大垣城址周辺の城跡「美濃の平将門伝説の地」


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 美濃における平将門伝説の地

今から約千年前 平将門は時の朝廷の政策に憤りを覚え乱(天慶の乱)を起こしました。
 しかし藤原秀郷 平貞盛等に鎮められ将門は 捕えられ首を討たれたその首は京都に送られさらし首となったが
 故郷恋しさのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろうと飛び立ちました。
 この異変を知り 美濃の国「南宮神社」では 将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ
 神社に座す「隼人神」が矢をつがへ東に飛びゆく将門の首を射落としました。

 その時 「隼人神」の射た「神矢」が飛んでいった道筋を矢の通った道であるとして 現在の「大垣市矢道町」がある。
 この首が落ちた「荒尾の地」に将門公を神として崇め祀ることによって 
再びその首が関東に戻らぬようその怒りを鎮め霊を慰めるために創建されたのが「御首神社」であると伝えられています。

御首神社の説明板から

平将門(たいらのまさかど)伝説のある地

1.「御首神社」(大垣市荒尾)      
2.「矢劔神社」(大垣市矢道町二丁目)
3.「南宮神社」(不破郡垂井町宮代)  
の位置関係図

1.「御首神社」(大垣市荒尾) : 将門の首が落ちた場所。           
2.「矢劔神社」(大垣市矢道町二丁目) : 将門の首を落とした矢が飛んだ跡
3.「南宮神社」(不破郡垂井町宮代) : 将門の首を射た矢を放った場所。  

この赤坂宿から南の大垣市荒尾地区に平将門の首を祭った御首(みくび)神社があります。

御首(みくび)神社

大垣市荒尾  海抜  13m

北緯

35

度

22

分

10.

秒
東経

136

度

35

分

07.

秒

御神徳
当御首神社は、平将門公の御首を祀り霊を慰めるため創建された神社です。
それ故、古くから首より上の諸祈願に霊験あらたかであると伝えられ、
近年においては首上病気平慈・学業進学成就を中心に、
家内安全・商売繁盛・交通安全・厄払い・安産等が願われています。
(現地説明板)

御首神社
国道21号から県道231号へ入り「荒尾町北瀬古」信号の1本手前を南進し
「JR東海道線美濃赤坂線」を渡ると「御首神社」へ出ます。

以前は寂れた神社でしたが、誰言うとなく「進学の神様」となり社殿も立派になり参拝者が絶えません

矢劔神社へは「御首神社」から2kmほど西進すると「矢劔(やるるぎ)神社」へ出ます。

矢劔神社

大垣市矢道町二丁目  海抜  23m

北緯

35

度

22

分

13.

秒
東経

136

度

33

分

48.

秒

平将門の首級を射落とした矢の通った道の地名の由来
創建は明らかでないが、既に千年前「正三位矢剣大明神」と美濃国神明帳に見え例年国司奉幣の御神徳高い古社である。
古伝に由れば遠く天応年間の平将門(たいらのまさかど)の乱に、その首級怨霊となって虚空を京に西上せんとするのを
南宮大神が神矢を放ってこれを御首社に射落とされ、この時通る矢に矢剣大明神と更に神威を憑(よ)せられた故(ゆえん)
を以って以来この地を矢道と呼ばれるに到ったと伝えられる。
(現地説明板より)

「矢劔神社」
「御首神社」から「矢劔神社」へは矢劔神社の西から約2kmほど西進すると
道路沿いにあります。

「長束古墳」
上図「矢劔神社」の西にある「長束古墳」の詳細は「美濃中山道ー後編」の
「赤坂宿-2」を参照して下さい。

近くに伝説を証明する地名の
バス停もあります。

南宮神社摂社 矢劔神社から神社」から県道228号へ出て、
南進し「国道21号(「綾戸」信号)を西進して、約2kmの「御所野」信号を南折、
約800mに「南宮神社」があります。

矢劔神社から南宮大社
大垣市矢劔町2丁目の「矢劔神社」から不破郡垂井町の「南宮大社」へは、
「大垣稲葉郵便局」から県道228号へ出て南進し、
国道21号「綾戸」信号を西折し2km程進み「御所野」信号を南折、
800mほどで「南宮大社へ出ます。

 

南宮神社

垂井町宮代堅瀬古(みやしろかたせこ)

海抜  51m

北緯

35

度

21

分

28.

秒
東経

136

度

31

分

46.

秒

南宮大社御由緒
御祭神  金山彦大神
御鎮座は古く人皇十代祟神天皇の御代と伝えられ
国府
(美濃中山道・垂井宿参照)から南方に当たる故 南宮大社と称せられている。
広く金之總本宮として崇敬厚い名社である。
御社殿は関ケ原合戦の兵火に遭いて炎上の為 徳川家光公 旧に復して再建され、
明治維新の神仏分離令に依り堂塔は他に移築され今日に至る。
本殿以下十八棟が国の重要文化財の建築である。
(現地説明板より)

かなものの神様、このため絵馬には斧、鎌、鍬などや鉱石が奉納されています。
(数年前までは下の棚にも奉納された鉱石などが展示されていました。)

 

全国にある将門の首塚伝説と遺跡

平将門とは

平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。

 平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。
 桓武天皇5世。
 下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙  を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによっ  て、遂には朝敵となる。

 しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。
 死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。
 武士の発生を示すとの評価もある。
 合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせ たとも言われる。
                        (フリー百科事典 ウィッキペディア より)

 

承久の乱とは

 この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。

 また、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた藤原玄明が庇護を求めると、将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。

 そのうえ天慶2年11月21日(939年)、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。
 常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。

 国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。

 結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。

 将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年12月11日に下野に出兵、事前にこれを察知した守 藤原弘雅・大中臣完行らは将門に拝礼して鍵と印綬を差し出したが、将門は彼らを国外に放逐した。

 続いて同月15日には上野に出兵、迎撃に出た介藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収してこれまた国外に放逐、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を自称するようになり、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。

 即位については舎弟平将平や小姓伊和員経らに反対されたが、将門はこれを退けた。

                         (フリー百科事典 ウィッキペディア より)

美濃の平将門の首塚伝説の他に4カ所の首塚があるそうです。

京都 神田明神 首の伝説

「京都 神田明神」京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、民家に埋もれる様にして小さな祠がある。
「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と由緒書きにはある。

「太平記」に、さらしものになった将門の首級(しるし、しゅきゅう)の話が書かれている。
将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。
ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかった。
しかし、ある時、歌人の藤六左近がそれを見て『将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて』
と歌を詠むと、将門はからからと笑い、たちまち朽ち果てたという。

また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。
この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。
最も著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚である。
この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。

(フリー百科事典 ウィッキペディア より)

 


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