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シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址」(揖斐郡池田町)の城址を収録しました。


大垣城周辺の城址05

城郭・城址の散歩道(目次)へ

大垣城周辺の城址07

このページで紹介する城址の一覧表

揖斐郡

揖斐郡池田町(8城址)

 71.片山城(池田町片山)、72.六之井陣屋=加藤陣屋((池田町六之井)、73.小寺城(池田町小寺)、
 73-1
.大津谷の桜(池田町小寺)、74.太郎ケ城(池田町本郷)、74-1.池田恒興・元助の墓(池田町本郷)、
 
74-2.稲葉一族の墓
(池田町本郷)、74-3.稲葉一族の墓(池田町本郷)、
 75.
池田城(池田町深草)、75-1.上連馬の家(池田町草深)、76.本郷城(池田町本郷北瀬古397-1.
 77.宮地館(池田町宮地大門)、77-1.熊野神社(池田町宮地大門)、78.沓井代官所(池田町沓井)

 

71.片山城址

岐阜県揖斐郡池田町片山字城ヶ谷

北緯

35

24

29.8

東経

136

33

35.6

獣(熊)害危険のため城跡へは行けず城址未確認

片山城址は春先は熊に注意!
 池田温泉前から県道241号線に入り1Km先の円興寺トンネル南側出口
の西側に登り口があります。
 「東海自然歩道」の道標があるので山に登ります。

「円興寺」トンネル
トンネル南側出口に西側に登り口があります。

「KOJYO TANBO」氏の探訪記を借用します
■観光ガイド
★円興寺トンネルの南側にある東海自然歩道の階段を登ること約10分でで峠に出る。
ここから西に延びる尾根を通っていくと、広い三角形状の曲輪に出る。この西側には階段状の小曲輪が広がり、
これを見下ろすような感じで北尾根を歩くと城域の中心部にたどり着く。
「KOJYO TANBO」より

上の尾根辺りに城址があります。

「KOJYO TANBO」氏の探訪記を借用します
■歴史
 「新選美濃志」によれば、不破河内守が守ったとされる。その時期は「揖斐郡志」によれば天正元年(1573)あるいは
天正2年(1574)ともいわれる。
また、この河内守は西保北方城主、不破光治を指すと考えられているが、
不破氏と片山城の関係は良質な資料で裏付けることができず、その歴史については不明と言わざるを得ない。
■現在
 城址一帯は山に囲まれており、眺望はまった利かない。
遺構は比較的明瞭に残るが、主郭に通じる道はないので、距離的には短いが、
山の中を木枝を掻き分けながら歩かなければならない。

 

72.六之井陣屋跡
(加藤陣屋)

岐阜県揖斐郡池田町六之井  海抜  18m

北緯

35

26

09.

東経

136

35

08.

「加藤陣屋」と言われる理由
「正道寺」
脇の「六之井閻魔堂縁起」碑によりますと
「この閻魔堂の十王様は、寛文年間の(1661〜73)頃、
六之井村庄屋 五十川加藤次定政が、江戸からお迎えし」
とありように六之井陣屋は地元の人達は「加藤陣屋」とよんでいたようです。

六之井陣屋は正道寺南側
 六之井陣屋(地元では加藤陣屋)は、六之井地区の「正道寺」南側にある「六之井公民館」の
裏側の畑地が陣屋があった。
 遺構は何もなく、現在は畑になっていて、近所の人は「”加藤へいない”の屋敷跡」と教えて下さいました。

六之井陣屋前に「六之井閻魔堂縁起碑」があります。

「六之井陣屋」「加藤陣屋」と呼ばれるわけ
軒下にある「六之井閻魔堂縁起」碑を読むと
「六之井村の庄屋五十川加藤次定政が江戸から”閻魔堂十王様をお迎えした・・・・・」とあります。
それがきっかけで「加藤陣屋」とも呼ばれるようになったと思われます。
(シルバーの散歩道)

六之井公民館の裏が陣屋跡の様です。

この畑と雑草が生えている場所が「加藤へいないの陣屋跡」と畑仕事の方が教えてくれました。

旗本加藤家は禄高3640石の大身で伊予大洲藩の分家です。
加藤家は戦国大名で初代光直から10代、最後の領主泰荘まで続きました。
明治三年に加藤家の菩提寺である月真寺(大野町公郷 E-87)に陣屋門を移築寄贈しました。
(このページの後半「E-87大御堂」に掲載してあります)

 

 
提寺の月真寺

73.小寺城址

岐阜県揖斐郡池田町小寺  海抜  82m

北緯

35

26

19.

東経

136

32

52.

城址までの途中に工事業者のゲートがあり城址への到達不能でした

目標は小寺地区の白山神社
 小寺城は、小寺地区の西、山沿いにある白山神社前の町道を北に50mほど進むと、
道路西側に「小寺城址へ西へ二百米」の碑があり、道を挟んで50m北に見晴らし台があります。
 城へは、案内板から舗装道路(車可)を登ると砂防ダム手前にゲートがあり、ここからは徒歩で登ります。
 山頂部には平地が残るのみで遺構らしきものはありません。
(シルバーの散歩道)

池田町小寺の白山神社前の町道を北へ50mほどの三叉路に「小寺城址」の木碑があります。

山方面(西)へ車で登れます。

最近「獣害防止」のためかゲートが設けられました。

地元の方が居ましたので一緒に入り100mほど登ると工事現場へ着き「通行止」でした。

城跡へは左の方の小路で徒歩で登れば到達できますが、現地には遺構も無いそうなのであきらめました。
小寺城の歴史

 美濃守護土岐成頼は、西美濃の守りを固めるために稲葉家の祖稲葉通貞に命じて小寺城を築城させた。
 四国河野氏の一族(越智氏)であった稲葉通貞は、その後勢力を増し本郷城の国枝氏を凌ぐようになった。
 稲葉氏は、通貞−通則−良通(一鉄)と続き、良通の代にの天文3年に曽根城に居城を移し、小寺城は廃城となった。

 

73-1.大津谷の桜

岐阜県揖斐郡池田町小寺  海抜  82m

北緯

35

26

東経

136

32

大津谷の桜
白山神社の上り口にある大津谷公園あたりから大津谷に沿って下流へ両岸にある桜です。

小寺城址登り口北200m
駐車場たっぷり有り、トイレ有、売店なし。
ごゆっくり桜見物を堪能してください。

 

74.太郎ヶ城址

岐阜県揖斐郡池田町本郷 温知小学校校舎裏
海抜  42m

北緯

35

26

25.

東経

136

34

17.

城跡碑はあるが詳細説明はなし

太郎ヶ城址碑
城址碑は「温知小学校」の裏にあります。
「太郎ヶ城主」
一族の墓は国道417の東側の「龍徳寺」にあります。

この学校の裏に「太郎ヶ城址」碑があります。
碑にあるように「国枝大和守為助築城」とあるだけで
説明板など一切ありません。

                             国枝為助の歴史
 国枝氏は15世紀後半以降池田の本郷1帯を本拠としていた豪族で、文明年間(1469〜1486)、三代目為助の頃に田村(現神戸町)から当本郷へ移り来たと考えられている。
 以後、国枝氏は太郎ヶ城(字大和林)の築城、龍徳寺の再興、本郷城の改修及び城下整備、市場開設の奨励等地域の発展に寄与してきた。
 その後、美濃守護職の跡目争いに端を発した舟田の乱で石丸利光方についた国枝為助は、明応4(1495)年、 中野(現大野町)で斉藤利国方と戦い、弟4人共々戦死した。
 為助死後は子の正助が跡を継ぎ、以後7代目政森の時に関ヶ原戦で西軍に属し敗れるまで本郷の地で勢力を保持していた。
 この関ヶ原戦で、本郷城、龍徳寺、養源院などは焼き払われてしまったと伝えられる。
                              (池田町役場)

 

74-1.龍徳寺の
「国枝為助一族の墓」

岐阜県揖斐郡池田町本郷 国道417号脇
「温知小学校東」信号北へ150m東側
海抜  52m

北緯

35

26

30.

東経

136

34

26.

「龍徳寺」は国道417号「温知小学校東」信号北150mの東側にあります。

国枝為助一族の墓

国枝為助一族の墓は、国枝氏が再興し手厚く保護した龍徳寺境内の北西にある。
墓所には為助の他、宗竜(5代目)、貞次、秀守、正泰(?)(以上宗竜の兄弟)、
助光(6代目重光の兄弟)など計11基の墓石が並び、今も厚く奉られている。
岐阜県揖斐郡池田町本郷1341−1 龍徳寺地内

 

74-2.池田恒興・元助

岐阜県揖斐郡池田町本郷  海抜  42m

北緯

35

26

32.

東経

136

34

19.

「池田常興・元助父子の墓」
国道417号の「温知小学校東」信号を過ぎ400mほど北進すると三叉路があります。
角の「高橋家電店」を左折(西折)すると10mほどの右手(北側)のあります。

場所は判りにくい所にあります
国道417号信号「温知小学校東」と「本郷」の中間くらいの場所にある
「コンビニ・セヴンイレブン」前の道路を西へ曲がり、10mほどの右(北側)にあります。

信長の没後秀吉に仕え、「小牧長久手の戦い」で父子ともに戦死。
墓は長久手町の「勝入塚」(池田恒興は勝入斎と名乗っていました)と
「庄九郎塚」(元助は幼名を庄九郎と名乗っていた)にもあります。
(詳しくは「小牧・長久手の戦いの城砦址と遺構」
「小牧長久手合戦主要城砦址」をご覧ください)

本郷城址近くの池田恒興・元助父子の墓

 

74-3.稲葉一族

岐阜県揖斐郡池田町  海抜  42m

北緯

35

26

東経

136

34

               稲葉一族・池田恒利の墓
 稲葉氏は通貞(塩塵 天文七年(1518)没 以来 西美濃一帯に勢力をはった一族で、通貞は当町小寺に小寺城代を築き、その子通則の代もこの城に住んだとされる。
 大永五年(1515)、浅井・朝倉連合軍の美濃侵攻の際に、通則は土岐頼芸の指揮のもと一鉄(六男)を除く五人の息子と共に牧田(現大垣市上石津町)でことごとく討ち死にした。
 一鉄は岐阜長良の崇福寺に入っていたが、これを機に還俗して稲葉家を継ぎ、後に氏家卜全、安藤守就と共に美濃三人衆と呼ばれるほど、勇名をはせる。
 当地は、一鉄が牧田合戦(127-3牧田合戦の地址参照)で戦死した父兄六人及び先祖を供養するために建立した養源院の跡地と伝えられる。
 ここには、稲葉家の祖 塩塵と息子通則、その子通勝・通房、稲葉則弘(詳細不明)らが厚く奉られている他に母が娘である国枝重元、稲葉通勝の妻(国枝宗竜の娘か)など稲葉一族に関係する人物や、池田恒興の父恒利の墓、国枝重次(宗竜の兄弟)らも奉られている。
                            (池田町教育委員会)

 

75.池田城

岐阜県揖斐郡池田町草深上連馬  海抜  26m

北緯

35

26

02.

東経

136

33

44.

池田城址
池田城址は「町立池田中学校」の北西角にある「八幡神社」にある
「八幡神社由緒碑」の文言から推測して城址と考えられます。
が水路の形から考えると池田中学校の方が城址に思えます。

八幡神社境内の脇に黒色の立派な石碑に「八幡神社由緒」があります

由緒の文中には「十五世紀の中頃 池田浄連右馬次郎なるもの
草深上連馬に池田城を築き居を構えた。」
とあります。
このためこの地が池田城址と推測できる考えました。

池田城の歴史は「文安の頃、池田入道浄連が住んだ」と伝えられるのみで詳細不明。

75-1.上連馬の家

岐阜県揖斐郡池田町本郷上連馬

「池田城址」と間違えた家
八幡神社北50mにある「上連馬」地区の家

屋敷を取り巻く堀

 

76.美濃本郷城址

岐阜県揖斐郡池田町本郷字北瀬古397−1 海抜47m

北緯

35

26

57.

東経

136

34

11.

本郷城址
国道417号「本郷北」信号を西へ県道254号を200mほどの西進すると
南側の田圃の中に「本郷城址」が見えます。
県道254の城址が見える辺りに少し幅員が広い部分がありますので
短時間なら駐車可能と思います。(近辺には駐車する場所は見当たりません)

遠くからでもよく分かる城址
 
本郷城は、南北朝時代に土岐頼忠が築城したとされる。頼忠は荘の名をとり、池田と称したことから、
城の名を池田城ともいう。子の頼益のきに尾張萱津へ移る。
  池田氏の後、50年くらいは記録がないが、その後国枝氏が入封する。
慶長五年(1600)之関ヶ原合戦では、国枝氏は西軍に属した。
そのため東軍の攻撃を受けて、城も焼失してしまう。

田圃に囲まれ田場所にあるので近くまで来ると分かります。
少し離れた道路脇に少し場所があるので駐車します。

目印
 国道417号線の「本郷」信号を西へ、県道251号線に入り200m程の三叉路を南へ50m
西側田の中に土塁が見えます。
 築城年は明らかではないが、一般には5代目美濃国守護土岐頼忠の築城とされる。
頼忠は応永4年(1397)に没しているので、築城はそれ以前の南北朝時代であろう。
頼忠の子頼益も、のちに萱津に移るまでは父についで本郷城にいた。
 土岐氏の家臣、国枝大和守為助は土岐氏が本郷城を出た後に、ここを居城とした。
 為助は明応4年、船田合戦で兄弟5人と共に討死したが、国枝氏は代々この城を居城(1495)とした。
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦の時には国枝重元の弟修理亮政盛が城主であったが、西軍に属したため、東軍によって城も焼き払われてしまった。
 本郷城は二重の堀と土塁を巡らせた輪郭式平城である。
 城域は不整形な台形を呈し、東西116m、西辺149m、東辺68m程度の広がりを有する。
地籍図にはよくその形態を遺すが、現在内内郭の櫓台を含む35m四方程が存在しているにすぎない。
遺存部分は町の史跡として保存されている。
(池田町教育委員会)

小さな看板があるので入口は判ります。

            関ヶ原合戦と共に消えた城
 承和(834〜847)頃、池田維実がいたとも、南北朝期に土岐頼忠(のちの五代目美濃国守護。応永四年(1397)没)が築いたといわれるが、築城期は明らかでない。頼忠の子頼益は父についで本郷城に居り、のちに萱津(現愛知県甚目寺町)に移ったといわれる。
 本郷城は本丸、周囲に内堀があり、その周りを囲むように二の丸、外堀があったといわれている。    足利幕府より美濃守護職に任命された土岐頼忠・頼益父子が本郷城を築き入ったが、その後川手城い移ったので、太郎ヶ城にいた国枝大和守為助がこの城に入り、その子正助、宗竜、重光、重元、と200年余り在城した。
 慶長5年に関が原の戦いあり城主国枝修理亮政盛は織田秀信に仕え西軍についたため東軍徳川勢に焼き払われ廃城となった                (現地案内板より)

城址には歴代武将が使った「馬乗り石」や由来碑なだがあります。

 

77.宮地(みやじ)館跡

岐阜県揖斐郡池田町宮地   海抜 56m

北緯

35

27

09.

東経

136

33

32.

池田町宮地地区の民家が館跡
 県道254号線の小牛信号を西折500m先あたりの民家が館跡です

宮地館跡
熊野神社の参道入り口に位置し、濠や石垣などの遺構もしっかり残り
熊野神社をお守りする重要な役目の館があった場所なのかもしれません。

熊野神社の参道の鳥居がら数百m東へ下った所の「祭り旗」を立てる「奉納」と書かれた
石柱が両脇に建っている場所の南にある民家です。

宮路館は「熊野神社」の参道にあります
宮路館の横に熊野神社大祭の幟旗用の石柱が道の両側にあります。

門は無い
近くへ寄ると土塁や濠跡が家を取り巻いていますから、判ります。

 

77-1.熊野神社

岐阜県揖斐郡池田町宮地  海抜  m

北緯

35

26

東経

136

34

参道は駐車場になっています。

 

78.阿子田(あすだ)
   (沓井)代官所

岐阜県揖斐郡池田町沓井   海抜 50m

北緯

35

27

51.

東経

136

33

48.

「阿子田(沓井)代官所跡」
近くに目標となる公共施設がないため大変わかりにくい場所ですが
国道417号の「脛長」地区(終点「揖斐駅」のあたり)の南250〜300m国道西側に
ある「ふとんの杉山」角のを西へ入り西へ約800mの地点(途中熊野神社前を通る)
「薬師寺地蔵堂」が見えたら右折(北へ)20mほどの西側に碑があります。

最終目印は「薬師寺地蔵堂」
国道417号「養老線、終点揖斐駅」近くの「ふとんの杉山」角を西へ入る。
700mほど西進すると北側に「熊野神社」がある。
そこを過ぎ約100mほどに北側に「薬師寺地蔵堂」、南側に「土川クリーニング店」がある
辻の北20m程に「阿子田(あすだ)=(沓井)代官所跡」碑がある。

地元で有名な「土川クリーニング店」
地元の人に「阿子田(沓井)代官所跡」を訪ねるとを目印に教えてくれます
薬師寺地蔵堂の斜向かいにある「土川クリーニング店」も目印です。

地蔵堂前を通り20mほどに「阿子田代官屋敷跡」碑がある。
奥のアパート群は代官屋敷跡で最近まで古い建物があったが一族は名古屋へ移転したとか。

門わきの空き地は寺の跡だそうで「代官跡」はその奥のアパート群です。
代官の子孫は名古屋に住んでいるそうです。

 


大垣城周辺の城址05

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大垣城周辺の城址07

シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址06」(揖斐郡池田町)