シルバーの城郭城跡の散歩道「国宝・犬山城」

築城者 : 織田信康        

築城年代 : 天文六年(1537)  

所在地 : 愛知県犬山市大字犬山
    字北古券65−2

国宝 犬山城 現存する天守で最も古いとされる犬山城は木曽川南岸の要害の地にある、
平山城で別名を、中国唐代の詩人李白の詩文にちなみ「白帝城」とも呼ばれます。

犬山城のはじまり
天文6年(1537)に木ノ下城(犬山城の前身)を三光寺山(犬山城の現在地)へ移し天主が造営され、
織田与次郎信康が入城し犬山城の歴史が始まりました。

「後堅固の城」
木曽川を背に建つ、国宝犬山城は兵法に言う「うしろけんごの城」です。
標高80mの平山城だが、旧城下町からの眺めは もっと高く、崇高に見えます。
その後方は断崖と川。兵法に言う、「後堅固の城」なのです。

お殿様は東京住まい
昭和60年頃、私が社用で「犬山市北古券の成瀬正勝さんが電波障害で困ってみえる、尋ねて
調査するよう」と言われ、現地を訪れ付近の家を探しても成瀬さん宅が見つからず困って
お城したの「だんご売り」の女性に聞いたところ「それはお殿様のことで、今は東京に住んで見える、
お城の入場券売り場で聞いてみなさい」といわれ留守番役の方にお逢いして用件を済ませましたが
その時はじめて成瀬正勝氏は十二代城主と知りました。

お城は個人所有だった
濃尾大震災(1891年=明治24年)はマグニチュウード8.4で死者7,466人家屋全半壊22万戸。
犬山城天守閣も大破しましたが、愛知県は城の修復どころの状況ではなく、成瀬家に
修復と保存を条件に城を譲渡しました。
このとき成瀬家の資金援助がなければ国宝の城も廃城になっていました。

今は財団法人「犬山城白帝文庫」に移管
その後成瀬家も相続税や維持管理費など多額の費用に困り、平成16年4月1日より
所有者が成瀬家から財団法人「犬山城白帝白文庫」を設立し法人管理としました。

城 内

(財)犬山城白帝文庫蔵

城への道は三とおり

三光稲荷神社

 

成田山大聖寺
遠くには成田さんもよく見えます。犬山遊園地の乗り物も見えます
鈴木朖(すずきあきら)撰文になる銘文のある常夜燈
文政十二己丑歳(つちのとうし=1829年)、尾張藩士で本居宣長門下の俊英、尾張藩校明倫堂 教授 鈴木朖が
犬山の大商人犬飼藤九郎の依頼を受けて書いた銘のある常夜燈です。
 途中「白帝文庫」の前を通ります。 成瀬家の本宅でもあります。

犬山城と小牧・長久手の戦い

長久手合戦図屏風   江戸時代 6曲1隻 (財)犬山城白帝文庫蔵
1584年4月9日、池田恒興(つねおき)・森長可(ながよっし)軍を家康軍が撃破した戦いを描いています。
のちの犬山城主、成瀬正成の初陣姿が2ケ所に描きこまれています。
このあと、戦況は膠着状態となりますが、秀吉と信雄の講和によって家康も撤収し、
長期におよんだ戦いは終わりました

日本のプライベート・ライアン 森忠政

織田信長の小姓「森蘭丸」は6人兄弟でした。
この森家の6人兄弟のうち5人まで戦死し、最後に残ったのは末弟の森忠政一人であった。
兄弟の父は森可成(よしなり)といい、美濃の国の生まれで早くから織田信長に仕え頭角を現わした。
そして織田家最前線の一つ近江宇佐山城を預けられるほどになりましたが、信長の妹お市の方の
夫である浅井長政の裏切りによって、宇佐山城は浅井・朝倉連合軍の総攻撃により、
可成は長男(実名は不明)と共に戦死しました。

男、四男、五男は本能寺の変で戦死
次男長可
(ながよし)は森家を継いで美濃金山(かねやま)城を預かり、三男欄丸、四男坊丸
五男力丸と共に信長の近習として仕えましたが本能寺の変で戦死

森 長可(ながよし)像
(財)犬山城白帝文庫蔵

残るは次男と六男のみ
しかし、次男長可(ながよし)は長久手の戦いの時、秀吉に仕え家康の裏をかいて、家康の留守の
三河を攻めて手柄を立てようとしましたが、家康に気付かれ、逆襲され長成はあえなく戦死

最後に残った末弟「忠政」は
長可(ながよし)が死んだ時「忠政」はまだ十三歳でしたが、森家の遺領七万石を継ぐことが認められ
朝鮮出兵の折も、「大本営」である肥後名護屋城の建築を担当し、最前線には出なかった。
やはりアメリカ映画「プライベート・ライアン」のような配慮があったのでしょう。
その後豊臣家没落後も、家康に仕え順調に出世し、戦場での手柄はほとんど無かったが、
十八万六千石を与えられ、美作国一国の主となり津山城を築いて65歳の生涯をおえました。

登城口の石段

復興された隅櫓(左)と本丸門

岩坂門
登城道最後の坂を上り詰めたこの位置に、
岩坂門があったところです。

鈴木玄道顕彰碑
鈴木家十二代玄道は、成瀬家御殿医、
藩校敬道館で儒学の教授も兼任しました。
一般の町民からも腕をかわれ、慕われていたようです。
没後この碑が建立されました。
「記念碑」の題字は九代成瀬正肥公が揮毫しました。

岩坂門跡の石垣と隅櫓(復興)

針綱神社からの石段を上り詰めたところに本丸
岩坂門と櫓がありましたが濃飛大震災で
倒壊しました。

入場料を払って城内へ

入場料は500円
天守から見た本丸門
本丸門
かっては鉄門といわれ鉄砲玉、火矢などにも耐えられるよう鉄板が当てられて鉄門と言われていました。
犬山城の歴史
犬山城は天文六年(1537)に織田信長の叔父に当たる織田与次郎信康によって造られました。
戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、
1600年の関ヶ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました

江戸時代からの犬山城
江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が元和四年(1618)城主となってからは、
成瀬家が代々受け継いで明治に至りました

成瀬家と濃尾震災
明治二十四年の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れましたので、
それを修理する条件で再び成瀬家の城となりました。

天 守

織田信長の「対の城」(ついのしろ)
織田信長は犬山城の対岸の下流にある「伊木山」に「後堅固の逆をいって、
「対の城」を築いて脅しをかけた。

犬山城全景
本丸門手前が「杉の丸」、針綱神社(緑色の屋根)の地が「桐の丸」、その下が「樅(もみ)の丸」

天守から望む木曽川
最上層となる望楼の、四方に設けられた廻縁(まわりえん)の幅は、わずか1mほど。
高欄がめぐらされていますが、下を見ると少々怖い。
「日本八景河川の部」に選ばれた日本ラインの流れが満喫できます。

簡素な城
松本城や彦根城のような華麗な装飾はなにもない城

天守南東の切妻付櫓(きりつまつけやぐら)
天守の入口が敵兵に破られそうになったとき、側面から攻撃を加え
防備するのが付櫓の役目。

桃の瓦
切妻付櫓の瓦には、桃をかたどった瓦があります。
桃には魔除け(まよけ)の力があると言われています。

国宝の城
国宝に指定されている松本城、彦根城、姫路城、犬山城の四城の中で最も古い城です。

小牧・長久手合戦と犬山城
小牧・長久手の戦い(1584年)の際には、豊臣秀吉は大阪から十二万余の大軍を率いて
この城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。

外観
三重(内部四階、石垣の中二階付)

高さ5mの石垣に、高さ19m天守
外観は三層であるが、内部は四階、地下二階

坪数
約二百坪

天守の石垣
低いのは室町時代の特徴があります。

天守入口の扉
入口をはいるとスグに地下2階へ上がる階段があります。
奥には石垣が見えます。

地下一階

手斧(ちょうな)仕上げ
左上方の巨材は、天守を支える地階の中吊りの土台材。
手斧(ちょうな)という、てのひらを内側に曲げたような形状の斧で、
大木を平らに削りあげています。

 

地下二階

一  階

築城当時は、城主の居間、武士が警護に当たる武者隠し(8畳)と
敵兵を防ぐ石落しがあります。

納戸の間 百五十畳 中央部四室に区画した跡があり、西南部に床が七寸高く、いわゆる上段の間が南面して
設けられ、天井・床の間・床脇などの痕跡もあり、特別室になっています。

創設当時の城主の居間で、その北が武者隠の八畳で、万一を警護する武士の詰所です。
東二間は共に納戸で六畳と十畳とあり、以上四室を取巻く二間幅の板の間は武者走りといいます。

 

  階

中央は武具の間

二階は百四十四畳 中央部が武具の間で西北東の三方に武具棚があります。

階段は急
毎日の生活には不便であるが城内まで攻められたとき、最後まで敵を防ぐために武器に具足を付けた
敵兵を上から攻めるに都合の良いように造られている。
武者走り
中央は「武具の間」とよばれ、室内3ケ所に武器、具足
を置く棚があります。

   

 

三  階

破風の間

三階は二十八畳と小間合わせて四十一畳 外観二重の屋根裏にあたります。

 

最 上 階

高欄の間

四階:物見の段、二十八畳 四方に約半畳の廻り縁および勾欄があり展望が抜群

天守望楼部
3層以上の部分は増築されたもので、唐破風(からはふ)は、1620年(元和=げんな=6年)
ころに成瀬正成が加えたと言われています。

成瀬正成(まさなり)

17歳で武将となる
成瀬正一(まさかず)の子、幼少時から家康に近侍する。
1584年、長久手の戦いで、正成は、敵から兜首をとって家康の前へ
戻ってきた。 家康が「旗本が少ないからここを守れ」と言うが、
先陣が苦戦しているのをみて、また飛び出していく。
そして、「君公が御覧になられている。退却しては面目あるまい」と励まし
また兜首を持参したといわれています。
家康も「何時の働きは、老将に対し手も恥ずかしくないものだ」と褒め、
以降 武将として扱われる。

しかし、これが悲劇の始まり
17歳で将に遇されたのは正成だけであろう。
1610年(慶長15年)、尾張藩祖となる義直の付家老に、1617年(元和
三年)に犬山城主となった。
がしかし、城主となったもの付家老のため、藩として独立できず260年後の
明治になる時に藩として認められたが
その年に廃藩置県令が発令され藩は無くなった。
(財)犬山城白帝文庫蔵

犬山城主が望んだ独立
犬山城主「成瀬家」は尾張徳川家の付家老であった為、三万五百石の城主でも藩として認められなかった。
三百年の悲願を達して立藩できたのは、明治と改元する年であった。
立藩の感涙に咽ぶ間もなく明治4年に廃藩置県で日本中の藩は消滅しました。

 

城下町

犬山神社

 

 

 

犬山城下町(その1)
他の多くの城下町は城を囲む堀の外に町屋を配置しているのに対して、木曽川を背後にして、城郭と町屋を含む
全体を外堀の中に入れる「総構え」といわれる城下町として発展してきました。

犬山城下絵図
1791年(寛政3)の犬山城下の絵図です。 町も掘割に囲まれています。
(財)犬山城白帝文庫蔵

犬山城下町(その2)
当時は土葬が普通で墓地はお寺の付近に作りましたので、町の中に墓地を置かないよう、
寺院群を町の出入口付近に配置し、寺院を町の防備上の要所として位置つける町つくりになっています。

犬山城下町(その3)
その他に町作りに当たって、業種別に町割を行い現在でも、魚屋町、鍛冶屋町、練屋町などの町名も残っています。
町名のほか町の姿も、江戸時代に描かれた城下町絵図にほぼ同じ、城下町の面影を残しています。

白帝文庫歴史文化館

犬山市大字犬山字北古券8
開館時間:9:00〜17:00
休館日 12月29日〜31日

 

城主成瀬家に伝来の宝物品の常設展示を、2004年から開始。
財団法人「犬山城白帝文庫」が運営するもので、これまで
秘蔵だった刀剣・甲冑・銃砲・屏風・古文書など重要文化財を含む
貴重史料を見ることが出来ます。

「札の辻」
犬山城の中心線をつらぬく南北路が古来の本町通りで、大手門跡の南に高札場があった。
城主のお触れや禁令の札を立てた場所で「札の辻」の名が残ってます。

小島醸造
犬山城下の銘酒「荵苳酒」(にんとうしゅ)の醸造元
現在は観光コースにもなっています。
創業は1597年(慶長2)で尾張藩がコメ高のため酒造禁止令を出しても、
犬山城下では「荵苳酒」が売られていたそうです。

本町通りの家並み
城下町の中心にある「どんでん館」から本町通りを北上すると
一直線に針綱神社の鳥居に突き当たります。

 

学問所「敬道館」(けいどうかん)跡の碑
1840年(天宝11)ころ、第8代城主「成瀬正住」(なるせまさずみ)が創設した
家臣の師弟教育の藩校(成瀬家は藩でないので家校?)の役割を果たしました。
犬山市文化史料館の筋向いに碑があります。

岸田家
岸田家は、小牧宿場当時の面影を残す貴重な建物です。
出格子(でごうし)や障子張りので入口がある町家で、
初層の屋根に載る「屋根神」(やねがみ)の祠(ほこら)が珍しい。

白帝講

               夢のお伊勢参りの
 江戸時代の人たちにとって、「お伊勢参り」は夢でした。
 当時は勝手に全国を旅することは許されず、特別の鑑札や旅行手形をもらってはじめて旅に出ることが出来ました。
 しかし、お伊勢まいりだけは別でしたが、しかし庶民にとっては路銀を懐に旅をすることは、とてつもなく危険なことでした。

    そこで生まれたのが「講」です。
 特にお伊勢参りの講は当時の役人も止めさせる理由も無く、道中の安全も保障されたものでした。
 特に「講」制度が発達すると路銀は小遣い程度用意して出かければ旅館代などは講により支払われ現在のキャッシュカードのような制度が出来ていました。

     犬山城下の「白帝講」の場合
 当時はお伊勢参りをして神楽を奉納することは「人々一代の望みを果たすことま」れなり」とあります。
 このため、白帝講に1日銭1文ずつ貯めて、1年で372文(陰暦)これに1,000人が加われば375貫。
 抽選で毎年に100人ずつ参宮できます。(数字は版本のまま=1文は約9円)
     神楽御拝礼の八日間の行程
 犬山の「白帝講」の場合2月20日に犬山鵜飼川(今の木曽川)を早朝の船便で出発、四日市・津宿を経て23日に伊勢に到着し、神楽御執行拝礼参宮となります。
 翌日は自由行動で、二見浦観光など随意に、昼弁当は自弁。
 帰りは26日夜に桑名泊、 27日朝に桑名から船で名古屋へ入り、28日には犬山城下に戻る。

         御神楽(ご祈祷)
 神饌(しんせん)をお供えして奏し、参拝者の願いごとを大御神にお取次ぎするのが「御饌(みけ)」です。
 これに雅楽を奏し、舞楽を加えて、ご神慮をお慰めし、丁重にご祈祷を行うのが「御神楽」です。

       江戸見物と違う厳しさ
 まる8日間以上の旅は現在でも大変ですが、自分の足だけが頼りの当時は実に大変だったと思われます。
 道中の喧嘩・博打・休泊所での酒宴遊興は厳禁。「伊勢神宮の御神慮にもかなわず、お国の外聞にもかかわる」と、講願主きびしく注文をつけたようです。
 でも、当時の庶民にとってのお伊勢参りは、今の海外旅行以上の夢だったようです。

次頁は小牧・長久手の合戦関連砦城跡や桃太郎神社関連史実をご案内します。

         城の用語コラム(曲輪)

山里曲輪(やまざとくるわ): 城内で、全く戦闘のことを考慮しないで作られた曲輪のこと。 庭や池を作      り茶室を設け、自然や風雅を楽しむことを主機能とする。
       造られたのは、豊臣秀吉の大坂城が最初といわれている。 以後、秀吉の築城する城郭には      必ず取り入れられている。 臨時の築城である肥前名護屋城でさえ、山里の名がつけられ曲輪      がふたつあった。
       徳川家康も江戸城内に、同趣旨の「吹上庭園」を設けた。 泰平の世になると、一般城郭にも      普及、姫路城・名古屋城・熊本城などに山里曲輪が造られている。
       同種類のものとしては、松江城の「お花畑」、水戸城の「偕楽園」、金沢城の「兼六園」、岡山      城の「後楽園」などがある。
水の手曲輪(みずのてくるわ): 水の手とは、城中の飲料水のこと。 井戸や河川水の利用が可能な場      合は、雨水などを溜めておいた。 この貯水設備の周囲を土塁で固め、壁や櫓で堅固にした曲      輪のことである。 水曲輪ともよぶ。
井戸曲輪(いどくるわ): 城内の井戸を保護するために、周囲に塁を築き、曲輪を設けた城が多い。      水の手曲輪の一種である。
人質曲輪(ひとじちくるわ): 中世城郭にはよく見受けられたが、近世に入ってからはほとんど姿を消し      た。 人質を城に入れた場合に住まわせたところである。 彦根城の西の丸の北にあったと伝え      られる。
横曲輪(よこくるわ): 馬山(うまだし)の横にあって、馬山を援護する曲輪のこと。 原則として、虎口の      塁線から65間(約117m)ほど張り出していた。
       また、敵の横側を撃つことができる曲輪のことも、横曲輪とよぶ。
蔀曲輪(しとみくるわ): 城内を覆いかくすために構えた曲輪である。 敵の進入をはばむこともできる      し、味方の武者溜ま(むしゃだまり)としても利用できた。
腹切丸(はらきりまる): 姫路城に所在する。 区画の雰囲気が、罪人が切腹する場のようにみえること      から、「切腹丸」と俗称された曲輪。 広場の中央が切腹の場で、かたわらに検死役の席らしきも      のがあり、首洗い用かと思える井戸まである。
      
 だが、本来は「帯曲輪(おびくるわ)」の一区画にすぎない。 帯曲輪は、搦手(からめて)を守      備するうえでの重要な曲輪といえよう。
                    (「週刊 名城を行く」から)

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。

シルバーの城郭城跡の散歩道「国宝・犬山城」