×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

シルバーの城郭城跡の散歩道「尾張名古屋城」

築城者 : 徳川家康          

築城年代 : 慶長15年        

所在地 名古屋市中区本丸1−1

金のシャチホコで有名な名古屋城は第2次世界大戦の空襲で焼失しましたが
その後、大勢の市民参加により再建されました

建設は約3年、工事役夫は延べ558万人
関が原の戦いでほぼ天下を取った家康でしたが、いまだ大阪城には豊臣秀吉の遺児秀頼が居ました。
そこで天下取りを磐石とするため、大阪方の防衛拠点とするためにこの地名古屋に
1609年(慶長14年)築城に着手。1612年(慶長17年)に城を完成させました。

正門

お土産ショップ

空襲で焼失したウイーン博にも出展された金鯱残骸で作られた金の茶釜
も展示されています。

TV画像から
最近TV放送された画像の中から金のシャチホコを紹介しましょう

平成17年3月名古屋城博のために金シャチが降ろされる。
金シャチドームへパレードで迎えられる。
市民による金シャチ磨きで長年の垢を落とす。
名古屋城博開幕
金シャチに触ろう!

毎日大勢の人が金シャチに触って大満足!

閉幕後 金シャチの再点検

専門職によって細部まで清掃と点検が行われました
再び天守閣の上に燦然と輝くことでしょう
戦後の金シャチ物語
尾張藩のへそくり
慶長大判1,940枚で造られた金シャチは
藩に万一のことがあった場合鋳つぶして財政を
助けるための財産でした。
金シャチ疎開準備
大東亜戦争の戦雲迫るなか金シャチを
疎開させようと名古屋城に足場を組んで
降ろすばかりになっていました。

しかし、その夜 米空軍B29の大編隊が飛来し
雨のごとく焼夷弾を投下

江戸末期の混乱の時期も無事くぐった
名古屋城はたちまち炎上

名古屋城は石垣だけが残った! しかし市民の募金により名古屋城再建
大阪造幣局で造られた金シャチの据付
名古屋城再建を祝い
名古屋城の焼け跡から回収された金シャチの残骸から金の茶釜を作り後世に残すこととなった
金シャチの茶釜で市民にお茶が振舞われました。
7月9日金シャチが天守に戻る
まず雌シャチが吊あげられました 続いて雄シャチが上げられました
大勢の市民も見守りました
無事天守に上がりました 据付はこれからです
滋賀県長浜城金シャチ復元の話題
城跡から発掘されたシャチの瓦片を復元したところ秀吉時代の金シャチと判明
この金シャチが名古屋城の金シャチのルーツだとか

以上の映像はTVで放映されたものから掲載しました。

 

名古屋城

六十一万石 尾張藩の居城
名古屋大地の上に築かれた平城で、江戸城・大阪城と
並ぶ日本三大名城の一つです。

大天守には金の鯱がありません

 

正 門

かつての榎多門(えのきだもん)跡、明治になって旧江戸城の蓮池門を移し、
名古屋上公園の正門としたが戦災で焼失。
1959年に再建された高さ12m、2階建ての鉄筋コンクリート製

場内には矢橋式の日時計があります

 

かやの木

高さ十六メートル、幹周り八メートル築城以前から自生し樹齢六百年以上と言われています。
名古屋市内で唯一国指定「天然記念物」です。
空襲により被災しましたが、幸いにして樹勢を取り戻しました。

初代藩主徳川義直が大阪へ出陣のとき、この実を膳に盛り、
のち正月の祝膳にも盛ったと言われています。

城内の展望階以外ははカメラ禁止ですので、パンフレットの画像で場内の模様を紹介

 

空襲を免れれた
御殿の障・壁画

1615年(元和一年)に完成した本丸御殿も1945年の空襲で焼失したが一部の襖や板戸は疎開してあり無事でした。

 

 

天守閣

大天守は5層(7階地下1階)
戦災で焼失したあと、1959年に豪壮な破風(はふ)をもつ外観を復元して、鉄筋・鉄骨コンクリートで再建されました。

7階の最上階だけは撮影が許可されています。
大天守の各階は歴史ミュージアム
さまざまな資料や復元模型が展示されています。
地階:金シャチの原寸模型、黄金水井戸模型
3階:「城下町のにぎわい」「城内での生活」
4・5階:「名古屋城の歴史」などが紹介されています。

 

本丸御殿跡

復元計画
現在、名古屋市を中心に、本丸御殿の復元計画が2010年(平成22年)を目途に進められ、募金活動が行われています。

   

焼失前の本丸御殿玄関

焼失前の上洛殿

 

玄関

上洛殿

上洛殿(御成書院)  上段之間
対面所 上段之間 表書院 上段之間

ニ之丸御殿と能舞台も空襲で焼失

 

尾張藩主の折り畳み茶室

藩主・徳川慶勝(よしかつ)
幕末の藩主・慶勝はハイカラ趣味で、外国の科学技術に深い関心を示し、
長崎に輸入された写真撮影法を研究し各所を写真に収め現在も貴重な資料として残している。開国を巡り大老・井伊直弼(なおすけ)と対立し幽閉されたが、井伊大老之暗殺により2年余の幽閉が解けた。

屏風形式3席 
幕末に慶勝が造らせたという珍しい折り畳み式茶室「御席屏風」が、所蔵する
名古屋市西区那古野一の慶栄寺でこのほど組み立てられた。          
土蔵に似せた和紙張りの屏風を開くと、吊り棚や床の間などの茶室専用のしつらえが散った意的にせり出し、飛ぶ出す絵本ならぬ飛び出す茶室だそうです。

 

表二之門

江戸時代 重文
本丸入り口にある門で、本丸大手枡形(ますがた)の外門にあたります。
構造は高麗門(こうらいもん)で、門柱・扉ともに総鉄張り。
袖塀は土塁で、鉄砲狭間を開いています。

   
   

 

   

 

西南隅櫓

江戸時代 重文
「未申(ひつじさる)櫓」ともいう。2層3階で、
初層は入母屋破風(いりもやはふ)と唐破風を
重ねた重(かさね)破風。
1891年(明治24年)の濃尾大地震で崩壊したが1923年(大正12年)に復旧しました。

 

清正の石曳き

巨石の上に稚児をはべらせ、気勢を鼓舞する加藤清正。
清正は、徳川家康に天守の石垣を独力で築くことを請い、
3ケ月たらずで完成させたそうです。

 

藩訓秘伝の碑

この碑の位置は二之丸御殿跡である。
この碑文は、初代藩主・徳川義直の直撰「軍書合鑑」の中に
ある一項の題目で、勤王の精神について述べている。
歴代の藩主はこれを藩訓として、相伝し明治維新に
あたっては親藩であったのに勤王帰一を表明したと
言われています。

 

 

青松葉事件之遺跡

慶応四年(1868年)正月二十日、二之丸御殿向屋敷の庭前で尾張徳川家の三重臣が斬首され、
いわゆる青松葉事件が始まった。
昭和の初めに、「青松葉事件之遺碑」がここから南へ
約百メートルの処刑地跡に建立されたが、その後所在
不明となったので、ここに復元されました。

明治黎明期の悲劇
1868年(慶応四年)、鳥羽伏見の戦い直後、在京中の尾張藩主徳川慶勝のもとへ
監察の吉田知行が名古屋城代間宮外記からの密書を持参しました。
これにより、慶勝派急遽尾張へ戻り、佐幕派の重臣など14人を斬首した。

 

 

東  門

 

那古野城跡

二之丸庭園の南端にあります。
古碑には「那古」の二文字しか読めません

 

 

二之丸南庭

二之丸庭園は那古野城古碑の北側にあります。
那古野城は織田信長が幼少期に過ごしたとされてます。

幼年時代の織田信長がすごした
近代名古屋城は戦国期の那古野城がベースになっています。
そしてその那古野城は、信長の父信秀の城となる前、今川氏の城でまありました。

埋御門跡

築城伝説には抜け穴がつき物で、江戸城には七つもの抜け穴がありました。
この名古屋城にも城主の脱出路が存在しました。

警護の土居下同心の俸給は7石二人扶持
城主が乗る籠も用意され脱出の警護に当たったそうで、その存在は隠されていました。
明治2年の大政奉還のおり一人の同心屋敷から忍びの駕籠が徳川家に返納されましたが、
なぜそんな駕籠が下級武士の屋敷にあったのか、既に知る人も居なかったそうです。
堀の下をくぐって土居下(どいした=お庭番)同心屋敷へ
現在は埋められていますが長方形の枠組(赤い矢印)の内側が通路となっていて、
ここから堀の下に下りることが出来たそうです。

 

南蛮たたき鉄砲狭間

南蛮たたき(石灰・赤土・種油を練合せて、たたき
あげる工法)で固められた堅固な練塀が、二の丸
北端の石垣の上に残っています。
円形の鉄砲狭間も開いています。

 

西北隅櫓

建立 江戸時代 重要文化財
御深井丸(おふけまる)の西北隅に建ち、
「戌亥(いぬい)櫓」「清洲櫓」ともいわれています。
3層3階、入母屋(いりもや)造り。

清洲城の古材が用いられているといわれています。

 

 

石垣の刻紋

トラブル避け
本丸跡などの石垣に、さまざまな刻紋がみられます。
木槌・扇・卍・つなぎ団子・軍配・輪違い・鳥居などです。
調査によれば、その種類は約500種類あり工事を分担した大名と家臣の印で、他大名とのトラブル
を避けるための知恵でした。

 

旧二之丸東二之門

建立 江戸時代 重要文化財
「東鉄門」とも言われ高麗門形式で、軒周りは漆喰塗篭
めです。もとは二の丸の東二之門(外門)として枡形を形成していたが、1963年(昭和36年)に解体され1973年に現在地の本丸東二之門跡に移築されました。

愛知県体育館建設で邪魔になり移築
この門は、東鉄門といわれ、元は二の丸の東二の丸(外門)として建っていたが、
二の丸に愛知体育館を建設するにあたり解体移築された。
形式は高麗門で本瓦葺き、軒回りは、漆喰塗り篭めで柱・冠木・扉などは帯鉄を打ち付けています。

城門には5種類の金物を取り付けて敵から城を守っています。

清正石

伝説清正石
東ニ之門をくぐると目の前におおきな石組みが目に入ります。
「清正石」といわれ、築城に当たって本丸を受け持った加籐清正が運んだ石伝えられています。
表面から見た大きさは縦2m余り、横6mほど、奥行きが不明なので重量は不明である。

 

東一之門跡

大天守と小天守を各天守の地階を「剣堀」橋台で結んだ連結式天守形式です。

 

休日には大道芸の披露もあります。

 

 

東南隅櫓

建立 江戸時代 重要文化財
「辰巳(たつみ)櫓」ともいわれ、外観は2層、内部は3層。
入母屋造り、本瓦葺きで、2階に「石落とし」があります。
鬼瓦は築城当時のものといわれ「葵紋」があります。

 

玄関・車寄・大廊下

 

表一之門跡

表一之門跡
本丸追手(大手)枡形(四方を塀や門でマスのように囲い万一敵に攻め込まれても
四方から攻撃できるような形の防御形式)の主門である。

大手馬出跡

大手馬出跡
大手馬出と西之丸との間の堀の跡の事で今は土手の橋となっている。

明治の廃城令にもその威容を残した名古屋城でしたが
第2次世界大戦の空襲で大天守・小天守・本丸御殿など多くの
貴重な建物を失いました。
現在は堀を含めおよそ24万uが市民の憩いの場として賑わっています

名古屋城三之丸から
移築された不遇の灯篭

名古屋市中区丸の内 東照宮

重臣奉納29基ひっそりと 
東照宮境内にある春日灯篭と呼ばれる29基の灯篭は明治の初め、名古屋城
から移築され、その後戦災にも遭い現在ひっそりとたたずんでいます。      
この灯篭の多くは「元和五己未年 奉上 東照大権現 御宝前 四月十七日」などと
刻まれています。 現在の東照宮は徳川家康の没後三年、その霊を祀るため名古屋城三之丸に創建され、その時尾張藩の重臣たちが奉納した一群と見られる
 彫の銘之竹腰は、付家老を務めた竹腰家(三万石)の初代(正信)で重臣ナンバー2。 筆頭の成瀬家(三万五千石、犬山城主)嫡男「成瀬半左衛門」の銘もある。 これらの灯篭群の一部は傾き危険な状態である
(中日新聞より)

 

        城の用語コラム(櫓の種類)

月見櫓(はなみやぐら): 元来城郭とは、戦闘が目的の構築物である。 しかし大阪の陣が終わり、平     和な時代に入ると、城は戦闘面よりも美観を重んじるように変化した。 そこで風流を目的とする     曲輪(くるわ)や建物も出てくるようになった。
      月見櫓は、その名の通り、月見の宴に利用するものである。 松本城・岡山城に現存し、福山城     に復元されている。
      岡山城の月見櫓は形状が面白い。 二重2階、地下1階だが、城外から見ると二重櫓で、武者     窓が付き厳しい。 しかし、城内からは望楼式の三重で優雅な姿に見える。
富士見櫓(ふじみやぐら): 関東地方の城に多い。 城内で一番よく富士山が見える位置にある櫓のこ     と。 江戸城の富士見櫓は特に有名である。 川崎城の富士見櫓は三重で、天主の役目をなし     ていた。
涼み櫓(すずみやぐら): その名のとおり、風通しのよい櫓のことである。 通常、望楼式になっている。
伏見櫓(ふしみやぐら): 豊臣秀吉が築城した旧伏見城を解体したとき、多くの建物が全国の城や寺社     に移築されたものをとくに伏見櫓という。
      淀城に、幕末まで、また第2次大戦までは大阪城にもあった。 福山城には現存し、江戸城にも     あるが、のちに建てかえられており、伏見城当時のものでない。 戦災で焼失した大坂城の伏見     櫓は、三重の堂々たるもので、一般の大名の天主にも匹敵する姿だったという。
八方正面櫓(はっぽうしょうめんやぐら): 江戸城本丸富士見櫓のこと。 太田道灌が城主の時代に造     られ、名づけられた。 裏表のない櫓で、どこから見ても正面のようにみえる。 独立した天主のよ     うなものである。 
      
形や位置もよく、天主として見栄えがした。 明暦の大火(1657年)で天主が焼失してから     は、江戸城では富士見櫓を天主のようにみなしていた。
千貫櫓(せんがんやぐら): 大坂城にある櫓。 大坂城築城前の石山本願寺時代、横矢のきく櫓がこの     付近にあった。 織田信長が本願寺を攻めたとき、ここからの攻撃を受けて、被害が甚大だった     ので、「もしあの櫓が買えるなら、千貫出してもよい」といったことから名付けられたという。
化粧櫓(けしょうやぐら): 姫路城にある。 千姫が移ってきたときに設けられた曲輪(くるわ)の櫓。 彼     女の輿入れには10万石の化粧料がついていたので、それで櫓が造られた。
                    (「週刊 名城を行く」から)

 

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。

シルバーの城郭城跡の散歩道「尾張名古屋城」