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シルバーの城郭城跡の散歩道「小牧・長久手合戦の主要城砦跡」

愛知県犬山市大字犬山
字北古券65−2

小牧・長久手の戦いは、織田信長亡き後、頭角をあらわしてきた徳川家康と羽柴秀吉は信長の
次男信雄(のぶかつ)が秀吉に篭絡(ろうらく)された三家老を切ったことから対立は表面化し合戦となりました。
この時、小牧城・犬山城はじめ周囲の城や砦が陣として徳川家康・豊臣秀吉の両軍に使われました。

小牧・長久手の合戦関連の犬山城周辺の砦城跡と桃太郎神社と伝説に関する史跡を紹介します。

犬山付近の城跡

犬山城・小牧城周辺の城館郭
犬山城、鵜沼城、木ノ下城、羽黒城、樂田城、内久保砦、岩崎山砦、
上末城、大草城、蟹清水砦、宇田津砦、小牧城、岩倉城、一宮城、黒田城

小牧・長久手の合戦当時の関連
主要武将居城館図

犬山城、羽黒城、小口城、小折城、小牧城、刈安賀城、清洲城、比良城、
前田城、蟹江城、星崎城、岩崎城、小幡城、竜泉寺城、上条城、

小牧周辺の両軍の布陣図

秀吉軍:犬山城、羽黒砦、楽田城、内久保砦、外久保砦
       田中砦、二重掘砦、岩崎山砦、青塚砦、小口砦
      小松寺山砦=11ヶ所

家康・信雄連合軍:小牧山城、蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦、
               田楽砦=5ヶ所

小牧・長久手の戦いと陣城(じんじろ)
織田信長亡き後、頭角をあらわしてきた徳川家康と羽柴秀吉は信長の次男信雄(のぶかつ)が
秀吉に篭絡(ろうらく)された三家老を切ったことから対立は表面化しました。

池田恒興(つねおき)

美濃大垣城主
父は摂津池田出身の恒利(つねとし)、恒利の妻は、信長の乳母(めのと)
であった。 その子が恒興(つねおき)で、通称勝三郎。
織田信長に仕え本能寺の以降は羽柴秀吉に付属し、1583年(天正11年)
に美濃大垣十三万石を与えられる。

一夜にして犬山城を奪取する
翌年、秀吉と織田信雄(のぶかつ)の争いでは双方から誘われるが、
秀吉方に属した。 信雄方には徳川家康が加わった。
恒興は軍議で留守中の犬山城を無傷で一夜にして取り、
秀吉を大阪から迎える。

長久手で家康軍に追いつかれる
しかし、戦線は膠着状態となり、恒興は、家康の本拠である三河に攻め込む
別働隊を志願するが、家康に感付かれ家康軍に追撃され、長久手の戦いが
開始されました。
恒興は、その子元助や森長可(ながよし=森蘭丸の兄)とともに戦死した。

家康軍は急ごしらえの陣城で対応
織田信雄(のぶかつ)に味方する家康は秀吉軍の侵攻が予想される尾張・伊勢を固めることとした。
急を要することなどで、全くのゼロから陣城を築く時間はなく、以前に城ないし砦として使われた
物に手を加え再利用することとなった。

小牧・長久手の戦いの拠点
家康軍の本陣は小牧山城、信雄は清洲城と先鋒の犬山城、岩倉城、そして幾つかの城址や砦跡
(蟹清水砦、宇田津砦、外北山砦、田楽砦)を築いて布陣する。
秀吉軍は大阪から侵攻し、家康が頼りにしていた犬山城を一夜にして、無傷で奪い拠点とし、羽黒城、楽田城、
内久保砦、岩崎山砦、上末城、などを陣として対峙しました。

両軍の陣城を以下に順次 紹介します。

小牧・長久手合戦時の両軍が布陣した城砦

秀吉軍

01 犬山城

秀吉軍の本拠
家康が頼りにしていた犬山城は一夜にして無傷で、秀吉側に
取られ初戦にして家康側は不利な体制となりました

当時の羽黒城は廃城となっていたので砦として急遽利用しました。

02 羽黒城跡

梶原景親

愛知県犬山市羽黒字城屋敷

始祖は梶原景時の孫
鎌倉幕府に、誅滅(ちゅうめつ)された梶原景時の孫、豊丸が
乳母の里である、この地に落ち延びてきたといわれています。
そして、景親と名を改め、羽黒城を築いたといわれています。
梶原氏の菩提寺、興禅寺に隣接していた平城です。
しかし、本能寺の変で梶原氏当主が討ち死にして絶え、
城は廃城とされました。

県道27号線羽黒交叉点
羽黒城跡は県道27号線の交叉点を東へ100m程入った場所にあります。
石碑も説明文もなし
交叉点を東へ進み「興禅寺」の手前を塀に沿って北へ曲がり、巨木ムクの木あたりの東一帯に竹薮が見えてきます。
竹薮周辺を一周しても説明文も石碑も何もありません
小牧・長久手合戦
1584年(天正12年)、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄(のぶかつ)連合軍の小牧対陣時、
秀吉方の武将森長可(ながよし)が、廃城跡に進出して布陣しました。
それを知った徳川家康は、酒井忠次らに羽柴攻撃を命じました。
両者は八幡林で激戦を展開しましたが、徳川方の猛攻をうけて、森軍は犬山城めざして敗走しました。
その後、羽柴秀吉が羽黒城跡を修築し、砦に改造。
山内一豊・堀尾吉晴らに守備させたが、合戦後に破却されました。

楽田城は現在楽田小学校となっています。

03 楽田城跡

織田久長

愛知県犬山市楽田

望楼の櫓は元祖「天守閣」
織田氏の一族、久長が1504年(永正1年)ごろに築城したと伝えられています。
砦には、望楼のような櫓が建てられ、それが天守の最初という説もありましたが、現在では否定されています。
その後織田氏が代々居城としました。

現在、楽田小学校の敷地の一角に、城碑が立っています。

小牧対陣の時には、羽柴秀吉麾下(きか)の武将 堀秀政が守備していました。
そして秀吉自身も、犬山城からこの城に一時移りました。

現在は名古屋経済大学の構内となっています。

04 内久保砦跡

羽柴秀吉

愛知県犬山市楽田内久保

1584年の小牧対陣の時、羽柴秀吉方の砦として築かれ東西九間(16m)、南北13間(23m)の規模と言われています。
そのときは、蜂屋頼隆・金森長近ら、3500の兵が守備したと伝えられています。 現在は内久保山西南麓にある三明神社周辺が砦の
位置と考えられますが、正確な位置は不明です。

名古屋経済大学の通学路脇の三明神社付近を捜しましたが、それらしき場所は見当たりませんでした。

 

05  外久保砦跡

羽柴秀吉

愛知県小牧市久保一色 熊野神社
久保山の西端に設けられた砦で、比高34mの丘の上に築かれた
東西二十三間(41m)、南北十六間の規模でした。
守将・兵力ともに不明です。
長久手の合戦後は、秀吉自らが本陣の楽田城からこの砦に出て
全軍を指揮したと伝えられ、太閤山と呼ばれています。
現在の熊野神社社地一帯が砦の位置と考えられます。
社殿前には砦跡を紹介する案内板、北西へ伸びる道の先には砦跡を
示す石碑が建てられています。

熊野神社裏の山頂には少し平らな場所があり、ここが砦跡と思われます。

田中砦跡は国道155号線沿いにあり、隣は三ツ山公民館になっています。

06 田中砦跡

羽柴秀吉

愛知県小牧市東田中 三ツ山古墳

秀吉方の砦で、堀長政、蒲生氏郷、加藤光泰などの将が
守備したとされますが、兵力は不明です。
砦の規模は東西十六間(28m)南北三十間(54m)といいます。
秀吉は岩崎山の南麓茶屋前より田中、二重堀の砦に至る、二十余町
(約2km)にわたる土塁をわずか1日で築いたとされ、これに対し、
家康も小牧山北麓より八幡塚に至る土塁を築いたといわれています。
砦を示すものとして、三ツ山会館(三ツ山古墳)前に
石碑が建てられています

両軍ともにわか作りの陣城で対決したため、少しでも高台の場所は古墳でも何でも利用したと思われます。

二重堀砦は民家の横にあり、大変分かりずらい場所にあります。

07  二重堀砦跡

羽柴 秀吉

愛知県小牧市二重堀

ここも住宅地となっています
1584年、小牧の対陣にさいして羽柴秀吉によって築かれた砦です。
東西100m、南北70m、土塁の高さ五尺(1.5m)の
平城で秀吉軍の最前線として、重視されていました。
小牧山の北側に設けられた砦のなかでは比較的大きなもので、二重に堀がめぐらされていました。
徳川方本陣に近い関係で、しばしば夜襲を受けたそうです。
砦は日根野弘就兄弟などに守らせたが、
天正十二年(1584)四月の家康軍の逆襲により、多数の死者を出しました。

分かり難い場所にあります
現在の所、とりあえず民間アパート「クレール(CLAIR)」を尋ねて、その北側の田圃の向うにあります。
車では入れません
車の方はアパートの前に置いて徒歩で入ってください。

「日根野備中守弘就砦跡」
現在はここも住宅地になってしまいましたが、水野氏宅西南隅に接する道路沿いのところに、
「日根野備中守弘就砦跡」と刻まれた碑文が置かれています。
これは同氏宅の裏にある竹薮の中にあったものを 移したものです。
砦の位置は耕地整理のため、当時の跡はとどめないが、二重堀の集落に北あたりにあったとされています。

 

08 岩崎山
   砦跡

羽柴秀吉

愛知県小牧市岩崎字独山

秀吉の砦
標高約55mの岩崎山山頂に所在しましたが規模は不明。
小牧の対陣で羽柴秀吉は、小牧山に本陣を置く徳川家康に対抗して、
岩崎山に砦を構えました。
この砦で、稲葉一鉄一族ら2500人が守備にあたっています。
また、岩崎山南麓から二重堀砦までの約2.2kmに、幅14m高さ4.5m
の土塁を築いています。
その間には、数か所の門を設け、徳川軍の来襲に備えたと言われております。

09 小松寺山砦跡

羽柴秀吉

愛知県小牧市小松寺 八所社

小松寺山砦には二つの砦、西砦は小松寺のあたり、
東砦は旧小松寺山一帯にあったとされ、その規模は、
西砦は東西八間(15m)南北十間(18m)、
東砦は十間四方であったとされています。
守将は丹羽長秀で八千余兵で陣をしたとされています。
小松寺山は、かって小牧山と肩を並べる高さがあったが、
昭和40年代の開発で整地され、現在は小松寺山団地となっています。
小松寺山砦を示す案内板と石柱は、小松寺本堂の東にある八所社・
熊野社合殿のところに建てられています。

   

 

 10  青塚砦跡

羽柴秀吉

愛知県犬山市楽田大円 青塚古墳

国史跡の前方後円墳
小牧・長久手の戦いのとき秀吉軍の陣地になりました。

 

   
   
   
   
   
   

 

 11  小口砦跡

羽柴秀吉

愛知県犬山市

 

家康軍

 

12  小牧山城

徳川軍

愛知県小牧市堀の内 小牧山

信長が城を築き、家康が本陣にした小牧山の山頂にあります。
ここにしかないタブノキは、小牧市の木に指定されています。
山頂には小牧城、手前の建物は小牧市役所です。

城内は考古・民俗・歴史資料が展示され、小牧・長久手の戦いのパノラマと映像解説もあります。
展望室からは、勝手の武将の目の高さに犬山・名古屋・遠く鈴鹿山系・伊吹山を望むことが出来ます。

小牧山は昭和五年、尾張徳川家十九代徳川義親氏から小牧市に寄贈されました。
江戸時代は尾張徳川家の直轄下で入山禁止で保護されていたので、遺構などの保存がよくのこされていました。

   

 

13 蟹清水砦跡

織田与四郎

愛知県小牧市小牧4丁目

現在は住宅地
この砦は、織田与四郎が築いて居城とした平城でしたが織田信長の小牧越しの際に、
信長配下の武将丹羽長秀が城主となっています。
その後廃城となっていましたが小牧の対陣時、織田・徳川連合軍が砦として
修復し、北外山砦、哥津(うたつ)砦とを結んで小牧山右翼の連砦を成して
秀吉方の陣地に対抗しのされ交番で守備しました。

砦の規模は東西四十六間(83m)、南北六十一間(110m)と伝えられています。
砦跡は小牧御殿跡の北にあり、1945年(昭和20)ころまでは堀跡、土塁跡などが
残っていましたが、その後の住宅開発により
駐車場などに変化し現在は駐車場の隅に石柱のみとなっています

砦は、江戸時代には小牧御殿の庭園の一角になっていて、清水が湧き蟹がいたことからその名が付けられたのでしょう

 

14 北外山砦跡

徳川軍

愛知県小牧市北外山字城島 小川氏宅

小牧・長久手の合戦時に、北外山の古城を修復して造られた連砦。
東西二十七間(50m)南北二十間(40m)、土塁の高さ一間余の
規模を有したとされています。
守将は蟹清水の砦と同将の交番であったそうです。
現在は宅地化が進み、「城島」という小字が砦の名残を留めている
のみです。
小川氏宅の庭の西隅に小さな塚が残されいるのみです。
その頂上に「北外山城址」碑が建てられています。

個人のお宅が城址です。
お願いして庭の隅にある碑を撮影させていただきました。

 

15 宇田津砦跡

徳川 家康

愛知県小牧市北外山 東海ゴム構内

哥津(うたつ)の森
1584年に徳川家康が築いた砦のひとつ。
総構200m四方のかなり大きな平山城であったそうです。
秀吉方の二重堀砦に近いため軍道を必要とし、家康は、
北外山・宇田津・田楽を結ぶ新道を敷設しました。
徳川方の武将が守備していました。

東海ゴム
この地は昔、宇田津という鞍作りの名工が居住していました。
古より「哥津(うたつ)」とも書き、近来は不発(ふたつ)とも書かれています。
東海ゴム株手前の県道25号線に架かる橋の名前は「不発橋(ふたつばし)」です。

哥津(うたつ)の森
現在はその遺構はなく、東海ゴム工場敷地内に「哥津(うたつ)の森」と呼ばれる小さな森が茂っています。
守衛さんにお願いすれば、気軽に案内してくれます。

 

16 田楽砦跡

徳川・信雄連合軍

愛知県春日井市田楽 

現在は住宅地の中
東軍の連砦の東端に位置する砦で、池田恒興の犬山城攻略により
城を落ち延びた犬山城の残党が田楽の伊多波刀神社に集まっていたものを、家康自らが出向いて長江平左衛門の屋敷に集め、砦を造り
守らせたのが田楽砦の始まりとされています。
昭和30年代までは、土塁の一部がL字型に残っていましたが、
その後の開発により消滅しました。

 

蚊帳の外

17 木ノ下城跡

織田広近

愛知県犬山市犬山字愛宕

犬山城の前身
尾張国守護斯波(しば)氏の家臣、織田広近が
1469年(文明1年)に築いて、以降約70年間、
代々織田氏が居城しました。
1537年(天文6年)織田信康(織田信長の叔父)が城主の時代
犬山城を築いて拠点を移したために廃城となった。 
現在、本丸跡は愛宕神社境内となっています。 
境内にある古井戸は「金明水」とよばれた名水で、
近くに残る「銀明水」とともに、木ノ下城内に掘られた
井戸と伝えられています。

城跡は愛宕神社
犬山市役所の県道27号線向かいの道を西へ入ったところに、愛宕神社があり、そこが城址です。

見つからない銀名水
西南100m程の場所にあるはずの銀名水は不明?

本殿高台が城の主殿跡

愛宕神社
慶長十一年(1606年)、鍛冶屋町の鍛冶屋兼常が、当時廃城となっていた、この場所に天台宗の愛宕山長泉寺延命院
を建立したい旨を時の犬山城主小笠原吉次に願い出て、将軍地蔵を祀ったのが始まりです。
その後
前原新田入鹿山白雲寺の良陳らが住僧となっていましたが、
明治初年の神仏分離政策により、寺は廃され神社として現在に至っています。

金名水・銀名水
境内にある金名水と神社西南約100mの大榎の下にある銀名水は城の井戸として掘られたものと言われています。
白巌水
境内にある手水石にある白厳は織田信康(織田信長の叔父)の号名です。

 

18 上末城跡

落合勝正

愛知県小牧市上末

上陶城とも書きます。
室町時代後期、落合勝正によって築かれた平城でした。
勝正の子安親(やすちか)は、織田氏に仕えています。
小牧対陣のとき、羽柴秀吉に属しました。
安親とその子庄九郎は、秀吉別働隊が三河に進攻
しようとしたさい、道案内をつとめています。
しかし、戦いに敗れ上末城も廃城となりました。

 

19 大草城跡

西尾道永

愛知県小牧市大草

文安年間(1444〜49)に、西尾道永が築城したとされています。
西尾氏は岩倉織田氏に仕え、付近一帯を領有していました。
しかし、道永死後、ほどなく廃城となりました。

織田長益像

織田信秀(信長の父)の十一男。
兄信長に仕え、一門衆として尾張大草城に封ぜられるが、
彼は武将としてよりも、茶人として名高い。
本能寺の変でも、多くの武将が倒れる中で、奇跡的に脱出し
その後は、織田家の後見職となっています。

   

 

20  岩倉城跡
織田 敏広

愛知県岩倉市下本町

織田信長に攻められて落城
1479年(文明11)織田一族伊勢守敏広が築き、
子孫が代々居城としてきました。
敏広は、尾張上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を
支配し、尾張下四郡(愛知・知多・海東・海西)を支配
する清洲城の織田敏定と対立していて当時の尾張では
清洲城と並んで最も重要な城でした。
1557年(弘治3)、岩倉城主が信安のとき、清洲城では
織田信長・信行が争っていました。
このとき信安は、信行に味方したため信長に攻められ
1559年(永禄2)浮野合戦で敗れ、翌二年三月遂に落城してしまいました。
現在は少し小高い本丸跡に安政七年(1860年)に建てられた
「織田伊勢守城址」の石碑が立っています。

当時の城は東西91m、南北約170m標高10mの台地の上にあり内外二重堀があったといわれ、
城跡の南側には現在も丸の内とか外堀という地名が残っています。

城址の向かい側にはトイレもあります。

 

21 一宮城跡

関十郎右衛門

愛知県一宮市本町3丁目

現在城址には銀行が建っています。
尾張の国の一の宮は、真清田神社です。
その神官、関十郎右衛門が築いた城。

十郎右衛門は織田信長に仕え、のちに豊臣秀吉に仕えています。
しかし、1584年長久手の合戦で池田恒興らとともに討ち死にして
しまい、しばらくは織田信雄の家臣不破広綱の居城となっていまし
たが、1590年(天正18)に廃城とされました。

三菱東京UFJ 一宮支店
(愛知県一宮市本町3ー11ー1)

UFJ銀行玄関脇に城址碑
当時の城域は東西50m、南北90mほどの規模であったといわれています。

 

22 黒田城跡

山内盛豊

愛知県葉栗郡木曽川町大字黒田

一国一城令で廃城に
室町時代末期、岩倉城主「織田信安」の家老である山内盛豊
の居城に始まる。以降、黒田城は織田領、そして信雄領
となり、長久手の合戦時には、家臣の沢井雄重の城となりました。
のち、羽柴秀吉時代に一柳直盛の居城となり、 関ヶ原合戦時は、
東軍の先鋒の城でもありました。
1615年(元和1)の一国一城令により、廃城とされました。

木曽川町黒田小学校のJR東海道線側の一角に城址公園として整備されています。

黒田小学校
現在、地元では、山内一豊生誕の城として喧伝され黒田小学校の一角に 「城址碑」が建っています。

 

23   鵜沼城跡

大沢氏

岐阜県各務原市鵜沼南町

犬山城の対岸にある岩山が鵜沼城跡です。
木曽川に突き出た要害で、永享(えいきょう)年間(1429〜41)に大沢氏が築き、
代々大沢氏が城主となりました。
永禄四年(1561)頃から、織田信長の美濃攻めが始まり、
諸城が次々と陥落していく中にあって鵜沼城だけは抵抗を続けました。
そして、木下藤吉郎の斡旋によって、ようやく開城しました。

鵜沼城址の対岸に犬山城が見えます

上流(桃太郎神社付近)から見た鵜沼城跡の岩山
近年まで頂上で旅館が経営されていましたが、事件があり旅館は取り壊され、
立ち入り禁止となっています。

 

24   猿啄(さるばみ)城跡
城主 多治見修理
岐阜県坂祝町勝山
現在は展望台
犬山にある桃太郎伝説で鬼退治の猿が、このあたりで鬼にかみついて戦ったと言う
昔話を後世の城主が城の名前にして伝えたと言い、今も城跡が残っています。
下流より見た猿啄城跡展望台
桃太郎神社から見た城跡
 

猿啄城物語

 応永十四年(140)の頃は西村豊前守善政(にしむらぶぜんのかみよしまさ)の城であった

 享保三年(1530)清和源氏土岐氏流で斎藤道三に仕えていた田原左衛門尉頼吉は大泉寺の正斎会に出かけていた西村善政を急襲して討ち城を乗っ取り猿啄城主となった

 天文十六年(1547)頼吉は大泉寺の慣例により正月四日新年斎会に出かけたが、今度は自分の家臣である土岐氏流の多治見修理に襲われ討ち死にした

 多治見修理は井ノ口に出任し、斎藤道三の情を受けて羽振りをきかせ義龍、龍輿に仕えた

 永禄八年(1565)八月信長は稲葉山城の外郭をなす東濃諸城を攻略しようとして美濃に侵攻した

 織田信長は鵜沼城攻略を木下藤吉郎に任せ猿啄城攻撃に向かった。猿啄城を守る多治見修理の軍勢は僅かで、攻撃する織田軍は丹羽長秀、河尻鎮吉を将とする二つの軍でその数は数千人であった

 織田軍は山勢急峻で難攻したが優勢を頼みに押しまくり、また東西の屋根づたいに城に接近し火矢を放ち落城させ、多治見修理は搦手より脱出し北の山を越え落ち延びた

 信長は幸先のよい戦勝を喜び以来この地を「勝山」と称することにした

 河尻鎮吉は一連の東濃作戦が終わると信長より猿啄城を与えられ周辺13ヶ村の領主となった

 天正三年(1575)岩村城へ移り、猿啄城は廃城となった

途中の道標 堀切跡

城址碑

現在は展望台がある

現在このこの城跡に猿啄城展望台があるが、これは1997年に坂祝誕生100周年を記念して造られたものである

この落城した際の悲劇が、姫ヶ渕や姥ヶ池などの伝説となっているそうであるが詳細は不明である

 

伊木山城跡

各務原市小伊木4丁目

北緯

35

22

53.3

東経

136

56

38.9

 伊木山城は、木曽川沿いにある独立丘陵で、現在は「いこいの森伊木の森」となっている伊木山山頂部に築かれた城です。 
 伊木山山頂部に主郭を置き、東西それぞれに2段の曲輪を置いた縄張りで、主郭部には現在はテレビの中継設備が設置されている。

 城の遺構は、曲輪だけで土塁や竪堀を注意深く探して見たが残っていないようです。 山頂部から西へ尾根筋を行くと熊野神社旧社殿跡を含めて2つのピークがあり、それぞれが出丸的な防御設備が配置されていたと考えられます。
 伊木山城は、築城年代や築城者については諸説があり、詳細については定かでないが、永禄年間には伊木忠次が居城していた。 
 永禄8年、織田信長に鵜沼城と伊木山城の攻略を命じられてた木下秀吉は、伊木山城主伊木忠次を調略して織田方に降らせた。 

 伊木忠次はその後池田輝政に仕え、天正18年に輝政の三河吉田(豊橋市の吉田城)への転封に従って移り、伊木山城は廃城となった。

 

25 金山城跡

岐阜県可児郡兼山町

「金山越え」
1537年(天文6)織田信康によって犬山城が築城されました。
そして城主もめまぐるしく替わって、1590年(天正18)には、石川備前守貞清が封ぜられました。
1600年(慶長5)、その貞清に美濃金山城(現在の岐阜県可児市兼山町)も与えられることになった。
金山城は犬山から、木曽川を焼く20kmほどさかのぼった場所にあり、犬山城が築城された同じころ
斎藤道三の養子である正義によって築かれてしろでした。
しかし、二つの城を持っていても大変なので、これをひとつにしようと考え、金山城の天守・櫓や門、城下の
侍屋敷に至るまで、解体し筏に組んで木曽川に流し、犬山で引き上げ再建することにしました。
これが「金山越え」といわれる事跡です。

その後金山城は大手門など土台石を残す城跡だけとなっています。

 

26  長久手古戦場

愛知県愛知郡長久手町

現在、愛知郡長久手町の古戦場跡(国史跡)は公園に
整備されています。
森長可が戦死した場所といわれている「武蔵(むさし)塚」
があり、合戦の史料をそろえた郷土資料館もあります。

「長久手古戦場」詳細は”ここ”をクリックして下さい

桃太郎神社

   

   

付近にある桃太郎伝説に関係ある地名

古屋敷 桃太郎を育てたおじいさん、おばあさんの家のあったところで桃太郎屋敷とも言われています。  
鬼ケ島 桃太郎神社から鬼門(北東)の方向へ8km山を越えた所の可児川の中にあり、この島に悪者が住み付き付近を荒らしまわっていました。  
乳母の懐 鬼が島近くの土田村から逃げてきた女達が乳飲み子を懐に抱いて隠れていた山の中の洞
犬山・猿洞・雉ケ柵 桃太郎のお供をしたイヌ・キジ・サルの住んでいた所で、自然を友として育った桃太郎はこう言うところに住む動物たちを可愛がっていたので鬼の征伐にも連れて行きました。  
敵隠れ 人を襲う鬼達が隠れていて、待ち伏せをしていた岩場。  
取 組 岩陰から突然現れた鬼と桃太郎が取り組み合いをして戦ったところで、後に取組村となった。
助の山 仕事をしていた村人達が、この様子を山の上から見付けて助太刀に駆けつけたというので、助の山と呼ぶ様になった。  
猿啄城址 このあたりで猿がかみついて戦ったと言う昔話を後世の城主が城の名前にして伝えたと言い、今も城跡が残っています。

勝 山 戦に勝った一行が勝どきを上げた山の懐が勝山となった。

(織田信長が猿啄城を攻めた時、余りにも急峻な山上にあり難攻不落だあったが、秀吉に攻めさせ、やっと攻略できたのを喜んでこの地を勝山と名づけたとも言われています)


今 渡 桃太郎たちが乗った船が、いま川を渡った!と見張りの鬼が仲間に知らせた所が、今渡村となりました。  
酒倉と坂祝 鬼を退治して無事帰ってきた桃太郎を迎えた村人達を坂(酒)倉を開いて、大喜び祝いました。その坂(酒)倉のあったところが坂倉村で祝宴を開いた所が坂祝村となった。
宝積寺 鬼が島から持ち帰った宝物をこの地に積み上げて置いたので人々が見物に来て桃太郎をたたえたと言われています。のちに大勝山宝積寺と言う寺も出来たので、ここは宝積寺村となった。
春 里 鬼が居なくなってから春のようなのどかな日々が続くので鬼ケ島近くに春里村が出来ました。  
桃 山 桃太郎がこの山へ姿を隠してから桃の形に見えるようになったといわれています。桃太郎神社から北へ0.5kmのところにあります。

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。

シルバーの城郭城跡の散歩道「小牧・長久手合戦の主要城砦跡」