シルバーの城郭城跡の散歩道「墨俣一夜城」

 

所在地安八郡墨俣町墨俣

遺 構土塁(一部)、堀
形 式平山砦
築城者:木下藤吉郎
築城年代:永禄九年(1566

永禄九年(1566)、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝えられる墨俣一夜城は、
藤吉郎が「天下人」となる出発点として全国にその名を知られております。


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州俣(墨俣=すのまた)一夜城址平成3年頃の画像)

今までは、史実については、太閤記や断片的資料で概要を知る程度でしたが、昭和52年(1977)に、
愛知県江南市の旧家より代々伝わる前野家古文書の中から、墨俣一夜城に関する貴重な資料が紹介され、
墨俣一夜城の全容が明らかになってまいりました。

平成3年以前の一夜城址
 一夜城は雨露がしのげる程度の小屋と見せかけの櫓や塀等で城とはいえない小さな砦でした。
 役目を終わった後は荒れるに任せた状態でした。

一夜城内神社
 城内には「白鬚神社」がお祭りしてありました。

                足軽頭から城主へ
 今川義元を桶狭間で破り、尾張を平定した織田信長は美濃の斉藤龍興(さいとうたつおき)を押さえて京への要所「美濃路の墨俣」に砦を築こうとしました。
 佐久間信盛、柴田勝家などの部将に命じましたが、いずれも築城に失敗したため、永禄九年五月の老臣会議で、末席にいた木下藤吉郎は、誰も引き受けないこの難工事を進んで引き受け、居並ぶ部将らを驚かせました。
                          4日間で完工
 直ちに準備にかかり、蜂須賀小六、前野将右衛門らの協力を得て、同年九月十二日から総勢2,140人で築城に着手しました。
 攻めてくる斉藤軍と戦いながら、夜を日についで工事を急がせ、同月15日に完成させ、織田信長を入城させました。
 この城を拠点にして、翌十年に斉藤龍興が守る稲葉山城を攻略師、長年の念願の美濃国を手中にしました
                     秀吉も偉いが、信長も立派
 この功績から藤吉郎は足軽頭から墨俣城を預かる部将にとりたてられ、太閤出世物語の出発点になったところで、一夜城とし夜に名を残した砦跡です。
    「州股城築城犠牲者の墓」
 一夜城築城に当たり城を造る傍ら、攻撃してくる斉藤軍と戦うため多くの戦死者が出ました。
その戦死者を葬った墓が城内に今もあります

藤吉郎の馬柵
永禄九年(1566)九月墨俣しろにおいて斉藤勢の騎馬を防ぐため、地上高さ一間、地中三尺。
松檜材を藤つるで二重に巻きて縛り、城の周囲を二重に、総延長千八百間(3,300m)めぐらせた」とあります。
(現地説明板より)

愛知県江南市の旧家より代々伝わる前野家古文書の中から、墨俣一夜城に関する貴重な資料が紹介され、
墨俣一夜城の全容が明らかになってまいりました。

昔の「墨俣宿」
(墨俣城パンフレットより)

「一夜城跡」碑文

「戦国の頃、尾張の織田信長は美濃進出の足場とするため州股に砦を築こうと企て佐久間信盛、柴田勝家等に築城を命じたが、相次ぎ失敗したので大いに怒った。 時に木下籐吉郎秀吉進んで これに当たる。永禄九年九月蜂須賀小六等野武士二,三千人を率いて大小の長屋十棟、櫓十棟、塀二千間、木柵五万本分、を人夫一千人を使い夜を日に次いで普請を急がせた。七日程度にて大方城も出来、一夜の内に塀櫓を押し立て塗り立て完成したように見せかけ田ので攻撃中の井之口の斉藤龍興の兵八千余騎は驚いて敗走した。信長はその功を賞し秀吉を城主とした。俗に一夜城と言う秀吉出世の由緒ある城である。」

石碑説明文

 

愛知県江南市の旧家より代々伝わる前野家古文書の中から、墨俣一夜城に関する貴重な資料が紹介され、
墨俣一夜城の全容が明らかになってまいりました。

 

       「ふるさと創生」の城
 竹下登首相(当時)が発案した公共事業で19881989年に全市町村一律に1億円を交付した金で歴史に全く登場しない城ができてしまいました。


平成三年頃の城跡と下の画像と比較してください。

犀川沿いの桜はきれいです。

城内もご案内します

春は花見の人波で遠くの駐車場までイッパイです。


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GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。