シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址10」(不破郡)の城址を収録しました。


大垣城周辺の城址09

城郭・城址の散歩道(目次)へ

大垣城周辺の城址11

 

最近の地元ニュースから追加話題
このページのNo,121−1「五明稲荷神社」のイチョウ伐採へ
 
このイチョウの木は黒田官兵衛の嫡男「松寿丸」が織田信長の「殺してしまえ」という命に反して、
岩手城主(岐阜県不破郡垂井町岩手)竹中半兵衛がこっそりと、この「五明稲荷神社」に匿って
居るとき「松寿丸」が植えたと伝えられている。
詳しくは本編No,122-1「五明稲荷神社」をご覧ください。

このページで紹介する城址の一覧表

不破郡(垂井町・関ケ原町)

市内の11箇所の城址を紹介します。

不破郡
11城跡

115.栗原城跡(垂井町栗原)、115-1.長曽我部盛親陣跡(垂井町栗原)、
115-2.長束正家
陣跡(垂井町栗原)、115-3.栗原古墳(垂井町栗原)、
116.垂井城
(垂井町垂井泉)、
116-1.安国寺恵陣跡(垂井町宮氏)、116-2.毛利秀元陣跡(垂井町宮代)、
117.
長屋氏屋敷(垂井町岩手)118.府中城((垂井町府中)、
119.
岩手弾正居館
((垂井町岩手)、119-1.岩崎神社(垂井町菩提)、
119-2.城のような御屋敷(垂井町菩提)、120.菩提山城((垂井町岩手)、
121.
竹中半兵衛陣屋(垂井町岩手)、121-1.五明稲荷神社(垂井町岩手)、
121-2.竹中半兵衛の墓のある善幢寺(垂井町菩提)、
122.玉城(たまじょう=関ヶ原町玉)、122-1.玉火薬庫跡(関ヶ原町玉)
123.
山中城(関ヶ原 町山中)、
123-1.藤川台・山中城跡へのもう一つの登り口(関ヶ原 町)
124.
今須城
(関ヶ原町今須中町)、125.松尾山城(関ヶ原町今須字溝口)。

 

115.栗原城址
(竹中半兵衛閉居の地)
(栗原九十九坊跡・連理のサカキ)

岐阜県不破郡垂井町栗原

北緯

35

20

05.7

東経

136

32

00.9

          栗原城址
 国道21号線の宮代信号を南へ県道215号線に入り約3km先、左手の八幡神社に「九十九坊・連理のサカキ」の案内板があります ここで車の方は徒歩で右手の細い坂道を300mほど登ります。
 数分で長曽我部盛親陣の説明板のところに至ります。ここから連理のサカキ・九十九坊の案内に従い登ります。15分ほどで九十九坊跡に至り、そこから5分で連理のサカキに至ります。

目印
県道215号線(養老・垂井線)の「栗原」信号(点滅信号)から電柱3本北の西側に看板があります。

長曽我部盛親陣跡(3分)・竹中半兵衛閉所の地(栗原城址)(30分)・
栗原九十九坊跡(28分)の案内板があります。

軽自動車なら入れますが、奥での駐車場が心配です。

清水寺公園(案内板から約4分)
「清水(せいすい)寺公園」まで来ると左側に柵の門があり中に
「栗原連理のサカキ」と「栗原九十九坊跡」の案内板が見えます。
この柵と門は鹿除けなので人間は自由に出入りできます。
鍵はなく鎖を外して、必ず掛けることです。

途中要所要所に案内板があります。
国道から約20分で「栗原九十九坊跡」へ着きます

栗原九十九坊跡
栗原山の中腹及び山麓一帯に、昔「九十九坊」と称する百余坊の寺院があったと伝えられる。
「奈良朝七五七〜七六四年淳仁天皇 天平宝字(ほうじ)の頃に既に多芸七坊の中の一ヶ寺
 不破郡栗原山に天台山正覚院末(まつ) 久保寺双寺として九十九坊ありき」と天文文書にある。
鎌倉初期には百以上の僧坊が建ち並び相当隆盛であったと思追われる。
建武二年(1335)足利、新田両氏の戦いで兵火にかかり焼失したという。
(垂井町教育委員会)

九十九坊跡から更に上へ登ります。

4分ほど登ると右手に「栗原連理のサカキ」が見えてきます。

栗原連理のサカキ
此のサカキは、推定樹齢約四百年の古木で、
幹が根元で二つに分かれており、一方の幹から出た枝がゆ着して、
連理の状態になっている部分が数多く見られる。
このことから、古来「縁結びの榊」といい伝えられている。
(垂井町教育委員会)

竹中半兵衛閉所(隠居所)跡
国道端の案内板にはあった「竹中半兵衛閉所跡」の文字が
清水寺公園から急に無くなりました。
国道の案内板には「連理のサカキ」と同じ時間で書いてあるので、
同じ場所と思い付近を探しましたが多数の石塔片があるのみで
「竹中半兵衛閉所」らしきものは見当たりません。
(あきらめて下山しました)

 

115-1.長曽我部盛親陣跡

不破郡垂井町垂井栗原

北緯

35

22

東経

136

31

長曽我部盛親陣跡
土佐二十二万石の領主長曽我部盛親は、関ケ原合戦の際西軍に属し、
ここ栗原山麓に陣を敷きましたが、吉川広家の内通により傍観軍となり
西軍の敗色を見て戦わずして帰国の途につきました。
途中、牧田川金谷(屋)にて、徳永寿昌(松ノ木城主)の軍六百人
今尾城主市橋長勝の軍三百人の東軍勢との間に戦いがありました。
帰国後は、領地を没収され浪人となり、大阪夏の陣では豊臣方で活躍しましたが、
捕えられて斬首されました。
(垂井町教育委員会)

なお上記の「牧田川金屋の戦い」129-1「金屋河原の合戦」碑
また「松ノ木城」については138松ノ木城址
また「今尾城」については136今尾城址を参照してください。

 

115-2.長束正家陣跡

不破郡垂井町垂井栗原

北緯

35

22

東経

136

31

栗原城址を探していて迷い込んだ広場の山側にきれいな桜があったりました。

その広場に長束家正陣跡がありました。
長束家正陣跡
長束家正は、文禄四年近江水口五万石の領主となり、
ついで十二万石荷加増され、従四位下侍従に叙任
慶長三年(1598)七月、五奉行の一員に列せられました。
同五年の関ケ原合戦では西軍に属し、九月十五日の決戦では千五百人のへいとともに
ここ境野に陣し、合戦前には東軍の池田輝政軍との間に銃撃戦があったとされます。
その後、光成方の敗北を聞くと水口城に帰城しましたが、池田長政に欺かれて自害しました。
(垂井町教育委員会)

広場の隅には朽ちた神社がありました。
帰ってから画像を見ると傍に石碑が映っていましたので
碑文を確認すればよかった残念に思っています。

                     長束 正家
 長束 正家
(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)は、安土桃山時代の官僚・大名であり、豊臣政権の五奉行の一人である
 初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると豊臣氏直参の家臣になった。
 高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。
 九州の役・小田原の役・文禄・慶長の役の際には、兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍した。

 文禄4年(1595)に近江水口5万石を拝領し(のち加増されて12万石)、五奉行の末席に名を連ねる。
 秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加、水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀るも失敗した。

 慶長5年(1600)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。
 初め伊勢の安濃津城を攻略し、関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡)に布陣したが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると敗走した。
 水口城を目前に、追手の池田輝政・長吉に包囲され、弟直吉と共に自刃した。享年39という。

 首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという
                           (現地 愛知県稲沢市稲葉町3丁目 の説明板より)
(長束正家の屋敷跡「美濃路七宿」の「美濃路ー3 稲葉宿」も是非参照ください)

 

115-3.栗原古墳

不破郡垂井町垂井栗原

北緯

35

22

東経

136

31

垂井町指定史跡
栗原古墳壱号墳及び弐号墳

栗原古墳群は、基からなる古墳群で南宮山・通称象鼻山と呼ばれる山塊の東南の丘陵、
標高30〜50mの傾斜面上に立地しています。
1号墳は、通称「黄金塚」と呼ばれる円墳、
2号墳は、全長44mの前方後円墳でいずれも時期は不明です。
(垂井町教育委員会)

この古墳も「栗原城址」を探して迷い込んだ栗原地区のどこかです
今ではどの辺の場所か思い出せません。

 

116.垂井城址

不破郡垂井町垂井 泉

北緯

35

22

01.7

東経

136

31

41.6

 

垂井城址
国道21号「御所野」信号を北に曲がり国道257号で東海道本線を越えると
西手に垂井城址の「専精寺」が見える。

「垂井城」のあった専精寺
「垂井の泉」の上にある「専精寺」がります。
関ヶ原合戦に西軍に参戦した「平塚為広」「垂井城」のあった場所です
合戦の結果西軍は負けたので、「垂井城」は取り壊されたのでしょう。今は跡形もありません

専精寺山門南の駐車場に「垂井城跡碑」があります。
 垂井城は、築城年代や築城者については定かでないが、慶長5年に平塚為広が垂井12,000石を領
して居城した。 同年の関ヶ原の合戦では平塚為広は敦賀城主大谷吉継と供に行動、関ヶ原の合戦にて
討ち死にした。
(垂井城主 平塚為広については「関ケ原合戦址」も参照してください)

 

平塚為広と垂井城跡推定地
ここは、関ヶ原合戦に活躍した西軍の武将平塚為広
の居城跡といわれています。
平塚為広は、豊臣秀吉に仕え、1万2千石の垂井城
主となりました。大谷吉継と西軍に属し、伏見城の戦
い、大垣城の譲渡交渉などに活躍し、決戦当日には
病気の吉継にかわり、大谷隊が指揮しました。    
小早川秀秋隊が西軍を裏切り大谷隊へ攻めかける
と、為広は大長刀を振り回し、小早川隊を再三追い
返しましたが力尽き、山内の家臣樫井太兵衛に討た
れました。   (垂井教育委員会)          

「安国寺恵瓊陣跡」と「毛利秀元陣跡」は垂井町宮代の南宮神社の御神体の南宮山の麓と山頂にあります。

116-1.安国寺恵瓊陣跡

不破郡垂井町垂井宮代

北緯

35

22

東経

136

31

南宮山登山
南宮山には椿が多く、また奉納されるので敷地内には椿の森もあり、別名「椿大社」とも呼ばれます。
南宮山への途中に「眠神」が祀られており、その御神木が椿なのが由来と思われます。

南宮神社については「

関ヶ原合戦の時の安国寺恵瓊陣跡は蛇溜池の横にあります。

安国寺恵瓊陣跡

安国寺恵瓊
 安芸の守護武田氏の遺児といわれています。
 武田氏滅亡の後、安芸安国寺で出家しました。
 毛利氏の外交僧として活躍し、豊臣秀吉の才能を見抜いた話は有名です。
 関ヶ原合戦では石田三成らと共謀して毛利輝元を西軍の総大将に引き込むことに成功しました。
 合戦の当日は南宮山のふもとに陣を構えましたが、吉川広家の裏切りで動くことができず
敗戦後逃亡、京都に潜んでいるところを捕まり六条河原で斬首されました。
(垂井町教育委員会)

安国寺恵瓊陣跡のすぐ近くに市杵島(いちきしま)大神の祠があります。

市杵島大神

市杵島(いちきしま)大神
素盞鳴尊と天照大神が、天安河で誓約をした時に化生した神様で、島に斎く女神です。
なぜここに祀られているかは分かりません。

市杵島大神を過ぎた辺りから山道となります。
20分ほど登ると展望台へ到着します。

116-2.毛利秀元陣跡
(展望台)

不破郡垂井町垂井宮代

北緯

35

22

東経

136

31

展望台には望遠鏡があり(無料)名古屋駅前のビル群や
安八の木曽三川公園の展望塔など手に取るように見えます。

毛利秀元陣跡
 中国百二十万石の太守である毛利輝元の養子。
 関ヶ原合戦では西軍に参戦した輝元の名代で南宮山に陣を構えたましたが、東軍に内通した一族の吉川広家に押し止められ、合戦に参戦できませんでした。
 その際、進退に窮した秀元が、摩下に兵糧を使う真似をさせた話は、「宰相殿からの弁当」として知られています。
 その後、大坂城に戻った秀元は、籠城し徹底抗戦すること主張しましたが聞き入れられず、毛利家は大幅に減封されてしまいました。
 (垂井町教育委員会)

      この陣形図を見ると徳川家康は小早川・吉川などの裏切りがなかったら完全に袋のネズミだった

 

117.長屋氏屋敷跡

不破郡垂井町垂井

北緯

35

22

01.7

東経

136

31

41.6

長屋氏屋敷跡
垂井宿の西の外れにあり中山道より1本南の道「町立垂井西保育園」近く

車をご利用の方は
国道21号線「朝倉口」信号から北上し約120mの交差点を右折し東進70m程の右側。

仮御所となった屋敷跡
文和二年(1353)南北朝争いの最中、北朝の「後光巌天皇」は
南朝軍に京都を奪われ、
足利義詮らと共に垂井へ避難された。
そのとき一時的に垂井の長者「長屋氏」の屋敷を
仮御所とし滞在された。

            太平記ゆかりの地
 「足利尊氏」滞在の長屋氏屋敷跡 文和二年(1353)六月北朝の「御光巌天皇」は南朝軍に京都を奪われ、
 「足利義詮」らと共に垂井へ避難され、一時、垂井の長者長屋氏の屋敷を仮御所にされた。
 その頃、原・洚屋らの南朝軍がここを襲うと聞き、急いで美濃国守「土岐頼康」の居城である
「揖斐小島の頓宮」へ移られた。
 「御光巌天皇」は、八月二十五日「足利尊氏」の西上を聞き、頼康の造営した「垂井頓宮」へ戻られた。
 九月三日「尊氏」の大軍が垂井に到着し、「尊氏」は天皇に拝謁、天皇を安堵させた。
 尊氏の垂井での宿舎は、垂井の長者「長屋氏」の屋敷で、「御光巌天皇」の仮御所になったところである。
 その後「尊氏」はここで病気になり、天皇の京都への還幸は遅れた。
 十七日「尊氏」の病気も治り、天皇を中程にし、「足利義詮」が先陣、「足利尊氏」が後陣をつくり、「垂井頓宮」をあとに京都へ出発した。

 

118.府中城址

不破郡垂井町府中

北緯

35

22

30.3

東経

136

32

17.3

「府中城址」(安立寺)
垂井町府中は広いので県道216号の「府中」信号から南へ入るか、
県道257号の「御幸橋北」信号から北上するかを決めてから入ってください。
両方からほぼ中間の地点あたりの東側にあります

府中城があったとされる安立寺
 垂井町府中は、律令制における美濃国国府が置かれた地で
正確な国府の位置は未だ明確ではないが、近年の発掘調査により、御旅神社周辺が中心であると推定されている 府中城は、現在の安立寺周辺にあったとされている。
(現地説明板より)

美濃国府廳跡の碑が寺の角に建っています。

国府城推測
山門の裏側にある裏門も搦手門と思われます。

 

119.岩手弾正居館

不破郡垂井町岩手

北緯

35

23

東経

136

29

 

中央辺りに見える遠くの茂った木のある場所です。

館跡には小さな社があちます。

車で来た方は「漆原集会所」に駐車させていただいて徒歩で館址まで行かれることをお勧めします。

以前まであった鳥居も朽ち果てい1本だけ残って立っています。

                  大岩手神社御縁起
 当神社祭主筆頭である「岩手弾正久信公」は、美濃守護職土岐家で西山四家の一領家として天降皇紀一七九万四千五六一年(正長元年(1428))に西美濃を統治し、岩手城の城主となって六千貫を領することとなりました。(562年前)
 尚、永亭三年(1431)には岩手弾正家本領之里での、岐阜県武儀郡上(かみ)の保字岩崎に鎮座の「岩崎神社」より摩利支天を受け、岩手八郷の総産土神と定めて、「岩崎大明神社」として創建しました。

 その後、岩手弾正孫四郎公を経て岩手弾正又四郎長敏公の時代には、岩手地区の北に六ヶ年の歳月を費やして現在地に鎮座する「岩手神社」が移築造営されました。(後に紹介します)
 (中略)四代目の忠誠公の代になった、天文十五年(1547)に一大異変が起きました。
 美濃国大野郡大御堂(76大御堂城址参照)の竹中重氏(しげうじ)の子として生まれた、竹中重元が、弟の重時・重利ら一族と共に岩手弾正一族を攻略し、岩手城は元より出城の長松城(16大垣市長松城参照)をも陥れ、岩手各郷を手中に治めた。
 悲憤の生涯を終えた岩手弾正家城主家臣一族一党は、営々築き上げた岩手城・長松城を始め、岩崎神社、禅憧寺その他住居館屋領地領民のすべてを一瞬にして失ったのであります。
 (中略)此の漆原地区に残された「大岩手大明神」の僅かな跡地のみとなりました。(以下略)
                              (大岩手神社奉賛会)

天文15年(1544)または永禄元年(1559)永禄2年頃に竹中重元が菩提山に砦を構える岩手弾正を追い、菩提山城を築いたといわれている。

 

119-1.岩崎神社

不破郡垂井町岩手菩提

北緯

35

23

東経

136

29

岩崎神社
岩手の地名は、当社本田奥に安置されている「神楽岩」に由来していると言われている。
美濃国神名帳(938〜966)に「従四位下岩前明神」とあり、このころ既に格式ある神社であった。
(境内説明板より)

 

119-2.のような御屋敷

不破郡垂井町岩手菩提

北緯

35

23

東経

136

29

表門も立派ですが裏門もすごい

 

120.菩提山城址
(岩手城址)

不破郡垂井町岩手菩提

北緯

35

23

21.8

東経

136

29

08.8

菩提山城
 菩提山城は、伊吹山系の東端にある菩提山(標高401m)の山頂部に築かれ、
その規模は西美濃でも最大級の城でした。
 築城は天文十三年(1544)以前と推定されている。
ただし、永禄二年(1559)築城説もある。
 築城者は竹中重元。嫡男の半兵衛重冶は、豊臣秀吉の軍師として有名である。
 その子重門(しげかど)は、文禄・慶長年間(1592〜1615)に山城を廃し、山麓に館(竹中氏陣屋)を構えた。
 山頂には、曲輪や土塁・掘切が良好な状態で残されている。

駐車スペースの近くに「菩提山城址ハイキングコース」登山口階段があります。

最近は熊に注意
三之丸付近まで約1時間の登りとなります。

 菩提山城の縄張りは、山頂部に主郭を置き、南に向けて二の曲輪・三の曲輪、南側に出丸を配置している。 
 主郭虎口部分には三日月堀と土塁を伴う馬出、そして枡形虎口を形成し、更に一段下がった所にある台所曲輪とも連携した複雑な縄張りとなっている。
 大堀切を隔てて南側にある出丸は、南端に土塁を築き、更に切岸下には竪堀と堀切を組み合わせた防備を固めており、大堀切と
 菩提山城は、永禄2年に竹中重元によって築かれた。 竹中氏は揖斐郡大御堂城主で斎藤氏に仕えていたが、永禄元年に岩手漆原の岩手弾正を滅ぼして岩手に居を移してた。 

 永禄3年に重元が没し、その子重治が城主となる。 この重治が羽柴秀吉の軍師として有名になった。 重治は、天正7年に播磨三木城攻めの陣中にて病没した。

 

120-1.菩提寺

不破郡垂井町岩手字菩提

北緯

35

22

東経

136

30

車で2回ほど回ったがどれが「菩提寺」か分からなかった。

 

121.竹中氏陣屋跡

不破郡垂井町岩手字川原(かわら)

北緯

35

22

57.4

東経

136

30

12.0

竹中半兵衛陣屋跡
県道257号ノ岩手小学校前にあります。
「五明稲荷神社」前(裏・神社北側)の旧道を道なりに北西へ
約500mで半兵衛像が見えてきます。

竹中氏陣屋址及び櫓門
竹中半兵衛重治公没後嫡男の重門が菩提山城を廃して構えた陣屋の正門である。
東側が正面で、大手の間口、奥行き三間木道の白壁塗りの櫓門となっている。
門の西側に千六百三十六坪にわたる陣屋が形成されていた。

竹中半兵衛重治
(1544〜1579年)
重治公はこの地菩提や城を本拠とし、智謀の神の如しといわれた名軍師で、
木下藤吉郎に三顧の礼をもって迎えられた。
信長に仕え、秀吉の懐刀となり、形影相伴って各地を転戦し、知恵袋として活躍した無欲の武将であった。
播州三木城攻略中惜しくも三十六才の若さで陣没した。
(垂井町)

半兵衛公の知略、表舞台へ
  半兵衛は幼い頃から学を好み、中国の兵法書を学び、物静かな人柄は、戦乱渦巻く時代に生きる武将としては、頼りなく思われました。                                              
仕えていた主君「斎藤龍興」や家臣たちから「うつけ者」とさえ嘲笑された。                
永禄七年(1564年)そんな批評を吹き飛ばし美濃に半兵衛ありと全国にその名を知らしめた離れ業は、斎藤道三が築いた、
  難攻不落の城「稲葉山城奪取事件」であります。

 その頃天下を狙っていた織田信長が、この報を聞き美濃国の半分を与える条件で、その城の譲渡を申し入れたが、
 半兵衛は「主君を諌めるため、かかる大事を決行しただけで、何れ城は主君龍興に返す所存」と言って拒否しました。
  この一件で、今まで「竹中半兵衛」を軽視していた周囲の眼は一変しました。

                秀吉と半兵衛公
 藤吉郎(後の秀吉)は、信長の命を受け栗原山に閉居中の半兵衛を訪ね、家臣に迎えるべく三顧の礼を尽くし説得しました。
 半兵衛は藤吉郎の人柄に引かれ信長に仕え藤吉郎の「与力」となり、その後 形影相伴って各地を転戦し奇策智謀作戦は常に功を奏し智謀の将として半兵衛の名は全国津図浦々に知れ渡り秀吉の天下統一への歩みを固めました。

 天正七年(1579年)三木城(兵庫県)攻略中に倒れ、秀吉の勧めによって京都で静養していたが、再び病をおして平井の戦場にもどり、六月十三日三十六歳で没しました。

 秀吉は臨終に臨みその手をとり「孔明を失いしにことならず」と嘆き悲しんだと言われています。
今は菩提山城の麓にある「禅憧寺」(ぜんどうじ)で静かに眠っています。

 「竹中半兵衛重冶」没後、嫡男「重門」(ちゃくなん、しげかど)は関ヶ原の役には
徳川家康に味方し五千石を安堵され恩賞を賜り「旗本」にとり立てられました。

 

121-1.五明稲荷

不破郡垂井町岩手

北緯

35

23

東経

136

29

五明稲荷神社
信長に殺せと命じられた朋友の黒田官兵衛の嫡男を竹中半兵衛が
この稲荷神社にかくまい、後に官兵衛が無事救出されて信長もこれを許した
有名な逸話の舞台となった「五明稲荷神社」です。

  天正六年(1578)岩手城主竹中半兵衛公が三木城攻略中、摂津有岡城主荒木村重は織田信長に反旗を翻した。
竹中半兵衛公の親友である黒田官兵衛が説得(調略?)に当ったが、かえって石牢に幽閉されてしまった。
 主君である織田信長は官兵衛も寝返ったと思い込み、人質にしていた官兵衛の嫡男松寿丸を殺すよう命じた。
竹中半兵衛公は黒田官兵衛に二心は、ないと信じて松寿丸を、この五明稲荷神社にかくまった。
 その後、有岡城から官兵衛が助け出されると松寿丸も許され、岩手を去るときに境内に銀杏の木を植えたと伝えられている。

 また、竹中半兵衛陣屋跡、菩提山城址なども掲載してありますので、是非ご覧ください。

織田信長と黒田官兵衛と竹中半兵衛が
TVドラマで有名な「黒田官兵衛」の嫡男が竹中半兵衛によって
助けられた「五明稲荷」がこの地のこの稲荷です。

五明稲荷
天正六年(1578)岩手城主竹中半兵衛公が三木城攻略中、
摂津有岡城主荒木村重は織田信長に反旗を翻した。
半兵衛公の親友である黒田官兵衛が説得に当ったが、かえって石牢に幽閉されてしまった。
主君である織田信長は官兵衛も寝返ったと思い込み、
人質にしていた官兵衛の嫡男松寿丸を殺すよう命じた。
半兵衛公は官兵衛に二心は、ないと信じて松寿丸を、この五明にかくまった。
その後、有岡城から官兵衛が助け出されると松寿丸も許され、
岩手を去るときに境内に銀杏の木を植えたと伝えられている。
(垂井町観光協会)

 

121-2.竹中半兵衛の墓のある
善幢寺

不破郡垂井町岩手菩提

北緯

35

23

東経

136

29

竹中半兵衛の墓のある善幢寺
「竹中半兵衛陣屋跡」から北へ、
途中「JR東海道本線」のガード下を通り約600mの西側

     播州(兵庫県)三木にあった竹中半兵衛の墓を移す
 この寺は、明応三年(1494)薩摩国(鹿児島県)金幢寺の盛庵正碩(せいあんしょうせき)和尚が開創しました。
 天正七年(
1579)播州(兵庫県)三木の陣で病死しましたが、当寺の墓は、三木にあった墓を長男重門公が移葬したものです。
 現在の本堂は、半兵衛の孫、重常公が寛文三年(1663)に建立したもので、町指定絵画「竹中半兵衛像」があります。

          竹中半兵衛重治の墓
 竹中半兵衛は戦国時代の武将で、豊臣秀吉の望みに応じ出陣し、戦略の将としてその名をとどろかせました。
 天正七年(1579年)4月三木城(兵庫県)攻略の陣中に病気になり、秀吉は京都で静養させたが、武士が座死することは恥じだといい、病をおして戦場に出かけ六月十三日に三十六歳で亡くなりました。 秀吉はその死を深くいたみ、三木にあった墓を長男重門公に移葬させ、この岩手禅幢寺に墓を建立しました。

もう一つの登り口
菩提山へはここから西へ約1kmの「菩提寺」からも登れますが
善幢寺境内からも登れます。

 

122.(たま)城址

岐阜県不破郡関ヶ原町玉
海抜(駐車場位置) 182m

北緯

35

21

42.

東経

136

26

35.

                  城山が玉城址
 国道365号線の「」信号で県道229号線に入り、「胡麻の郷」と「エコミュージアム関ケ原」の間の道を南へ入り(ここから先の説明は難しいので「エコミュージアム関ケ原」=入場無料を訪ねて下さい。地図の入ったパンフレットがいただけます)「城山」の麓の突き当りを山の方へ入り100m程進むと右手に「城山600m」の標識があります。
 車は適当に道幅の広い所に置き徒歩で登り手前で左折し山に向かい、車を降りてから15分ほどで山頂に到達します。山頂には休憩所があります。

玉城址
目印は「エコミュージアム関ケ原」か「胡麻の郷」がいいでしょう。
上り口まで車で行けます。
上り口付近には、数か所 道路脇に空きスペースがあります。

国道365号線の「」信号で県道229号線に入ります。

ヒント
「胡麻の郷」と「エコミュージアム関ケ原」の間を山の方へ入ります。
両施設とも入場無料・駐車料無料ですので是非尋ねてみて下さい。
「胡麻の里」は試食もできます、「エコミューアジアム関ケ原」は付近の地図もいただけます。

山の方へ100mほど入ると右側に「城山山頂600m」の標識があります。
分岐点には標識があります。

道は登りやすく頂上までの20分は楽に上がれます。

城山(玉城址)
南北朝時代、清和源氏の佐竹義春が足利尊氏に追われ、ここにとりでを築いたと伝えられています。
まあた、戦国時代には、浜六兵衛や杉山内蔵助がいたとも伝えられています。
ここに砦を築いたのは、北國街道と中山道に挟まれた大切な場所であり、自然の要害であったからでしょう。
(関ケ原町)

 

122-1.玉の火薬庫跡

岐阜県不破郡関ヶ原町玉
海抜(駐車場位置) 182m

北緯

35

21

東経

136

26

戦時中は誰もが知ってる軍の超秘密場所でした。

玉の火薬庫跡
大正三年(1914)に開設された火薬庫は、正式には「名古屋陸軍兵器補給廠(しょう)関ケ原分廠」といいました。
建設に従事したのは大半の地元玉地区と一部関ケ原地区の住民でした。
指揮に当たったのは、岐阜六八連隊で、後に敦賀一九連隊に交代し、
完成後は第九師団第一九連隊の管理下となりました。
脇にある石組の門柱の一部は、営門の名残で、
当時の陸軍が火薬庫に威信をかけていたことが偲ばれます。
(関ケ原町)

陸軍境杭
玉城址への途中にも何箇所かで見かけました。
太平洋戦争の痕跡はあちらこちらにあるのでしょう。

 

123.山中城址

岐阜県不破郡関ヶ原町山中

北緯

35

21

20.9

東経

136

27

15.7

山中城址
「JR東海道新幹線」「国道21号線」「JR東海道線」「中山道」が
交錯する関ケ原町山中地区の「中山道」
から階段を登り
JR東海道線の踏切を通り八幡神社の横をのぼると「山中城址」があります。

過去と現代融合の地「山中城址」
この地は「壬申の乱」で大友皇子と大海皇子が戦い「「黒血川」とまで名を残した激戦地、
後に天武天皇が関を於き「破ることができない」意をこめ「不破の関」と名づけた「関」まで500m
その後永い平穏な時代の始まりとなる激戦の関ケ原の戦いの「大谷吉継陣跡」と平穏な270年の「中山道」。
そして、現代の動脈「国道21号」・「JR東海道本線」・「JR東海道新幹線」が1枚の画面に収まる地です。

    東山道を見下ろす要害の地、山中城
 山中城址に関ヶ原合戦の折、大谷吉継は陣をはり大阪からの石田三成の到着を待ったとされます。
 合戦が始まり、対岸の
小早川秀秋の裏切りにより、この陣へ味方である小早川隊が雪崩のように攻め寄せ大谷吉継は陣より山の上へ上がり家来

の方は先ほどの中山道の若宮八幡宮からの方が近くて楽です。
こちらの登り口は車の方が駐車の関係で楽です。

123-1.もう一つの登り口藤川台

不破郡関ヶ原町

北緯

35

20

東経

136

26

藤川台(大谷吉継の墓登り口)
藤古川(関の藤川)の右岸に位置している。この川岸の上を藤川台と称します。
地形が平らで、やや高い所からその名があります。
ここに大谷吉継(吉隆)、戸田重政、平塚為広等が布陣し、
小早川隊等との壮絶な死闘を展開しました。
大谷隊が最初陣した宮上の丘陵上(じょう)には空堀が縦横に連なっており、
地形をうまく利用した陣の構築跡が見られます。
(関ケ原町)

この案内板から山へ(西へ)入ります

案内板のとおり約450m10分で「大谷吉継の墓」へ着きます。

国史跡 大谷吉継(吉隆)墓
吉隆は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。
旧友の苦痛を察した吉隆は、死を共にする決意をしまし、
死に装束でここ宮上に出馬してきたのです。
壮絶な死闘の末、吉隆は、首を敵方に渡すな、と言い残して自害しました。
此の墓は敵方の藤堂家が建てたものです。
(関ケ原町)

並んで建っている湯浅五助貞の墓」は何の間関係があるのしょう?

 関ヶ原の合戦において、西軍小早川秀秋の裏切りを察知していた大谷吉継はあらかじめ小早川軍が布陣していた松尾山に向けて兵を配備しており、小早川が裏切ると配備しておいた兵で小早川軍を押し返すことに成功しますが、
全く予想していなかった自軍に属していた脇坂・小川・朽木・赤座勢までもが裏切り、
大谷軍は総崩れとなり、吉継は自害を決意します。

実は吉継はハンセン病を患っており、目もほとんど見えず、
立つこともできず御輿に乗り采配をふるっていたと言われています。
そのため自分の顔を敵にさらしたくないという思いから、
家臣の湯浅五助に介錯を頼みその首を関ヶ原の土中に埋めるよう指示します。
五助はその指示通りに吉継を介錯し、その首級を土中に埋めようとしますが、
その現場を敵将の藤堂高刑に見つかってしまいます。

その様子から吉継の首級を埋めていると察知した高刑に対して、
五助は自らの首を差し出す代わりに主君吉継の首級のことは見逃してほしいと頼みます。
その心意気に打たれた高刑は五助との約束を守り、五助の首級を持ち徳川家康の首実検の場に臨みます。

家康は五助ほどの重臣なら吉継の首のありかを知っているであろうと高刑に尋ねますが、
高刑は、確かに知っているが五助との約束なので教えることはできないと家康に答えます。
家康は高刑のことを誠にあっぱれと思い、褒美を授けます。

これで「湯浅五助の墓」の理由も敵方の「藤堂家」が墓を建てた理由も分かりました。

次は大谷吉継陣跡へ向かいます。(300m4分)

大谷吉継陣跡へ来ました。

大谷吉継陣跡の下に新たに「松尾山眺望地」ができました。

「松尾山眺望地」のすぐ下に中山道側からの登り口にある「若宮八幡宮」が見えます。
(徒歩の方はこちらの中山道側からの登山が楽です。)

「松尾山眺望地」
正面1・5キロ先に望む標高二九三米の山が松尾山である。
関ケ原合戦において、小早川秀秋が布陣したことで有名である。
当時の遺構がそのまま残っており、頂上に軍旗が翻っているのが確認できる。
吉継は予てから秀秋の二心を疑っていたので、自ら約二千の兵を率いて下方山中村の沿道に出て、
専ら秀秋に備えていた。
案の定 秀秋の兵一万三千が山を下り突撃してきたが、その大軍を麓まで撃退すること三度。
遂に総崩れとなり吉継は自刃した。
こうして眼下で数倍の敵と互角以上の死闘を展開した大谷吉継の勇姿が偲ばれる。
(関ケ原町)

織田信長が最初に城を築いた松尾山
肉眼で遙か彼方の松尾山頂上の白い幟が見えます。
その手前が大谷軍と寝返った小早川軍が壮絶な戦いをした戦いの地
その手前に中山道、もう一つ手前にJR東海道線が走って居ます。

 

124.今須城址

不破郡関ヶ原町今須字中町

北緯

35

20

50.0

東経

136

26

18.0

今須城の伝承
 長江氏は、相模国長江の出で源頼朝に仕え、承久の乱の後長江秀景の代に今に伝えられる。
今須城はこの時の居館に端を発するものと思われる。
 今須は、古くから東山道そして後には中山道の宿場となる要地であり、
また西に1kmほど行くと美濃と近江の国境となる。
東に今須峠があり、これを越えると不破の関を経て関ヶ原にいたる。
 長江氏は、嘉吉年間に長江高景が美濃国守護代となってその全盛期を迎えるが、
応仁の乱において斎藤妙椿の攻撃をけ敗北し滅んだとされる。

今須城址(妙應寺)
戦国時代・江戸時代から現代まで美濃から近江へ抜けるのに重要な場所で
狭い地域に街道・国道・鉄道(従来線・新幹線)がひしめき合っています。
特に国道工事・JR東海道本線工事では
今須城址(妙應寺)も川も曲げられ、かっての城域も大幅に変えられたと思われます。
今須中学校・小学校は今須宿の本陣跡に建てられています。

「妙応寺」へはJR東海道本線の下を通ります。

山門碑には享和元辛酉(かのととり)年(1801年)の文字があります。

          「ダダ法師の大足跡」
 裏山に伝説の巨人、ダダ法師の足跡があります。
 モッコ(縄で編んだ土地などを入れて運ぶもの)で伊吹山と養老山を作り、
 モッコからもれて落ちたた土で南宮山が出来たと伝えられ、その時の足跡だと言われています。

                 「妙応寺」
 天正十五年(1360年)に曹洞宗の大徳莪山禅師を開山として建立した「曹洞宗総持寺」の末寺であります。
 南北朝時代に鎌倉から移ってきた長江重景が母「妙王」のために建てた「長江氏」の氏寺です。
 この寺の墓地は、長江氏のものであります。
 宝物館には史料、寺宝、母「妙応」が使った大きい枡、小さい枡が寺が伝わっています。

             由緒在る鏡池
 当寺は正平十五年(1360)に、今須領主長江重景が創建した県下で最も古い
曹洞宗寺院です。
 その後、土地の寄進で経済力は伸長し、徳川政権下での寺領高二十石の安堵は、明治維新まで永く続きました。 宝物館には、町重文の文書をはじめとして当地出身の喜田華堂筆の縁起絵巻などが展示されています。
                      (関ヶ原町)

最近境内の講堂を取り壊していました。立替でしょうか?

今須城跡の南の「松尾山」山頂に「松尾山城址」はあります。

登り口は

125.松尾山城址

不破郡関ヶ原町今須字溝口

北緯

35

20

43.3

東経

136

27

26.2

今須から南へ向かう「平井道」で平井へ向かい1kmほどで
松尾山山頂への道標があります。

途中松尾山山頂の道標があります

小路を山の麓まで行き1.6km(約40分)で山頂へ

山頂までは1.5km(約40分)山頂からの景色は絶景です。

山頂には松尾山城址が公園化されています。

 

松尾山城址

 松尾山城は、美濃・近江の両方を一望でき、眼下に東山道と伊勢街道・北国街道が通じる典型的な境目の城です。

 松尾山城は、「境目の城」として美濃(織田氏)・近江(浅井氏)が領有し、その時々に美濃へ近江へとそれぞれ備えたことで、境目の城だが大手・搦手が両様にある城となっています。

 天正元年、浅井長政を滅ぼした織田信長は、不破光治を松尾山城に置き国境警備に当たらせたが、天正4年に安土城へ居城を移し、岐阜城に嫡男織田信忠を城主としたことで境目の城としての役割を終え、天正7年に廃城となった。

 慶長5年の関ヶ原合戦の折、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋が松尾山城に陣取り、北麓に陣取っていた大谷吉継の陣へと攻め降ったことで有名。

シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址10」(不破郡)