シルバーの城郭城跡の散歩道「尾張名古屋城」
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築城者 : 徳川家康 築城年代 : 慶長15年 所在地 : 名古屋市中区本丸1−1 |
金のシャチホコで有名な名古屋城は第2次世界大戦の空襲で焼失しましたが
その後、大勢の市民参加により再建されました
建設は約3年、工事役夫は延べ558万人
関が原の戦いでほぼ天下を取った家康でしたが、いまだ大阪城には豊臣秀吉の遺児秀頼が居ました。
そこで天下取りを磐石とするため、大阪方の防衛拠点とするためにこの地名古屋に
1609年(慶長14年)築城に着手。1612年(慶長17年)に城を完成させました。
正門
お土産ショップ
空襲で焼失したウイーン博にも出展された金鯱残骸で作られた金の茶釜
も展示されています。
TV画像から |
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以上の映像はTVで放映されたものから掲載しました。 |
名古屋城 |
六十一万石 尾張藩の居城 |
大天守には金の鯱がありません
正 門 |
かつての榎多門(えのきだもん)跡、明治になって旧江戸城の蓮池門を移し、
名古屋上公園の正門としたが戦災で焼失。
1959年に再建された高さ12m、2階建ての鉄筋コンクリート製
場内には矢橋式の日時計があります
かやの木 |
高さ十六メートル、幹周り八メートル築城以前から自生し樹齢六百年以上と言われています。 初代藩主徳川義直が大阪へ出陣のとき、この実を膳に盛り、 |
城内の展望階以外ははカメラ禁止ですので、パンフレットの画像で場内の模様を紹介
空襲を免れれた |
1615年(元和一年)に完成した本丸御殿も1945年の空襲で焼失したが一部の襖や板戸は疎開してあり無事でした。 |
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天守閣 |
大天守は5層(7階地下1階) |
7階の最上階だけは撮影が許可されています。 | |
大天守の各階は歴史ミュージアム さまざまな資料や復元模型が展示されています。 地階:金シャチの原寸模型、黄金水井戸模型 3階:「城下町のにぎわい」「城内での生活」 4・5階:「名古屋城の歴史」などが紹介されています。 |
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本丸御殿跡 |
復元計画 |
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焼失前の本丸御殿玄関 |
焼失前の上洛殿 |
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玄関 |
上洛殿 |
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上洛殿(御成書院) 上段之間 | |
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対面所 上段之間 | 表書院 上段之間 |
ニ之丸御殿と能舞台も空襲で焼失
尾張藩主の折り畳み茶室 |
藩主・徳川慶勝(よしかつ) |
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屏風形式3席 幕末に慶勝が造らせたという珍しい折り畳み式茶室「御席屏風」が、所蔵する 名古屋市西区那古野一の慶栄寺でこのほど組み立てられた。 土蔵に似せた和紙張りの屏風を開くと、吊り棚や床の間などの茶室専用のしつらえが散った意的にせり出し、飛ぶ出す絵本ならぬ飛び出す茶室だそうです。 |
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表二之門 |
江戸時代 重文 |
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西南隅櫓 |
江戸時代 重文 |
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清正の石曳き |
巨石の上に稚児をはべらせ、気勢を鼓舞する加藤清正。 |
藩訓秘伝の碑 |
この碑の位置は二之丸御殿跡である。 |
青松葉事件之遺跡 |
慶応四年(1868年)正月二十日、二之丸御殿向屋敷の庭前で尾張徳川家の三重臣が斬首され、 |
明治黎明期の悲劇 1868年(慶応四年)、鳥羽伏見の戦い直後、在京中の尾張藩主徳川慶勝のもとへ 監察の吉田知行が名古屋城代間宮外記からの密書を持参しました。 これにより、慶勝派急遽尾張へ戻り、佐幕派の重臣など14人を斬首した。 |
東 門 |
那古野城跡 |
二之丸庭園の南端にあります。 |
二之丸南庭 |
二之丸庭園は那古野城古碑の北側にあります。 |
幼年時代の織田信長がすごした 近代名古屋城は戦国期の那古野城がベースになっています。 そしてその那古野城は、信長の父信秀の城となる前、今川氏の城でまありました。 |
埋御門跡 |
築城伝説には抜け穴がつき物で、江戸城には七つもの抜け穴がありました。 |
警護の土居下同心の俸給は7石二人扶持 城主が乗る籠も用意され脱出の警護に当たったそうで、その存在は隠されていました。 明治2年の大政奉還のおり一人の同心屋敷から忍びの駕籠が徳川家に返納されましたが、 なぜそんな駕籠が下級武士の屋敷にあったのか、既に知る人も居なかったそうです。 |
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堀の下をくぐって土居下(どいした=お庭番)同心屋敷へ 現在は埋められていますが長方形の枠組(赤い矢印)の内側が通路となっていて、 ここから堀の下に下りることが出来たそうです。 |
南蛮たたき鉄砲狭間 |
南蛮たたき(石灰・赤土・種油を練合せて、たたき あげる工法)で固められた堅固な練塀が、二の丸 北端の石垣の上に残っています。 円形の鉄砲狭間も開いています。 |
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西北隅櫓 |
建立 江戸時代 重要文化財 |
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清洲城の古材が用いられているといわれています。 |
石垣の刻紋 |
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トラブル避け |
旧二之丸東二之門 |
建立 江戸時代 重要文化財 |
愛知県体育館建設で邪魔になり移築 この門は、東鉄門といわれ、元は二の丸の東二の丸(外門)として建っていたが、 二の丸に愛知体育館を建設するにあたり解体移築された。 形式は高麗門で本瓦葺き、軒回りは、漆喰塗り篭めで柱・冠木・扉などは帯鉄を打ち付けています。 |
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城門には5種類の金物を取り付けて敵から城を守っています。 |
清正石 |
伝説清正石 東ニ之門をくぐると目の前におおきな石組みが目に入ります。 「清正石」といわれ、築城に当たって本丸を受け持った加籐清正が運んだ石伝えられています。 表面から見た大きさは縦2m余り、横6mほど、奥行きが不明なので重量は不明である。 |
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東一之門跡 |
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大天守と小天守を各天守の地階を「剣堀」橋台で結んだ連結式天守形式です。 |
休日には大道芸の披露もあります。
東南隅櫓 |
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建立 江戸時代 重要文化財 「辰巳(たつみ)櫓」ともいわれ、外観は2層、内部は3層。 入母屋造り、本瓦葺きで、2階に「石落とし」があります。 鬼瓦は築城当時のものといわれ「葵紋」があります。 |
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玄関・車寄・大廊下 |
表一之門跡 |
表一之門跡 本丸追手(大手)枡形(四方を塀や門でマスのように囲い万一敵に攻め込まれても 四方から攻撃できるような形の防御形式)の主門である。 |
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大手馬出跡 |
大手馬出跡 大手馬出と西之丸との間の堀の跡の事で今は土手の橋となっている。 |
明治の廃城令にもその威容を残した名古屋城でしたが
第2次世界大戦の空襲で大天守・小天守・本丸御殿など多くの
貴重な建物を失いました。
現在は堀を含めおよそ24万uが市民の憩いの場として賑わっています
名古屋城三之丸から 名古屋市中区丸の内 東照宮 |
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重臣奉納29基ひっそりと 東照宮境内にある春日灯篭と呼ばれる29基の灯篭は明治の初め、名古屋城 から移築され、その後戦災にも遭い現在ひっそりとたたずんでいます。 この灯篭の多くは「元和五己未年 奉上 東照大権現 御宝前 四月十七日」などと 刻まれています。 現在の東照宮は徳川家康の没後三年、その霊を祀るため名古屋城三之丸に創建され、その時尾張藩の重臣たちが奉納した一群と見られる 彫の銘之竹腰は、付家老を務めた竹腰家(三万石)の初代(正信)で重臣ナンバー2。 筆頭の成瀬家(三万五千石、犬山城主)嫡男「成瀬半左衛門」の銘もある。 これらの灯篭群の一部は傾き危険な状態である (中日新聞より) |
城の用語コラム(櫓の種類)
月見櫓(はなみやぐら): 元来城郭とは、戦闘が目的の構築物である。 しかし大阪の陣が終わり、平 和な時代に入ると、城は戦闘面よりも美観を重んじるように変化した。 そこで風流を目的とする 曲輪(くるわ)や建物も出てくるようになった。 |
GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。
シルバーの城郭城跡の散歩道「尾張名古屋城」