シルバーの城郭城跡の散歩道「安土城址と繖(きぬがさ)山 安楽寺」。
築城者: 築城年代: |
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所在地
: 滋賀県近江八幡市 形 式 : 山 城 |
織田信長公が天下統一を目標に天正四年(1576)一月十七日、重臣である丹羽長秀を
総普請奉行に据え標高199mの安土山に築城させた平山城。(「特別史跡安土城跡」パンフレットより)
安土山の位置 |
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安土山は中央の繖山(きぬがさやま)西(左)にあります。 |
天守台は画面の右あたりの山頂にあります。 |
画面中央の緑色が「安土山」で@が「安土城址」 |
大手門跡 |
石塁と大手三門 安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。 この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。 通常の城郭では大手門と呼ばれてる出入口が1箇所だけです。 織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ、門にしたのではないか、 西枡形虎口(こぐち=城郭用語で玄関に当たる部分)以外の三門は行幸などの公の時に使用する門である。 東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。 |
(画像説明文は現地説明板より) |
この中間に「大手門」がありました |
この先「受付」を過ぎ下図の順路で見物します。
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安土城跡順路図 |
安土城の終焉とその後 |
受付から「城址」へ入る前に右側に「東側土塁」と「西側石塁」と「西側上段郭と竈(かまど)跡」を見物します。
東側土塁 |
東側石塁北上郭と虎口 一般に屋敷地の玄関に当たる部分を城郭用語で「虎口(こぐち)」と言います。 東側石塁東虎口の城内側は、一段高い郭が間近に迫り、この郭の南面を画する石垣により遮られています。 石塁との間は約6mあります。 石垣に沿って側溝が設けられていることから大手道に通じる通路であったことが分かりました。 (現地説明板より) |
繖山(きぬがさやま=432m) |
西側石塁 |
西側石塁の枡形虎口と平入り虎口 大手門から西に延びる石塁には2箇所の出入口があります。 最も西端に設けられた出入口は二度折れして入る枡形虎口と呼ばれる構造で、その東側に造られた出入口は、平入り虎口と呼ばれる門を入るとすぐに城内に行き着くものです。 (現地説明板より) |
天皇行幸を配慮して三門に変更 石垣は奥壁の石垣に当て付けており、奥壁の石垣は西に延びて埋め殺しになっていました。 このことから、当初安土城の南面を画する奥壁の石垣が造られていましたが、天皇の行幸のため大手を三門にする設計変更をした際、南側に郭を継ぎ足して、石塁とセットになった枡形虎口が造られてと考えられます。 (現地説明板より) |
西側上段郭と竈跡 |
西側上段郭と竈跡 この郭は、安土城廃城後に石垣等を壊して整地し、畑地として使われていた所です。 発掘調査したところ井戸と洗い場と見られる敷石が見つかりました。 (現地説明板より) |
大手道口まで戻って受付で安土山・入山料(500円)を支払います。
受付 |
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順路は「受付」から約180mの大手道を登ります。 |
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大手道をメインに描かれた「安土城」図 |
安土城の終焉 |
受付を過ぎると正面に大手道がつづきます。
大手道ー1 |
安土城を象徴する道−大手道 安土城の正面玄関である大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る城内では最も重要な道です。 大手道は、その構造から、直線部分、横道・七曲がり状部分、主郭外周路部分の三つの部分によって構成されています。 大手門から山腹まで、約180mにわたって直線的に延びる部分の道幅は、約6mと広く、その両側には幅1〜1.2mの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれています。 道の東西には、複数の郭を雛壇状に配した伝羽柴秀吉邸跡・伝前田利家邸跡等の屋敷があり、これらは書院造りの主殿を中心に厩(うまや)や隅櫓等、多くの建物で構成されています。 まさに、安土城の正面玄関を飾るにふさわしい堂々とした屋敷地と言えるでしょう。 (現地説明板より) |
石敷側溝 |
大手門から山腹まで、約180mにわたって直線的に延びる部分の道幅は、約6mと広く、その両側には幅1〜1.2mの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれています。 (現地説明板より) |
大手道の山腹部分 山腹部分は、傾斜が最も急なところで、ジグザグに屈曲しながら延びています。 この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、屈曲部分に平坦な踊り場を造ることなく、踏石列を扇状に展開させていることが特徴です。 伝武井夕庵(たけいせきあん)邸跡の北東付近から大手道は東へ屈曲し、主郭部の外周を構成している高石垣の裾を巡り、本丸に直接通じる本丸裏門に至ります。 屈曲部分は幅4m程に狭まりますが、本丸裏門近くでは6mを超える広い道になります。 安土城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道とその延長上に聳える天主は、街道を行きかう人々に信長の力を強く印象つけたことでしょう。 (現地説明板より) |
伝羽柴秀吉下邸跡 |
羽柴秀吉の屋敷は小さな城ほどの広さで数段の石垣に囲まれて建てられていました。 |
少し登ると秀吉の主殿跡があります
伝羽柴秀吉邸主殿跡 |
伝羽柴秀吉邸跡−1 |
伝羽柴秀吉邸跡−2 |
(画像説明文は現地説明板より) |
屋敷の周囲は石垣で固められています。 |
「伝羽柴秀吉邸跡」の向かいは前田利家の屋敷跡です。
伝前田利家邸跡 |
前田利家邸は大手道に沿って上へと続きます。 |
伝前田利家邸跡−1 大手道に面した屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸とともに大手道正面の守りを固める重要な位置を占めています。 急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっています。 敷地の西南隅には大手道を防御する隅櫓が建っていたものと思われます。 隅櫓の北には大手道に面して門が建てられ、門を入った場所には枡形と呼ばれる小さな広場があり、その東と北をL字型に多聞櫓が囲んでいます。 (説明文は現地説明板より) |
「蔀(しとみ)の石塁」 蔀とは、風雨や光などをさえぎる建具の一つ |
伝前田利家邸跡−2 一般に屋敷地の玄関に当たる部分を城郭用語で「虎口(こぐち)」と言います。 伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に枡形の空間を造った「内枡形」と呼ばれるものです。 その間口は定かでありませんが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されます。 門をくぐると左手には高さおよそ6mにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。 また、一段目と、二段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで敵を迎え討つことが出来る櫓台への出撃を容易にしています。 (画像説明文は現地説明板より) |
三段の石垣 |
伝前田利家邸跡 |
約180mあると言われる大手道の半分くらい来ました。
大手道ー2 |
安土城の防御策の乏しさと大手道 城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、安土城の大手道は、大手門からの道幅6mと広く、約180mも直線が続き城内の見通しはよく、また安土城には籠城用の井戸や武者走り・石落としといった設備は著しく少ない。 こうした事から、安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと言われています。 (説明文は現地説明板より) |
石 仏 |
大手道を登ると道の縁石に「石仏」が使われています。 |
「伝前田利家邸跡」の上の段は閉鎖でした。
(ハ見寺 寺事所) |
「本日 特別拝観は終わりました」と立て札がありました。 |
奥の方に石段が見えますが?? |
その上の段が伝徳川家康邸跡ですが現在は安政元年(1854)=江戸時代末期)に
火災により焼失したハ見寺の仮本堂となっています。
ハ見寺仮本堂 |
安土山入山料(¥500)はハ見寺が徴収しているのに境内にも入れてくれないし半券もなし!? |
伝徳川家康邸跡を過ぎると大手道は大きく左手へ曲がります。
大手道ー3 |
曲がった下段にも屋敷跡らしきものがありますが、案内標識はありません。 |
大手道を振り返ると「大手門跡」までがほぼ見通せます。 |
大手道を登り切り曲がった脇に武井夕庵邸跡があります。
武井夕庵邸跡 |
武井夕庵とは |
屋敷面積は小さいが天守台に近い場所にある。 |
ここからの大手道には「石仏」が多く使われています。
大手道ー4 |
大手道跡の石仏 |
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まだまだ石段は続きます。 |
振り返るとハ見寺仮本堂(伝徳川家康邸跡)の屋根が見えます。 |
またも石仏 |
先程の「武井夕庵邸跡」碑が見えます。 |
ハ見寺墓地の標識を過ぎ石段で一段と上がります。
振り返ると登って来た石段が下へ延びています。 |
「伝武井夕庵邸跡」から一段上がると「伝織田信忠邸跡」へ出ます。
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「織田信忠邸跡」をぐるりと回り天主へ向かいます。 |
更に大手道を進むと「織田信忠(信長の長男)邸跡」が見えてきます。
正面の「織田信忠邸跡」を手前を左に曲がります |
小さな石段を登ると右手に「伝織田信忠邸跡」碑が見えます。
伝織田信忠邸跡 |
織田信忠 |
「伝織田信忠邸跡」前を通り天主への石段を登ります。
天守道口へ |
登りきった所が「黒金(くろがね)門跡」です。 |
「黒金(くろがね)門跡」の手前左手に織田信澄・森蘭丸邸跡があります。
織田信澄・森蘭丸邸跡 |
「立入禁止」のため奥の様子は分かりません。 |
織田信澄 |
織田信澄・森蘭丸邸跡を過ぎると「黒金(くろがね)門跡」に出ます。
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天主周辺は全体を石垣で囲まれ要塞化しています。 |
黒鉄門跡 |
黒金門跡 ここは、安土城中枢部への主要な入口の一つである黒金門の跡です。 周囲の石垣の石も一段と大きく、平成5年の発掘調査で、この付近に大量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐門などの金箔瓦も含まれていました。 この一帯は、標高が180mを超え、安土山では最も高いところにあります。 東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立(きつりつ)しています。 その高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。 (現地説明板より) |
(現地説明板より) |
「黒金門跡」を過ぎ階段を上がり左へ曲がると織田信雄公四代供養塔・伝長谷川邸跡があります。
織田信雄公四代供養塔 |
大手道ー6 |
黒金門跡から「仏足石」へ向かいます |
捨てられた仏足石 |
仏足石(室町時代中期) この仏足石は大手道などに見られる石仏と同様に築城当時の単なる石材として集められ石垣に使われて居たようで昭和の初期登山道整備のとき此の付近の崩れた石垣の中から発見されました。 仏足跡はお釈迦さまの足跡を表現したもので古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされていました。 我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代国宝)のもとして有名ですが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。 (ハ見寺住職) |
天主跡西下の伝二の丸跡に信長公の本廟があります。
伝二の丸跡 |
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遺品の太刀、烏帽子を埋葬 重臣、羽柴秀吉は天正十一年一月に三法師に年賀を表わすべく登城し、翌二月信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂(ひたたれ)などの遺品を埋葬して本廟とした。 そして六月二日の一周忌には織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行った。 (画像と説明文は「特別史跡安土城跡」パンフレットより) |
戻って本丸跡へ向かう途中左側の高台に碑があります。
護国駄都捨碑 |
護国駄都墖碑 |
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(画像は「特別史跡安土城跡」パンフレットより) |
本丸西虎口 |
本丸西虎口 |
本丸跡には多くの建物があったと言われています。
本丸跡 |
本丸跡 |
本丸遺構平面図と本丸建物復元平面図 |
本丸東虎口 |
本丸跡から天守台跡を結ぶのが天主取付台です。
天守取付台 |
一段あがると小さな広場(天主取付台)へ出ます |
天主取付台から天主台へは更に一段上がります |
天主台下(天主取付台) |
天守台跡へ
天守台跡 |
安土城天守台跡 安土城の天主は、完成してからわずか三年後の天正十年(1582)六月に焼失してしまいました。 その後は訪れる者もなく、長い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。 ここにはじめて調査が入ったには、昭和十五年(1940)のことです。 厚い堆積土を除くと、往時のままの礎石が見事に現れました。 この時に石垣の崩落を防止するために若干の補強を加えられた他は、検出した当時のまま現在に至っています。 (現地説明板より) |
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(画像は現地説明板より) |
中央に礎石がない 高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴だが、安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けている(他の礎石は全て現存している)。 発掘調査では、中央に礎石が抜けた跡はないことが確認され、またそこに空いていた穴からは、焼け落ちた天主の一部と思われる炭とともに、壺のかけらのような破片がいくつも出土した。 発掘時の推測では、この穴の上にはかつて仏教の宝塔があり(天守指図からの推測)、穴には舎利容器である壺が入っていたものと推測されている。 (現地説明板より) |
天主・本丸の焼失 安土城天主及びその周辺の本丸等の建造物は、山崎の戦いの後まもなくして焼失している。 あくまで焼失したのは、天主、本丸などであり後に織田秀信が二の丸に入城したように、二ノ丸をもって十分に機能していた。 焼失の原因について諸説がある。 1.明智光秀軍が敗走の際に放火したとの説。 しかし、安土で出火があったとされるのは6月15日(『兼見卿記』)で、その日、秀満は坂本城で堀秀政の軍に包囲されていたこ と、また、光秀は坂本城での自刃の際、光秀収集の名刀や茶器、書画を堀直政に引き渡してから坂本城に火を放っていること から濡れ衣と考えられる。 2.類焼説 伊勢国から入った織田信雄軍が明智の残党を炙り出すために城下に放火したのが天主に延焼したという説。 3.織田信雄放火説 これは、ルイス・フロイスの報告や『日本西教史』収載の当時の宣教師の記述(日本耶蘇会年報)によるもので、その記述には 「織田信雄が暗愚だったので放火した」とある。 4、略奪目的で乱入した野盗や土民が原因であるとする説。 5.落雷によって焼失したとする説。 |
天守台からハ見寺本堂跡・三重塔・二王門へと下ります。
帰路 |
天主台跡・本丸跡・二の丸跡・黒金門跡から大手道を下ります。 |
左側に「伝織田信忠邸跡」が見えると正面に三叉路があります |
標識の指示「右 ハ見寺・三重塔・二王門を経て大手門入口へ」に従って右へ曲がります。 |
右へ曲がると ハ見寺本堂跡までは少し登り坂です。
ハ見寺分岐 |
ハ見寺本堂跡の石垣を右手に見ながら石段を登ります |
正面に焼け残った「三重塔」が見え、右手にハ見寺本堂跡があります。 |
ハ見寺本堂跡 |
城郭中枢部にある特異な寺院 |
ハ見寺本堂は天主炎上の際は類焼をまぬがれたが ハ見寺は織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。 天主と城下を結ぶ百々橋口(どどはしくち)道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。 本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際に類焼をまぬがれことができましたが、江戸時代末期の嘉永七年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部を消失してしまいました。 その後、大手道脇の「伝徳川家康邸跡」に寺院を移し現在に至っています。 (現地説明板より) |
本堂付近の伽藍図 |
本堂付近の航空写真 |
本堂跡下の三重塔へ
ハ見寺三重塔 |
三重塔 |
三重塔から大手道を百々橋口道へ下る途中に仁王門があります。
ハ見寺二王門(楼閣) |
重要文化財
ハ見寺二王門 正面の柱間三間の中央間を出入口とする楼門を三間一戸(さんげんいっこ)楼閣といって実例が多く、ここでは正面の脇間に金剛柵を設け、金剛力士像をまつるため二王門と名付けている。 この門は棟木に元亀二年(1571)の建立を示す墨書銘があるが、織田信長が天正四年(1576)築城に着手し、あわせてハ見寺を建てる際に甲賀郡から移設したと伝えられる。 組物は上下層とも三手先で、和様を主調とした最も一般的な形式であるが、下層中央間の彫刻入りの蟇股(かえるまた)や隅柱の上部についている頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)などは室町時代末期の特徴をよく現している。 木造金剛二力士立像は応仁元年(1467)の作で重要文化財に指定されている。 昭和五十二年十月 安土町教育委員会 |
二王門から百々橋口道を下ります。
帰路ー2 |
百々橋口まで下りると道は平らな道となり左へ曲がります。 |
道の両側には巨石がごろごろしています。 |
次は天台宗 繖山(きぬがさやま)安楽寺で法話を聴きに寄りました
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滋賀県東近江市能登川町986 御住職 |
繖山伊庭(いば)山の西北中腹にあります。 |
長い石段を登ります。 |
天台宗
繖山安楽寺 |
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本尊は千手十一面観音 |
八王子法橋伝釆文書によれば 諸事評定は東座・西座の両座で行い、本堂造営のため両座から4人の僧が中国へ渡海したが、帰朝の際難破したという(年欠伊庭安楽寺先規置文案)。 貞和五年(1392)11月に衆徒方と行人方が礼法と田畠下作職のことで争い、伊庭氏の仲介があったことを示す史料のほかは、寄進状や売券が多く、永和二年(1376)12月、宝徳四年(1452)1月、応仁元年(1467)11月など37点ほどを数える。 同じ天台宗の佐野の善勝寺と往釆があり、しかも猪子の上山天神と結びつき、神仏習合の有様を知りうる。 天正四年(1576)織田信長により焼打ちされたという(神崎郡志稿)。 江戸中期に再興するが、嘉永六年(1853)に火災があり、記録頬の一部を失った。 (関西一円お寺探し情報「お寺ガイド」より) |
御住職の普照房慈弘(ふしょうぼうじこう)師 |
シルバーの城郭城跡の散歩道「安土城址と繖(きぬがさ)山 安楽寺」