シルバーの城郭城跡の散歩道「郡上八幡城」

 

 

郡上八幡城

宝暦騒動の起因
宝暦年間に発生したぐじょういっきは、4年以上も続いた騒動として世に知られ、当時の郡上藩主金森頼錦(よりかね)
が、財政窮乏を打開するため年貢課役をより重く強要したことが、農民の不満を増幅させ、一揆を引き起こしました。

金森家のルーツ
金森家は元々飛騨の国を治める譜代の大名でした。関ヶ原の戦いのとき、当主の金森可重(よししげ)は東軍の
徳川家康に味方し、遠藤慶隆と組んで、西軍の一員であった郡上八幡城主の稲葉貞通を討つべく出陣し、
稲葉家を東軍にくみさせることに成功しました。 その後、本領である飛騨を治め、茶の湯に通じていたことでも知られています。
元禄年間に飛騨国が直轄領となるに及んで、高山城主の金森頼旹(よりとき)は、出羽国上山(かみのやま)に移され、
ついで郡上藩(約三万九千石)に転じされられた。 その孫の頼錦(よりかね)の時に一揆が起こりました。

一揆の遠因(一)
1736年(元文元)年、34歳で藩主になった金森頼錦(よりかね)は文化を好む家風を受け継ぎ、室町時代に活躍した
歌人東常縁(とうのつねより)の偉業を偲んで、遺跡や遺品を整理し「白雲集」などを作ったりしました。
風雅へのたしなみが深まるにつれ、はては遊興の世界に逸脱したため、藩政を家臣に委ねる傾向が強くなりました。

一揆の遠因(二)
さらに1747年(延享四年)、江戸幕府の奏者番に任ぜられると、生活は益々かびになりました。
奏者番とは、幕府の節目の行事に大名が将軍に謁見する際、姓名や進物などを披露する役職の事をいい、
老中などへの昇進する登竜門となっていました。
金森家にとって、頼旹(よりとき)が将軍の側用人なって以来の栄達であり、名誉なことでありました。

一揆の引き金
そのため江戸藩邸での出費がかさむと共に、宝暦初年の豊作は米価を低下させ、財政困難の度を一層増すこととなりました。
これを打開するためはんは、新たな増税政策に踏み切った結果です

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。

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