伏見城

ふたつの伏見城
天正十九年(1591)、秀吉は甥の秀次に関白の座を譲り、自らは太閤と号した。
文禄元年(1592)八月には伏見の「指月(しげつ)の丘」に城の建設を始め、翌年9月にこの城に移った。
是が「指月城」とも呼ばれる最初の伏見城である。
秀吉は文禄三年にこの城を大々的に拡張し、天下人の居城にふさわしい絢爛豪華なものに仕上げていく。
そして膠着状態に陥っていた朝鮮侵略戦争(文禄の役)の講和を結ぶため、中国明の使者をこの城に迎えることを計画していたのである、
ところが、天は秀吉に味方しなかった。
慶長元年(1596)閏七月十三日、伏見を震源地とする大地震が勃発する。
世に名高い慶長大地震である。
さしもの指月城も直下型の地震にあってはひとたまりもなく、荘厳な天主や大規模な御殿はまたくまに崩壊し、
秀吉自身も命からがらその廃墟から逃げ出したのである。
あやうく一命を取りとめた秀吉であったが、立ち直りの早い秀吉は、地震の翌日には指月の丘の東北のにそびえる「木幡山(こはたやま)」
という丘陵に登り、そこに新たな城を築く、木幡山城とも呼ばれるこの第二の伏見城こそが、秀吉の生涯を閉じた舞台なのである。
現在、指月城の跡地には公団住宅が立ち並んでおり、往時を偲ばせる痕跡は残っていない。
木幡山城の跡には近代に入って明冶天皇陵が築かれ、その遺跡には宮内庁の管理となって一般の立ち入りは厳しく制限されている。
この両城の遺跡に対して学術的調査の手を伸ばすことができれば、秀吉の時代に対するイメージはまた変わってくるかもしれない。
(中日新聞「歩いて楽しむ京都の歴史、同志社女子大教授・山田邦和)より