シルバーの城郭城跡の散歩道「燧ヶ城跡と鉢伏城跡他」

福井県南条郡南越前町今庄

福井県今庄町のかたくりの里・今庄宿の上にそびえた源平の古戦場で有名な燧ヶ城跡と
板取宿から言奈地蔵・木の芽峠へと登り観音寺丸城址・木の芽城址・西光寺丸城址と
鉢伏山山頂にある鉢伏城址の五城址を訪ねました。

JR今庄駅前から今城宿内を通り燧ヶ城跡(ひうちが)へ登ります。

高度差約500m、歩行時間3.5〜4時間

 今庄の宿場を守るように聳えている藤倉山(643メートル)と鍋倉山(516メートル)。 両山の山麓には七堂伽藍(しちどうからん)と千坊があったと言われ、谷間一帯はブナの樹林が繁茂し、懸崖に散在する多くの巨石は古代の岩座(いわくら)であったと推測されます。
 このような今庄の立地を利用して建てられた木曽義仲の城跡は、今も平家軍との戦いの跡を忍ばせています。
 標高1099メートルの山頂にある夜叉ケ池(やしゃがいけ)は竜神夜叉にまつわる数種の伝説とともに雨乞いの池と言われ、夜叉渓谷には緑の合間を縫うように豊かな水が流れています。
 町ではハイキングコースやキャンプ場を整備しており、山菜とり、渓流釣り等、四季折々訪れる人が歴史遺産を散策しながら、豊かな自然を楽しむことができます。

JR今庄駅前から見た左から、燧ヶ城跡(269m)、藤倉山(643m)、鍋倉山(516m)のピーク

「夜叉ヶ池」
 標識にある「夜叉ヶ池」は岐阜県揖斐川町から登る「夜叉ヶ池」と同じ池で、福井県からでも登れるんですネ

                        藤倉山・鍋倉山はJR駅前から始まります。
 地図の「現在地」(JR今庄駅前)から左へ進みクランクで観音堂→
燧ヶ城跡(269m)→藤倉山(643m)→鍋倉(516m)→八十八ヶ
所霊山の巡礼路を下り今庄町へ至ります。

「JR今庄駅」前商店街の道を西へ、入り突き当りを左(南)へ曲がります。
50mほど進むと御札場跡の杭標識のある空き地の前を通ります。

今庄宿高札場跡

                   高札場跡(高野家六家)
 幕府または福井藩は禁令を人々に示すために、板に書いて一定の場所に掲げ、守らせたものが高札である。
 忠孝札、毒薬札、切支丹札、口留札等の禁令がある。 火事の時の焼失を恐れて、付近に貯水池があった。
 今庄には当家のほか、谷屋にも高札場があった。
                               (今庄町教育委員会)

空き地の南側が御札場跡の案内板のある家(北村善六家)の前を通ります。

今庄宿御札場跡

                御札場跡(北村善六家)
 福井藩第四代藩主光通(みつゆき)の時の寛文元年(1661)十一月、福井藩がはじめて幕府から銀兌換の藩札発行が認められた。
 福井藩内では藩札の使用が強制されたので、藩の南端の大宿場町である今庄では、旅人や商人が金銀を藩札に、あるいは藩札を金銀に両替するために御札場が設けられた。
 今庄宿では最初北村大平家が、その後北村新平家が、つづいて西尾茂左衛門家が、その後享保十五年(1730)からは当北村善六家が勤めた。
                            (今庄町教育委員会)

そのまま100mほど進むと西側に「燧ヶ城址」の大きな説明板があります。

この説明板の前の路地を西へ入ります。

街中は宿場町らしく静かなたたずまいです。

正面に「新羅神社」が見えてきますが南へ入ると「燧ヶ城址登山口」の石碑があります。

燧(ひうち)ヶ城址へ
 旧街道沿いにある新羅神社・観音堂の脇からへの登城道が通じています。
 登ること約20分、低い石垣が積まれた虎口に至ります。

観音堂の前を通り登山口へ

「カタクリの花」が咲いていいる登山道へ入ります。

かたくりの里

観音堂の上り口には標識があります

観音堂の上り口から50mほど登ると「からくりの花」の群生地へ出ます。

しばらく登ると一面の「かたくりの花」に出会えます。

一行には白いかたくりの花が人気でした

途中途中に「燧ヶ城址」の案内石碑があります。

                    燧ヶ城の歴史
 燧ヶ城の築城は古く源平の合戦の頃にまでさかのぼる。 寿永2年、木曾義仲は追討の平家の軍勢を迎え撃つため、仁科守弘らに命じて、燧ヶ城を築かせたのがはじまり。
 源平盛衰記に「北陸道第一の城郭」と記されたこの城は、交通の要衝を押さえた城であったため、時代を経てもこの城を舞台に戦がくり広げられました。
 天正三年には、下間頼照ら一向一揆勢が立て籠もり織田信長と戦い、次いで天正11年の賤ヶ岳の合戦の折りには、主将柴田勝家自らがここを守ったなど我々の歴史物語にも聞き覚えがあります。

燧ヶ城址碑から見る今庄町はのどかな宿場町です

登山口から20分ほどで燧ヶ城址に着きます。

燧ヶ城址

土塁や石垣跡等の遺構があちこちにあります。

                 寿永2年(1183)木曽義仲が築城
 
義仲の軍勢は、平氏軍10万と戦った際、平泉寺の長吏斉明の裏切りにより敗北したと伝えられている。
 源平盛簑記には「北陸道第一の城郭なり」と唄われ、今も砦や本丸跡には石垣、その周囲には空堀や切り堀などがあります。

                    燧ヶ城の木曽義仲と平家の戦い
 平家物語や源平盛衰記などでよく知られている燧ヶ城(海抜270m)の下には、鹿蒜川沿いにに、木の芽峠へ通じる北陸道と、山中峠への道筋、更に日野川と平行して栃の木峠へ通じる北国街道がいずれも、この麓で交わる。
 すぐ近くの杣山(そまやま)城と敦賀金ヶ崎城とともに、この城は北陸の関門を制する重要な場所であった。
 『源平盛衰記』によると、寿永二年(1183)四月、平家は木曽義仲追討のため、平維盛の率いる十万の大軍を北陸路へ差し向けた。
 義仲は越後の国府にいて、燧ヶ城には仁科太郎守弘や、平泉寺長吏斎明威儀師(ちょうりさいいぎし)を大将として立て籠もり、日野川を堰き止めて周囲一帯を水浸しにして平家の大軍を迎えた。
 しかし『北陸道第一の城郭なり』といわれた燧ヶ城も斎明威儀師が平家に内通するに及んで、たちまち陥落し、義仲軍は敗走した。
 その後五月の倶利伽羅峠の合戦に義仲は勝利し、七月には上洛した。
 南北朝時代に入ると、再びこの城は攻防の戦場となり、延元元年(1336)には、今庄入道浄慶(じょうけい)が足利方の将として立て籠もり、南朝方の新田義貞軍に味方して挙兵した杣山(そまやま)城の瓜生保軍と対抗、敦賀金ヶ崎との連携を絶つ作戦に出た。
 『太平記』では、新田義貞、脇屋義助らの行軍に際し、由良光氏(ゆらみつうじ)の節義に感動した浄慶が金ヶ崎への道を開いたというエピソードが記されている。
 戦国時代の天正三年(1575)には越前一向一揆の総大将下間筑後法橋頼照(しもまちくごほうきょうらいしょう)が藤島超勝寺、荒川興行寺の一揆と立て籠もり、信長軍と対戦したと伝えられている。
 このようにこの燧ヶ城は数世紀にわたり戦略上の重要な拠点として利用されてきた。
 なお現在残っている土塁・石垣等は戦国時代末期のものである。
 幾多の戦いの地、燧ヶ城址は現在も憩いの広場として、また、今庄の街並が一望できるハイキングコースとして町民に親しまれている。                       (今庄町教育委員会)

                     燧ヶ城の縄張り
 燧ヶ城の縄張りは、山頂部に東西に細長く東から二の丸・本の丸・三の丸と曲輪が配置されている。 
 二の丸虎口は、低い石垣によって枡形虎口となっている。 
 一段高くなっている本の丸には、天守台であろうか石垣の櫓台がある。
 更に、本の丸と三の丸の間には堀切が良く残っている。

続いて板取宿から板取関所跡、言奈地蔵・木の芽峠・と観音寺丸城址・木の芽城址・西光寺丸城址と
鉢伏山山頂の鉢伏城址の四城址を訪れます。

板取宿

          板取宿の由来
 戦国時代までの越前への陸路は山中峠を越える古道(万葉道)と木の芽峠を越える北陸道(西近江路)だけであった。
 柴田勝家が北ノ庄に封じられ信長の居城・安土に赴く最短距離として、天正六年(1578)、栃ノ木峠の大改修を行なって以来、人馬の往来は頻繁となり、越前南端の重要な関門の地として板取宿を置き、宿馬三十頭、人足六十人が常備され。
 板取宿は北国街道(東近江路)の玄関口として、あるいは近江・越前・両国を結ぶ要の宿として発達したのである。
 今も甲造り型や、妻入り型の茅葺(かやぶき)の民家が昔のまま保存されている。
                  (今庄町教育委員会)
現在二軒のみ住んでおいでだそうです。
現在も入居者募集中だそうです。(家賃無料)
ただし、近所にコンビにも郵便局も病院もなしテレビも見えないが電気だけ使えるそうです。
冬の豪雪時には二階から出入りできるようになっているそうです。

四軒だけ保存されている
妻入り甲(かぶと)造り型民家

甲造りのわけ
正面から見ると兜の形に見えるので甲(かぶと)造りといわれる

板取関所跡

                 江戸時代に関所を設けた
 江戸時代には家康の子、結城秀康が入国以来関所を設けて旅人を取り締まった。
 後に板取番所として、藩士が駐在した。
 番所の構造は、宏荘な門構えの内に、間口三間、奥行三間半の平屋建ての棟を設け、刀、弓矢、火縄銃、具足を備え、役人三人、足軽一人が常駐し、厳重な警備に当っていた。
 板取には幕末の頃、戸数五十三戸のうち三軒の問屋をはじめ、七軒の旅籠、三軒の茶屋のほか継立従事の家が建ち並んで賑わっていたという。

板取関所跡

板取宿近くの今庄365スキー場から言奈地蔵・木の芽峠・鉢伏城址(鉢伏山)へ登ります

鉢伏山へ

今庄365スキー場ゲレンデ脇の標識に従って

言奈地蔵
(いうなじぞう)

途中広域基幹林道に合流し20分ほど進むと言奈地蔵への標識があります
小路を5分ほど登ると言奈地蔵堂へ出ます。
                   言うな地蔵のいわれ
 このお地蔵さまは弘法大師であるという。
 昔、大金を所持した旅人を乗せて、この峠を越えた馬子があった。 
 馬子はその旅人を殺して金を奪ったところ、地蔵の面前であったことに気づき“地蔵言うな”とひとり言った。
 すると地蔵は“地蔵は言わぬがおのれが言うな”と言い返された。
 感きわまって改心し善人に立ち返った。
 其の後、年を経て再びこの峠を越したとき、年若い旅人と道連れになり、よもやま話をして地蔵の前にきた。
 馬子は霊験あらたかな地蔵であることを告げると、そのいわれを問うた。
 馬子は先年の悪事を語り、ありし次第を告げた。
 この旅人はその先年殺された旅人の息子で、親の敵を尋ね歩いていたのである。
 息子は天にも昇る心地がしたが、このような山中でかたきを討つよりは共に敦賀まで出てから名乗りをあげてこれを討ちとったとのことである。
                                   (今庄町)

地蔵堂を過ぎて更に木の芽峠へ進みます。

言奈地蔵から数分歩くとゲレンデから下ってきた道と交叉します。

この道交叉する道はは私道ですので通行はできません
(立札が立っています)

そのまま進むと木の芽峠へ出ます。

木の芽峠
(観音山城址)

  木ノ芽峠
 
福井県を嶺北と嶺南に分ける地である。
 1200年の間、越前の玄関口としての番所があり前川家がその任に当たった。
 この一帯は度重なる古戦場として使われ、一向一揆の頃の城址が多く、歴史的にも非常に興味の持てる峠でもある。
                            木の芽峠碑
                       (峠茶屋手前の右側にあります。)
 平安初期の天長7年(830)に畿内と越の国を結ぶ官道として開削された古い道で、敦賀から今庄へ抜ける最短路である。
 古くは紫式部が、また道元や親鸞が通り、更には新田義貞、織田信長、豊臣秀吉など戦国武将が利用した。
 越前(嶺北)若狭(嶺南)を分ける分水嶺になっている。
 峠の名前の由来は不明であるが、木目峠、木辺峠とも書き、木部山とも言われる。

                 峠の茶屋(前川家)
 前川家の先祖は平家の出といわれている。
 信長の朝倉攻めのおり織田軍につき、その時秀吉に会っており、また、秀吉が柴田勝家と北ノ庄で戦い帰陣の折に前川家に立ち寄り、陣小屋と茶釜を与えたといわれ、今もその茶釜が残っている。
 当家は旅人に湯茶を接待する茶屋ではなく、代々峠を越える大名に湯茶を接待する「茶屋番」といわれる。
                (案内板より)

峠脇には

                      木の芽峠
 古来より北陸道の要として人馬の往還もきわめて頻繁であり、峠を越えて京都に向かう人、さらに、都を出て北陸に下向する人々にとって、急坂の石畳の道、茅葺の茶屋の印象は、旅のことをことのほか忘れがたいもにしたであろうと思われます。
 建長(けんちょう)五年(1253)の夏、永平寺を開かれた道元禅師(どうげんぜんじ=高祖・中央の碑)は、病気療養のため、高弟の狐雲和尚(こうん和尚=第二世・左の碑)、徹通和尚(てっつうおしょう=第三世・右の碑)を伴なわれて、永平寺を出発になられました。
 やがて木の芽峠に至り、禅師は、京への随伴を切望される徹通和尚に、爾後(じご)の永平寺の守護の大事を説かれ、涙ながらの決別をされた。

   草の葉に かどでせる身の木部山(きのめやま)   雲に路あるここちこそすれ

 その折の禅師の万感の思いがこの御詠(うた)であります。
 再び、峠を越えることもなく、また、今生の永別となるやも知れず、峠の背を分けて流れる水の如く、南と北に袂を分けられた師弟の胸中は、まことに感慨無量なるものがあったと思われます。
                              (曹洞宗木の芽峠奉賛会)

木の芽峠下の広域基幹林道脇に案内板があります。

左から西光寺丸城・木の芽峠城・観音丸・鉢伏城
木の芽峠の木の芽城址を中心に上に観音丸城址、下に西光寺丸城址があります。

 木ノ芽峠城砦群は、この木ノ芽峠を押さえる目的で築城されたもので、木ノ芽峠を挟んで東に西光寺丸城、西に木ノ芽峠城,観音寺丸城、鉢伏城と尾根上に連なって位置しており、距離的に離れた西光寺丸城と鉢伏城を除いた2城(木ノ芽峠城と観音寺丸城)はひとつの城として機能していたと考えるのが妥当である
現地案内板より

木の芽峠碑のすぐ奥の細い道を登ると数十mほどの場所に「木の芽城」の案内板があり、そこが木の芽城址です。

木の芽城址

               木の芽城址
 この城は、観音丸城と一体的な城で、木の芽峠の要衛を押さえる重要な役割を持っており、少なくとも南北朝時代には、築城されていたと思われるが、確認できるのは戦国時代である。「朝倉始末記」によれば、永禄十二年(1569)、織田信長の越前侵攻に備えて、木の芽に城を構えたのが始まりである。
 その後、織田方や一向一揆勢も立てこもった。
 城の規模は、長径約180m・短径約130mある。
 城のつくりは、最高所の二つの郭を配し、西に腰郭をおく。
 南は大きな堀切で尾根を断つ。全体で、30の郭、二本の堀切、10本の竪堀が築かれている。 井戸のある水の手郭もあきらかになっている。                (今庄町)

南へ200mほどの所に西光寺丸城址があります。

西光寺丸城址

                西光寺丸城址
 構造的には主郭には土塁が巡り南側には堀切、東側には横堀があり、木の芽峠城に比べ構造が新しく複雑なもので、また、城塞群の中では一番大きな城です 。
 朝倉氏時代の木の芽峠城に一向宗方が新造したものと思われます。
 天正三年(1575年)の織田氏の一向一揆攻めの際には西光寺がここを守ったとされます。

木の芽峠碑のすぐ奥の細い道を登ると数十mほどの場所に案内板があります。

観音丸城址

                     観音丸城址
 この城は、木の芽峠の北西に接して築城されている。
 城の規模は、長径・短径ともに約150mある。
 城のつくりは、城の中央部の根尾を横断する二重の堀切を境に二分される。
 南東部は、土塁をめぐらした郭(くるわ)を中心とし、東に横堀、西に腰郭、南に虎口を拵え(こしらえ)ている
 周囲の斜面には10本の竪堀は築かれている。
 北西の端は竪堀間の尾根上に土橋で、ここから約500m先の鉢伏城に尾根道でつながる。
 城の大手は、防備に重点のおかれた南東部は簡単なつくりとなっている。
 観音丸の名称は、土塁で囲まれた郭内に本尊の十一面観音像が安置されていたことから言い伝えられている。
                                   (今庄町)

蛇に注意
途中からゲレンデの道を700m(約30分)ほどの鉢伏山の山頂に鉢伏城址がある。
先程の観音丸城址付近でも小さな蛇に出会いました。
青大将と違い小さな蛇(まむしなど)は毒を持っているのが居ますので咬まれないように注意しましょう。

ここへ来るまでに3匹の蛇に出会いました。
(ご注意ください!ここから頂上までは大丈夫でした。)

スキー場施設が見えてきたら頂上近くです。

リフト設備(降り場)の左側に虎口があります。

リフト設備(降り場)の左側に鉢伏城址の入口(案内板)が見えます

鉢伏城址
(鉢伏山)

                      鉢伏城址
 木の芽峠城城塞群のひとつで、木の芽峠城・観音丸の北、尾根の最高地のところにあります。
 構造的には主郭には土塁が巡り北側には堀切があります 木の芽峠城に比べ構造が新しく複雑なもので、また、城塞群の中では西光寺城よりは小さいものの技巧的な構造です
 天正三年(1575年)の織田氏の一向一揆攻めの際には西光寺・常楽寺・照護寺・専修寺などがここを守ったとされます。                                  (今庄町)
                     鉢伏城址
 この城は、元亀(げんき)元年(1570)織田信長が越前に侵入した際に、朝倉方によってきずかれ、家臣・印牧(かねまき)弥六衛門が守ったという。
 その後、織田方や一向一揆勢も立てこもった。
 城は、木の芽峠から北西約700mの鉢伏山(標高762m)にあり、山頂部から北西に下降する尾根上に築かれている。
 城の規模は、大きく二つの郭に分けられるが、周囲に土塁をめぐらした山頂部の郭が中心になっている。
 海側の尾根の二つの郭は、海岸部からの敵の侵入に備えたものである。
 城の大手は、南東部に???二重の竪堀の間が土橋となっており、虎口である???搦め手は北西部の海側である。
                                    (今庄町)
 説明板から入ると虎口はL字に屈曲していています。主郭内は土塁が巡り削平地としては城塞群の中では一番広い空間があります。主郭から日本海、敦賀市内が一望できます。

周囲には城址の遺構らしき跡がありました。

山頂を示す2等三角点

モスクワは見えませんでした!?
モスクワ 4,700kmなど・・・

天気が悪く敦賀湾の向こうのまでは見えませんでした。

燧ヶ城跡から西光寺丸城址・木の芽峠城址・観音丸城址・鉢伏城址と五城址を訪れることができ満足して下山できました。

シルバーの城郭城跡の散歩道「燧ヶ城跡と鉢伏城跡他」