シルバーの城郭城跡の散歩道「川越城址と城下町並み」
築城者:
太田道真・道灌
築城年代:
長禄元年(1457)
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所在地
: 埼玉県川越市
郭町二丁目
形 式
: 平 山 城
通 称:初雁城、霧隠城
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川越城(かわごえじょう)は、埼玉県川越市にある城跡で江戸時代には川越藩の藩庁が置かれました。
別名を初雁城、霧隠城ともいわれ関東七名城や日本100名城にも数えられています。
通常、川越城の名称を表記されるが、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。
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川越城図
この図は、慶応二年(1866)に松平直克候と松平康英候が引継ぎをした当時の
住居・惣門、堀の位置等を顕かにしたものである。
(川越市) |
川越城の始まり
1457年(長禄元年)
武蔵国は扇谷上杉氏と足利氏の係争地であったため、
足利氏の勢力(古河城や関宿城・忍(おし)城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、
上杉持朝は家宰の太田道真、太田道灌父子に川越城(河越城)の築城を命じた。
また江戸城も築城させ、古河公方への防衛線を構築した。
持朝が初代河越城主となった(家老の道灌が江戸城主となった)
(フリー百科事典 ウィキペディアより)
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川越城
別名、初雁城、霧隠城ともいわれ、関東七名城の一つに数えられ日本100名城にも選ばれています。
初雁城: 太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折に初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名したといわれています。
霧隠城: 城内に「霧吹きの井戸」という井戸があり、普段は蓋をしておくが危急の際は蓋を開くと霧が城を隠した、という伝承による。
(現地説明板より) |
安土桃山時代の川越城
1590年(天正18年)
豊臣秀吉による小田原征伐では河越城を守っていた後北条氏の宿老の大道寺政繁は
上野国まで出陣して迎え撃つが降伏、前田利家の軍勢は河越城に入城した。
徳川家康が関東に封ぜられたのに伴い徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が1万石をもって川越に封ぜられ、川越藩が立藩した。
川越藩立藩以後の川越城主は、酒井家→堀田家→大河内松平家→柳沢家→秋元家→松平家と推移した
(フリー百科事典 ウィキペディアより)
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天守閣は本丸の富士見櫓
川越城には天守閣が無く川越城は、本丸、二の丸、三の丸や八幡郭、外郭、田郭、新郭などの七つの曲輪、
本丸の富士見櫓(南西隅)と虎櫓(北西隅)、二の丸の二重の菱櫓という四つの櫓、
西大手、南天手、一、二、三、天神、蓮池、中、清水、田郭、帯郭、新郭、埋の十三の門からなり、
土塁・水堀を張り巡らした総面積が9万8千坪(約326,000u)余りの規模をもつ城郭であった。 |
江戸時代の川越城
川越藩で最大の石高を領したのは越前松平家の17万石である。
江戸時代には川越城を中心に城下町が形成され、小江戸と称された。
城下は武蔵国の商工農の中心となり、物資の集散地として栄え商品は新河岸川を通して江戸に運ばれた。
川越街道は川越藩主の参勤交代や、川越藩の分領の上野国前橋との連絡で重要な役割を果たした。
(フリー百科事典 ウィキペディアより)
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本丸御殿だけが残る
1868年(明治元年)
松井松平家・松平康英が明治政府に恭順の意を示すため、堀を埋める。
1869年(明治2年)
川越藩が新政府に川越城の老朽化した建物を取り壊したい旨を届け出、城の部分的取り壊しが始まる。 |
川越市立美術館・博物館前を西へ進むと南側に「川越城中之門跡」がります。
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川越城と中ノ門堀
川越城は、長禄(ちょうろく)元年(1457)に扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝(もちとも)の家臣である
太田道真・道観父子によって築城されました。
当時、持朝は古河(こが)公方足利成氏(なりうじ)と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、
川越城の築城は是に備えたものです。
天文六年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、
同十五年の河越夜戦によって北武蔵への支配を磐石なものにします。
しかし、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。
江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。
寛永十六年(1639)に藩主になった松平信綱は城の大規模な改修を行い、
川越城は近代城郭としての体裁を整えるにいたりました。
中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えます。
まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。
現在地あたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。
多加賀家所蔵の絵図によれば、中ノ門は二階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸
(現地説明板より)
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中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面から攻め込んだ場合を想定して造られています。
西大手門から本丸(博物館方面をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。
進撃の歩みが緩んだところに、城兵が弓矢を射掛け鉄砲を撃ちかけてくるしくみでした。
(現地説明板より)
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次いで城下町をご案内します。
歴史ある旧城下町が観光資源となっており、江戸情緒を残す蔵の街並があることから「小江戸」と呼ばれている。
「時の鐘」といわれる木造の塔や、仙波喜多院、日本三大東照宮「仙波東照宮」がある地としても有名です。
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川越市立美術館・博物館付近にある駐車場を出発点として「川越城・本丸御殿」
「蔵造りの街並み」・「時の鐘」「川越大師喜多院」「成田山川越別院」などを巡りました。
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中ノ門跡を西へ進むと「蔵造りの街並み」へ曲がる交差点が「札の辻」です。
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札の辻
多分、川越宿の「高札場」があった辻ではないかと思われます。
この交差点の北東に「太田道観像」が立っています。
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太田道観像(川越市役所前)
太田道観(1432年〜1486年)
名は資長、または持資といい、備中守、入道して道灌と名乗ります。
一般的には道灌で通用します。扇谷上杉氏の執事となり、1476年以降、関東各地で武功を立てました。
築城学の始祖者として、江戸時代に持資流軍学が起こり、平城を初めて築いた人物となってしまいます。
(現地説明板より) |
「札の辻」を南へ曲がると「蔵造りの街並み」に入ります。

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一番街
川越の土蔵造りの店舗は、いわゆる「蔵造り」として有名です。
川越では類焼を防ぐための耐火建築として町家にも用いられてきました。
30数棟の蔵造りが軒を連ねる様は、他の都市では見られない江戸情緒あふれる景観です。
(社)小江戸川越観光協会発行「時
薫るまち川越」より |
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川越の町割(十ヶ町四門前)
川越の町割の基礎は、川越城主・松平信綱の時代(1639〜1662)にできました。
江戸町、本町、南町、喜多町、高沢町の上五ヶ町と
上松江町、多賀町、鍛冶町、鴫(しぎ)町、志多町の下五ヶ町の十ヶ町と
養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺の門前町を合わせ、十ヶ町4門前としました。
昭和36年の町名地番改正により往時の名は変わってしまいましたが、随処にその名残を見ることができます。
(社)小江戸川越観光協会発行「時
薫るまち川越」より |
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屋根の鬼瓦の巨大さ
現在も商売ををしているが多分住み難い家だと思います。 |

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交通渋滞の道
信号による渋滞が発生し通りの写真は上手く撮れません |
蔵造り街並みを南へ進む途中、東側に見えます。
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時の鐘
寛永の創建からおよそ390年間わたって美しい音色で、「時」を告げてきた川越のシンボルです。
(社)小江戸川越観光協会発行「時
薫るまち川越」より |
「蔵造りの街並み」南の「連雀町」交差点を東へ移動中の道路北側に「御鷹場境杭」を見つけました。
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御鷹場境杭
江戸よりおおよそ五里(20km)以内は将軍家、その先十里(40km)内外は御三家の鷹場、更に外側は幕府の鷹匠支配の捉飼場と設定されていました。
幕末は北は川越、南は府中、東は板橋、西は福生拝島に至る百九十八ヶ村に及ぶ広大な地域が尾張家・紀州家・の鷹場とされていました。
その区域を示すのがこの杭で七十六本の杭が設置されてと推定されます。
杭は村預かりとして管理されていましたが明治になり御鷹場は廃止、時代と共に杭は忘れ去られました。
この杭左側面の傷跡は廃杭されたのち何かの土台石として転用された生活の香りを残す文化財でしょう。
店主
(現地説明板より)
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従是南西北尾張殿鷹場 |
「喜多院入口」信号交差点に成田山川越別院があります。
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成田山川越別院
本尊は不動明王で、内外の諸難や汚れを焼き払い、人々を守るとといわれ、
願をかける時など奉納する絵馬のため、境内には絵馬堂も建立されている。
(川越市)
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長い門前町を過ぎると「星野山
喜多院」がります。
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川越大師 喜多院
創建
伝説によると、その昔
仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力により、取り除き尊像を安置したというが、
平安時代、天長七年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。
再興
その後鎌倉時代、元久二年(1205)兵火で炎上の後、永仁四年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、
慈恵大師(厄除元三大師氏)を勧進して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。
正安三年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。
更に室町時代、天文六年(1537)北条氏綱、上杉朝定のの兵火で炎上した。
徳川家康が再再興を命じる
江戸時代、慶長四年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同十六年(1611)十一月
徳川家康公が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、
仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。
寛永十五年(1638)川越の大火で現存の山門を除きすべて焼失した。
四度再興
三代将軍家光は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書斎などに当てた。
そのため家光誕生の間、春日の局(家光公の乳母)の間がある。
その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年の間に再興し、
それが今日の文化財として大切に保存されているのである。
現 代
江戸時代間殿は寺領四万八千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として磁性をふるったが、
明治以後財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向かったが関係者の努力により
昭和大復興に向かい完成に向かっている。
(現地説明板より) |
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広い境内は要領よく参詣してください。
松平大和守家廟所横に「どろぼうばし」という名の橋があります。
喜多院星野山発祥の謂れの「明星社と明星杉」がこの地図の右上にあります。(お見逃しなく!) |
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五百羅漢の庭
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多宝塔 |
境内には松平家の廟所もあります
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松平大和守家廟所
松平大和守家は徳川家康の次男結城秀康の五男直基を藩祖とする御家門、越前家の家柄である。
川越城主としての在城は明和四年(1767)から慶応二年(1866)まで、七代百年にわたり、
十七万石を領したが、このうち川越で亡くなった五人の殿様の廟所である、
(川越市教育委員会)
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川越大師喜多院の境内に三大東照宮といわれる仙波(せんば)東照宮が祀られたいます
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重要文化財・建造物
仙波東照宮
徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骨を久能山から日光に移葬した。
元和三年(1617)三月、喜多院に四日間逗留して供養したので、天海僧正が
寛永十年(1633)一月この地に創建した。
その後寛永十五年(1638)正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、
同年六月起工、同十七年完成した。
当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので、
日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。
(川越市教育委員会) |
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社の規模
表門(随身門)・鳥居・拝貨幣殿・中門・(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。
本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。
なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と
幣殿には岩槻城主安部対馬守重次が奉納した十二聡(そう)の鷹絵額がある。
(川越市教育委員会) |

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本殿を濠が取り囲む
随身門をくぐると本殿を取り囲むように濠が取り巻き弁財天厳島もあり太鼓橋がかけられていたようです。 |
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東照宮随身門・石鳥居
境内入口にある随身門は朱塗り八脚門・切妻造でとち葺形銅板葺である。
八脚門とは三間×二間の門で、門柱四本の前後に各一本ずつの控柱をもっている屋根つき門のことである。
以前には後水尾(ごみずお)天皇の御染筆なる「東照大権現」の額が掲げられていた。
記録によると、この勅願は寛永十年(1633)十二月二十四日とあるから
東照宮の創始の時期を知る一つの資料となっている。
石鳥居は寛永十五年(1638)九月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、
柱に「東照大権現宝前、寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」
の銘文が刻まれており、様式は明神鳥居である。
(川越市教育委員会)
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東照宮石鳥居(重要文化財)
寛永十五年(1638)に造営奉行の堀田正盛が奉納した物、
柱に「東照大権現宝前
寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位藤原正盛」の銘文が刻まれています。
様式は、明神鳥居です。
(境内説明板より)
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本殿石段
特別公開中のためこれより先は「有料」
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仙波
喜多院から市役所付近駐車場へ帰る道脇にありました。
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喜多院星野山発祥の謂れの地
明星社と明星杉
鎌倉時代1296(永仁四年)尊海僧正(そんかいそうじょう)が喜多院再興の為に訪れた時には、
ここに池があったといわれています。
尊海僧正がその池の前を通った時に、池の中から光が浮かび上がり、
そばにあった杉の木の上でしばらく光り輝いた後、空高く飛びたったという伝説があります。
その伝説から、喜多院の山号(さんごう)を星野山(せいやざん)と称し、この地の字名を明星と称します。
現在は、霊地の跡に社殿を建て、新しい杉の木が植えられています。
(川越市明星町 現地説明板より)
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シルバーの城郭城跡の散歩道「川越城址と城下町並み」