シルバーの城郭城址の散歩道「大垣城周辺の城址7」(揖斐郡大野町)の城址を収録しました。


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揖斐郡大野町

町内の11箇所の城址を紹介します。

大野町

79.上ノ城跡(大野町大野字古城)、80.徳永氏下ノ城跡(大野町大野)、
81.中之元城跡(大野町中之元)、82.相羽城跡(大野町相羽字村通)、
83.
西尾氏五之里
跡(大野町五之里)、84.徳永氏五之里跡(大野町五之里)、
84-1.円妙寺(大野町五之里)、
85.
月真寺(大野町公郷)、86.大御(オオミ)堂城跡(大野町公郷)、
86-1.
鳥本家住宅(大野町公郷)、86-2.間違われやすい若宮神社(大野町公郷)、
87.
野村藩邸跡
(大野町野)、87.-1移築野村陣屋総門(大野町野)、
87-2.乾屋敷古墳(大野町野)、87-3.八幡神社(大野町野)、
88.
織田河内守邸
跡((大野町野)、88-1.野古墳群(大野町野)、
88-2.牧村家住宅
(大野町野)、89.牛洞陣屋跡(大野町牛洞)、
89-1.牛洞陣屋移築門(大野町稲富)、

 

79.上ノ城址

岐阜県揖斐郡大野町大野字古城

79.上ノ城址
揖斐郡大野町に古城という字がありこの付近と思われる。
古城には「古城北町」という団地があり、その北辺りに天満神社があり、
その横が広大な竹藪のまま残されており、ここ辺りが城址と思われる。

79.上ノ城址
は県道265号の「稲富出屋敷」信号を北へ650m程の交差点を南へ曲がり
350m程の東側に「天満神社」があり、そのあたりが城址と思われます。

大野町古城
地名からして付近に城があった場所に思われます。
此の案内図の古城北町は新興住宅地に変貌していて「新しく来たので分からない」の回答ばかりでした。
古城北町以外の古城で尋ねましたが「そんな城があったことも知らない」でした。
住宅地の横に「天満神社」があり、神社の横に広大な藪が手つかずのままでした。
此処が「上ノ城址」ではないかと考えられます。

 

80.徳永氏下ノ城址

岐阜県揖斐郡大野町大野  海抜 33m

北緯

35

度

28

分

10.

秒
東経

136

度

38

分

23.

秒

徳永氏下ノ城址(大野保育園)
周囲の濠跡は鉄板で塞いでありますが、道路反対側の側溝とは違い幅が広く堀址と思われます。

徳永氏下ノ城址
揖斐郡大野町字大野地内の「大野保育園」が城址と思われます。
国道303号「黒野」信号を北上し

住宅地図からかっての濠跡らしきものを再現

保育園の周囲を廻り住宅地図に現れてない水路を見つけました。

徳永氏下ノ城
資料に関して殆ど入手出来ない城の一つです。
大野町内で城址らしい箇所を探しました、
�@大野小学校、               
�A新興住宅地でなく道の狭い旧住宅地、
�B寺・公共施設・八幡神             
などと地元の旧家の訪ねてましたが「そんな城 聞いたこと無い」「知らない」でした。

唯一、屋敷内に「大野町史跡 高札場」の標識のある家を発見しました。

広い屋敷に立派な門
訪れて「上ノ城・徳永氏下ノ城」について尋ねましたが、
「最近主人を亡くしまして、私は知りません」と言われお悔やみを申し上げ退出しました。

 

81.中之元城址

岐阜県揖斐郡大野町中之元997−4 
 海抜 31m

北緯

35

度

27

分

53.

秒
東経

136

度

36

分

54.

秒

中之元城址
「徳林寺」へお邪魔して三浦住職にお話を頂きましたが
お寺の由来は「古田織部」に由来し寺の山号が古田山徳林寺」など
は明解でしたが、城址についてはこの寺の付近との事でした。
「シルバーの散歩道」的には水路の形状からして赤点線の枠かな?
「シルバーの散歩道」のつぶやき

徳林寺が「中之元城址」と言われていますが城址碑も何もありません。

城の遺構らしきものは見当たりません。

 

82.相羽城址

岐阜県揖斐郡大野町相羽字村通  海抜 23m

北緯

35

度

27

分

08.

秒
東経

136

度

38

分

20.

秒

相羽城址
天文16年(1547)の相羽合戦の舞台です。
城主 長屋景興は斉藤道三と戦って滅ぼされました。
小高い城址と堀の一部が残っています。
(大野町教育委員会発行「文化財おおの」から)

城址は八幡神社
 近鉄相羽駅西側、線路沿いに八幡神社がありこの境内が相羽城本の丸跡です。
 城の遺構は何も残っていないが、周囲に比べて、神社境内は一段高くなっていて、
神社本殿前に「相羽城址」の石碑が建てられています。
 資料に拠れば、神社東北の池付近から当時用いられていた柱や梁の木材が発掘されたといわれています。

相羽城址
国道303号「大野東保育園東」信号から西へ350m「八幡神社」が城址です。

八幡神社が城址と言われています。

「大野町史蹟 相羽城址」碑があるのみで遺構らしきものは見られません。

相羽城の歴史
 鎌倉時代初期に土岐光俊によって築かれたと云われて、一時廃城となっていたが、
天文初期に長屋景興が不破郡垂井よりこの城に移り、美濃守護土岐頼芸に属した。
 天文16年、守護代斎藤家を乗っ取った斎藤道三は、守護土岐頼芸の大桑城を攻め、
この時長屋景興の守る相羽城も道三に攻められ落城した。
(現地説明板より)

 

83.西尾氏五之里址

岐阜県揖斐郡大野町五之里  海抜 17m

北緯

35

度

24

分

47.

秒
東経

136

度

37

分

24.

秒

西尾氏五之里址と長屋門
大野町大字五之里の北の方にある空家が「西尾氏五之里址」です
大野市史跡に指定されている「長屋門」も朽ち果てています。

探し方
県道92でも県道159でも信号「五之里南屋敷」見つけて跡は探す
「五之里公民館」か「妙円寺」を探せば簡単

長屋門があり「西尾氏五之里」
「長屋門」
側面には「五ノ里 加納庄一郎」

大野町教育委員会「長屋門」
屋根は波うち、瓦は一部抜け落ち、
碑の裏には「文化財を大切にしましょう」の文字が泣いています。

 

84.徳永氏五之里址

岐阜県揖斐郡大野町五之里  海抜 20m

北緯

35

度

26

分

13.

秒
東経

136

度

37

分

25.

秒

徳永氏五之里址
妙円寺山門南にある「五之里公民館」が「徳永氏五之里址」です。
説明板も碑もありません。
裏の「妙円寺」をお尋ねして住職にお話を伺っていたところ、奥から
大住職が出て来られて「西尾氏五之里」「徳永氏五之里」について
詳しくお話を頂きました。
(シルバーの散歩道)

探し方
県道92でも県道159でも信号「五之里南屋敷」見つけて跡は探す
「五之里公民館」か「妙円寺」を探せば簡単

「徳永氏五之里址」
妙円寺大住職によると五之里公民館が「徳永氏五之里址」だそうです。
現在も「徳永氏一族」の位牌をお祀りしているそうです。
(シルバーの散歩道)

 

84-1. 妙円寺

探し方
県道92でも県道159でも信号「五之里南屋敷」見つけて跡は探す
この地図で探してください。

青木大住職
「西尾氏・徳永氏の一族は今は東京にお住まいだそうです。」

大御堂城の規模は大きく「月真寺」の西から「八幡神社」までの
広い地域を占めていたようですので両地を「大御堂城址」としました。

85.月真禅寺
(大御堂城址・沓井=加藤陣屋移築門
竹中重元の墓・加藤平内の墓)

岐阜県揖斐郡大野町公郷

北緯

35

度

27

分

05.5

秒
東経

136

度

36

分

23.7

秒

「月真禅寺」と「大御堂城址」の場所
「月真寺」も「大御堂城址」も説明のしにくい場所にあります。(何度も現地をぐるぐる回りました)
県道263号か県道264号で「町立揖東中学校」を見つけ、
「大御堂城跡」を探し、そして「月真寺」の説明板を目印にして辿れば簡単です。
(シルバーの散歩道)

大御堂城は竹中半兵衛生誕の城
垂井町明泉寺から発見された古文書「過現二世牒」により、
秀吉旗下の天才軍師 竹中半兵衛重治(しげはる)の生誕地が
ここ公卿(くごう)の大御堂城と判明したことから、竹中氏ゆかりの
八幡神社の脇に碑が建立されました。
大御堂城は、ここより北約300m、月真寺の西側一帯とされ、
昭和30年代までは城の遺構と伝えられる土塁が残されていました。
(大野町教育委員会発行「文化財おおの」から)

「竹中半兵衛の墓」
「竹中半兵衛の墓」は「中山道 垂井宿」の
不破郡垂井町岩手の禅幢寺(ぜんとうじ)を参照してください。
”ここをクリック”

加藤平内から贈られた門は屋根が破れ今にも倒れそうです。
(大野町は財政が苦しいのか多くの文化財は大変な状態になっています)

今にも崩れそうで下をくぐるのが少々怖い!

月真寺の正面の山門は判りずらい裏側にあり,
「説明板」は分かりやすい広い町道脇にあり道路東側に墓と本堂が見える。
(大野町中小学校南側の道を西へ900mほどの交差路を鋭角に南へ200mほど場所です。)

 

SOS鐘楼
一突きしたら倒壊、柱は接ぎ柱、屋根は重さを軽減するためかスレート瓦

「竹中重元の墓」と「加藤平内(六之井陣屋=加藤陣屋の主)の墓」

「町史跡」の竹中重元(秀吉の軍師竹中半兵衛の父)と
加藤平内(E-71六之井陣屋当主)の墓

 

86.大御堂城址
(おおみどう)

岐阜県揖斐郡大野町公郷  海抜 29m

北緯

35

度

26

分

56.

秒
東経

136

度

36

分

23.

秒

「月真禅寺」と「大御堂城址」の場所
「月真寺」も「大御堂城址」も説明のしにくい場所にあります。(何度も現地をぐるぐる回りました)
県道263号か県道264号で「町立揖東中学校」を見つけ、
「大御堂城跡」を探し、そして「月真寺」の説明板を目印にして辿れば簡単です。
(シルバーの散歩道)

竹中半兵衛生誕の地
垂井町明泉寺から発見された古文書「過現二世牒」により、
秀吉旗下の天才軍師 竹中半兵衛重治(しげはる)の生誕地が
ここ公卿(くごう)の大御堂城と判明したことから、竹中氏ゆかりの
八幡神社の脇に碑が建立されました。
大御堂城は、ここより北約300m、月真寺の西側一帯とされ、
昭和30年代までは城の遺構と伝えられる土塁が残されていました。
(大野町教育委員会発行「文化財おおの」から)

「竹中半兵衛の墓」
「竹中半兵衛の墓」は「中山道 垂井宿」の
不破郡垂井町岩手の禅幢寺(ぜんとうじ)を参照してください。
”ここをクリック”

八幡神社周囲一帯が「大御堂城址」でした

神社脇には石製の「大御堂城要図」と「竹中半兵衛重治公生誕之地」碑があります。

 大御堂城は、築城年代や築城者については定かでないが、戦国時代に竹中重元が居城した。
 永禄年間(1558〜1570)に重元は不破郡岩手城主岩手信久を追い、
居城を岩手城へ移し、以後大御堂城は廃城となった。 
尚、竹中重元の嫡男が半兵衛重治で、天文13年(1544)に大御堂城で生まれている。

「竹中半兵衛重治公の由緒」
竹中半兵衛重治公は、天文十三年九月(1544)大御堂城主竹中遠江守重元公の
長男としてこのちで誕生、幼少の頃より学問を好み、特に兵法を学ぶ。
永禄元年(1558)父に従い岩手氏(不破郡垂井村岩手)を襲い、岩手に移住し、斉藤龍興(たつおき)に仕える。
同七年二月六日に家臣十六人を率いて稲葉城を¥へ登城し、
城外の安藤守就軍と呼応して城を占拠す。
(この時信長は美濃の国を一部やるから稲葉城=岐阜城を譲ってくれと申し入れるが
「主君斉藤龍興の愚案性を諌めるために城を占拠しただけで、城を取ったわけでない」と断り
同年八月に龍興に返し、近江の浅井氏の食客となる。
翌年栗原山に蟄居中、木下藤吉郎の採算の説得応じ、藤吉郎の客将分で、信長公に仕えることになる。
元亀元年(1570)姉川の前哨戦長亭軒城(不破郡松尾にある松尾山城)説得降伏。
戦後の横山城(近江国坂田郡(滋賀県長浜市堀部町・石田町)にあった城)の守備。
翌年の小谷山城(滋賀県長浜市湖北町伊部)攻略。
天正三年長篠合戦、同五年から中国攻めで明石親景野帰順。
播磨三木城(兵庫県三木市)攻撃の兵糧攻め戦法等々。
秀吉公の軍師として活躍し、天下人へと育てた。
天正七年三木城攻撃中に病に倒れ、六月十三日平井山の陣中で没す。享年三十六歳
郷土の生んだ英傑として永く顕彰せんとこの碑を建てるものなり。
(美濃大野ライオンズクラブ)

この八幡神社は大日如来堂と共に出島に在ったと思われます。

この八幡神社境内は城の出島にありました。

 

86-1.間違われやすい若宮神社

岐阜県揖斐郡大野町公郷

八幡神社の最近開発された住宅地の反対側にあり、
本通りに面して、その上、「揖東中学校前」にあり目立ちやすい「若宮神社」です

 

86-2.鳥本家住宅

岐阜県揖斐郡大野町公郷  海抜 39m

北緯

35

度

27

分

02.

秒
東経

136

度

36

分

29.

秒

大屋根はトタン板でペンキ塗り、碑の裏には
「文化財を大切にしましょう」とありますが???

塀は内側へ傾き壁板は抜け落ち、屋根は波うち大変な状態です。

 

87.野村藩邸址

岐阜県揖斐郡大野町野   海抜 32m

北緯

35

度

28

分

49.

秒
東経

136

度

37

分

41.

秒

野村藩邸跡
明治2年から廃藩置県まで当地を治めた戸田淡路守の藩邸跡です。
周囲に土塁と堀がめぐらされていました。
今も一部は残されています。
(大野町教育委員会発行「文化財おおの」から)

 野村藩邸跡は八幡神社の裏
 「88-野村陣屋跡」は、大野町「野」の「八幡神社」の裏の住宅地の道路角に案内板と木碑があります。
 陣屋跡は、今は住宅地になっていて陣屋の遺構は何もなく「木碑」と「説明板」のみです。

大野町史跡「野村藩邸跡」

                   野村藩の歴史
 慶長5年、関ヶ原の戦功により、織田長孝がこの地に1万石を与えられ、陣屋を築いた。
 寛永八年(1631)、2代長則は嗣子なく没し、野村織田氏は断絶となった
 明暦元年(1655)、大垣城主戸田氏鉄の次男氏経が新田4,000石を分知され、旧領と合わせ6,200石を領した。 
 元禄元年(1688)、3代氏成が本家より新田の分知などもあり、禄高1万石を領し諸侯に列した。(大垣新田藩) 
 慶応四年(1868)、9代氏良の時本家より大野郡野村を与えられ、野村藩を称したが直ぐに廃藩置県となった。

大野町史跡 野村藩邸跡(昭和53年指定)
慶応四年(1651)大垣藩主戸田氏鉄(うじかね)が二男氏経(うじつね)に新田四千石を与えた。
しだいに加増して明治維新の後一万石の地を支配した。
明治二年(1869)野村藩と称したが同四年野村県となる。
美濃九藩の一つである。
面積は約4.2ha(堀を除く)、なお当時の門(大)は当時の内田角夫氏
門(小)は同後藤幾四郎方にある。

 

八幡神社の裏から
「野村藩邸跡」は大野郡「野」の八幡神社裏です。

87-1.八幡神社

岐阜県揖斐郡大野町野   海抜 32m

北緯

35

度

28

分

50.

秒
東経

136

度

37

分

41.

秒

八幡神社表参道沿いには
「88-2野村藩邸移築総門」(その奥には「88-3乾屋敷古墳」)
「89織田河内守邸跡」があります。 

八幡神社
この辺りの城址探しのランドマークになる神社です。
「87野村藩邸跡」はこの八幡神社の後ろ(北)にあります。
「87-2野村藩邸移築門」は八幡神社を南へ1本目の西角の家。
その奥に「87-3乾屋敷古墳」があります。
更に南へ2本目を西の奥に「88織田河内守邸跡」があります。
此の「八幡神社」へは国道303の「大野交番西」信号を北へ約1.5kmの三叉路を左側の道へ。

八幡神社の表参道にあたる道の西側には
1、「88-2野村藩邸総門」が移築された内田家(二本目の辻を西に曲がり、北側1軒目の家の門です)
2、「89織田河内守邸」は五本目の辻を西に曲がり約200m先の北側の畑に碑があります。     

87-2.野村藩邸総門

岐阜県揖斐郡大野町野   海抜 32m

北緯

35

度

28

分

50.

秒
東経

136

度

37

分

41.

秒

八幡神社前の道を南へ1本目の西です。

八幡神社から西側1本目を曲がると「野村藩邸総門」があります。

この辻の奥には古墳があり古墳の上に「乾家」が建っていて、古墳名は「乾山古墳」と呼ばれています。

87-3.野古墳群「乾屋敷古墳」

岐阜県揖斐郡大野町野   海抜 32m

辻の突き当りが古墳でその上に家が建っています。

八幡神社前の道の5本目を西へ曲がると「織田河内守邸跡」へ行けます。

88.織田河内守邸址

岐阜県揖斐郡大野町野    海抜 19m

北緯

35

度

28

分

42.

秒
東経

136

度

37

分

45.

秒

織田河内守邸跡
八幡神社正面の道を南へ西側4本目を西へ入り約200mの畑の中小さな囲いにあります。

地元では「織田河内守邸址」より「野村モミジ」の方が有名
葉が七度移り変わるという珍しいモミジ。
その風情ある趣は多くの文化人から愛され、誌歌に詠まれてきました。
(大野町教育委員会発行「文化財おおの」から)

八幡神社前の道の西側の辻五本目を西に曲がり民家の間を西へ進むと突然広い空間(畑)に出ます。
此処が「織田河内守邸跡」です。
その畑の中に木が一本(地元では有名な「野村紅葉」)と説明板が柵に囲まれて、
近くまで行けるようになっています。

「織田河内守邸跡」
関ケ原合戦の後、根治に封ぜられた大名 織田河内守長考(ながたか)の屋敷跡です。
長孝は織田信長の弟長益(有楽斎)野長男にあたり、一万石を領しましたが、2代長則に嗣子なく断絶しました。
当時の土塁と堀が8号古墳・9号古墳の西にかけて残されています。
(大野町教育委員会発行「文化財おおの」から)

地元の人には「野村紅葉」方が有名
地元の人に「織田河内守邸跡」と聞いても通じません!
「野村紅葉」の木ある所と言えばすぐ教えてくれます。

「織田河内守邸跡」の西側には「野古墳群」が広がります

88-1.「野」古墳群
と織田河内守邸跡

岐阜県揖斐郡大野町野 

「野」古墳群と織田河内守邸跡
下の航空写真のように織田河内守邸跡は古墳群の中にあるので行きにくい場所です。
先にあった住宅地図のとおり八幡神社から入ればすんなりと行き着けます。
織田河内守邸の土塁と堀が8号古墳・9号古墳の西(写真左)にかけて残されています。

「野」古墳群
野古墳群は、五世紀中頃から六世紀初頭にかけて築造された古墳群で、
前方後円、方墳など九基が現存し開墾などで失われた古墳八基とあわせ、
これまで十七基が確認されました。
わずか400m四方の範囲に、古墳が密集して造営された例はまれで、学術的価値が高いため、
国の史跡に指定されています。
(大野町教育委員会発行「文化財おおの」から)

「脰(うなじ)ヶ洞古墳」・「上磯古墳群」
大野町の古墳群はこの他にも「野」古墳群北の県道266を谷汲へ向かう「野村坂(峠)」の
途中にある「脰(うなじ)ヶ洞古墳」や大野町南部の小野町加納468の「上磯古墳群」があります。
(「大野町へようこそ」大野町役場・大野町観光協会発行のパンフレットより)

「上磯古墳群」

小野町上磯の南小学校北東角です。

 

88-2.牧村家住宅
(国重要文化財指定)

岐阜県揖斐郡大野町野 

 
 

赤穂浪士の討ち入りの前年の建築と伝えられ、
昭和56年の解体修理でそのころのものでることが確認されました。
鳥居建てとは、柱と横架材の軸組が神社の鳥居の形をしているもので、
愛知県西部から岐阜県美濃地方、滋賀県湖北地方に分布しています。
(大野町教育委員会発行「文化財おおの」から)

大野町重要文化財にはこの「門」・「甲冑」・タラヨウ」も指定されています。

国の重文に指定されてる割には屋根が破れるなど荒れています。
「牧村家住宅」
元禄十四年頃(江戸期)の美濃地方における農家の佇まいを
今に伝える牧村家住宅は、国の重要文化財。
現在では希少となった鳥居建形式の民家で、主要部分はほぼ創建時のままに残されています。
(「大野町へようこそ」大野町役場・大野町観光協会発行のパンフレットより)

次は「野古墳群」から西北の山の中腹に
「E-90牛洞陣屋」と目印になる「長年寺」があります。

山の中腹に「長念寺」が見えます。陣屋はその右側です。

陣屋は坂を少し上がった高台にあります。

89.牛洞陣屋址

岐阜県揖斐郡大野町牛洞26(長年寺横)
 海抜 44m

北緯

35

度

28

分

51.

秒
東経

136

度

36

分

00.

秒

牛洞陣屋址
大野町西小学校から県道256号を北進し800mくらいの地点で
西の山側に「長念寺」が見えてくるので256号を突当り西へ坂を登ると
北側に「牛洞陣屋址」がある。

「大野町文化財 牛洞陣屋址」碑

 
     牛洞陣屋は長念寺の入口に
 牛洞陣屋は、牛洞地区の西端にある長念寺に並んで築かれています。

江戸時代この地を治めた旗本 戸田相模守の陣屋址と武家屋敷の石垣が残されています。
(大野町教育委員会発行「文化財おおの」から)

  牛洞陣屋の歴史
 牛洞陣屋は、延宝5年(1677)頃に戸田氏胤によって築かれた。
 牛洞戸田氏は、大垣戸田氏の分家で当初4千石を領して、谷汲深根に陣屋を構えていたが
、氏胤の代に深坂戸田氏に500石を分地し、3,500石を領して陣屋を牛洞へと移した

陣屋建物はかなり前に一般の家に建て替えられたそうです。

「牛洞戸田陣屋高札場跡」は陣屋の前にあります。
江戸時代の高札場は宿場の入口など人通りの多い所に設けられていますが、
牛洞の場合は山の奥まった場所に立てられいたようです。

日出山長念寺

目印になる「日出山長念寺」は牛洞陣屋の横にあります。

立派な長念寺鐘楼門です

陣屋からの見晴らしは絶好の場所にあります。

この牛洞陣屋の門が明治以降に稲富地区に移設されています。

89-1.牛洞陣屋移設門

岐阜県揖斐郡大野町稲富578(井深邸)
 海抜 47m

北緯

35

度

29

分

19.

秒
東経

136

度

39

分

19.

秒

牛洞陣屋移築門
大野町稲富の「長寶寺」北の井深家にあります。

牛洞陣屋移築門
揖斐郡大野町稲富地区の県道78号「稲富出屋敷」信号から数百mの
西側に生垣に囲まれた立派な家があります。

移築された屋敷は広く、中に門が二つあり正門は左側にあり、
移築された陣屋門は画面右側に見えます。

左側の方が大きく立派です

手前(右側)の方が「大野町重要文化財 牛洞陣屋門」です。

この辺りは同じような立派な門を構えた家が多数あります。
間違いやすい家の門を掲載しておきますので参考にしてください。

立派なアプローチの奥にあり表札も奥まった場所にあるので
この家と勘違いしていました。

本物は数軒離れた家の門でした。

他にも石垣も立派で構えの大きな家が沢山あるのでびっくりします。


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