シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址10」(不破郡)の城址を収録しました。
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最近の地元ニュースから追加話題 |
このページで紹介する城址の一覧表
不破郡(垂井町・関ケ原町) 市内の11箇所の城址を紹介します。 |
不破郡 |
115.栗原城跡(垂井町栗原)、115-1.長曽我部盛親陣跡(垂井町栗原)、 115-2.長束正家陣跡(垂井町栗原)、115-3.栗原古墳(垂井町栗原)、 116.垂井城(垂井町垂井泉)、 116-1.安国寺恵瓊陣跡(垂井町宮氏)、116-2.毛利秀元陣跡(垂井町宮代)、 117.長屋氏屋敷跡(垂井町岩手)118.府中城跡((垂井町府中)、 119.岩手弾正居館跡((垂井町岩手)、119-1.岩崎神社(垂井町菩提)、 119-2.城のような御屋敷(垂井町菩提)、120.菩提山城跡((垂井町岩手)、 121.竹中半兵衛陣屋(垂井町岩手)、121-1.五明稲荷神社(垂井町岩手)、 121-2.竹中半兵衛の墓のある善幢寺(垂井町菩提)、 122.玉城跡(たまじょう=関ヶ原町玉)、122-1.玉火薬庫跡(関ヶ原町玉) 123.山中城跡(関ヶ原 町山中)、 123-1.藤川台・山中城跡へのもう一つの登り口(関ヶ原 町) 124.今須城跡(関ヶ原町今須中町)、125.松尾山城跡(関ヶ原町今須字溝口)。 |
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115.栗原城址 岐阜県不破郡垂井町栗原 |
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栗原城址 国道21号線の宮代信号を南へ県道215号線に入り約3km先、左手の八幡神社に「九十九坊・連理のサカキ」の案内板があります ここで車の方は徒歩で右手の細い坂道を300mほど登ります。 数分で長曽我部盛親陣の説明板のところに至ります。ここから連理のサカキ・九十九坊の案内に従い登ります。15分ほどで九十九坊跡に至り、そこから5分で連理のサカキに至ります。 |
目印 |
長曽我部盛親陣跡(3分)・竹中半兵衛閉所の地(栗原城址)(30分)・ |
軽自動車なら入れますが、奥での駐車場が心配です。 |
清水寺公園(案内板から約4分) |
途中要所要所に案内板があります。 |
栗原九十九坊跡 |
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九十九坊跡から更に上へ登ります。 |
4分ほど登ると右手に「栗原連理のサカキ」が見えてきます。 |
栗原連理のサカキ |
竹中半兵衛閉所(隠居所)跡 |
115-1.長曽我部盛親陣跡 不破郡垂井町垂井栗原 |
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長曽我部盛親陣跡 |
115-2.長束正家陣跡 不破郡垂井町垂井栗原 |
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栗原城址を探していて迷い込んだ広場の山側にきれいな桜があったりました。 |
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その広場に長束家正陣跡がありました。 |
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広場の隅には朽ちた神社がありました。 |
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長束
正家 長束 正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)は、安土桃山時代の官僚・大名であり、豊臣政権の五奉行の一人である 初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると豊臣氏直参の家臣になった。 高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。 九州の役・小田原の役・文禄・慶長の役の際には、兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍した。 文禄4年(1595)に近江水口5万石を拝領し(のち加増されて12万石)、五奉行の末席に名を連ねる。 慶長5年(1600)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。 首は京都三条橋で晒され、財産は池田長吉に奪われたという |
115-3.栗原古墳 不破郡垂井町垂井栗原 |
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垂井町指定史跡 |
この古墳も「栗原城址」を探して迷い込んだ栗原地区のどこかです |
116.垂井城址 不破郡垂井町垂井 泉 |
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垂井城址 |
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「垂井城」のあった専精寺 |
専精寺山門南の駐車場に「垂井城跡碑」があります。 |
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平塚為広と垂井城跡推定地 |
「安国寺恵瓊陣跡」と「毛利秀元陣跡」は垂井町宮代の南宮神社の御神体の南宮山の麓と山頂にあります。
116-1.安国寺恵瓊陣跡 不破郡垂井町垂井宮代 |
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南宮山登山 南宮神社については「 |
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関ヶ原合戦の時の安国寺恵瓊陣跡は蛇溜池の横にあります。
安国寺恵瓊陣跡 |
安国寺恵瓊 |
安国寺恵瓊陣跡のすぐ近くに市杵島(いちきしま)大神の祠があります。
市杵島大神 |
市杵島(いちきしま)大神 素盞鳴尊と天照大神が、天安河で誓約をした時に化生した神様で、島に斎く女神です。 なぜここに祀られているかは分かりません。 |
市杵島大神を過ぎた辺りから山道となります。
20分ほど登ると展望台へ到着します。
116-2.毛利秀元陣跡 不破郡垂井町垂井宮代 |
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展望台には望遠鏡があり(無料)名古屋駅前のビル群や |
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毛利秀元陣跡 |
この陣形図を見ると徳川家康は小早川・吉川などの裏切りがなかったら完全に袋のネズミだった |
117.長屋氏屋敷跡 不破郡垂井町垂井 |
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長屋氏屋敷跡 |
車をご利用の方は |
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仮御所となった屋敷跡 |
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太平記ゆかりの地 |
118.府中城址 不破郡垂井町府中 |
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「府中城址」(安立寺) |
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府中城があったとされる安立寺 |
美濃国府廳跡の碑が寺の角に建っています。 |
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国府城推測 |
119.岩手弾正居館址 不破郡垂井町岩手 |
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中央辺りに見える遠くの茂った木のある場所です。 |
館跡には小さな社があちます。 |
車で来た方は「漆原集会所」に駐車させていただいて徒歩で館址まで行かれることをお勧めします。 |
以前まであった鳥居も朽ち果てい1本だけ残って立っています。 |
大岩手神社御縁起 その後、岩手弾正孫四郎公を経て岩手弾正又四郎長敏公の時代には、岩手地区の北に六ヶ年の歳月を費やして現在地に鎮座する「岩手神社」が移築造営されました。(後に紹介します) |
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天文15年(1544)または永禄元年(1559)永禄2年頃に竹中重元が菩提山に砦を構える岩手弾正を追い、菩提山城を築いたといわれている。
119-1.岩崎神社 不破郡垂井町岩手菩提 |
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岩崎神社 |
119-2.城のような御屋敷 不破郡垂井町岩手菩提 |
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表門も立派ですが裏門もすごい |
120.菩提山城址 不破郡垂井町岩手菩提 |
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菩提山城 |
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駐車スペースの近くに「菩提山城址ハイキングコース」登山口階段があります。 |
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最近は熊に注意 |
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菩提山城の縄張りは、山頂部に主郭を置き、南に向けて二の曲輪・三の曲輪、南側に出丸を配置している。 主郭虎口部分には三日月堀と土塁を伴う馬出、そして枡形虎口を形成し、更に一段下がった所にある台所曲輪とも連携した複雑な縄張りとなっている。 大堀切を隔てて南側にある出丸は、南端に土塁を築き、更に切岸下には竪堀と堀切を組み合わせた防備を固めており、大堀切と |
菩提山城は、永禄2年に竹中重元によって築かれた。 竹中氏は揖斐郡大御堂城主で斎藤氏に仕えていたが、永禄元年に岩手漆原の岩手弾正を滅ぼして岩手に居を移してた。 永禄3年に重元が没し、その子重治が城主となる。 この重治が羽柴秀吉の軍師として有名になった。 重治は、天正7年に播磨三木城攻めの陣中にて病没した。 |
120-1.菩提寺 不破郡垂井町岩手字菩提 |
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車で2回ほど回ったがどれが「菩提寺」か分からなかった。 |
121.竹中氏陣屋跡 不破郡垂井町岩手字川原(かわら) |
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竹中半兵衛陣屋跡 |
竹中氏陣屋址及び櫓門 |
竹中半兵衛重治 |
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半兵衛公の知略、表舞台へ |
その頃天下を狙っていた織田信長が、この報を聞き美濃国の半分を与える条件で、その城の譲渡を申し入れたが、 |
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秀吉と半兵衛公 秀吉は臨終に臨みその手をとり「孔明を失いしにことならず」と嘆き悲しんだと言われています。 「竹中半兵衛重冶」没後、嫡男「重門」(ちゃくなん、しげかど)は関ヶ原の役には |
121-1.五明稲荷 不破郡垂井町岩手 |
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五明稲荷神社 天正六年(1578)岩手城主竹中半兵衛公が三木城攻略中、摂津有岡城主荒木村重は織田信長に反旗を翻した。 また、竹中半兵衛陣屋跡、菩提山城址なども掲載してありますので、是非ご覧ください。 |
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織田信長と黒田官兵衛と竹中半兵衛が |
五明稲荷 |
121-2.竹中半兵衛の墓のある 不破郡垂井町岩手菩提 |
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竹中半兵衛の墓のある善幢寺 |
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播州(兵庫県)三木にあった竹中半兵衛の墓を移す この寺は、明応三年(1494)薩摩国(鹿児島県)金幢寺の盛庵正碩(せいあんしょうせき)和尚が開創しました。 天正七年(1579)播州(兵庫県)三木の陣で病死しましたが、当寺の墓は、三木にあった墓を長男重門公が移葬したものです。 |
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現在の本堂は、半兵衛の孫、重常公が寛文三年(1663)に建立したもので、町指定絵画「竹中半兵衛像」があります。 |
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竹中半兵衛重治の墓 |
もう一つの登り口 |
122.玉(たま)城址 岐阜県不破郡関ヶ原町玉 |
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城山が玉城址 |
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玉城址 |
国道365号線の「玉」信号で県道229号線に入ります。 |
ヒント |
山の方へ100mほど入ると右側に「城山山頂600m」の標識があります。 |
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道は登りやすく頂上までの20分は楽に上がれます。 |
城山(玉城址) |
122-1.玉の火薬庫跡 岐阜県不破郡関ヶ原町玉 |
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戦時中は誰もが知ってる軍の超秘密場所でした。 |
玉の火薬庫跡 |
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陸軍境杭 |
123.山中城址 岐阜県不破郡関ヶ原町山中 |
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山中城址
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過去と現代融合の地「山中城址」 |
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東山道を見下ろす要害の地、山中城 |
歩の方は先ほどの中山道の若宮八幡宮からの方が近くて楽です。
こちらの登り口は車の方が駐車の関係で楽です。
123-1.もう一つの登り口藤川台 不破郡関ヶ原町 |
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藤川台(大谷吉継の墓登り口) |
この案内板から山へ(西へ)入ります
案内板のとおり約450m10分で「大谷吉継の墓」へ着きます。 |
国史跡
大谷吉継(吉隆)墓 |
並んで建っている「湯浅五助貞の墓」は何の間関係があるのしょう? 関ヶ原の合戦において、西軍小早川秀秋の裏切りを察知していた大谷吉継はあらかじめ小早川軍が布陣していた松尾山に向けて兵を配備しており、小早川が裏切ると配備しておいた兵で小早川軍を押し返すことに成功しますが、 これで「湯浅五助の墓」の理由も敵方の「藤堂家」が墓を建てた理由も分かりました。 |
次は大谷吉継陣跡へ向かいます。(300m4分)
大谷吉継陣跡へ来ました。
大谷吉継陣跡の下に新たに「松尾山眺望地」ができました。
「松尾山眺望地」のすぐ下に中山道側からの登り口にある「若宮八幡宮」が見えます。 「松尾山眺望地」 |
織田信長が最初に城を築いた松尾山 |
124.今須城址 不破郡関ヶ原町今須字中町 |
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今須城の伝承 |
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今須城址(妙應寺) |
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「妙応寺」へはJR東海道本線の下を通ります。 |
山門碑には享和元辛酉(かのととり)年(1801年)の文字があります。 |
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「ダダ法師の大足跡」 |
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「妙応寺」 |
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由緒在る鏡池 |
最近境内の講堂を取り壊していました。立替でしょうか? |
今須城跡の南の「松尾山」山頂に「松尾山城址」はあります。
登り口は
125.松尾山城址 不破郡関ヶ原町今須字溝口 |
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今須から南へ向かう「平井道」で平井へ向かい1kmほどで |
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途中松尾山山頂の道標があります |
小路を山の麓まで行き1.6km(約40分)で山頂へ |
山頂までは1.5km(約40分)山頂からの景色は絶景です。
山頂には松尾山城址が公園化されています。 |
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松尾山城址 松尾山城は、美濃・近江の両方を一望でき、眼下に東山道と伊勢街道・北国街道が通じる典型的な境目の城です。 |
シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址10」(不破郡)