址の一覧表

海津郡(平田・海津・南濃各町)

海津郡の8城址を紹介します。

海津郡

 136.今尾城(平田町今尾)、 136-1.西願寺山門(平田町今尾)、137.西島城(平田町西島)、
 138.
松ノ木城
(海津町松木)、139.高須城(海津町高須) 、
 140.
臥龍山城
(南濃町上野河戸)、
 141.
駒野館
(南濃町駒野)、 142.駒野城(南濃町駒野)、143.津屋城(南濃 町津屋)。

 

136.今尾城址

岐阜県海津郡平田町今尾  海抜 0m

北緯

35

14

57.

東経

136

37

52.

目標は「今尾小学校」
県道213「今尾昭和町2」信号を西進3本目を北進すると
「今尾城門移築」の西願寺が正面にあります。
その道を西へ曲がり進むと突き当りを北進すると「今尾小学校」へ着きます。
校門外に「城址説明板内」、校門内に「城址石碑」があります。

今尾城址
県道213号線「今尾昭和町2」信号から入り途中
今尾城の城門を山門に移築した「西願寺」を通り
「今尾城址」の今尾小学校校門へたどり着けます。

遺構となるものは見当たらず
 現在、土塁や石垣などの城の遺構は明確ではないが、今尾小学校のある辺りが本の丸で、
周囲より一段高くなった地形となっている。 
小学校内には今尾城の石碑が建てられている。
 建物の遺構としては、今尾小学校南側の住宅地の中にある西願寺に今尾城(陣屋)の城門が移築されています。

                    今尾城と竹腰氏
 今尾城のはじまりは、文明年間(1469〜1487)といわれ、中島氏高木氏らを経て、天正十五年(1587)に市橋下総守長勝が入場した
 関ヶ原の合戦後、一時的に幕府が支配しましたが、元和五年(1619)、尾張藩祖徳川義直の養父兄にあたる同藩付家老竹腰山城守の
 居城となり、明治維新まで続きました。
 『濃州集安八郡今尾村絵図』によると、幅の広い濠を三重にめぐらし西側には土塁(堤防)が築かれています。
 その両側に「御城屋敷」「書院屋敷」「役屋敷」が設けられましたが、天守などはなく、今尾陣屋とも呼ばれていました。
 今尾小学校を中心とする周囲一帯がその遺構とされ、周囲の水路などにその名残を感じることができます。
 また西願寺(東本町)の山門は、今尾城の門の一つを移築したものと言われて、海津市の文化財に指定されています。
 江戸時代の今尾城主竹腰氏は、犬山城主成瀬氏とならぶ尾張藩の重臣でした。
 所領は美濃国(岐阜県)と尾張藩(愛知県)のうちで合計三万石を与えられ、江戸と尾張を行き来して代々の尾張藩主を補佐しました。
 幕末期、尾張藩内が佐幕と尊王に揺れた際、九代竹腰正富は佐幕派を支持して一時失職しました。
 慶応四年(1868)、同じく徳川御三家の付家老あった成瀬氏(尾張)・中山氏(水戸)・安藤氏(紀伊)・水野氏(紀伊)とともに明治政府に働きかけ在藩を許されました。
 今尾藩はわずか三年足らずで廃藩を迎え敷地と建物の一部は今尾小学校に払い下げられて現在に至ります。
                             (高須藩松平三万石顕彰会)

明治まで尾張徳川家の家老を勤める
 今尾城は、文明年間に中島重長によって築かれた。
 中島氏は重長−重直−重元−重行と4代にわたって居城したが、織田信長に攻められ滅亡した。
  信長は、高木貞久を駒野城より移して城主とした。
 その後、森寺高良、戸倉正直と城主が変わり、天正15年(1587)に市橋長勝が1万石を領して入封した。
 慶長十三年(1608)、市橋長勝は伯耆八橋(鳥取県)へ移り今尾城は廃城となった。
 元和五年、この地は尾張徳川家の所領となり竹腰正信が三万石を領して今尾城趾に陣屋(今尾陣屋)を構えた。
 竹腰氏は、代々尾張徳川家の付家老を勤めました。
(この他115-1長曽我部盛親陣跡127-2金屋河原の合戦碑も参照を参照してください。)

 

136-1.西願寺山門
今尾城の城門が移築された

岐阜県海津郡平田町今尾  海抜 

北緯

35

14

東経

136

37

今尾城の城門が移築された西願寺へは
県道213号(養老・平田線)「今尾昭和町2」信号を西へ入り、
3本目を北へ入ると右手に西願寺が見えます。

西願寺山門
西願寺山門は、明治時代の初期まで今尾の町内にあった今尾城の城門の一つが移されたものである。
今尾城には天守閣はなかったが、周りを堀や藪で囲み、その建物が堀から浮かびあがるように建っていた。
御城屋敷・書院屋敷および役屋敷の三構えに分かれ、内郭には辰巳門と呼ばれた門があり、
藩士といえどもこの門を通るには、それぞれ厳しい掟があったという。
城門というものは、敵を一人も入れないように、どの城においても頑丈に造られている。
門は単なる城の入口ではなく、城を守るための大切なもので、まさに城の命と言うべきものである。

明治時代になって武士の時代が終わったため、城の必要背がなくなり、多くの城が取り壊された。
今尾城もその中の一つで、一般の人々に売りに出されたのを西願寺が譲り受け、
後の世の形見にと明治七年(1874)頃
この場所に寺の山門として移築されたものである。
歴史のある木造建築であるとっともに、城門建築としても価値がある。
海津市教育委員会

 

137.西島城址

岐阜県海津郡平田町西島  海抜 5m

北緯

35

14

19.

東経

136

39

21.

目標は県道1号線西島信号
 県道1号線「西島保育園西」信号を東進300m程の集落の北側の民家が城址です。

近所の人たちに「西島城址」を尋ねたら背の高い松の木のある家を教えてくれました。
近くに寄って見ると、この辺り一帯では一番と土盛りが高く、かっての陣屋か屋敷跡であったと思われる。

留守の屋敷に勝手に入って松の木の周りを探したが
遺構らしきものは何もありませんでした。

西島城址の目印
海津郡平田町西島地内の県道1号信号「西島保育園西」横あたりです。

 

138.松ノ木城址

岐阜県海津郡松木  海抜 5m

北緯

35

11

08.1

東経

136

39

54.2

「御霊神社」
「蓮臺寺」前の吉村氏(名前を出すことを了承済み)の話では「松ノ木城址」
「御霊神社」ではないかとのことでした。
「御霊神社」へは県道1号線「西島」信号を東折し700m程の信号を北へ折れ
400mの西側に鳥居が見える。

「地元では城跡の特定は話題になっていますが手掛かりがありません」
と「連薹寺」向かいの吉村氏(名前を出すことを了承済み)は話してくれました。
吉村氏は大橋工芸宅の西に小山があったが農地整理で土地の低い所へ土砂を移したとも

松ノ木城の歴史
慶長五年(1600)九月十五日関ヶ原の戦いで西軍の将 長曽我部盛親(土佐の二十二万石の領主)は
兵六千人を率いて栗原山・岡ヶ鼻(現不破郡垂井町栗原)に陣を構えていたが、
吉川広家の内通により傍観軍となり
西軍の敗報を聞いて、戦わずして伊勢方面へ逃げようとした。
この時、東軍の松ノ木城主 徳永寿昌は軍六百人と今尾城主市橋長勝の軍三百人は、
口ヶ島村・岩道村に陣を構えていて、直ちにこれを金屋河原に迎え撃った。
この戦いで、東軍は侍八十一人、雑兵六十三人の首を挙げた。
土佐二十二万石の領主長曽我部盛親は、帰国後は、領地を没収され浪人となり、
大阪夏の陣では豊臣方で活躍しましたが、捕えられて斬首されました。
とあり松ノ木城主 徳永寿昌については詳しくは不明です。

松ノ木城主 徳永 寿昌(とくなが ながまさ)
はじめ柴田勝豊に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に協力した。
その直後に勝豊が病死したため、秀吉の家臣となり、後に豊臣秀次付の家老として
美濃国松ノ木城に3万石の所領を与えられた。
秀吉死後、朝鮮出兵により朝鮮に在陣していた日本軍へ撤兵を伝える使者を務めている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し
、西軍に属した隣城高須城(139高須城址=次の項参照)1万石の城主高木盛兼を攻めてこれを落とし、
また駒野城に篭城した池田秀氏を降伏させた。
戦後、戦功により高須にて2万石を加増され、高須藩初代藩主となった。
そして、本多正信や大久保忠隣らとともに、関ヶ原の戦いで奮戦した諸大名の戦功を調べる役目を務めた。
(フリー百科事典ウィキペディアより)
(この他115-1長曽我部盛親陣跡127-2金屋河原の合戦碑も参照を参照してください。)

 

139.高須城址

岐阜県海津郡平田町高須  海抜 5m

北緯

35

13

10.3

東経

136

39

40.7

城址公園(高須城址)
城址公園へは県道1号線の「海津消防署前」信号を東進し、
700mで城址公園南へ出る。
角を北進すると、「城址公園口」バス停で「高須城址」へでる。

高須城址
市立高須小学校を中心に幼稚園・保育園などが並び、
これらを囲むように水路が濠と思われます。
従って「高須城」は水路の中全体が高須城内と思われます。
県道1号線(水郷ハナミズキ街道)の「圓心寺」から100mの地点が図面下部の道路です。
(シルバーの散歩道)

西島城があったと言われる「高須小学校」
校内内には何も遺構らしきものはありません。

城跡とも云われる「高須小学校」近辺には武家屋敷跡なのか
広い屋敷で石垣にか囲まれた家が沢山見られます。

 

140.臥龍山城

岐阜県海津郡南濃町上野河戸  海抜 116m

北緯

35

12

11.

東経

136

36

41.

「臥龍山城址」(行基寺)
国道258に大きな看板があります。
そこから山側へ入り登り坂を10分間ほどで「臥龍山城址」の行基寺へ到着します。

臥龍山城址(行基寺)
国道258号(水郷街道)を「上野河戸」地区へ入り国道東側にある大きな看板を
山側に入り集落を過ぎると登り道となり約10分ほどで「行基寺」へ到着します。
駐車場には「WC」もあります。

国道258号沿いに大きな看板があります。

城郭を思わせる塀と石垣かなり高い所に城はあるが車で登ることができます。

狼煙台としても使用されたという復元燈台 駐車場にあり濃尾平野が一望できます。

名古屋城築城時に採石されたとされる石  

 

141.駒野館

岐阜県海津郡南濃町駒野字本丸東  海抜 16m

北緯

35

15

28.

東経

136

35

51.

駒野館は大橋家
県道56号から東へ入ると100m程に五差路があり北へ入ると突当りに大橋家があります。
苗字をインターネットに出してよろしいと了承を頂きました。シルバー管理人)

大橋家の大奥様は「明治維新時に先祖は、」お殿様から「この屋敷で何をするのか」と聞かれ
「お茶園を営みます答えた」と聞いております」と話してくださいました。
また大奥様は「ここの字(あざ)名は本丸東で城(本丸)の東という意味です」と教えて下さいました。
(シルバー管理人)

高須藩は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。
藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。
一時期、駒野館(宝暦13年(1763)〜 安永7年(1778)。
江戸中期以降は尾張藩支藩。
(ウイッキペディアより)

家の脇を奥へ回りましたが長い石垣に続いていました

フエンスの西が「駒野城址」(城山小学校)です。

142.駒野城址

岐阜県海津郡南濃町駒野  海抜 39m

北緯

35

13

28.

東経

136

35

47.

        駒野城址の目標は城山小学校
 駒野城は、津屋川の西岸にある小高い独立丘に築かれた城です。 現在は、城山小学校の敷地となっていて、グランドの南側に案内板が設置されています。

             養老上石津の旗本高木家が築城者
 駒野城は、文明年間に高木貞成によって築かれたとされているが、築城年代や築城者については諸説がある。
 高木氏は、斎藤氏に仕えていたが高木貞久の代に織田信長に仕え、今尾城主となった。                                   
 高木貞久は、本能寺の変後の政争に敗れて織田信孝が自刃した後、今尾から駒野に戻る。
 貞久の子貞利(北高木家=多羅城主)・貞友・貞俊はその後徳川家康に仕え、
 交代寄合の旗本(西高木・東高木・北高木)として明治まで続く。 
                         (旗本高木家陣屋跡を参照)

城へ登る道を一気に登ると本丸跡らしきグランドに出て、
手前に「駒野城址」案内板がありました。

この奥に城跡の遺構が沢山残っています。

校舎の裏(北東)には城の遺構が多数残っています

グランドの周囲は城跡らしく急な土塁が見えます。

 

143.津屋城

岐阜県海津郡南濃町津屋  海抜 3m

北緯

35

15

06.

東経

136

34

06.

津屋城址は本慶寺

津屋城跡
県道56号を南下した場合養老町と南濃町の境の「今熊谷」を渡り約400mの
二つ目の交差点を右折(東折)し250mにある近鉄養老線を越えると
「市立下多度小学校」と「本慶寺」の間へ出ます。

津屋城址
海津郡南濃町津屋地内の本慶寺と言われています。

津屋城址の目印
県道56号「下多度小学校」南側の「本慶寺」

                               津屋城址
 津屋城は、関ケ原合戦まで高木八郎左衛門正家が居城していたが、慶長五年(1600)関ケ原合戦の時、石だ光成方(西軍)に従ったため没落し廃城となった。
 八郎左衛門正家は記録よれば、高須城主高木十郎左衛門の縁者であり、十郎左衛門は高須旧記によると、文禄元年〜慶長五年八月
1592〜1600)まで高須城主に在り豊臣秀吉の旗下と伝えられる。
 現在は、慶長八年(1603)に当時の領主 徳永法印寿昌(高須城主)の許しを得て移された本慶寺となっている。
 寺を中心とした付近一帯が城跡で、主郭部は境内にあるが付近は道路が通じた住宅が建ち、全容を明らかにすることはできない。
 主郭は内堀と土塁に囲まれた区画内で、西隅の一画(離屋敷地)が一の曲輪、それより低い平地(本堂・庫裡敷地)が二の曲輪を南側内堀の外側に三の曲輪(畑地)があり、大手門があったと考察される。
 堀は主郭を囲無内堀と、・・・・・・以下略   (海津市教育委員会)

周囲は寺の石垣でなく城の造りのように見受けられます。

城の歴史
 文明年間(1469〜1487)に高木氏が築城しました。
慶長五年(1600)の関が原の合戦後廃城となりました。

以上「大垣城周辺の城郭・城址」143紹介しました。
長らくご覧いただきありがとうございました。


大垣城周辺の城址


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シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址12」(海津郡)