シルバーの城郭城跡の散歩道「金華山岐阜城」

長良川を見下ろす金華山にそびえ立つ岐阜城は斉藤道三と織田信長の国盗り物語で歴史の脚光を浴びた城です。

築城者:
二階堂政行

築城年代:
建仁一年(1201)
(鎌倉時代)

所在地 岐阜市金華山
      天主閣18

形 式 山  城   

 

日本有数の要害・岐阜城
濃尾平野の北端、岐阜市街地の北部に屹立(きつりつ)する金華山(329m)上に築かれた山城。
古くは井ノ口(いのぐち)城、稲葉城とよばれ、南と北に木曽川・長良川という天然の堀をもち、
三方を急峻な断崖に守られた日本有数の要害でありました。

山頂の岐阜城と麓の千畳敷(岐阜公園)
(広報「ぎふ」より)

岐阜城の歴史

岐阜城の歴史(その一)

二階堂行政〜長井新左衛門尉

    最初は鎌倉幕府の砦
 十三世紀のはじめ(建仁のころ=西暦1201〜03年)、鎌倉幕府の政所令(まんどころれい)二階堂行政(ゆきまさ)が、ここに砦を構えたのが築城のはじめ。
 二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、二階堂の氏を称えました。
 (二階堂の名前の由来は下欄に掲載しました。=納得の理由です)

     その「二階堂行政」と美濃
 その一門は、関東から美濃・伊勢・薩摩など各地で豪族として栄えました。
 美濃の場合、関の新長谷寺(しんちょうこくじ)=吉田(きった)観音を建てたのも二階堂氏です。

絹本着色 二階堂行藤像
當山檀那・二階堂前出行藤朝臣 法名道雅延
慶元年戌申八月二十二逝去(南北朝時代)
関市 新長谷寺所蔵(岐阜城展示の模写)

             二階堂の名前の由来
 二階堂氏は、藤原南家武智麿流工藤氏の一族で維遠を祖とする。源頼朝は奥州征伐で藤原氏を滅ぼしたが、平泉に攻め込んだとき藤原氏の造営した中尊寺の壮大さに驚いた。
 なかでも二階建の建築物にカルチャーショックを覚えたという。
 その後、それを模倣して鎌倉永福寺に二階大堂を建築させたのである。
 二階大堂は二階堂とも称され、工藤氏の一族行政が永福寺の近くに住んで二階堂氏を称するようになったのがそもそもの始まりといわれる。
   (参考:戦国大名探求=http://www2.harimaya.com/sengoku/html/2kaido_k.html)

       稲葉山城の名の由来と変遷
 建仁のころ(西暦1201〜03年二階堂行政氏が砦を造るその後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになりました。
 戦国時代の動乱の中で、土岐・斉藤氏の一族が稲葉氏の砦機構を利用して、ふたたび城を築き、城下町もできました。
 大永(たいえい)五年1525)、美濃国で、内乱がおき、守護土岐氏と守護代斎藤氏の実権は、長井氏に移りました。
 稲葉山城も斎藤氏の一族が居城していましたが長井氏に追放され、長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)の居城となりました。
 新左衛門尉は斉藤道三の父といわれ、大永から享禄(きょうろく)年間1521〜32)の史料に、名前がしばしばでてきます。

(参考:岐阜市「広報ぎふ」特集信長公より、とウィキペディアより)

  従来「斉藤道三は「まむし」と呼ばれ油売りから身を興し主家の土岐氏を乗っ取り国主となった
と言うような筋書きが語り継がれたが、最近の研究の結果下記のような推移ではないかと言われる。

年   代

城  主

  来  事

@建仁のころ1201〜03年

二階堂行政

 二階堂行政氏が砦を造る
Aその後

同 上

 二階堂行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになる。
B戦国時代  

土岐・斉藤

 土岐・斉藤氏の一族が砦を城に築き城下町もできる。
C大永五年1525年)、

長井新左衛門尉

 美濃国で、内乱がおき、守護代斉藤氏は追放され、 長井新左衛門尉の居城となる。
D天文二年1533年) 

斎藤道三

 長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
E天文八年1539年) 

斎藤利政(道三)

 守護代になっていた斎藤利政(道三)が、金華山山頂に城作りを始める。
F天文十年1541年)。

 同 上

  斎藤利政(道三)、守護土岐頼芸を追放
G天文十六年1547年) 

織田信秀
(信長の父)

 織田信秀(信長の父)、土岐頼芸派の家臣と稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)。
H天文23年1554年)  

斎藤義龍

 斉藤利政、城と家督を嫡子斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。
I弘治二年1556年) 

  同 上

 斉藤義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
J永禄4年1561年) 

斎藤龍興

 斉藤義龍の急死により斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となる。
K同年  

同 上

 十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めるも敗退。
L永禄七年1564年) 

竹中重治
安藤守就

 斎藤氏の家臣であった、竹中重治安藤守就が造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。龍興らは城を捨て、竹中らが城を半年間占拠する。
M永禄10年1567年) 

織田信長

 かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に進攻。(稲葉山城の戦い)。斉藤龍興は、城を捨てて長良川を舟でくだり、伊勢長島へ逃亡。
N同年 

同 上

 織田信長は、本拠地を小牧山から稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めた。この頃から信長は、「天下布武」の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。

(参考:岐阜市「広報ぎふ」特集信長公より、とウィキペディアより)

岐阜城の変遷(つづき)

年   代

城  主

  来  事

O天正四年1576年

織田信忠

  信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督、及び美濃、尾張の2ヶ国を譲る。岐阜城の整備改修は織田信忠(信長の長男)によって更に追加。
P天正10年1582年

織田信孝

 織田信忠が信長と共に本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯(斉藤道三の子)が岐阜城を乗っ取る。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると織田信孝(信長の三男)に降伏。
 Q同年六月

同 上

 清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となる。
R同年12月20日、

同 上

 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の嫡男・元助らの兵が岐阜城に迫った為、和睦。三法師を引き渡す。
S天正11年1583年
           4月16日

信孝は切腹

 信孝は長島城主の滝川一益と呼応し再度挙兵。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城を包囲されると、これに降伏した。城からは逃亡が相次ぎ降伏時の人数は27人であったという。その後、信孝は切腹させられた。
21 同年

池田元助

 池田恒興が美濃国にて13万石を拝し大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となる。
22 天正11年1584年

池田輝政

  小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死したため、恒興の次男・池田輝政の居城となった。
23天正19年1591年4月

豊臣秀勝

 転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。
24文禄元年1592年
             9月9日

織田秀信
  
(幼名・三法師)

 豊臣秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城の城主となる。
25慶長五年1600年) 

同 上

 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城。秀信は弟秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で生き永らえる。しかしその後は出家させられるも、高野山で迫害、追放され、1605年(慶長10年)に死亡した。秀信は岐阜城の最後の城主であったが、この城の城主は斎藤道三以降、兄を失った輝政を除き、全員非業の死を遂げたことになる 
26慶長六年1601年) 

廃城

 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に移されたという。岐阜城が山城であることに加えて、家康がかつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだともいわれている。 

(参考:岐阜市「広報ぎふ」特集信長公より、とウィキペディアより)

「広報ぎふ」(特集 信長公2012.1.1号)より「国盗り物語」
 斉藤道三が、灯油売り商人として、京都から美濃の国へ下り、守護・土岐頼芸(よりなり)の知遇を得て、
美濃一国を征服したことは、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」で有名です。
   南近江の大名・六角承禎(じょうてい)書状発見以後
 しかし、最近発見された南近江の大名・六角承禎(じょうてい)書状から、道三の前半生は
父・長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)のことであり、
後半生が道三の事蹟(じせき)ということがわかりました。
(つまり親子二代で油売りから、一国一城の主になったわけです。)

            岐阜城の歴史(その一) 
              斎藤氏三代(道三・義龍・龍興)

                  道三の父は「長井新左衛門尉」
 最近発見された南近江の大名・六角承禎(じょうてい)書状から、道三の前半生は父・長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)のことであり、後半生が道三の事蹟(じせき=事件のあと。事実の痕跡)ということがわかりました。(つまり親子二代で油売りから、一国一城の主になったわけです。)

       ◎信長以前に道三が岐阜町(当時は井ノ口村)を発展させた

 道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲通と七曲通(現在の岐阜市上茶屋・下茶屋町あたり)に住民を集めて城下町をつくりました。(下図参照)

「広報ぎふ」(特集 信長公2012.1.1号)より

           ◎その頃の織田信秀(信長の父)と斉藤道三
 織田信秀は前後して那古野城(現名古屋城の二之丸あたりに在った)、安祥(あんしょう)城を次々と攻略し。駿河の今川氏と戦う合間を縫って美濃にも進撃するなど、戦いのセンスは抜群で経済力もありましたが、支配していたのは尾張の一部のみ。
 一方、道三は、父を受け継いだ小守護代、長井家の家臣と言う立場から、名門守護・土岐氏を追放し、美濃の実権を握るまで上り詰めまていました。

           「広報ぎふ」(特集 信長公2012.1.1号)より

                   安祥城跡((三河国碧海郡安城=現愛知県安城市安城町)

          ◎天文十三年1544信長の父が攻め込む
 天文十三年1544年)に信長公の父・信秀が越前・朝倉孝景と連合軍をつくり美濃に侵攻します
 稲葉山城をめぐる戦いでは、井の口城下町が焼き払われ、織田信秀軍の蜂須賀などは江南方面に進出し、土岐二郎は席田(むしろだ=現本巣市席田)あたりまで侵入したが斉藤利政(道三)は采配よろしく織田軍を撃退し、織田軍は攻撃に難渋します。

                   織田軍夜襲を受ける
 織田信秀は兵を休めるために上加納(現・岐阜市粕森〜殿町)あたりに兵を集結して陣を張りました。
 しかし、夕刻に稲葉城を下りた斉藤利政(道三)は隠密裏に織田軍を包囲し月の出を合図に総攻撃を加えました。
                      ◎織田軍混乱
 不意を突かれた織田軍は大混乱に陥り、敗退し尾張清洲へ逃げ帰りました。
 この戦いで織田軍は信長の叔父「織田輿次郎信康」(犬山城主)、織田因幡守(岩倉城主)、青山与右衛門、毛利十郎、寺沢又八などの重臣を失いました。

            「広報ぎふ」(特集 信長公2012.1.1号)より

岐阜市霞町にある「物見塚」

伝織田塚改葬地
 織田塚はこのとき上加納で敗死した織田軍の将兵の屍を集めて弔ったものといわれ現岐阜市霞町にあった浄泉坊(円徳寺)がこの地(岐阜市神田町通り)に移転するに伴い、後に塚も円徳寺の境内に改葬された。

                      ◎はじめは「物見塚」と呼ばれいました。
 合戦のあと上加納の百姓達は一千人に余る戦死者を、現・岐阜市霞町にあった浄泉坊(のちの円徳寺)に埋葬して、土を盛り上げ塚を作りました。
 あまり塚の土盛りが高いので物見塚と言われましたが、何時とはなしに「織田塚」と呼ばれるようになりました。(現在も岐阜市霞町にあります)
 のちに浄泉坊(円徳寺)現在の神田町移転するに伴い、「織田塚」も移転した現・円徳寺の境内に改葬され、同寺の境内に碑がありますます。

           ◎斉藤道三が砦から櫓・武器庫に補強
 「加納口の戦い」のあと斉藤利政(道三)は稲葉山にあった砦を補強し櫓や武器庫もつくり城としての機能を強化しました

              斉藤利政(道三)が楽市楽座をつくる
 また、斉藤利政(道三)は御園(みその=現在の岐阜市美園町柏森神社あたり))・岩倉(現在の金華橋下流あたり)・中川原(現在の長良橋上流あたり)に市場を設けて、商取り引きを盛んにしました。

               ◎織田信秀は斉藤利政(道三)と和睦
 その後、(天文十八年(1549年)に織田信秀は斉藤利政(道三)と和睦し、同盟を結びます。 その証として信秀の息子「信長」と道三の娘「濃姫」との婚儀が成立します。
 信長は斎藤道三の娘・濃姫を正室として迎え入れた。この時、信長15歳、濃姫は14歳、典型的な政略結婚であった。

Iが道三と信長が会見した聖徳寺跡

愛知県尾西市起大堀の「聖徳寺跡」と碑

わざわざ国境の噂と違った信長を見送った「天神の渡し跡」(一宮市西萩原2249-1天神神社)と
説明碑

            ◎斉藤道三と織田信長会見
 ところが、斉藤利政(道三)は信長の「うつけ」「たわけ」という噂を耳にして。「信長公記」、によると天文二十二年1553年)、直接面会して確かめることになった。
 会見の場所は「愛知県尾西市起大堀414」にあった聖徳寺。信長と義父・道三が、最初で最後となった。
 信長は確かに異様な風体。しかし鉄砲隊などの行列は整然と従い、会見の際は一転、礼装に身を包み堂々と振舞った。その才能を見抜いた道三は帰路、”わが子は信長の臣下となるだろう”と話した。

              ◎斉藤利政(道三)は隠居し、道三を名乗る
 天文(てんぶん)二十三年1554)、道三は突然隠退して家督を嫡男の新九郎利尚(としひさ=義龍)に譲り、隠居後、斉藤利政から道三と名をかえました。

              ◎道三討ち死に
 やがて父子の対立が生じ、弘治(こうじ)二年1556)の「長良川戦い」で道三は義龍ニ破れ信長が救護のため出陣しますが道三公の敗死を知り退却しました。

              ◎斉藤義龍も病死
 義龍(よしたつ)は戦国大名として領国経営に力をそそぎましたが、道三死後、わずか六年で突然病死し、あとを幼い虎福丸(龍興=たつおき)が継ぎました。

         ◎幼少・斉藤龍興(たつおき)稲葉城乗っ取られる
 しかし、斎藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、永禄七年(1564)、家臣・竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が一時期占拠される事件が起きました。 (その時、織田信長は竹中半兵衛に城を譲るよう接触しましたが、半兵衛は「主君を諌めるための挙兵、いずれは主君に返すつもり」と断ったという節もあります)

              ◎稲葉山城・織田信長に攻略される
 その後、竹中氏らは敗北し、稲葉山城は再び龍興の手に戻りましたが、この事件によって斎藤氏は一挙に衰退し、ついに永禄十年(1567)、稲葉山城は織田信長に攻略され、龍興は城を捨てて逃れました。

           ◎信長入城
 永禄十年(1567)織田信長は、「井口(いのぐち)」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。入城した信長公は斉藤家の有能な旧臣を雇います。その一人が武井夕庵(せきあん)。夕庵は、美濃の禅僧たちが使う「天下」と言う魔法の言葉を学んでいました。信長公が「天下布武」印用い天下取りに進みます。

               「広報ぎふ」(特集 信長公2012.1.1号)より

信長が岐阜に入城してから使用した
「天下布武」の印

楽市楽座制札(国重要文化財)円徳寺蔵
信長が岐阜に入城した直後の1567年10月に出された

   岐阜城の歴史(その三) 織田氏三代(信長・信忠・秀信)
 永禄十年(1567)、斉藤龍興(たつおき)を稲葉山城から追放した信長は、山麓の井ノ口村に城下町を造って新たに「岐阜(中国周の文王(ぶんおう)が岐山(ぎざん)に興って天下平定をなしとげたという古事に基く)」と命名し、「麟(きん)」の字の花押とともに「天下布武」の印判を使用しはじめ、岐阜の地を拠点として、天下統一をめざした城下町作りに着手しました。
信長は稲葉山城を整備し岐阜城とする
 稲葉山城も岐阜城と呼ばれ、城の整備を大々的に行い、斎藤氏の居館を壊して新しい館の建設を始めます。
 また城下町の繁昌を図るために、市場税の免除や座(中世商工民の組合)の特権を否定する「楽市楽座」を推し進めた結果、信長の入城二年後に同地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、町の様子を「人口八千ないし一万人、バビロンの混雑」のようだと、本国へ報告しています。
 天正三年(1575)、信長は岐阜城を長男の信忠に譲り、翌四年に安土城を築いて、ここに移りました。
 天下統一へ大きな前進をしたのですが、七年後の天正(1582)、明智光秀の謀反による「本能寺の変」で、長男信忠とともに京都で討死しました。
信長の孫秀信のとき関ヶ原前哨戦で火薬庫が爆発し落城
 その十年後の、文禄元年(1592)、豊臣秀吉は信長の孫秀信を岐阜城主に封(ふう)じました。
 しかし、慶長五年(1600)関ヶ原合戦で、秀信は家臣の反対を押しきって西軍に味方したため、東軍に攻められて八月二十三日落城、秀信は降伏し、高野山へ送られて同地で26歳で死去しました。(一説には他へ逃れ長生きしたとの話もあります)                  (岐阜市)

織田信長画像
(狩野元信筆)
天正11年(1583)ごろ(重要文化財)

岐阜城最後の城主・織田秀信画像
(円徳寺蔵)
秀信は岐阜城落城後、高野山に入った。

(岐阜城展示品画像より)

 

織田信長公居館跡

                    千畳敷の冠木門
 2本の門柱の上の方に、冠木(かむりき)とよぶ横木を貫いてわたした形式の門。
 千畳敷の発掘調査では門の跡が発見されたことはなく、その位置・形式は不明であるが、織田信長居館跡の整備にあたって、岐阜城主の館が建てられていたころの雰囲気を伝えるため、往時の姿を想定した門を設置して史跡への入口とした。
                                    (岐阜市)

             

                水路と石垣、階段跡
 上流の滝を経て流れてくる谷の水は、かってこの水路を通っていました。
 「く」の字状」に折れ曲がった水路の南側にみえる本格的な石垣は、城郭石垣の初期の形式を示しています。
 右手の階段は直線的に伸びていることが発掘調査で確認されています。
 フロイスの記録では、信長の宮殿へ至る過程で「広い階段」を登る記述が出てきます。
                               (岐阜市)

                 入角と出角・下層石積
 右手の石垣はクランク状に折れ曲がり、入角(いりずみ)と出角(でずみ)をもつ。
 このように石垣を意識的に屈折させることは後に盛んになるが、本例はその初源的なものと思われる。
 現在は一段が残存しているにすぎないが、出角の石が山側へ傾いて置かれていて、本来はこの上に勾配をもったかなり高い石垣があったことが想像させる。
 最下段の比較的大きな石が発掘調査で出土した石垣遺構で、他の小さな石は土砂の崩壊を防ぐために今回積んだものである。
 周囲より一段低い位置にある右手の石積は、これより時代の古い下層の石積で、左手の石垣の築造時に埋められている。
 小さな石を使用して積み上げていて対照的である。
 北西側の下層遺構群と同時期の可能性があり、織田信長入城以前のものと思われる。
 高さ約2mあるが、そのうち上1mを展示してある。
                                  (岐阜市)

                                宣教師ルイス・フロイス
 織田信長公居館についてはポルトガルから来た宣教師のルイス・フロイス記述が唯一の資料で、これを参考にして、細々と発掘中です。

         織田信長居館跡
 永禄十年(1567)織田信長は、稲葉山城主・斉藤龍興(たつおき)を追放して、「井口(いのぐち)」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。
 金華山西麓にあたるこの辺りには人工的な二〜三段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下という。
 ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれている。
 昭和59年から行なわれてきた発掘調査で、両側に板状の巨石を立て並べ、千畳敷へと折れ曲がりながら上がっていく通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路などが発見された。
 岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、慶長五年(1600)関ヶ原の前哨戦で落城するまで続くが、これらの遺構の多くは、その出土品などから信長時代にその基本的な造作が完成したと考えられる。
 巨石を用いる例は、江戸時代の大阪城大手門や搦手(からめて)門等にうかがえるが、この時期には稀である。
                   (岐阜市)
著書「日本史」
イエズス会のポルトガル宣教師フロイスは信長の信用を得て、近畿を中心に日本での布教活動をしていた。
文筆の才能にも恵まれ、著書「日本史」をはじめ、様々な文書で当時の日本を記述。
岐阜城にも訪れており、その客観的かつ詳細な記述は、ここの発掘に大きな手がかりになっています。

現在発掘中の成果とロイス・フロイスの記述からの推測図(広報「ぎふ」より)

庭園の可能性のある「A地区」から出土した中国の焼物
茶室?「B地区」(広報「ぎふ」より)
巨大な石列「C地区」
ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの「アルカラ版イエズス会士書簡集」
岐阜城信長公邸について之記述はほとんどなく唯一ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの「アルカラ版イエズス会士書簡集」に頼るしかありません。(岐阜市歴史博物館蔵)広報「ぎふ」より

 

では、山頂の天守閣へ登りましょう。登山ルートは5通りあります。

登山道ルート図
(小学館発行「名城をゆく=岐阜城」から)

1.金華山ロープウェー(片道600円)        
2.瞑想の小径(水手道)(家族向け)        
3、馬の背登山道(一番きつい登山道)       
4、百曲り登山道(比較的楽なルート)       
5、七曲り登山道(楽な道であるがルートが長い)

ロープウェーで登ると「百曲り登山道」と「七曲り登山道」の脇へ出ます。

百曲登山道

        百曲登山道
 百曲がりの名にそむかぬ九十九折りの山道でとかのルートに比べて最短コースで30分くらいのルートです。
 ただし途中に13ヶ所の難所がありますが、長良川や市街地が望見でき、眺めも良く中学生以上の登山に適します。

七曲り登山道

       七曲り登山道
 所要時間は40分くらい、起点はドライブウェー夕陽が丘です。
 小学生でも楽々と登山できるルートで、かっての大手道で通常の登城道でした。

山頂にはロープウェー駅から天主へルートに「天下第一の門」「上格子門跡」
「馬場跡」「天狗岩(瓢箪岩)」と順にたどれます。

 

山頂へ着くと最初に目に入るのが「天下第一の門」で旧三の丸付近に復元された冠木門です。

天下第一の門

          天下第一の門
 永禄十年九月初日、稲葉山城を攻め落とした織田信長は、直ちに尾張国から美濃国に本拠を移した。
 稲葉山の城郭を再建するとともに城下町の井ノ口を岐阜と改名し、楽市楽座の継続を認めるなど美濃国の繁栄を図った。
 また信長は「天下布武」の朱印を用い、岐阜城が天下統一へ踏み出す城となった。
 信長の大志を讃えてここに冠木(かむりき)門を建て、その偉業を伝える。
                     (岐阜市)

上格子門石垣

    関ヶ原かせん前哨戦の岐阜城攻めの激戦地
 慶長五年(1600)八月関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城主織田信雄(のぶかつ)を攻めた東軍の福島正則・加藤嘉明・細川忠興(ただおき)の軍勢が七曲りから、京極高知の軍勢は百曲りから、それぞれこの地に攻め上り、激戦となった。

更に進むと上格子門跡へ出ます。

上格子門跡

        上格子門跡
 城下の大手門から急坂な大手道(七曲道)を上ってきたここに「上格子門」が建っていた。
 東(右手)に大きな岩塊、西(右手)には切り立った岩壁がそびえ立ち、頂きに七間櫓が築かれていた要害の場所である。
 関ヶ原合戦の前哨戦となった慶長五年(1600)八月二十三日の岐阜城攻略戦では、攻め登って来た東軍の福島正則らの軍兵と岐阜城主織田秀信軍の将兵が、この門をめぐって激しく戦った。
                 (岐阜市)

松田尾砦跡

 松田尾(まつだお)砦は、上格子門(あげこうしもん)から東に下がった尾根上に築かれ、わずかな平坦地が3段になっている。
 この砦のほか、丸山砦・稲葉山砦・権現(ごんげん)山砦・瑞龍寺(ずいりゅうじ)砦などが、金華山の尾根筋を四方八方固めて、山麓の巨大居館とともに、岐阜城の要塞化に一役かっていた。

             瑞龍寺砦
 現在の禅宗道場「瑞龍寺」(岐阜市寺町)の裏山の上に「瑞龍寺砦」はあったといわれています。 (原画像は住宅不動産会社新聞折込広告より)

馬場跡

          馬場跡
 岐阜城の郭内では唯一の平坦な土地で上格子門から幅3間
(5.4m)、長さ30間(54m)続いている。
 元禄年間と推定される岐阜城絵図の「馬場跡」に位置している。
 岐阜城に詰めていた将兵が馬を繋いでいた場所とか、乗馬の訓練をした所とか言われている。
 一説には馬場ではなく矢場であるとも言う。
                 (岐阜市)

「馬場跡」を過ぎるといよいよ天守閣が見始めます。

小学館発行「名城をゆく・岐阜城」の岐阜城地図から

閻魔堂

岐阜城題目塚

                      塚の由来
 岐阜城は斉藤道三以来、織田信長・池田長政・織田秀信など幾多英雄の興亡の地として多数の戦没者を出しているのであります。
 これらの霊を慰めるためいつのころからか無名の信者によって、南無妙法蓮華経のお題目碑が建てられたのであります。
 (碑には建立年代は書いてありません)
                                    (岐阜市)

天守閣の最初の絶景ポイントはこのあたりです

斉藤道三画像
常在寺蔵 重文
(岐阜城展示のレプリカより)

本丸砦

二の丸橋

金華山山頂の岐阜城には城の南西に軍用井戸が四つあるそうです。
その一つがこの本丸井戸です。この井戸の谷の方にもう一つ井戸があります。

岐阜城の井戸
(本丸井戸)

              本丸軍用井戸
 濃尾平野の北端に独立してそびえ立つ稲葉山(金華山)は、かって「一石山(いっせきざん)」と呼ばれたように全山が一つの岩塊で成り立っている。
 山上に天守閣をはじめ多くの櫓や蔵と郭(くるわ)を構え、番兵を配した要害堅固な城であったが、籠城に備えた飲み水の確保は非常に困難であった。
 湧水は一滴もないため雨水と岩の間から僅かにしみでてくる水を溜める井戸を岩塊に掘削している。
 二の丸を挟んで西側に3ヶ所、東側に1ヶ所の井戸がある。
 この井戸は、二の丸東に位置する軍用井戸で本丸井戸で「本丸井戸」と名付けられている
(岐阜市)

本丸道

岐阜城の四つの軍用井戸のうち先の本丸井戸とその谷側の井戸の他に、この金銘水が三つ目の井戸です。

軍用井戸
(金銘水)

              岐阜城の井戸(金銘水)
 湧水は一滴も無い金華山では雨水と岩の間から僅かにしみでる水を溜める井戸を岩塊に掘削している。
 二の丸を挟んで西側に3ヶ所、東側に1ヶ所の井戸がある。
 この井戸は、二の丸の西に位置する軍用井戸で「金銘水」と名付けられている。
 (岐阜市)

金銘水井戸から天主へ向かう途中に馬の背道の下り口がある。

馬の背道 下り口

 かっては急ぎの時に利用されていた道で、30分で下まで下りられるが急勾配で健脚用である

天主の前を過ぎ一番北にある下り道で家族向けの道であるが、道は悪くめい想の道とは思えません。

瞑想の道 下り口

              めい想の小径(こみち)(家族向き)
(祠の左から下ります) 
 ここから下るのを昔は、水の手道といいました。
 途中に一部に難所はありますが、長良川の清流を望むことができる眺望の良い登山道で、3・40分で岐阜公園三重塔付近へ下りられるのでめい想の小径として登山者に親しまれています。
 慶長五年(1600)八月関ヶ原合戦の前哨戦の時、東軍の先鋒・池田輝政軍が攻めの登ってきたのもこの水の手道といわれています。
                           (岐阜市・岐阜森林管理署)

池田輝政の掟書
織田信忠死後岐阜城主になった

天正十二年(1584)七月
          加納宛 池田輝政掟書(制札=レプリカ)
        加納
一、當市場越居之輩、国中往還煩ある
   へからす、井町中門並諸役免許
   せしむる事
一、楽市楽座之上、諸商売すへき事
一、をしかい・狼藉・喧嘩・口論・理不儘之使不可
   入、付陣取・放火・停止の事
 右條々、堅令停止迄、若有違犯
 族者、速可處科者也、仍如件
     天正拾弐
        七月 日
         三左衛門尉(池田輝政)花押

 天正十年(1582)六月二日、織田信長は明智光秀の謀反により京都の本能寺で討死し、岐阜城主織田信忠(信長長男)も二条城において光秀軍に攻められて討死しました。
 信長の死後、羽柴秀吉の勢力が伸びてきたため、翌年徳川家康は信長の子信雄(のぶかつ=信長の次男)を味方に誘って秀吉を倒そうと兵を起こしました。
 同十二年小牧・長久手の合戦で、秀吉の武将池田恒興(つねおき)と岐阜城主池田元助父子が討死しました。
 このため元助の弟池田輝政が後を継いで岐阜城主となり、この掟書を下しました。
 岐阜市円徳寺の所蔵で、国の重要文化財に指定されています。
               (岐阜城展示品より

     大正初年の上空から見た岐阜城
 中央の集落は鵜飼屋。田んぼの中は長良小。まだまだ田畑が多かった時代でした  (岐阜城展示画像より

昭和30年(1955)地元中学生の集団登山の時の石垣
(岐阜城展示画像より

当時の石垣

               天主の石垣
 みるからに素朴な自然石である。
 明治末に復興された岐阜城はトタン葺きだったが、石垣は信長時代の意志がそのまま使われ積みなおされた。
 この貴重な石垣を保存するため、昭和の再建時には、鉄筋コンクリート城の重量は岩盤がすべて引きうけ、石垣にはいっさい負担がかからないように工夫されている。

岐阜城の歴代城主

                岐阜城の歴史
                                鎌倉時代は砦から
建仁元年1201年)  二階堂行政(にかいどうゆきまさ)が金華山の上にを築いたのが始まり          
             佐藤朝光(さとうともみつ 二階堂行政の女婿)                       
             伊賀光宗(いがみつむね 佐藤朝光の子)                
             稲葉光資(いなばみつすけ 伊賀光宗の弟)              
             稲葉光房(いなばみつふさ)                               
             二階堂行藤(にかいどうゆきふじ 行政の孫の子)の後、廃城となる

                             室町時代
応永19年1412年斉藤利永 守護土岐氏の守護代。城を修築して在城
文安2年1445年) 斉藤利永 加納城を築城
大永5年
1525年)、長井長弘(斎藤氏の家臣)と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃。 長井氏の支配下となる。
天文2年1533年)、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。、
永禄7年1564年)、竹中半兵衛重治(斎藤氏の家臣)と安藤守就がわずか17名で造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。斎藤龍興らは             城を捨て、竹中らがしばらく占拠する。
永禄10年1567年)、予てから美濃攻略を狙っていた織田信長が木下藤吉郎の活躍により稲葉山城を攻略。
             織田信長は斉藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。
             信長は地名も井ノ口から「岐阜」と改め、城の名前も岐阜城とした

                               安土桃山時代
天正10年1582年)、織田信忠が、本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取る。
             しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、降伏。
天正11年1583年)、羽柴秀吉に反発した織田信孝は、柴田勝家と呼応し、挙兵。落城する。
             賤ヶ岳の戦いで柴田勝家も敗れる。
天正11年1583年)から天正19年(1591年)の間、羽柴氏家臣の池田元助(元助が小牧・長久手の戦いで戦死後は池田輝政)の居城             となる。
慶長5年1600年)、秀吉によって13万石の城主に封ぜられていた城主織田秀信(幼名・三法師)は石田三成の挙応し、石田方につく。             関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城。
慶長6年1601年)、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に十万石を与えて、加納城を築城させる。
             その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に移されたという。
             家康は時代の変化をとらえ岐阜城が山城であることから加納に平城を築かせた。

                     江戸時代
             家康に岐阜城にあった天主、櫓などは加納城築城のため持ち去られ石垣のみ残った。
史実「加納城建築の資材使われた岐阜城」
 しかし、関ヶ原合戦後、豊臣の巻き返しを恐れた家康は岐阜城(3層天守)を石垣の石までまで、加納城を作るために運ばせたとあります。
短期築城
 急いで城などを造るとき木材は木を山から切り出して半年は寝かせなくては使いもになりません。
 だから、岐阜城の天守や麓の豪華信長居城の木材は必要でしたが、石材は寝かせる必要がないので、わざわざ山頂から運ばせる必要はなっかのでしょう。
麓の千畳敷きの信長居城「千畳敷御殿」は?
 家康は合理主義者で、用心深い人柄でした。
 ポルトガル宣教師ルイス・フロイスの著書で外国にまで紹介された豪華な信長居城「千畳敷き御殿」は、家康が天下を治めるきっかけとなった、思い出に地「赤坂宿」に”将軍専用の宿舎”を造らせるために、移設されました。
 しかし、その豪華な造りは明治維新後、赤坂の豪商「矢橋家」の別邸に払い下げられ、「花屋敷」と言われ現存します。
(詳しくは、「中山道美濃路後編」の”赤坂宿”をご覧下さい。)

                     明治時代
明治43年1910年) 復興天主建造 
 金華山山頂に残されていたかっての岐阜城石垣を利用して、明治43年(1910)5月15日に模擬天守が再建され落成しました。
 これは初代の長良橋の廃材を活用し、岐阜市保勝会と岐阜建築業協会などの労働奉仕により建てられたもので木造、亜鉛(トタン)葺きのもの(3層3階、高さ15.15m)で映画のセットのようなものであったらしい。

 しかし、この模擬城も終戦2年前に浮浪者の失火により焼失したが、戦局が思わしくなく日常生活も苦しくなり、岐阜市民は夜、燃える岐阜城を見上げる程度でした。

                     昭和時代
昭和18年1943年)2月17日早朝に失火のため焼失。なお建築から34年たち老朽化のため建替えの話も出始めていたという。                                      
  昭和30年1955年)6月、再建期成同盟が発足。建設は市民、財界の浄財によると原則で必要な費用2,000万円の募金が行われ、
             約4ヶ月間で1,800万円が集められた。              
 昭和31年1956年)7月25日、鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が落成。
             天守閣の設計は加納城御隅三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久(名古屋工業大学名誉教授)が設計、大日             本土木が施工した。なお建築にあたり土台部分の石垣内部に大掛かりな補強が行われた。 

天主を目の前にして更に天主へ近づきます。

     信長の天下布武への階段
桶狭間から美濃へ

 稲葉山城征服の9年前、蜂須賀小六(正勝)らに案内させ尾張領内の伊岐山に登った信長は、山頂から遠近(おちこち)の高い山を眺めて「アレヨ小牧山よ、稲葉山よ」と上機嫌だったという。 信長25歳のときである。
 それから5年後には小牧山に新城を築いた。
 信長のさらなる夢は、稲葉山(金華山)に向かって広がった。
 そして永禄十年(1567)、ついに稲葉山城を落した。
 34歳にしてようやく念願の美濃を手中におさめたのだ。
井ノ口里から「岐阜」へ
 信長は直ちに新しい城を築き、そこに岐阜という新しい名を与え、新しい都市を建設しようとした。
 楽市楽座の制札をかかげ、自由で平等な商工活動を保証した。
 そして、この新しい経済政策に平行して、信長のそれまで「麟」の花押に代えて、「天下布武」の印章を使うようになる。
 この4文字には、岐阜城主となった信長にとって、次第に明確になっていった政治理念が表現されている。
 それは旧来の領土支配などではなく、たとえば楽市楽座が完全に実現した世界、新しい原理によって統一された世界を、切りひらこうとするものだった。
 そのための「天下布武」であった。
「天下一」公許の制
 信長は、みずからの理想を象徴する、この「天下」という言葉を好んだ。
 その好みを取りいれたのが「天下一」公許の制だった。
 最も優れた技能者と判定した職人に「天下一」の称号を与えて、技能の発達を奨励したのである。
 天下一の釜作り、天下一の畳作り、天下一の鏡作り等々が輩出した。
 さしずめ「人間国宝」の先駆というべきもので、清新の気にあふれた城下の殷賑(いんしん)ぶりがしのばれる、卓抜な文化政策であった。
                 (小学館「名城を行く=岐阜城から) 

最後に天主台への階段を上がります。

         宣教師フロイスの岐阜行き
 永禄十二年(1569)、イエズス会の司祭、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイス一行は、岐阜城を訪ねた。
 このときフロイスが見たのは、人々が忙しげに行き交う岐阜の城下で、その賑わいは「バビロンの混雑」を思わせたという。
 バビロンは、かって世界文化の中心として栄えたメソポタミアの古代都市である。
 金華山麓の信長居館に導かれたフロイスは、巨大な石垣や「劇場のごとき大なる家屋」
に驚愕し、「クレタの迷宮」のような複雑な構造と、美麗な座敷に賛嘆。
 更に閑静な茶室や庭に感じいり、4層の展望台から町を望見した。
 同年、入京中の信長に謁見して知遇を得ていたフロイスは、あらためて自由な布教の保障を得た。
 そして、信長が城を案内するというので、滞在を2日延長する。
 激しい雨の中、城中でフロイスと2〜3時間談話を続けた信長は、矢継ぎ早に世界の国々の特質や習俗について質問し、よほど満足したのか、みずから食膳を運んでもてなした。
 膳をおし戴くフロイスに、信長は「汁をこぼさぬよう、真っ直ぐに持つように」と忠告したという。            (小学館「名城を行く=岐阜城から) 
                  岐阜城の由来
 鎌倉時代の建仁元年(1201)、幕府の執事・二階堂山城守行政が軍事目的のためにここに初めて砦を築いたと伝えられているが、稲葉山城として日本史に大きく登場してくるのは斉藤道三以降のことです。
 斉藤道三は天文(てんぶん)八年(1539)二月に稲葉山城を修築して入城し、続いて子の義龍、孫の龍興が城主になりました。
 永禄十年(1567)織田信長は斉藤龍興と戦って稲葉山城を落し、九月新城主として入場しました。
 信長は稲葉山城を岐阜城と改め、楽市楽座を保護し、「天下布武」の朱印を用いるなど天下統一の本拠地としました。
 永禄十二年二宣教師ルイス・フロイスが岐阜城を訪れ、その壮麗さに驚いたことを書簡に記して本国ポルトガルへ送り、西洋にまで岐阜城のことが知られるようになりました。
 その後、織田信忠・神戸信孝・池田元助・池田輝政・豊臣秀勝が岐阜城主となりましたが、慶長五年(1600)八月二十三日岐阜城主・織田信秀(信長の孫)は西軍の豊臣方に味方して東軍の徳川方と戦い、福島正則・池田輝政に攻められて開城しました。
 慶長六年、岐阜城は廃城となり天主閣・櫓などは取り壊されて加納城に移築され江戸時代には金華山頂に天主が建てられることはありませんでした。
 明冶43年(1910)長良橋の廃材を利用し土木建築組合が、木造の模擬城が建てられましたが、昭和18年(1943)浮浪者の失火により焼失しました。
 その後、観光岐阜のシンボルとして、また安土桃山時代の華麗な城郭を再現したいという岐阜市民の熱意と浄財により昭和31年に現在の三層四階の天主閣を再建しました。
 平成九年大改修工事を行い、織田信長の頃の壮麗な天守閣の姿を再現しました。
                                (岐阜市)
                 岐阜城の歴代城主
1、二階堂行政(生没年不詳)
 鎌倉時代前期の鎌倉幕府吏僚。 二階堂氏の祖。
 父は藤原南家流の行遠。母は熱田神宮司季範の妹という。
 行政は源頼朝に早くから仕え、鎌倉幕府の文吏として幕政に参画する。
 頼朝が公文所(くもんしょ後に政所=まんどころ)を開設すると、行政は公文所寄人となり、ついで政所令となる。
 以降 二階堂氏は代々政所執事として幕府の財政事務を所管することになる。
 頼朝が義経・泰衡らの怨霊をなだめるため永福寺の建立を発願すると、建久(けんきゅう)二年(1191)行政はその造営奉行に任じられる。
 また、行政は、建仁二年(1201)に稲葉山に砦を築き、京都への押さえとする。
 行政の一門は、関東から美濃のほか陸奥・出羽・駿河・伊勢に及び、美作・安芸・伊予・薩摩などにも豪族として繁栄した。

2、佐藤朝光(ともみつ)(生没不詳)
 二階堂行政の女婿子。 行政の後を受けて稲葉山城を受けて守る。
                                (岐阜市)

明治末期に復興された岐阜城  (岐阜城展示画像より

天主閣内の展示品

天主閣4層からの眺望

 岐阜城天主閣より長良川を望む
 長良川の清流が岐阜市街地ゆったりと貫流するさまは、まさに天下の絶景。
 その絶景は天主からの遠望が一番だといわれています。岐阜の歴史はそのまま長良川の歴史ともいえます。
(画面中央の平野の中にある一番小さな小山が、斉藤道三が隠居後息子義龍に攻められた「鷺山城」のあった、鷺山です。)

岐阜城 岐阜城資料館

歴史的には6回も落城
山城。難攻不落の名城として知られているが、歴史上6回の落城にあっている。
山頂部の平坦面は少なく、井戸も雨水を蓄えるもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には不向きであった。
織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、永禄12年1569年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。
その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。岐阜城は合戦のための城でなく、基本的に城主の居住空間なのである。

        岐阜城落城物語

開戦前夜の美濃
 
 開戦前、岐阜城主、織田秀信織田信長の嫡孫で弱冠19歳)は木造・百々両重臣や善行寺和尚「円清」が家康側につくことを勧めたが先に「石田三成」との密約をしており、変えることが難しいとして、西軍「石田三成」に加わることに決断しました。
 この織田秀信の決断で美濃の武将のほとんどは西軍側に荷担することになりました。

岐阜城へ迫る
 慶長五年(1,600)8月22日に笠松の「米野の戦い」「竹鼻城攻撃」下川手「乱闘橋の闘い」の敗戦で岐阜城へ逃げ帰った城主、織田秀信は同夜、緊急会議を開き、城の外郭防衛のことを協議しました。
 しかし、木曽川渡河と竹鼻城をほとんど無血で落とした福島正則軍勢二万余騎池田輝政一万八千余騎織田約九千余騎が手を打つ前の翌二十三日、早朝に岐阜町入り口の”住吉神社”(現名鉄「新岐阜駅」横)より”美園通り”を北進して来ました。

岐阜城へ攻撃
 無傷の福島正則二万余騎と、笠松「米野の戦い」の激戦の池田輝政一万八千余騎の東軍先鋒隊は三手に分かれて岐阜城を攻撃することになりました。 
 福島正則軍
は正面の総門を、
 浅野幸長は「瑞龍寺砦」へ、
 池田輝政城の北側から攻撃と進撃を開始しました。

      福島正則二万余騎に増えたわけ
 
木曽川を池田輝政軍より下流で渡河して竹鼻城を攻撃した福島正則軍は敵が大規模な柵を作り鉄砲隊を用意して待ち構える正面攻撃を避け、もっと下流の尾西市加賀野井付近から夜間に渡河してしまいました。
 慌てた竹鼻城主杉浦五郎左衛門1,500余騎石田三成の援軍の将、毛利・梶川・花村勢の約3千余騎は竹鼻城に立て籠もり戦うことにしました。
 しかし、1万8千余騎に城を取り囲まれ、福島正則と旧知の仲の城側の石田三成の援軍の三将はあっさりと福島正則側に付いてしまい二万余騎に膨れあがった訳です。
 本丸で籠城した城主「杉浦」勢は討ち死にしました。

           戦う前に落城決定
 しかし、「瑞龍持砦」横の「善行寺」円清和尚は以前から「家康」と親交があり、高く評価していました。
 また、岐阜城主「織田秀信」にも信頼されており、岐阜城攻撃の前夜の会議にも出席していました。
 円清和尚は会議後、すぐに池田輝政に岐阜城側の作戦内容と城の裏手には兵が居ないことを知らせました。

                                   瑞龍寺砦の戦闘(現在の瑞龍寺の裏山)
 二十三日午前六時頃、浅野幸長一柳直盛、井伊直政軍は攻撃を開始しました。
 砦側の兵勢は二千。これを攻める浅野幸長軍は五千。   激戦の末、午前十時には砦は落ち戦いは終わりました。

                                   七曲口の戦闘(現在の岐阜公園東あたり)
 岐阜城の麓「七曲口」を出て「京町口」を固めていた城方の武将、津田藤三郎は「瑞龍寺砦」の戦闘で敗れ逃げてきた味方の兵をまとめ、七曲口まで引き上げようとしたところ、現在の岐阜公園入り口あたりで福島正則勢の追撃を受け、激闘の末「七曲坂」を登り「一の木戸」に入り門を堅く閉じ防御に入りました。

 しかし、福島、細川、加藤の東軍勢力は圧倒的に多く、「百曲口」「上格子門」「二の丸門」と次々と破られ、最後に本丸まで追いつめられてしまいました。

本丸の塀から傘を出す
 本丸も攻められついには城には火が放たれ、その火が二の丸南西にあった火薬庫に引火し大爆発が起りました。
(最近この火薬庫も復元され資料館となりました。 画像の中央の建物)
 最後には城主、織田秀信家臣三十六人となり秀信は自害しようとしましたが福島正則は塀の外から「今は敵味方に分かれ戦っていが、もとは織田右府(信長)の恩沢に浴したこともある。ここに謹んで助命を受け入れるので自害は思いとどまられよ」と言い放ち思い留まらせました。

そして秀信側は塀の外へ傘を出して降伏の求めました。(当時は傘を出すことによって「降伏」としたそうです)

                           根回し
 しかし、戦闘当初から城主秀信織田信長の嫡孫で弱冠19歳)に重臣の木造具政(こずくりともまさ)(国道156号線岩戸トンネル東あたりに木造の地名が残っており子供がほしい人達が訪れる名所になっています)や百々綱家(どどつないえ)(現在も長良奥郷の百々ケ峰として名を残しています)と善行寺和尚「円清」が家康側につくことを勧ており、また木造・百々両重臣も福島正則らと旧知の仲であり、ある程度双方事前に筋書きができていたことも考えられます。

                         権現山と駿河町
 その裏付けとしてこの戦いの二十日ほど後の九月十三日に岐阜へ到着した家康は木造横町の百々綱家宅へ泊まりました。
 が二十日ほど前は敵重臣であった家へ泊まるのは用心深い家康はできず、泊まると見せかけて裏山へ隠れ一夜を過ごしたといわれています。
 このため後にこの裏山を権現山と言い現在の地名も「駿河山」となっています。)

織田秀信、弱冠十九歳で出家
 「この度の籠城につき、手を砕き、比類無き働き見届け候段、尤もに感じ入り候也  慶長五年八月二十三日  秀信(花押)」
感状を家臣に与え、午後三時頃には小姓十四人を伴い上加納村の浄泉坊(今の神田町通り「円徳寺」)に入り武具をはずし
住職を導師として剃髪し高野山におくられました。 

その後「秀信」は高野山で二十六歳まで過ごし自害したそうです。

木曽川を突破(渡河)され、たった二日の戦いで落城
 岐阜城は城下へ進入され、一日それも数時間で、あっけなく落城してしまいました。
関ヶ原合戦(9月15日)の20日余り前のことでした。

 

      「世界糖尿病デー」でブルーのライトアップ
 2008年11月14日の国連が定めた「世界糖尿病」のテーマカラーに合わせ岐阜城もブルーにライトアップされた。
 300mmの望遠レンズで試したが夜間のためブレが大きく撮れなかった中日新聞の写真を借用しました。

岐阜城資料館

かっての岐阜城の火薬庫を復元したといわれています。

下りは「めい想の道」が景色もよく道も良いのでおすすめです。

瞑想の道と馬の背道の出合い

岐阜公園近くまで下ってきた地点で健脚向きの「馬の背道」と合流します。

その合流点に伊奈波神社跡(丸山砦跡)と烏帽子岩があります。

伊奈波神社跡
(丸山砦跡)

   伊奈波神社旧蹟・烏帽子岩
 伊奈波神社の主神は、景行天王の兄・五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)で、武勇にすぐれ、大和丹波の神宝の管理をしていたが、その職をほか命(みこと)に譲り、晩年稲葉山麓(金華山)の丸山に居住せれたといわれ、その威徳を偲びこの地に祀られていたが、天文八年(1539)斉藤道三が稲葉山を居城とするにあたり、城より神社が下にあってはと伊奈波神社を丸山より伊奈波通の今の地に移した。
御手洗池
 丸山の北面の真下に神社に詣でる時に手を洗ったという池があり、御手洗池という。
 慶長五年の岐阜城落城の際、奥女中がこの池に身を投げたと伝えられている。
烏帽子岩のご利益
 神社跡にある烏帽子の形をした岩は、長良川の川底に、神様の烏帽子をかぶせた岩が沈んでいるいう人があり、神様の岩をそのままにしておくのはもったいないと、岩に縄を掛けて、丸山に引き上げた。
 すると、岩が沈んでいつと触れ歩いた人は、その時から大変幸せに暮らしたという言い伝えがもあります。
(岐阜市)

丸山から麓へ「めい想の道」を下ると千畳敷の手前に三重塔があります。

三重塔

明七橋(初代長良橋)の古材で建てられた三重塔

高さは24m
屋根上の相輪を含めると、25,8mになります。

                           大正天皇即位記念
 大正天皇の即位を祝う御大典記念事業として記念塔の建設が企画され、岐阜市が、市民の寄付を募ったうえで、大正六年(1917)にこの三重塔を建立しました。
 材木には、明冶二十四年(1891)に発生した濃尾大震災により倒壊した長良川の古材が利用されています。
 石造りの二重基壇の上に建つ木造三重塔で、各重(各層)とも3間四方のつくりです。
 中央の心柱は、鎖で吊り下げて基礎から浮か下懸垂式と呼ばれるもので、江戸後期から明治にかけて、全国でも僅かな例しか見られない特徴的な方式です。
 装飾を用いない古風で調和の取れた意匠は、明治神宮などを設計した日本建築史学の創始者と評される伊東忠太の手によるものです。
 また、塔を建てるのにふさわしい場所としてこの地を選んだのは岐阜市の小学校を卒業している日本画家、川合玉堂といわれています。
                                                              (岐阜市教育委員会)

             建設地の選定の由来と川合玉堂翁
 建てられたのは1917年。当時の新聞は、『川合玉堂氏(1873〜1957)が金華山を歩き周り、丸山に登る途中、松尾芭蕉の句碑の傍らを建設地に選んだとされる』と報じていたそうです。
 川合氏は愛知県木曽川町(現一宮市)に生まれ、岐阜で育った。  
 公園内の加藤栄三・東一記念美術館の熊崎館長は「玉堂翁は岐阜の渓流に似ているからと、東京の多摩川の地を選び、庵を建てたほど岐阜に親しみを感じていたようだ」とまた「岐阜は第二の故郷とよく訪れていたので、その縁で塔にかかわったのではないか」説明しています。(中日新聞・岐阜近郊版より)

               設計者は東京帝大教授
 設計したのは、東京帝国大教授の伊東忠太氏(1867〜1954)で、平安神宮(京都市)や築地本願寺(東京都中央区)を手がけ、欧風や和様折衷ではなく日本固有の様式の発展を目指していた。
 関係者は「同氏は法隆寺の柱の様式はギリシャ神殿に由来すると突き止めた人で今も建築学を学ぶ学生が卒論を書くため岐阜に来るくらいだ」と説明しているそうです。(中日新聞・岐阜近郊版より)
         明七橋(初代長良橋)の古材を利用下三重塔
 塔の建材には鎹(かすがい=柱と柱をつなぐ建築備品)の跡が残っており長良橋の古材の証でもあります。
 当時の長良橋は明治七年(1874)に造られた初代の木橋で「明七橋」と呼ばれていました。 
 「明七橋」以前は木造で南岸から途中までしか橋は無く、途中から北岸までは船を12艘つないだ上に木板を渡した船橋で民間の建設で有料橋だったそうです。
 その「明七橋」が二代目に架け替えられる時の古材を利用したと伝えられています。(中日新聞・岐阜近郊版より)

また岐阜公園には名和昆虫博物館もあります。

また夏の期間は長良川で鵜飼もおこなわれています。

 

次頁で「岐阜城周辺の城址」として岐阜市(加納城址・高桑城址・長森城址・鷺山城址・黒野城址・
上茜部城址・川手城址・鏡島城址の8城址)各務原市(伊木山城址・鵜沼城址の2城址)、関市(関城址の1城址)、
美濃加茂市(堂洞城址の1城址)、羽島郡(伏屋城址・松倉城址の2城址、加茂郡(加冶田城址・
啄(さるばみ)城址の2城址)など16城址と岐阜県下は高山市(高山城址・鍋山城址・松倉城址)、
郡上市(郡上八幡城)、中津川市(苗木城址)、瑞浪市(鶴ケ城址・小里城址)、恵那郡(岩村城址・明智城址)、
本巣郡(北方城址)の1城・9城址
をご案内します(現在製作中)

           城の用語コラム

平城(ひらじろ): 平地に築かれた城郭。 水利との関係が重視され、築城にあたっては、城下町プラン      も含んでいる。 軍事・政治・経済の拠点として、築港なども伴なった。
       本格的な平城としては、豊臣秀吉による大坂城が創始である。 近世大名の居城として、松本      城・大垣城・赤穂城(あこうじょう)などが平城の典型といえる。
山城(やまじろ): 山の地形を利用し、独立した山または山脈の一部に築かれた城である。
       山岳城郭が全国的にみられるようになったのは、南北朝の争乱期。 籠城戦用として山に城      が築かれるようになった。
       室町時代になると、比高(麓からの高さ)100〜200m級の山城が、守護の居城として一般化      し始める。 戦国時代になると、居城はますます大規模になった。 家臣団を集中居住させる大      山城も築かれる。 日常生活に必要な物資を用立てるために、城下町も出現した。 織田信長      の岐阜城や、安土城は、多数の家臣団屋敷を曲輪ごとに配した、典型的な大山城である。
       江戸時代まで、天主や櫓などの建物が整備されていた唯一の戦国山城が、備中(びっちゅう)      松山城(岡山県高梁市(たかはしし))といえる。 城下町背後の臥牛山(がぎゅうざん)山頂に      は、今も二重の天主がそびえている。
平山城(ひらやまじろ): 山城は戦闘面では強いが、領国支配をおこなう政庁として、また居住性という      点で不便であった。 そこで戦国期には、丘陵の上部を利用する平山城が築城される。 山地      と平地、両方の地勢を利用した城である。 城下町に集まった領民に対し、権力誇示のために      豪壮にして華美な城が造られた。
       岡山城・姫路城・熊本城など、安土・桃山時代に創設された城には、平山城が多い。
丘城(おかじろ): 丘陵城郭の略称。 平山城のうち丘陵上を城地としたものを丘城とよんだ。 主に戦      国末期の支城クラスの城にみられ、武蔵武山城(むさしたけやまじょう=東京都八王子市)・下      野佐野城(しもつけさのじょう)などがこれにあたる。
麓城(ふもとじろ)(里城=さとじろ): 戦争状態がつづく戦国時代には、豪族たちは、山上の城郭に籠      って敵の襲来に備えた。しかし、それでは生活に不便この上ない。 そこで、それほど危険が迫      っていないときには、山麓の居館に住むようになる。 その居館を麓城や里城と称した。
                    (「週刊 名城を行く」から)

GPS位置情報は目標物の測定位置が建物や遺構の中心でなく道路から辿るのに分かりやすく、
駐車場、鳥居、玄関などの場合もあります。その他の情報も2002年頃に現地で確認したものですので、
その後、道路拡幅などによる移転や行政合併特例法による市町村合併で市町村名の変更があるので
その後の情報でご確認ください。

シルバーの城郭城跡の散歩道「岐阜城周辺の城と城址」