シルバーの城郭城跡の散歩道「安土城址と繖(きぬがさ)山 安楽寺」。

築城者:
織田信長

築城年代:
天正四年(1576)

所在地 : 滋賀県近江八幡市
             安土町下豊浦

形 式 : 山  城   


城郭城址の散歩道
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シルバーの散歩道・遊歩散策
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織田信長公が天下統一を目標に天正四年(1576)一月十七日、重臣である丹羽長秀を
総普請奉行に据え標高
199mの安土山に築城させた平山城。(「特別史跡安土城跡」パンフレットより)

安土山の位置

安土山は中央の繖山(きぬがさやま)西(左)にあります。
《「繖(きぬがさ)」に来て、観て、楽しむ!》安土商工会議所発行パンフより

天守台は画面の右あたりの山頂にあります。
当時は画面手前の駐車場は琵琶湖の入り江だったそうで城の下まで船が入ったと言われています。

画面中央の緑色が「安土山」で�@が「安土城址」
(画像は「特別史跡安土城跡」パンフレットより)

大手門跡

             石塁と大手三門
 安土城の南口は石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。
 この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。
 通常の城郭では大手門と呼ばれてる出入口が1箇所だけです。
 織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ、門にしたのではないか、 西枡形虎口(こぐち=城郭用語で玄関に当たる部分)以外の三門は行幸などの公の時に使用する門である。

 東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。
 石塁は、直線でなく大手門の所でへの字に屈曲しています。
 石塁の石は、八幡城(近江八幡市宮内町)や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田工作などの開墾により大半が消失し築城時の高さは不明です。
 そのため復元にあたっては、南側から石塁北側の通路に見学者の方が見通せる高さに制限しました。
 東平入り虎口は、間口約5、5m奥行き約4.2mで、柱を受ける礎石等が残っていないため門の構造は不明です。
 一般に屋敷地の玄関に当たる部分を城郭用語で「虎口(こぐち)」と言います。                        (現地説明板より)

(画像説明文は現地説明板より)

この中間に「大手門」がありました

この先「受付」を過ぎ下図の順路で見物します。

安土城跡順路図
所要時間は約45分から90分です。
(画像は「特別史跡安土城跡」パンフレットより)

安土城の終焉とその後
第一段階
1582年、京都の本能寺で自刃した信長の本拠地の安土城は最初、明智光秀が接収した。
だが、中国地方で毛利家と戦っていた秀吉がいわゆる「中国大返し」で戻ってくること知った
光秀は、安土城に手を付けることなく放棄して、京都府と大阪府の堺にある山崎へと向かい、敗北する。
原因不明の火災
その直後、「無主」の城となった安土城は原因不明の火災で燃えてしまった。
ただ、「城全体が全焼したと思われがちですが焼けたのは天守周辺の中心部だけです。」
と城郭考古学者の千田

受付から「城址」へ入る前に右側に「東側土塁」と「西側石塁」と「西側上段郭と竈(かまど)跡」を見物します。

東側土塁

                 東側石塁北上郭と虎口
 一般に屋敷地の玄関に当たる部分を城郭用語で「虎口(こぐち)」と言います。
 東側石塁東虎口の城内側は、一段高い郭が間近に迫り、この郭の南面を画する石垣により遮られています。
 石塁との間は約6mあります。
 石垣に沿って側溝が設けられていることから大手道に通じる通路であったことが分かりました。
                                (現地説明板より)

繖山(きぬがさやま=432m)
大手門跡から振り返ると繖山に続く竜石山(207m)が見えます。

西側石塁

              西側石塁の枡形虎口と平入り虎口
 大手門から西に延びる石塁には2箇所の出入口があります。
 最も西端に設けられた出入口は二度折れして入る枡形虎口と呼ばれる構造で、その東側に造られた出入口は、平入り虎口と呼ばれる門を入るとすぐに城内に行き着くものです。
                                (現地説明板より)
                 天皇行幸を配慮して三門に変更
 石垣は奥壁の石垣に当て付けており、奥壁の石垣は西に延びて埋め殺しになっていました。
 このことから、当初安土城の南面を画する奥壁の石垣が造られていましたが、天皇の行幸のため大手を三門にする設計変更をした際、南側に郭を継ぎ足して、石塁とセットになった枡形虎口が造られてと考えられます。
                            (現地説明板より)

西側上段郭と竈跡

             西側上段郭と竈跡
 この郭は、安土城廃城後に石垣等を壊して整地し、畑地として使われていた所です。
 発掘調査したところ井戸と洗い場と見られる敷石が見つかりました。
                      (現地説明板より)

大手道口まで戻って受付で安土山・入山料(500円)を支払います。

受付

順路は「受付」から約180mの大手道を登ります。
(画像は「特別史跡安土城跡」パンフレットより)

大手道をメインに描かれた「安土城」図
(富永商太=歴史復元画家・絵 千田嘉博=監修)
安土城跡の中腹の曲輪(くるわ)に付けられた名称は疑問の多い名前が並んでいるのが実情
(読売新聞・2015,1,15朝刊地域版「図解天下人の城」 岡本公樹 より)

安土城の終焉
第一段階
1582年、京都の本能寺で自刃した信長の本拠地の安土城は最初、明智光秀が接収した。
だが、中国地方で毛利家と戦っていた秀吉がいわゆる「中国大返し」で戻ってくること知った
光秀は、安土城に手を付けることなく放棄して、京都府と大阪府の堺にある山崎へと向かい、敗北する
原因不明の火災
その直後、「無主」の城となった安土城は原因不明の火災で燃えてしまった。
ただ、「城全体が全焼したと思われがちですが焼けたのは天守周辺の中心部だけです。」
と城郭考古学者の千田
嘉博さん(51)は説明する。
実際、麓の大手門の両脇にある重臣の館の石垣には天守のような焼けた跡はない。
(読売新聞・2015,1,15朝刊地域版「図解天下人の城」 岡本公樹 より)

受付を過ぎると正面に大手道がつづきます。

大手道ー1

          安土城を象徴する道−大手道
 安土城の正面玄関である大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る城内では最も重要な道です。
 大手道は、その構造から、直線部分、横道・七曲がり状部分、主郭外周路部分の三つの部分によって構成されています。
 大手門から山腹まで、約180mにわたって直線的に延びる部分の道幅は、約6mと広く、その両側には幅1〜1.2mの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれています。
 道の東西には、複数の郭を雛壇状に配した伝羽柴秀吉邸跡・伝前田利家邸跡等の屋敷があり、これらは書院造りの主殿を中心に厩(うまや)や隅櫓等、多くの建物で構成されています。
 まさに、安土城の正面玄関を飾るにふさわしい堂々とした屋敷地と言えるでしょう。
                         (現地説明板より)

石敷側溝

 大手門から山腹まで、約180mにわたって直線的に延びる部分の道幅は、約6mと広く、その両側には幅1〜1.2mの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれています。      (現地説明板より)
                  大手道の山腹部分
 山腹部分は、傾斜が最も急なところで、ジグザグに屈曲しながら延びています。
 この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、屈曲部分に平坦な踊り場を造ることなく、踏石列を扇状に展開させていることが特徴です。
 伝武井夕庵(たけいせきあん)邸跡の北東付近から大手道は東へ屈曲し、主郭部の外周を構成している高石垣の裾を巡り、本丸に直接通じる本丸裏門に至ります。
 屈曲部分は幅4m程に狭まりますが、本丸裏門近くでは6mを超える広い道になります。
 安土城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道とその延長上に聳える天主は、街道を行きかう人々に信長の力を強く印象つけたことでしょう。
                                    (現地説明板より)

伝羽柴秀吉下邸跡

羽柴秀吉の屋敷は小さな城ほどの広さで数段の石垣に囲まれて建てられていました。

少し登ると秀吉の主殿跡があります

伝羽柴秀吉邸主殿跡

伝羽柴秀吉邸跡−1
 大手道に面した屋敷は、上下2段に別れた郭で構成されています。
 下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門立っていました。
 門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる大きな厩が建っています。
 武士が控える遠侍と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武士の生活に欠かせない施設です。
 下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場になっています。
 背面の石垣裾に設けられた幅2m程の石段は、上段郭の裏手に通じています。
(画像説明文は現地説明板より)

伝羽柴秀吉邸跡−2
 上段郭は、この屋敷の主人が生活する場所です。
 正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門です。
 その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。
 門を入ると右手に台所があり、更に進むと主屋の玄関に達します。
 玄関を入ると式台(しきだい)や遠侍の間があり、その奥に主人が常駐する主殿が建っています。
 さらにその奥には内台所や遠侍があります。
 3棟の建物を接続したこの建物群の平面面積は366�uあります。
(画像説明文は現地説明板より)

(画像説明文は現地説明板より)

屋敷の周囲は石垣で固められています。

「伝羽柴秀吉邸跡」の向かいは前田利家の屋敷跡です。

伝前田利家邸跡

前田利家邸は大手道に沿って上へと続きます。

                  伝前田利家邸跡−1
 大手道に面した屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸とともに大手道正面の守りを固める重要な位置を占めています。
 急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっています。
 敷地の西南隅には大手道を防御する隅櫓が建っていたものと思われます。
 隅櫓の北には大手道に面して門が建てられ、門を入った場所には枡形と呼ばれる小さな広場があり、その東と北をL字型に多聞櫓が囲んでいます。
                             (説明文は現地説明板より)

「蔀(しとみ)の石塁」
 正面右手の石垣は、その裏にある多聞櫓へ通じる石段を隠すために設けられた「蔀の石塁」となっています。
(説明文は現地説明板より)

蔀とは、風雨や光などをさえぎる建具の一つ

                     伝前田利家邸跡−2
 一般に屋敷地の玄関に当たる部分を城郭用語で「虎口(こぐち)」と言います。
 伝前田利家邸跡の虎口は、大手道に沿って帯状に築かれた石塁を切って入口を設け、その内側に枡形の空間を造った「内枡形」と呼ばれるものです。
 その間口は定かでありませんが、羽柴邸と同じ規模の櫓門が存在していたと推定されます。
 門をくぐると左手には高さおよそ6mにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その最上段から正面にかけて多聞櫓が侵入した敵を見下ろしています。
 また、一段目と、二段目の上端には「武者走り」という通路が設けられ、戦時に味方の兵が多聞櫓よりもっと近くで敵を迎え討つことが出来る櫓台への出撃を容易にしています。
                               (画像説明文は現地説明板より)

三段の石垣

伝前田利家邸跡
(画像説明文は現地説明板より)

約180mあると言われる大手道の半分くらい来ました。

大手道ー2

                   安土城の防御策の乏しさと大手道 
 城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、安土城の大手道は、大手門からの道幅6mと広く、約180mも直線が続き城内の見通しはよく、また安土城には籠城用の井戸や武者走り・石落としといった設備は著しく少ない。
 こうした事から、安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと言われています。                   
(説明文は現地説明板より)

石 仏

大手道を登ると道の縁石に「石仏」が使われています。
築城時に石不足は大変でしょうが、こんな小さな仏石まで使用しなくてはならない事態は
不思議に思えます。
築城責任者が工期遅れなどの理由のパホーマンスとして信長の目に触れる箇所に
置いた様にも思えます。(管理人)

「伝前田利家邸跡」の上の段は閉鎖でした。

(�ハ見寺 寺事所)

「本日 特別拝観は終わりました」と立て札がありました。

奥の方に石段が見えますが??

その上の段が伝徳川家康邸跡ですが現在は安政元年(1854)=江戸時代末期)に
火災により焼失した�ハ見寺の仮本堂となっています。

�ハ見寺仮本堂
(伝徳川家康邸跡)

安土山入山料(¥500)は�ハ見寺が徴収しているのに境内にも入れてくれないし半券もなし!?

伝徳川家康邸跡を過ぎると大手道は大きく左手へ曲がります。

大手道ー3

曲がった下段にも屋敷跡らしきものがありますが、案内標識はありません。

大手道を振り返ると「大手門跡」までがほぼ見通せます。

大手道を登り切り曲がった脇に武井夕庵邸跡があります。

武井夕庵邸跡

                           武井夕庵とは
 武井夕庵ははじめ、美濃国を治めた美濃土岐氏、斎藤氏に仕えたが、斎藤氏の滅亡後は織田氏に仕える。
 織田信長の右筆となり、内政をはじめ武田信玄や毛利氏との友好関係のため小早川隆景、吉川元春らとの折衝にあたるなどの外交面でも活躍した。
 天正三年(1575年)、二位法印に叙任する。信長からの信頼は厚かったとみられ、天正七年(1579年)、安土城が築城された際に、夕庵の邸宅は森成利、津田信澄、織田信忠に次ぐ場所に建設されている。
                          (ウィキペディアより)

屋敷面積は小さいが天守台に近い場所にある。

ここからの大手道には「石仏」が多く使われています。

大手道ー4

大手道跡の石仏
この石仏は、築城の際大手道の石材として使われたものです。
城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石等も含まれていました。
大手道修復の際、出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、
築城の経緯を示すため発見当時の状態で保存しています。
(滋賀県教育委員会)

まだまだ石段は続きます。

振り返ると�ハ見寺仮本堂(伝徳川家康邸跡)の屋根が見えます。

またも石仏

先程の「武井夕庵邸跡」碑が見えます。

�ハ見寺墓地の標識を過ぎ石段で一段と上がります。

振り返ると登って来た石段が下へ延びています。

「伝武井夕庵邸跡」から一段上がると「伝織田信忠邸跡」へ出ます。

「織田信忠邸跡」をぐるりと回り天主へ向かいます。
(画像は「特別史跡安土城跡」パンフレットより)

更に大手道を進むと「織田信忠(信長の長男)邸跡」が見えてきます。

正面の「織田信忠邸跡」を手前を左に曲がります

小さな石段を登ると右手に「伝織田信忠邸跡」碑が見えます。

伝織田信忠邸跡

織田信忠
織田信長の長男で、信長の後継者として活躍したが、本能寺の変で父信長と共に自害した。

「伝織田信忠邸跡」前を通り天主への石段を登ります。

天守道口へ

 

登りきった所が「黒金(くろがね)門跡」です。

「黒金(くろがね)門跡」の手前左手に織田信澄・森蘭丸邸跡があります。

織田信澄・森蘭丸邸跡

「立入禁止」のため奥の様子は分かりません。

織田信澄
 
父「信行」は信長の弟であるが、謀反の企てを興し信長に暗殺された。
その子「
信澄」は土田御前(信長と信行の生母)の助命嘆願もあって柴田勝家の許で養育された。
 しかし、
信澄は智勇に優れ果断な性格であったため、信長に大変気に入られ織田家では信長の息子である信忠、信雄、信孝や信長の弟の信包に次いでその待遇は厚かったといわれていた。
森蘭丸

織田信澄・森蘭丸邸跡を過ぎると「黒金(くろがね)門跡」に出ます。

天主周辺は全体を石垣で囲まれ要塞化しています。
(画像は「特別史跡安土城跡」パンフレットより)

黒鉄門跡

                    黒金門跡
 ここは、安土城中枢部への主要な入口の一つである黒金門の跡です。
 周囲の石垣の石も一段と大きく、平成5年の発掘調査で、この付近に大量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐門などの金箔瓦も含まれていました。
 この一帯は、標高が180mを超え、安土山では最も高いところにあります。
 東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立(きつりつ)しています。
 その高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。
                              (現地説明板より)

(現地説明板より)

「黒金門跡」を過ぎ階段を上がり左へ曲がると織田信雄公四代供養塔・伝長谷川邸跡があります。

織田信雄公四代供養塔
伝長谷川邸跡

大手道ー6

黒金門跡から「仏足石」へ向かいます

捨てられた仏足石

                           仏足石(室町時代中期)
 この仏足石は大手道などに見られる石仏と同様に築城当時の単なる石材として集められ石垣に使われて居たようで昭和の初期登山道整備のとき此の付近の崩れた石垣の中から発見されました。
 仏足跡はお釈迦さまの足跡を表現したもので古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされていました。
 我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代国宝)のもとして有名ですが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。
                              (�ハ見寺住職)

天主跡西下の伝二の丸跡に信長公の本廟があります。

伝二の丸跡
信長公本廟

         遺品の太刀、烏帽子を埋葬
 重臣、羽柴秀吉は天正十一年一月に三法師に年賀を表わすべく登城し、翌二月信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂(ひたたれ)などの遺品を埋葬して本廟とした。
 そして六月二日の一周忌には織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行った。
      (画像と説明文は「特別史跡安土城跡」パンフレットより)

戻って本丸跡へ向かう途中左側の高台に碑があります。

護国駄都捨碑

護国駄都墖碑
護国駄都捨碑については「特別史跡安土城跡」パンフレットにも所在場所は明記してありますが
由来謂れなどの説明は無く詳しいことは分かりません。

墖

(画像は「特別史跡安土城跡」パンフレットより)

本丸西虎口
(
本丸跡への道)

本丸西虎口
左の「天主台」の高い石垣と右手の石塁の間を通り、奥の本丸跡へ進みます。

本丸跡には多くの建物があったと言われています。

本丸跡

                       本丸跡
 天守台を眼前に仰ぐ この場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。
 東西約50m、南北34mの東西に細長い敷地は、三方を天守台・本丸帯郭(おびくるわ)・三の丸の郭石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。
 昭和16年と平成11年の2度にわたる発掘調査の結果、東西34m×南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。
                               京御所の清涼殿と酷似
 礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟にわかれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿(だいりせいりょうでん)と非常によく似ていることがわかりました。
                       なぜ安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が?
 「信長公記」には天主近くに「一天の君・万乗の主の主の御座敷殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。
 信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。           
                                    (現地説明板より)

本丸遺構平面図と本丸建物復元平面図
(現地説明板より)

本丸東虎口
画面の中央あたりが台所・米蔵へ通じる本丸東虎口。 その右の石垣が三之丸(名坂邸跡)。 その右の切れ目が本丸南虎口。

本丸跡から天守台跡を結ぶのが天主取付台です。

天守取付台

一段あがると小さな広場(天主取付台)へ出ます

天主取付台から天主台へは更に一段上がります

天主台下(天主取付台)

天守台跡へ

天守台跡

              安土城天守台跡
 安土城の天主は、完成してからわずか三年後の天正十年(1582)六月に焼失してしまいました。
 その後は訪れる者もなく、長い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。
 ここにはじめて調査が入ったには、昭和十五年(1940)のことです。
 厚い堆積土を除くと、往時のままの礎石が見事に現れました。
 この時に石垣の崩落を防止するために若干の補強を加えられた他は、検出した当時のまま現在に至っています。
                                 (現地説明板より)

(画像は現地説明板より)

                    中央に礎石がない
 
高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴だが、安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けている(他の礎石は全て現存している)。
 発掘調査では、中央に礎石が抜けた跡はないことが確認され、またそこに空いていた穴からは、焼け落ちた天主の一部と思われる炭とともに、壺のかけらのような破片がいくつも出土した。
 発掘時の推測では、この穴の上にはかつて仏教の宝塔があり(天守指図からの推測)、穴には舎利容器である壺が入っていたものと推測されている。
                                  (現地説明板より)
                          天主・本丸の焼失 
 安土城天主及びその周辺の本丸等の建造物は、山崎の戦いの後まもなくして焼失している。
 あくまで焼失したのは、天主、本丸などであり後に織田秀信が二の丸に入城したように、二ノ丸をもって十分に機能していた。
                       焼失の原因について諸説がある。
 1.明智光秀軍が敗走の際に放火したとの説。
   
しかし、安土で出火があったとされるのは6月15日(『兼見卿記』)で、その日、秀満は坂本城で堀秀政の軍に包囲されていたこ    と、また、光秀は坂本城での自刃の際、光秀収集の名刀や茶器、書画を堀直政に引き渡してから坂本城に火を放っていること    から濡れ衣と考えられる。
 2.類焼説
    伊勢国から入った織田信雄軍が明智の残党を炙り出すために城下に放火したのが天主に延焼したという説。
 3.織田信雄放火説
    これは、ルイス・フロイスの報告や『日本西教史』収載の当時の宣教師の記述(日本耶蘇会年報)によるもので、その記述には    「織田信雄が暗愚だったので放火した」とある。
 4、略奪目的で乱入した野盗や土民が原因であるとする説。
 5.落雷によって焼失したとする説。

天守台から�ハ見寺本堂跡・三重塔・二王門へと下ります。

帰路

天主台跡・本丸跡・二の丸跡・黒金門跡から大手道を下ります。

左側に「伝織田信忠邸跡」が見えると正面に三叉路があります

標識の指示「右 �ハ見寺・三重塔・二王門を経て大手門入口へ」に従って右へ曲がります。

右へ曲がると �ハ見寺本堂跡までは少し登り坂です。

�ハ見寺分岐

�ハ見寺本堂跡の石垣を右手に見ながら石段を登ります

正面に焼け残った「三重塔」が見え、右手に�ハ見寺本堂跡があります。

�ハ見寺本堂跡

                城郭中枢部にある特異な寺院 
 天主台南西の百々橋口付近に�ハ見寺がある。
 持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は各地に見られるが、堂塔伽藍を備えた寺院が建てれているのは、後にも先にも安土城だけである。
 しかも単に城郭内にあるだけでなく、百々橋口道(南西の入口からの道)から城への通り道が境内になっており、この入口から入った者が城にたどり着くためには、必らず�ハ見寺の境内の中を通り抜けなければならない。
 『信長公記』の記述から、この百々橋口道は通常時に城に入ろうとする者が使用するための道だったと推測されている。
                        (「特別史跡安土城跡」パンフレットより)

           �ハ見寺本堂は天主炎上の際は類焼をまぬがれたが
 
�ハ見寺は織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。
 天主と城下を結ぶ百々橋口(どどはしくち)道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。
 本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際に類焼をまぬがれことができましたが、江戸時代末期の嘉永七年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部を消失してしまいました。
 その後、大手道脇の「伝徳川家康邸跡」に寺院を移し現在に至っています。
                             (現地説明板より)

本堂付近の伽藍図
(画像は現地説明板より)

本堂付近の航空写真
(画像は現地説明板よ
り)

本堂跡下の三重塔へ

�ハ見寺三重塔

三重塔
本堂跡下の三重塔は三間三重の塔で屋根は本瓦葺き。
室町時代の建築で棟柱に、享徳(きょうとく)三年(1454)建立。
天文二十四年(1555)修理の墨書きがある。
天正三〜四年に信長が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)を移築したものおとされている。
慶長九年(1604)豊臣秀吉の次男、秀頼が一部修理している。
大正3年9月、突然三層目の屋根と一層・二層の軒が崩落したがすぐに修復された。
(「特別史跡安土城跡」パンフレットより)

三重塔から大手道を百々橋口道へ下る途中に仁王門があります。

�ハ見寺二王門(楼閣)

                          重要文化財 �ハ見寺二王門
 正面の柱間三間の中央間を出入口とする楼門を三間一戸(さんげんいっこ)楼閣といって実例が多く、ここでは正面の脇間に金剛柵を設け、金剛力士像をまつるため二王門と名付けている。
 この門は棟木に元亀二年(1571)の建立を示す墨書銘があるが、織田信長が天正四年(1576)築城に着手し、あわせて�ハ見寺を建てる際に甲賀郡から移設したと伝えられる。
 組物は上下層とも三手先で、和様を主調とした最も一般的な形式であるが、下層中央間の彫刻入りの蟇股(かえるまた)や隅柱の上部についている頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)などは室町時代末期の特徴をよく現している。
 木造金剛二力士立像は応仁元年(1467)の作で重要文化財に指定されている。
                              昭和五十二年十月     安土町教育委員会

二王門から百々橋口道を下ります。

帰路ー2

百々橋口まで下りると道は平らな道となり左へ曲がります。
(入山料をとる現在は百々橋口は閉ざされ正面の「受付」まで戻ります)

道の両側には巨石がごろごろしています。
石仏まで集めて石垣を作るのが不思議に思えます。

次は天台宗 繖山(きぬがさやま)安楽寺で法話を聴きに寄りました

滋賀県東近江市能登川町986 

御住職
普照房慈弘 師
(ふしょうぼう じこう)

繖山伊庭(いば)山の西北中腹にあります。

長い石段を登ります。

天台宗 繖山安楽寺
推古天皇の勅願により聖徳太子により建立された近江三十三ケ寺中第十六番目の寺です。

                  本尊は千手十一面観音
 繖山無量寿院(むりょうじゅいん)と号し、聖徳太子が近江に建てた48寺院の第1番目という(與地志略)。
 当寺と末寺閣魔堂(えんまどう=現十応寺=じゅうおうじ)は八王子法橋(はちおうじほうきょう)五人衆・十六人衆によって維持運営された。
                (
関西一円お寺探し情報「お寺ガイド」より)

             八王子法橋伝釆文書によれば
 諸事評定は東座・西座の両座で行い、本堂造営のため両座から4人の僧が中国へ渡海したが、帰朝の際難破したという(年欠伊庭安楽寺先規置文案)。
 貞和五年(1392)11月に衆徒方と行人方が礼法と田畠下作職のことで争い、伊庭氏の仲介があったことを示す史料のほかは、寄進状や売券が多く、永和二年(1376)12月、宝徳四年(1452)1月、応仁元年(1467)11月など37点ほどを数える。
 同じ天台宗の佐野の善勝寺と往釆があり、しかも猪子の上山天神と結びつき、神仏習合の有様を知りうる。
 天正四年(1576)織田信長により焼打ちされたという(神崎郡志稿)。
 江戸中期に再興するが、嘉永六年(1853)に火災があり、記録頬の一部を失った。
               (関西一円お寺探し情報「お寺ガイド」より)

                        御住職の普照房慈弘(ふしょうぼうじこう)師
 かっては、不良少年、そのあとはサラリーマンであり且つプロボクサーでもあったという御住職は、ちょっと変わった経歴の持ち主でいらっしゃいます。
 
住職講話テーマ:『不良少年だった渋柿が、世間に吊るされて、少しは甘くなった』とご自身を柿に例えて講和をしてくださいました。

繖山 安楽寺 画像

『本尊は何度盗まれても本堂に鍵は掛けません』
と御住職はおっしゃていました。


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シルバーの城郭城跡の散歩道「安土城址と繖(きぬがさ)山 安楽寺」